君を妻として扱う気はないと言われたので、私は契約と将来を確認しただけです
「君を妻として扱う気はない」
その言葉は、淡々と告げられた。
怒りも、迷いも、悪意すらも込められていない。
ただ、事実を述べるように。
私は、婚姻契約書の上に揃えた指先から視線を上げた。
「……承知いたしました」
そう答えた私――アリア・フェルディナントに対し、彼は少しだけ安堵したようだった。
彼の名はクラウス・ヴァンデル。
伯爵家の嫡男であり、今回の婚姻相手だ。
「分かってくれるなら話は早い。これは家同士の結びつきだ。君も割り切ってくれればいい」
割り切る、ですか。
「念のため確認させてくださいませ」
私は書類を一枚めくり、穏やかな声を保った。
「その場合、夫としての責務――例えば公の場での同行、家名を守る行動、子を成す義務は果たされると考えてよろしいのでしょうか」
「それは当然だろう。後継は必要だ」
即答だった。
「愛情は?」
「ない」
間髪入れずに言われて、私は小さく頷いた。
なるほど。
彼は、自分が誠実だと思っているのだ。
「ありがとうございます。では、次の確認に移ります」
クラウス様は一瞬だけ眉をひそめた。
「まだ何かあるのか?」
「はい。愛情を伴わない婚姻の場合、将来的な不確定要素が多くなりますので」
私は指で条文を示す。
「まず、現在想いを寄せていらっしゃる女性との関係について。すでに清算はお済みでしょうか」
「……それは、完全には」
言葉が濁った。
それだけで十分だった。
「つまり、その方との関係が継続している可能性がある、と」
「誤解するな。浮気ではない」
「存じております。ですが、事実として関係が続いているのであれば――」
私は視線を落とし、静かに言葉を続けた。
「将来的に、その方との間に子が生まれる可能性を否定出来ません」
彼は口を開きかけて、閉じた。
「その場合、家督継承を巡る争いが起こる可能性があります。正妻の子と同等の権利を主張されれば、家は分裂します」
「そこまで考える必要があるのか?」
「ございます」
即答した。
「この婚姻は感情ではなく、家の存続を目的としたものですから」
私は顔を上げ、彼を見据えた。
「クラウス様。失礼ながら申し上げますと、今のお話では――
私は“盾”として使われるだけの立場になります」
「……盾?」
「家の体裁を守り、責任だけを負い、愛情も裁量も与えられない。
そのような条件で、私は家を守る覚悟を持てません」
彼は苛立ったように息を吐いた。
「君は冷たいな。政略結婚とは、そういうものだろう」
「ええ。ですから、条件を確認しているのです」
私は、最後の書類を差し出した。
「こちらは、万一婚姻を継続出来ないと判断した場合の契約解除条項です」
「解除?」
「はい。夫側の信用失墜、もしくは後継としての資質に疑義が生じた場合、正妻側から婚姻を白紙に戻す事が出来ます」
彼の顔色が変わった。
「……そんな話、聞いていない」
「お父上からは、必ず確認するよう仰せつかっております」
事実だった。
「また、この婚姻を前提に結ばれる事業支援契約も、同時に破棄されます」
「待て。つまり、それは……」
「はい」
私は微笑んだ。
「この結婚で重要なのは、あなたのお気持ちではございません。
後継として、家を任せられるかどうかです」
長い沈黙が流れた。
数日後、婚姻は正式に白紙となった。
クラウス様は後継者候補から外れ、家は別の人物を立てる事を決めた。
私は責められる事も、罵られる事もなかった。
なぜなら、全ては契約と事実に基づいた判断だったからだ。
その後。
「アリア嬢。改めて、婚姻のお話をさせて頂けないだろうか」
そう声を掛けてくださったのは、同じく政略の渦中にいた別家の方だった。
「条件は一つだけです」
私はそう告げた。
「妻を、対等な存在として扱ってくださること」
彼は、迷いなく頷いた。
「それが出来ない結婚に、意味はありませんから」
静かに、しかし確かに。
私は自分の人生を選び取ったのだった。
婚姻が白紙になったという知らせは、想像以上の速さで貴族社会に広まった。
それは噂というより、評価だった。
「フェルディナント嬢は、感情ではなく条件で婚姻を判断したらしい」
「いや、条件ですらない。家として“任せられるか”を見極めただけだそうだ」
「怖いな……だが、合理的だ」
社交界で囁かれる声を、私は直接聞くことはなかった。
ただ、以前よりもはっきりと――視線の質が変わったのを感じていた。
値踏みではない。
確認するような目だ。
私は“花嫁候補”ではなく、
“共同体の一員として対等に話す相手”として見られ始めていた。
そんな折。
「……アリア」
聞き覚えのある声に、私は足を止めた。
振り返らなくても分かる。
クラウス様だった。
「話がある」
「恐れ入りますが、私は今――」
「五分でいい」
彼の声は、以前よりも低く、硬かった。
人目の少ない回廊で向き合った彼は、どこか疲れた様子だった。
整えられていたはずの服装も、今は少し乱れている。
「君は……最初から、こうなると分かっていたのか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ、確認しただけです」
「確認?」
「あなたが“家を背負う覚悟”を持っているかどうかを」
彼は苦く笑った。
「結果は、君の言う通りだったというわけか」
「判断は、ご家門がなさったことです」
私個人の意見ではない。
それが、彼をより深く傷つけていることは分かっていた。
「……俺は、君が怒ると思っていた」
「なぜでしょう」
「愛がないと言われて、黙って引き下がる女ではないと思っていた」
私は少しだけ考え、答えた。
「怒る理由が、ありませんでしたから」
「……」
「最初から、期待していなかっただけです」
それは残酷な言葉だったかもしれない。
だが、嘘ではなかった。
「君は冷たいな」
「ええ。よく言われます」
私は微笑んだ。
「ですが、冷静でなければ守れないものもございます」
彼は何かを言いかけて、結局、何も言えずに去っていった。
その背中を見送りながら、私は思う。
――後悔とは、選ばなかった側にだけ残るものなのだと。
数週間後。
「フェルディナント嬢」
正式な場で、改めて声を掛けられた。
相手は、先日話を持ちかけてきた別家の当主代理。
彼は、私の目をまっすぐに見て言った。
「条件を、改めて確認させてください」
「承知しました」
「まず、我が家では妻を家の一部ではなく、家を共に運営する者と考えています」
私は、そこで初めて少しだけ目を瞬いた。
「……それは、責任も同等に?」
「もちろんです。決定権も含めて」
逃げ道のない言葉だった。
だからこそ。
「では、私からも条件を」
私は静かに告げる。
「私は、飾りにも盾にもなりません」
「分かっています」
「不誠実な関係を続ける方とは、契約致しません」
「当然です」
「そして――」
一拍置いてから、言った。
「もし、私がこの結婚は間違いだったと判断した場合。
その決定を尊重して頂けますか」
彼は、迷わず頷いた。
「それが出来ない相手に、選ばれる資格はない」
その言葉に、胸の奥が静かにほどけた。
――ああ、そうだ。
私はもう、
選ばれる側ではない。
自分の人生を、
選ぶ側に立ったのだ。
だから私は、今日も淡々と条件を確認する。
感情ではなく、
誠意と覚悟だけを見極めるために。




