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権力は従うものではなく監視すべきものであり、破壊するものでは無く養育すべきものである 1/2

作者: 宮澤史郎
掲載日:2025/11/10

初霜

メモしておいたはずだが、無い。していなかったのか。医者から、何か重大なことを言われた気がするが、思い出せない。

もどかしい。

病院から帰って、少し遅くなった昼食のざるそばを用意して食った。そして食後の薬を飲んだ。薬が病院を連想させ、病院で何か心に引っかかることを言われた気がしたのだが。

永友は、若い頃からこまめにメモを取るタイプだった。うっかり忘れて、人に迷惑を掛けることや、忘れてしまうこと自体を恥だと感じて、それを嫌だと考える男だった。生真面目、あるいは小心者。

家の中で、老眼鏡をどこに置いたか忘れてしまい、翌日まで見つけられなかったことがあった。煙草とライターでも同じことがあった。六〇歳の時だった。

いずれも、思い出して見つけたのではなく、あちこち探してやっと見つかったのだ。見つかってから、そういえばここに置いた気がする、という具合だった。

最初の老眼鏡の時は愕然とした。どうして思い出せないのか、と自分が分からなくなった。

二度目の煙草とライターの時は、またやってしまったか、と悲しくなった。

単なるもの忘れに過ぎないのか、あるいは呆けの始まりなのか、いずれにしても脳の老化を認めないわけにはいかなかった。

それからは余計にメモを心がけてきたつもりだが、何故か手帳には今日の医師の話は書かれていない。

血糖値をコントロールする薬を貰うための月に一回の通院日だったが、自覚症状としては変化無く、重大な話を聞いたように思うことは勘違いかもしれない。

次に通院するのは一ヶ月後だ。それまで放置して良いのか。それとも電話で訊いてみるか。しかし、先ほどの話をもう一度聞かせて欲しい、と言うのは恥ずかしい話だ。

今、六七歳、今年、昭和六〇年。昔のこと、特に四〇年以上も前の戦争中のことはよく覚えているが、新しい事は覚えられない。人の名前は特に覚えにくい。顔は覚えられるが。

何かの拍子に思い出すかもしれないから、明日まで様子を見るか。しかし明日になったら、思い出さなければならないことがあること自体を忘れているかもしれない。悲しい話、同時に笑える話だ。

歳であることは間違いない。ひとり暮らしの爺だ。思い出せないことで医者に少々迷惑を掛けることになっても、健康は所詮自分ひとりのことだから自分で責任を取るだけのことだ。

もの忘れでくよくよしても始まらない。第一、心が不健康になる。気には留めておくが、気に病まないようにする、と永友は決めた。

ところが、永友は先ほどの決心を直ぐに忘れた。

気になる。事は健康に関する、最悪の場合は命にかかわることかもしれない。

確かに何か言われた気がする。何だったのか、見当も付かない。おかしな話だ。言われたと思うが、内容どころか、何に関連する事だったかさえ思い出せない。思い出せないと言うより、最初から覚えていない、と言う方が正確か。

そんなことより、相手は医師、自分の健康にからむことは間違いない。もしや、痴呆症に関する事か。恥ずかしいと気にするより、確認しよう。

もしかすると、覚えられないのは新しい事だけではなく、昔のことも実は忘れていることがあるのではないか。それを自分は知らないのではないか。一部の記憶をすっかり忘れてしまって思い出すことが無ければ、忘れたことさえ気づかない。何かひとつふたつ、過去の経験や思考、感情などまるっきり忘れていることがあるのではないだろうか。

しかしそれを調べる、確認する手段は無い。なにせ、自分自身だけしか知らないことなのだから。

何十年も一緒に暮らした配偶者の顔さえも忘れてしまう痴呆症の症状があるという。結婚したことは無いが、悲しいを通り越して馬鹿らしい話だ。それまで何のために生きてきたのか分からない。

現在を生きるというのは、過去を積み重ねてきたということだろう。過去が一切無くて、今、食っている、寝ている、見ている、歩いている、たとえ学んでいても、それだけでは人間として生きているとは言えない。過去が無い、現在だけ、それは動物の人生だ。

俺は人生の一部を、どれほど多くかは知らないが、無くしてしまって、二度と思い出せないのかもしれない。そうではない、と証明できない。今日、病院で聞いた事が思い出せないように、一〇年か二〇年前にやったこと、行ったところ、感じたこと、考えたこと、見たことを思い出せない、無かった事になっているのかもしれない。恐ろしく怖い。

子供の頃、近所の婆さんが呆けて弄便をするようになったという噂があった。九〇を越えていたとか。それなら、あり得る話だ。周りの家族は悲惨だが、自分の行動を全く自覚できない本人は、端から見れば哀れなどという言葉で追いつくはずがなく、自分ならそうなってまで生きたくはない。自覚があれば、だが。

俺も、そろそろ死に時なのか。


親切な望月医師は、電話ではまた忘れてしまうかもしれないので、手紙を書きましょうと言ってくれた。望月医師は、永友には家族がいないことと痴呆症が進行しつつあることも知っていて、本人にはっきり言わなければならない重大な病状の疑いがあることを書いたもので説明した方が良い、と判断したのだ。

口頭だけよりはずっと良いだろうが、書いたものであっても、どれだけ本人の助けになるのか。医学の限界で救うことができない難病を患う人と同じほど、自分の病気を認識できないまで痴呆症が進行しつつある永友さんも、同情すべき状態だと望月医師は思った。

患者に余命宣告することは辛いが、いつの頃からか欧米に習って日本でも本人に率直に伝えるようになってきつつある。患者本人の命、本人の人生、本人の余生、それをこれからどう消費するか、それは全く本人の権利、本人の自由、本人の責任であるから。

しかし、本人が責任を取れない状態であれば、どうするか。本人が痴呆症も併発しているとき、薬を飲むことや治療を受けることを忘れるのはまだ良しとしても、余命を忘れ、病気を忘れて、人生で最も貴重な時間、瞬間としか呼べない短い最後の時間を無為に浪費するとしたら、なんと同情すべきことであるか。

日本人には、ある朝目覚めずに苦しまずにポックリ逝きたい、という信仰にも近い想いがある。相当の高齢であればそれも良いかもしれないが、壮年ではそれは受け容れがたいだろう。無念が残るはずだ。

今でもこの国では本人に余命を知らせず、家族に知らせ、家族は本人にひた隠し、本人は気づいているがはっきりさせることが恐ろしくて気づかないふりで最後まで過ごす、という現実が主流だ。これが少数派になるまでに、あとどれほどかかるだろう。

偽りに対して、それを愛と信じて偽りで応える家族関係。人生の最後において、反省することも、誇ることも、恥じることも、まとめることも、あとを託すことも、葬儀の希望を表明することも、遺産を始末することも、望みを叶えることも、気ままに振る舞うことも、同情を求めることも、誰かの罪を許すことも、憎しみをあえて残置することも、食うこと、見ること、体験すること、苦しむことや悲しむことさえ含めて、あらゆることを封印させられ、もしや生きられるのでは、と自分を欺きながら生の最後を迎えることほど残酷、無残、悲愴はあろうか。

先進国では、本人への余命宣告が受け容れられている、むしろ求められている現状から、人間の理性はそれに耐えられる、むしろ必要である、と言えるはずだ。しかるに痴呆症を持つものは、ほとんど全てを瞬時に忘れ、なにか厭なことがある、気にかかる、という感じだけを抱いて残された生を過ごしていく。

誰のでもない自分の人生に自分で決着を付けられないのであれば、致命的な病の説明、余命の宣告はしない方が本人のためであろうか。

いや、やはりそれは廃止されるべき誤った考え方だ。医師とはいえ、そこまで患者の人生に介入する権利は無い。忖度も度が過ぎる。人はそう単純ではない。十把一絡げに扱うことはできるものではない。やってはならない。

脳は複雑な構造で、驚嘆の能力を持つ。永友さんは、正常から少しだけ外れた軽度の痴呆症で、きちんと人生を締めくくれるかもしれない。いや、きちんと、と言うことが既に他人の傲慢である。

傲慢ついでに言えば、脳機能が正常範囲にあるとされる人でも全てが弁護士や医師に成れるわけもなく、アスリートやアーティストに成れるわけもなく、農民や漁師に成れるわけもなく、大工や消防士、コックやパイロット、占い師や美容師、嫌悪すべき政治家ややくざ者に成れるわけもなく、それぞれの興味や資質、環境や経験から選択したものに成る。

永友さんもその他の人も、事に臨んでは他人の想像を超える能力を発揮、遠大な計画を実行するかもしれない。永友さんは六七歳だったか、ひとによってはまだこれからだ。たとえそうでなくても、本人の責任を取れるのは本人しかいない。

隠さず全てを伝えることが、医師の、人間の義務である、と望月医師は結論した。

望月医師は、診察時の会話から加齢による痴呆症が始まっているかもしれない事、空腹時の胃の不調と便の状態から胃潰瘍が疑われるので胃カメラを飲んでみるべき事を書いた。

検査結果による確定診断ではないので控えめな表現だが、いずれも間違いないと思っている。

痴呆症は止められない、胃潰瘍は手術で治療できるかどうか。痴呆症の進行は胃潰瘍より遅いが、治療できない。胃潰瘍が治療できる段階なら、痴呆症がひとり暮らしの場合は命取りとなることも考えられる。経済力はあっても、買い物、食事、通院などの日常生活が段々と難しくなってくる。

永友さんの人生を締めくくるのは、痴呆症と胃潰瘍のどちらが良いか、それを考える事は医師と言えども僭越にすぎると望月医師は信じた。


腐敗

永友は国民年金、厚生年金、船員保険年金の合算によって、生活費には支障無く暮らしている。軍隊には八年いたが、恩給支給年限には足りない。いくらかの預金もある。

食料と日用品以外に買うものは余りない。読書以外にこれといった趣味もない。数年前から菊の花を咲かせる楽しさに気づいたが、大して金がかかるわけでもない。

夕食を摂り、入浴を終え、寝るだけを残してウィスキーを飲み始める。ひとり暮らしで話し相手はいない。つまらないテレビを音と映像の散布装置として稼働させてはいるが、内容を追ってはいない。

いくらかのウィスキーで頭が心地良く痺れてくると、若かった頃の記憶が湧き出す。僅かの時間、あるいは一時間以上にも亘って自身の過去を思い出すことが習慣になっている。

思い出そうという意志によるものではなく、読書に疲れテレビに興味を引く番組が無いとき、自然に心が過去に向かうのだ。

若い頃だからといって、楽しく懐かしいことばかりではない。一〇年、二〇年と時間の経過によって、あらゆる種類の苦痛が薄れた記憶もある。一方で未だに薄れない、むしろ繰り返し思い出すことで増幅したかもしれない暑さ、寒さ、痛さ、空腹、悩み、心配、疲労、恐怖、貧困、悔しさ、情けなさ、浅ましさ、憤りなどがある。


あの時代に兵隊として生きた人間のひととおりの経験をした。

新潟の半農半漁の村に生まれ、生活は貧しかった。みんな貧しい時代ではあったが、高等小学校のころ父が漁船で遭難死してから、みんなより貧しくなった。

高等小学校を卒業して、漁船に乗った。漁場は沿海区域内で、大した収入にはならなかったが、経済的に独立できた喜びは大きかった。金は俺の人生を自由にした。父が船で死んだからといって、船が怖いとは感じない若さがあった。

満二〇歳で徴兵され、陸軍歩兵第一六連隊に入隊した。

陸軍なら海で溺れ死ぬことはないが、漁船はわずかばかりの漁労のために命を懸ける。軍隊は毎月の給与以外に着る物も食う物も支給される。漁船は悪天候によって出漁できなければ、収入が無い。学問の無い俺には軍隊も捨てたものでもない、と思った。

しかし、入隊したばかりの頃の古年兵の私的制裁にはうんざりした。痛かった。理不尽だった。悔しかった。殴り返したかった。いつか戦場に行って敵と撃ち合いになったら、後ろから撃ってやろうかと思った奴がひとり、ふたりいた。

軍隊という人殺しを専門とする組織だからこそ、あの様な意味の無い制裁が自然発生したのか。それとも新兵を、敵とは言え人を殺すことができる様にするため、人間性を奪うため、心を壊すため、殺人機械に改造するための処方だったのか。

聞いた話では、制裁が苦痛で自殺した者もいたという。

しかし、実際は自殺さえ自由ではなかった。近所に祝福されて、見送られて入隊して、戦死ではなく、入隊したばかりの訓練中に制裁が怖くて自殺などしたら、親兄弟の恥となる。軍隊は、個人の最後の最低の自由、自殺さえ剥奪する世界だった。


永友元陸軍曹長には、今夜も入隊当初のことが思い出された。

初年兵の生活は痛かった。俺は自分を要領が悪い方だとは思わないが、二年兵からしょっちゅう制裁を受けていた。いや、制裁なら理由があるはずだが、そんなものは無く、気分次第で殴られた。その証拠に、外出日には誰も殴られる者はいなかった。あいつらの、徴兵、軍隊生活の憂さ晴らしで殴られていたのだ。やはり、制裁に意味など無かったのだ。

入隊前に馬に乗ることができた者は、騎兵になった。馬の面倒はあるだろうが、歩兵のように自分の装備の他に分解した機関銃まで背負って歩かされるよりどれだけましだったか。

もっと運の良い奴は、通信兵だ。無線通信は難しくて誰にでもできるものではないが、鳩を使う通信もあった。技術の最先端を用いる軍隊が、通信に鳩を使うとは、今の奴らは信じないかもしれないが。戦後もしばらく、新聞社は鳩を使っていた。ともかく、馬より鳩の面倒を見る方が遙かに楽だったはずだ。

内地にいたときから軍隊は運隊、運次第と言われていた。二年兵に殴れるのも運、自分の装備を紛失して他の中隊から盗んでくるとき、見つからないのも運次第。

満州とモンゴルの国境紛争地帯・ノモンハンに行った。

内地では毎日意味の無い規則に縛られて、意味の無い制裁に怯えていたが、ノモンハンに行ったときは、最初は随分と楽になったと思った。内地のような規則がんじがらめがなくなり、制裁も随分減った。戦闘はまだ無かったが、戦地であり、訓練はもう終わっていていつ戦闘になるか分からないから、あまりうるさくするのも兵隊がかわいそうだと言うことだったのだろう。

内地より戦地の方が良いなと、本気で思った。

ところが戦闘が始まると、地獄だった。死んでから地獄に行くにしろ、今、この地獄から逃れて死にたい、と思ったこともあった。

日本の軍隊では、人間の命、正確には兵隊の命、より正直には陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業したエリート以外の命は一発の鉄砲の弾ほどの価値も認められていなかった。

召集兵は無料だった。召集兵の命は一銭五厘のはがき代という誤解があるが、赤紙の召集令状は役場が配達していたから、切手代が要らなくてまさに無料だった。

鉄砲の弾が飛んでくるところにいるのは兵隊、階級が上がる毎に弾から遠くなる。尉官の中には部下である兵隊の命に責任を持っている奴もいたが、佐官になると自分のことだけだ。将官ともなれば外地まで軍隊の予算で内地から芸者屋を分解して運んできて、大砲の音も聞こえないところで毎日芸者遊びだ。

戦線の兵隊は、撃つ弾も食う米も無くて、塹壕にこもって雨に濡れていた。兵隊のための食料、弾薬より、司令官、参謀のための芸者屋を優先して運ぶのがこの国の軍隊だった。


永友は酔った頭で、断片的に戦争当時をさらに思い出す。

軍隊は全てが非合理的だった。支給された上履きの片方を盗まれるなどして無くしても、残った片方を底敷き部分と甲に当たる部分に分けてふたつにすると、一足と数えて問題にされない。これは、笑い話としても良いし、救済措置としても良いが、捕虜になってはならない、全滅を玉砕と言い換えて美化する、武器弾薬、食料より大和魂という精神論、国民より国体、即ち天皇が大事で、どれだけ無駄に兵隊、船乗り、民間人が殺されたか、という笑えない事実もある。

天皇に、特攻隊に行った誰それは見事戦死、戦果を上げたと一旦報告したからには、天皇に嘘を言うことはあってはならないから、発動機の不調や天候不良で敵に遭遇できずに基地に帰還した操縦者を何が何でも戦死させる、次こそはとにかく死んでこい、という命令が出た。これだけでも天皇の害悪は充分だ。

ノモンハンでは、露助の戦車に日本は歩兵が立ち向かうしかなかった。鉄砲には鉄砲、大砲には大砲、戦車には戦車でなければ喧嘩にならない。芸者遊びしている奴らが、鉄砲で戦車に向かって行ってみろ。内地から運んできた清酒を飲み過ぎてゲロ吐いている奴らは、水が無くて雑草の葉に付いた朝露を舐めて渇きを誤魔化してみろ。

当時の最高技術である飛行機で特攻に行く奴らを、滑走路の脇で時代錯誤にもほどがある軍刀を振り回して激励したつもりの司令官は、お前達だけを死なせることなく最後の一機で余も行く、と毎度言いながら危なくなると参謀と一緒に台湾に逃げた。あの野郎だけは、俺は許せない。中務なかつかさ第四航空軍司令官。中務真由まさよし中将。

戦後は、死ぬことだけが責任を果たすことではなく、日本の復興に尽力するのだと言い放ったあの野郎の責任逃れは、GHQ最高司令ダン・モーガンに千切れるほど尻尾を振って絞首刑から逃れた史仁ふみひと並みの厚かましさだ。

天皇が任命した中将と大将は、天皇に任命責任が発生しないように、何をやっても何をやらなくても絶対に軍法会議どころか一切の責任を追究されないという腐敗した仕組みがあって、中務中将は、一旦は左遷に見えるような予備役に回されたが半年で現役復帰した。四〇年経った今でも、俺は許せない。

結局、上から下まで、統帥権を持つ者から統帥された者まで、腐敗していた。そういう仕組みを良しとした国民の腐敗もあったかもしれないが、特別高等警察による恐怖政治で国民は抗い難かった。

史仁は「開戦は政府が決めたから立憲君主として反対できなかった。終戦は政府が決めかねたから朕が決めた」と開戦の責任を逃れ、終戦の功績を誇った。笑い話だ。上が上なら、中務もフィリピンから逃げたのではなく一旦台湾に下がって戦線を立て直す準備をした、位のことは平然と言うだろう。

俺が直接に史仁に皮肉のひとつも言えるかとなれば、太陽が西から昇っても無理だろう。では、俺が中務に平手の一発も食らわすことができるかと言えば、太陽が西から昇るほどにあり得ないことではあるまい。今や民間人のあいつに一発食らわすことくらいは、できる。あと数年程度の内なら、少なくても行動できる。努力できる。

しかし、あの野郎はまだ生きているだろうか。死んだというニュースを、いつだったか見た気もする。あれだけ憎い野郎が死んだか生きているかも思い出せないとは、俺も呆けてきたかもしれない。


またある日、永友は戦争の時代、自身の青春の時代を思い出す。

仕事の満足と出世とは全く別のものだと俺は思うが、出世すること、勲章を貰うことを人生の目的にしている軍人がゴロゴロいた。軍人は戦争が無ければ出世しないから、戦争を仕掛けてノモンハン事件を起こした奴がいた。そして、確かに出世した。そうなると、軍人というより官僚だな。

軍人なら、避けられない戦闘にあたって最小の損害で最大の効果を上げることが出世に繋がるべきだ。今の官僚は天下り先を確保するために国家予算で無駄な仕事を作るが、それよりはるかに質が悪い。奴らは国家予算の他に自国兵隊の命と相手国兵隊の命を踏みにじって、自分の出世を実現した。

露助の戦車に対する速射砲の攻撃方法を知らない奴が、大隊長をやっていた。その大隊長は戦果を上げようと、速射砲隊に今撃て、直ぐ撃て、と命令していた。有効射程というものを知らない。戦車の装甲を撃ち抜くには、弾が中る角度も非常に重要で、ただ中れば良いというものではない。補給が無いから隊としては一発も無駄にしたくないものを、射程距離外から撃てとは、利敵行為だ。そのような組織にした陸軍上層部、なんとも言いようがない。絶望的だ。

敵とは、戦闘で負ける前に非合理性で負けていた。国民と兵隊と尉官までの下級将校が馬鹿を見て、佐官から上の高級将校は甘い汁を吸って、将官ともなれば何をやっても、どれだけ愚かな作戦で大量の兵隊を殺しても、あるいは戦闘以前の餓死や病死で殺しても、何等責任を問われない仕組みになっていた。

史仁が一切の責任を逃れたものだから、高級将校や政府が責任を取るわけがない。戦争責任の追究をアメリカ任せにして、ドイツがナチスを追究したようには日本は天皇や政府や軍を追究しなかった。だから、この国の仕組みは戦争が終わって何十年経っても腐りっぱなしだ。

天皇の責任、軍の責任、政府の責任、財閥の責任を追究できなかった国民の責任が一番深い、と言ってしまえばそれまでか。占領軍の親玉、ダン・モーガン元帥は、アメリカ人は四五歳で、日本人は一二歳の子供だ、と言ったが、ある意味では当たっている。

しかし忘れてはならないのは、焼夷弾や原爆を市街地に使用する、一般市民、女も子供も老人もかまわず盲爆で殺戮するというあの残虐さが四五歳の理性とは認められない、ということだ。狂った四五歳だ。あの国はこれからも、国益のためならよその国に戦争を仕掛けるだろう。あれもまた、芯まで腐った国だ。


永友の過去の想起は、止めどなく、時間も前後し、何にも妨げられない。

いつまで歩兵をやっていてもうだつが上がらない。かといって除隊して民間で稼げるかといえば、学歴が無いからだめだ。商売は、性に合わない。

憲兵になれないものかとやってみたが、学科試験が大学卒でもないと無理だと思い知って、諦めた。なにせ、高等小学校しか出ていないからな。

それではと、飛行機乗りを志願したら、これが不思議なことに何とかなった。俺も捨てたものではなかったな、あの頃は。

軍隊は運隊。歩兵の方が危ないのか飛行兵の方が危ないのか、考えても仕方が無い。死ぬときは死ぬ。大砲の弾に中って地面に這いつくばって死ぬのも、高射砲に中って撃墜されて死ぬのも、死ねば同じだ。

鉄砲、弾、食料を担いで、大砲を運ぶために押したり引いたり、分解した機関銃を持たされて何日も何週間も歩いて行軍するのは阿呆だ。あんなことは、トラックや馬のやる仕事だ。

飛行機は、歩かなくても良い。何千メートルもの上空から地上を見たら、気持ち良いだろう。そう考えて、あの時は勉強した。操縦だけではなく、航法、発動機、航空力学、モールス符号、射撃、爆撃、夜間飛行、電気、格闘技、数学、英語、航空兵器、地形、理化、図画。

モールスは誰が考えたのか、面白い覚え方があった。イロハのイはト・ツー(・ー)だから、伊東、イ・トー。ロはト・ツー・ト・ツー(・ー・ー)だから、路上歩行、ロ・ジョー・ホ・コー。ハはツー・ト・ト・ト(ー・・・)だから、ハー・モ・ニ・カ。アに至っては、ツー・ツー・ト・ツー・ツー(ーー・ーー)で、アー・ユー・ト・コー・ユー・。しかしこの方法で覚えても、耳で聞くピッ・ピーを素早く文字にするのはなかなか難しかった。

航法は海軍の方が一枚も二枚も上手だった。地形の無い海上を何時間も飛んで目的に着く、あるいは離陸した母艦に戻って行くのだから。

足の長い爆撃機を護衛する戦闘機として長大な航続距離が必要で、ゼロ戦は増槽タンクを付ければ三,〇〇〇キロも飛べたらしいが、ひとりでそれだけ飛ぶのはきついだろう。

海上を飛んで、それだけ離れた目的地に間違いなく行けるのか、あるいは一,五〇〇キロ飛んで、一,五〇〇キロ反対方向に飛んで母艦に戻れるのか。陸軍の操縦者としては考えられない。

雲が低くて地上が見えなければ、どこをどう飛んでいるか分からなくなる。方向はコンパスで維持しても、その反対方向の基地や艦に戻れるかといえば誤差があるからだめだ。ゼロ戦の無線帰投方位測定機は、それほど卓越した性能を持っていたのか。

しかし、ゼロ戦も実際には爆弾を積んだり、最高速度で飛んだり、空中戦をやるから、航続距離一杯を飛ぶことはほとんど無いだろうが、ひとりだ。九九双軽は爆撃手、機銃手、無線手、操縦者を合わせて四人乗っていたから、長時間飛ぶにしても心強かった。

戦闘機は死ぬときはひとり。俺は三人の命を預かっている気持ちで操縦していた。預かったものは、そのまま返さなければならない。

しかし、馬鹿な上官どもは、預かった部下の命は自分のものだと思っていた。大体が大本営が玉砕と言葉を誤魔化して、部隊を全滅させていた。せっかく戦闘経験を持つ士気の高い優秀な部隊を、無駄に捨てていた。捕虜になるな、と無駄死にさせていた。あれでは戦争に勝てるわけが無い。物量だけではない、思想からして負けていた。

いよいよ弾が無い、食料はとっくに無い、水も無い、死ぬしかない、だから軍刀を振り回して、残しておいた少ない弾を撃ちながらの斬り込み。愚かで恥ずかしい話だ。

どうせ死ななければならないなら、地面に這いつくばって歩兵銃を抱えて死ぬより、空で何十万円もする飛行機を棺桶にして死んだ方がましだと俺は思った。

歩兵は、作戦によっては戦死より餓死、病死の多いものがあった。兵隊を戦わせるための弾も食料も傷病兵を治療する薬も無くて、無駄死に。兵隊は、どうせ死ぬにしてもこれはないだろう、とどれほど悔しかったことか。こんな馬鹿なことをやらせたのが、大本営であり、参謀本部であり、将官であり、政府であり、天皇だ。


永友には、今晩もウィスキーがうまい。これがまずいと感じるようになったら終わりだな、と彼は思っている。少々の胃の不調があっても気にしない。それほどウィスキーが好きなのだ。

軍隊で何が一番ひどかったか、一概に言えない。それで死んだ奴にとっては、それが一番ひどかったのだ。初年兵時の教育訓練が一番辛かった奴もいただろう。

それが過ぎて戦地に行けば、内地の訓練ほど窮屈ではなかった。しかし、戦地では当然戦闘がある。命のやり取りだ。今日生き残っても、明日生き残れると限らない。いや、一分後、一瞬後に死ぬかもしれない。

撃ち合いでなくても、大砲の弾が飛んでこなくても、雨水が溜まった塹壕に何時間も何日も入ったままも辛い。皮膚がふやけて、剥けてくる。

南方戦線の暑さ、蚊や蠅、マラリア、赤痢。

北の極寒、地面が凍っていて、戦友を埋める穴も掘れない。

弾薬不足、食料不足。

敵の兵力に対して決定的に少ない味方兵力、敵の戦車、装甲車に対して歩兵と小銃のみ、アメ公は戦闘のあとにシャワーを浴びるが、こっちは飲む水も無い地獄。

飛行機があってもガソリンも無ければ爆弾も無く、地上において空襲で破壊される屈辱。

弾の飛んでくるところには絶対来ない参謀、司令官の攻撃命令。

一五万円の飛行機で二,〇〇〇万円の敵戦艦を沈めれば釣りが来ると、作戦とも呼べない特攻命令。

歩兵出身の、飛行機や航空作戦を何も知らない将官を航空軍の司令官に任命するという、陸軍省の派閥人事。

軍隊だけでなく、なにもかもがひどかった。

軍が民間人にまで、捕虜になる事無く自殺を強制すること。

トラックで逃げ去る高級将校に放擲されて、徒歩で避難する民間人。

政府より陸軍省、海軍省が上にあるという国家の現実。

ただひとりのアンポンタンを神と崇めさせて、国を治めようとする憲法。

東京大空襲で百万人の罹災を許し、広島のあとに、降伏しても天皇制護持の保証を取り付けられるだろうかともたもたして、長崎まで原爆でやられてしまうという天皇と政府。

誰ひとりにも戦争責任を追究すること無く、あらゆる罪を不問とした国民。

戦争で手足を失った兵隊。

空襲で両親を殺された子供。

戦闘で殺された兵隊、餓死した兵隊、病死した兵隊。

ろくな護衛も無しに、商船で戦争遂行物資を輸送させられ民間人の船員。

余りにひどすぎることが、山ほどあった。時代もあっただろうし、運もあっただろうし、人類の理性の限界もあっただろうし、それぞれに言い訳もあっただろうが、にしても何もかもをそのまま許すわけにはいかない。

俺にも未だに許せないことがある。許せない奴がいる。


あの時代が辛かったからか、それとも懐かしいのか、俺にはそれしか無いからなのか、と思いながら、また今夜も永友は過去に浸る。

兵隊は、戦争があれば死ぬかもしれない。それは分かっていた。兵隊も下士官も将校も同じだとは思っていなかった。尉官あたりまでは弾の飛んでくるところで戦う。佐官になれば、中には参謀になって弾の来ないところで椅子に座っての仕事だ。将官ともなれば、ふんぞり返っての高給取りだ。軍人というより、高級官僚か選挙を免除された政治家だ。

俺は、天皇やそいつらのために兵隊になったのではない。戦ったのではない。命を懸けたのではない。徴兵されて軍隊に入った。それから、自分の生活のために軍隊を続けた。仕事だから戦った。いくらか、国を救えるものなら、と言う気持ちはあった。それくらいの大義名分が無ければ、命を懸けられなかったし、敵を殺せなかった。

たまたま敵として巡り会った奴らを殺したし、戦友として巡り会った奴らと命を懸けて助け合った。天皇陛下のためでもないし、日本の国の知らない人間のためでもないし、家族のためはいくらかあったが、俺の考える正義のためでもないし、戦友のためと上官の命令のためはいくらかあったが、所詮自分のためが一番だった。戦争から逃げられない自分、この国から逃げられない自分、現状から逃げられない自分、全て弱さ故だ。逃げることが弱い場合もあるだろうが、弱いから逃げられない、逃げるだけの強さが無い、ということもある。

特攻にやらされても、爆撃して基地に帰ってきた奴がいた。特攻出撃で公式に死んだと認定されたから、何がなんでも殺さねばならないと何度も特攻出撃させられて、そのたびに帰ってきた偉い奴だ。あの強さが、俺には無かった。

発動機故障で帰還したが、上官からガタガタ言われるくらいなら死んだ方がましだと、ヤケになって特攻出撃して会敵できたかどうか分からないまま未帰還となった奴がいた。きっと燃料が切れて海に落ちたのだろう。

特攻はいつのまにか、戦果を上げることが目的ではなく、惰性になった。考えるべき軍上層部が何も考えず、徒に若い命を犠牲にした。

離陸はできるが着陸は怪しいような技量の、実戦経験が無いどころか訓練さえ不足の操縦者が、武装を取り外された飛行機、あるいは使い込んでボロボロになった練習機で、護衛も付かずに、戦果の確認をする随伴機も無しに、仕様以上の重い爆弾を積んで、燃料を満杯にして、よたよた飛びながら、敵邀撃戦闘機の攻撃をかわし、高射機関砲による弾幕を破り、特攻機対策として開発された、中らなくても飛行機が近くにあれば爆発するという近接信管の砲撃をくぐり抜けた先にある敵艦への衝突可能性は、空しいほどに小さい。

爆弾を抱いて敵艦に中って死ねと命令しておいて、その戦果確認さえしないとは、これ程特攻隊をコケにした話があるか。だから初めのうちは、敵艦に中る前にほとんどが敵の邀撃戦闘機や敵艦の砲撃で撃墜されてしまうという事実を知らずに、特攻を継続した。さすがにしばらくしてから、戦果がほとんど無いと知ってからも、それでも誰も特攻を止めようと言わなかった。現状はどうか、と確認しなかった。改善点は無いか、と検討しなかった。無駄、無効果と知っていながら、敵艦を轟沈だ、撃沈だ、大破だ、と虚飾の大本営発表を重ねた。

それが、天皇を頂点としたこの国の現実だった。俺もそんな国の構成員だったから、俺にも七千万分の一の責任はある。とすれば、俺も自分の責任に対して、落とし前を付けなければならない。俺より責任の重い奴を始末して、そのことによって俺も消滅して、その分だけ、太平洋の水の内のコップ一杯分だけの量、この国が浄化される。

いや、そんな立派なことではなく、俺は俺の許せない奴に一発食らわしてやりたい。


今夜の永友はウィスキーのつまみ代わりに、昭和五六年の飛行第七五戦隊会で配付された冊子、飛行第七五戦隊詳史を開いた。附録は会員名簿だ。

昭和一二年九月一日、飛行第三聯隊から飛行第七大隊が編成された。八八偵察機、二中隊編成。

一三年四月、九七軽爆に改変。

八月一日、飛行第七大隊は飛行第七五戦隊へと改変されて発足。第二中隊は九八軽爆に改変。漢口(かんこう、ハンコウ)作戦、広東(かんとん、クァントン)作戦に参加。

一四年一月、芷江(しこう、ジージャン)作戦に参加。

三月、南昌(なんしょう、ナンチャン)作戦に参加。

九月、満州(まんしゅう、マンジュ)に移駐。

一五年四月、武昌(ぶしょう、ウーチャン)から信陽(しんよう、シンヤン)に移動、宣昌(ぎしょう、イーチャン)攻略機動作戦に参加。

一六年七月、戦隊主力は機種改変で九九双軽一〇機、九八軽爆八機。常徳(じょうとく、チャンドゥー)、湘潭(しょうたん、シャンタン)などを爆撃。

八月から九月、万県(ばんけん、ワンシェン)、老河口(ろうかこう、ラオホーコウ)、開県(かいけん、カイシエン)、巫山(ふざん、ウーシャン)、雲陽(うんよう、ユンヤン)、梁山(りょうざん、リャンシャン)などを爆撃。

一一月五日、御前会議において政府は対米・英・蘭開戦を決定。

一五日から一六日、戦隊は漢口から広東を経由してベトナム・ハノイに移動。

一二月、戦隊は英領マレーのクワラベスト、タナメラを爆撃。蘭領東インド(インドネシア)のメダン飛行場を攻撃。英領シンガポールを爆撃。

一七年二月、シンガポール・セレター軍港・クランジの油槽群を爆破。インドネシア・パレンバンを攻撃。シンガポール陥落後ジャワ島上陸作戦に協力。

三月、インドネシア・バンドン攻略戦に協力。

一一月、チモール島南方哨戒、ジャワーチモール間の船団護衛。

一八年一月、戦隊は新たに編制された第七飛行師団に編合。

四月から五月、戦隊は内地帰還、九九双軽Ⅱ型に機種改変、訓練。

六月、戦隊の九機はチモール島・ラウテンを離陸、第三飛行団の戦爆四〇機と空中集合、オーストラリア・ポートダーウィンの敵飛行場を低空爆撃。

九月、戦隊の二一機はチモール島・クパンを発進、海軍のゼロ戦二一機に護衛させ、オーストラリア・ドライスデールの敵飛行場を急降下爆撃、全機帰還。

一九年四月、ニューギニア・ホーランジアへの敵の空爆を受け、戦隊の可動機は二、三機となる。自力で補給機をインドネシア・セラム島・アマハイに空輸、まもなく戦力は二〇機に回復。ニューギニア島・ムミに移動。

五月、奪われたホーランジア飛行場を攻撃。インドネシア・ビアク島を急降下爆撃、同島・ボスニックを爆撃、ボスニックーモクメル間の海岸を爆撃。

六月、ビアク島、オウイ島の夜間爆撃、同島・パライ攻撃を継続、ビアク支隊への食料投下。

七月、ビアク島の飛行場爆撃。インドネシア・ヌンホル島のカメリー海岸に錨泊する敵輸送船を攻撃。

八月、ビアク島・ソリッド、ヌンホル島・カメリー、オウイ島、ミオス島、ミッテルバーグ島を攻撃。第三六師団第二軍へ空中補給。

九月、インドネシア・モロタイ島爆撃。同島・ギラ岬の敵艦船を攻撃。ミオス島・マル飛行場を爆撃。

一〇月、フィリピン・レイテ東岸に集結している敵艦隊群を攻撃。

一一月、レイテ島・タクロバン飛行場を攻撃。

一二日、大本営より機種改変のため戦隊に内地帰還の大命あるも、第四航空軍は航空戦力の喪失を恐れて二三日まで発令せず。

二〇年一月より戦隊員をフィリピンから台湾に空輸。

三月、隊員は鉾田に集結、キー一〇二・五式双発襲撃機を受領、八戸にて訓練。

八月、終戦。

戦隊詳史を読み返すまでもなく、あの頃のことはいくらでも思い出せる。しかし、二〇年三月の内地帰還についてだけは記憶が曖昧模糊としている。何故だ。


海軍は乗る艦が沈んでも、水兵はしばらく海に浮いていられるだろう。実は北の海は寒くて、いくらも保たないかもしれない。実は南の海は、直ぐに鱶が喰いに来るかもしれない。では、艦が沈むとき一緒に沈んだ方が楽なのかといえば、やはりそれは無いだろう。本能として、艦が沈んでも生き残れるものなら生き残りたいし、現実として艦隊なら別の艦に救助される可能性もある。場合によっては、敵艦による救助もあるかもしれない。

しかし飛行機なら、飛行機の墜落と同時に空中勤務者は確実に死ぬ。アメリカの爆撃機乗りは、内地爆撃時に撃墜されながらも落下傘で降下したと聞いているが、陸軍には不時着はあっても、落下傘を使うことはなかった。落下傘はあったが、足下に置いて飛行中の便所として使っていたから腐っていただろう。

墜落するときは、いくらかでも機体を制御できたなら、敵に損害を与えようと自爆していた。特攻隊ができる前から。きっと海軍も同じだっただろう。

艦と飛行機、どっちが良いかと問われたら、俺は飛行機だと答える。どうせ軍隊、死ぬときは死ぬ。だったら、一晩も二晩も海に浸かって死ぬより、ひと思いに死んだ方がすっきりする。これは、臆病か。それとも蛮勇か。

陸軍に艦はなかったし、あっても俺は飛行機が良かった。どうせ命がいつまであるか分からないなら、海軍も陸軍も同じだし、艦も飛行機も同じだ。それなら好きな方を選べば良い。選んだからと言って、軍が自分を選んでくれるかは分からないが。

死にたくなければ、参謀になれば良い。あいつらは、いつも弾の飛んでこないところにいた。弾が飛んでくる前に逃げた。

威張りたかったら、憲兵になれば良い。あいつらは、内地でも外地でも威張っていた。

さすがに参謀は逆立ちしても無理だが、俺も憲兵には挑戦した。しかしそれも、叶わなかった。

どうせ兵隊なら、飛行機だ。

少しでも安全や楽を望めば軍楽部隊もあったが、俺にはチンドン屋はできない。

軍医も当然無理だし、軍隊にも必要なのだろうが経理部というのもつまらない。そういえば、海軍主計少佐から総理大臣になった奴もいたな。

伝書鳩を使った通信隊があった。鳩は馬より犬より扱いが楽だろう。餌も少ないし、体を手入れしてやることもない。訓練は、鳩を連れて遠くへ行って放すだけだ。巣に戻れば良し、戻らなければ鷹にでも喰われたか、迷子になった馬鹿鳩と言うだけのことだ。かとって、志願したからなれるというものでも無い。

軍馬、軍犬、軍鳩の序列だから、しくじっても馬や犬ほどには責任追究が無いはずだ。一羽だけ飛ばして確実に巣に戻るというわけではなく、数羽に同じ通信を付けて一羽でも戻れば用は足りるわけで、帰ってこない奴は鷹にやられたことにすれば良い。馬や犬はそうはいかない。

序列と言えば、鳩の下に慰安婦があって、その下に船員があった。陸海軍に徴用された商船、漁船乗りが一番下というのはひどい話で、軍隊の理不尽を表している。護衛も無しに油だの兵隊だの弾薬、食料を運ばされて、兵隊より危険な任務で、慰安婦の下。歩兵が人の心配をする余裕は無いが、船員よりまだましか。

鳩がいくら重要な情報を運ぶと言っても、前線で食う物も弾も無い状態では何にもならない。実際どれだけ役に立ったものか。

電話線は切断されるし、無線を使えば位置が探知されるし、鳩を飛ばせば撃ちおとされる。

戦争はぶっ壊し合い、愚かなものだ。ぶっ壊し、ぶっ壊されるなら、道連れは派手な方が良い。戦艦が二,〇〇〇万円でも、何百人も乗っている。飛行機は一五万円でも、ひとりだ。いや、俺が乗っていた九九双軽は機銃、爆撃、無線、操縦、合わせて四人だった。四人で一五万円の飛行機が道連れだ。所詮それも空しい比較、死んでしまえば道連れも蜂の頭も無い。ましてや天皇も靖国も無い。

どうして戦友たちは、死ななければならなかったのか。どうして戦争を、しなければならなかったのか。どうしてひとは、ひとを殺さなければならなかったのか。どうして俺は生き残ったのか。

手足を撃たれて何時間も苦しんで、結局切断されて生き残るような中途半端より、墜落して確実に死ぬ方が良いと思った俺は臆病だったのかもしれない。飛行機乗りはいつ死んでもおかしくないと粋がって、覚悟していたつもりで、実は辛く苦しく生き残る、生き続けるということに怯えていたのかもしれない。

事故でもなく、病気でもなく、若い元気な状態でどうして殺されなければならなかったのか。俺を殺そうとしたのは、戦友を殺したのは、敵なのか、天皇を頂点とする日本の国なのか。

国家、時代、戦争、そんな曖昧なものではなく、俺の飛行機を狙って高射砲を撃つのは敵兵であり、高射砲や邀撃戦闘機が待ち構えているところを爆撃してこいと命令するのは第三中隊長であり、第七五戦隊長であり、第三飛行団長であり、第七飛行師団長であり、第四航空軍司令官であり、大本営陸軍部であり、突き詰めれば天皇だ。


痴呆症が徐々に進行している永友の、とりとめ無い追憶は日々繰り返される。覚えるべき新しいことは覚えられず、短期記憶も困難になりつつあるが、過去は比較的鮮明だ。細かいところに思い違いや忘却はあるが、メインストーリーは戦後数十年に亘って何度となく思い出し、記憶し直してきたものだ。

忘れたくても忘れられない過去もある。今でも年に一度か二度、ハッとして睡眠を破られることがある。起きると、汗を掻いている。夢で良かった、と思う。俺は、生きている、と思う。

中務中将は第四航空軍司令官である。陸軍次官や参謀本部第一部長などを歴任したが、歩兵二三聯隊が軍歴の始まりで、航空軍司令官となってからも歩兵の用兵から抜け出すことができなかった。これが陸軍人事であり、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学まで出た男の、軍人としての知識と理性の限界であった。

あの日、特攻隊出撃を前に中務の訓辞が始まった。またいつもの内容だった。

「ミッドウェイ以来戦況は芳しくない。しかし皇国には悠久の大義に若い命を捧げる、今や軍神となった諸子がいる。飛行機に満載したガソリン燃料と艦船攻撃に効果の高い海軍の爆弾は、鬼神もこれを避ける諸子の突撃精神と一体となって、必ずや敵空母、戦艦、巡洋艦あるいは大型輸送船を轟沈するものと、余は信じて疑わない。本日は国分少尉を隊長とする新陽隊三機編成及び荒木中尉を隊長とする太陽隊三機編成を、護衛の戦闘機五機が戦果確認を兼ねてリンガエン湾に誘導する。全機命中を期待するが、無駄に命を捨ててはならない。荒天や雲で会敵できなければ引き返せ。発動機に不調があれば引き返せ。そして次に万全の出撃をするのだ。けっして諸子だけを行かせるのでは無い。必ずやこの中務も最後の一機で諸子に続く」

出撃する特攻隊の脇で見送る整備兵などは何度も同じ訓辞を聞いて、これから死にに行く者のために少しは気の利いたことを言ってやれないのか、と気の毒に思っていただろう。全機命中などと、人の乗った飛行機を鉄砲の弾だとでも思っているのか、と不憫にも感じていただろう。

出撃する特攻隊員はだれも、この司令官が最後の一機で敵攻撃に行くことは無い、と分かっていたはずだ。参謀や司令官は弾の来ないところでふんぞり返っているのが仕事だと知っていた。

一度敵機の空襲があったとき、中務司令官は反撃の指揮も執らず何ら命令も下さず、顔を青くして真っ先に防空壕に逃げ込んでいた。

そのような無様な司令官からであっても、命令が下れば出撃するのが兵隊であり、下級士官だ。

飛行機乗りはもとより、被弾して基地への帰還が望めないとなれば、敵目標に向かって自爆する程度の覚悟は皆持っていた。しかし最初から、死んでこい、生きて帰るな、爆弾を落として戻るのはだめだ、爆弾と一緒に体当たりしろ、は外道だ。事実、軍でも特攻隊は作戦の外道と言われていた。しかし戦闘の現場では、特攻が次々に命令され、出撃していった。

新陽隊、太陽隊の飛行機は九九式双発軽爆撃機。爆弾搭載量三〇〇キロのところを五〇〇キロ積むために、旋回機銃三丁を取り外してある。どうせ帰ってこない飛行機だからと、無線まで取り外してある。

護衛戦闘機がよく働いてくれれば良いが、武装の機関銃も連絡用の無線も無い重い爆弾を積んだ爆撃機は、敵戦闘機の好餌となりかねない。救いとも言えない救いは、機関銃と無線が無いため、射撃手、射撃兼爆撃手、射撃兼無線手の三人が乗らずに、死ぬのが操縦者ひとりで済むことだ。


中務中将・第四航空軍司令官は、命令によって特攻に行く操縦者に、自分も最後の一機で行くといつも訓示していたが、結局司令部が危なくなると参謀を使って台湾に逃亡した。

大本営は逃亡と認識したが、陸軍大学卒業者は同窓生を裁かないという不文律があり、さらには、中将は勅任官、即ち天皇が任命した者であるから、天皇が過ちを犯すことはあり得ないから、勅任官を裁く軍法が無かった。

敵前逃亡のペナルティーは予備役編入という無罪より軽い、むしろ褒賞であった。死ぬのが怖くて戦線から逃げた将軍を、現役から外したのであるから。

日本陸軍上層部の思考はこれ程に不合理で、日本陸軍の仕組みはこれ程に粗雑であった。

アメリカに三ばか大将というコメディグループがあったが、アメリカでは、愛人の芸者を軍属として内地からベトナムに連れてきたという寺田順一まさいち大将、インパール作戦を指揮した和田口礼也れいや中将、第四航空軍司令官の中務真由中将を陸の三馬鹿と呼んで嗤った。

無能も過ぎれば利敵行為、最大の裏切りであるが、にもかかわらず陸軍にはそれを止めることも訴追することもできなかった。

中務はフィリピンで一升瓶と訓辞で多数の特攻を送り出したが、その中に俺もいた。俺が唯一、中務から結果的に逃れた特攻操縦者だ。

あの頃の九九双軽からは、当初の改装による機体から角のように突き出た信管は外され、爆弾も投下できるようになっていた。俺は爆弾を投下して帰還するか、爆弾を抱いて自爆するか、ずっと迷っていた。

余りに残酷な命令、余りに愚かな司令官、余りに強大な敵、余りに無駄な出撃、命を懸けるに値しない天皇、国家、政府、軍。

母親や兄弟のためなら、戦争だから撃ちおとされることも仕方ないが、自分が敵艦に体当たりしたからといってどれだけのことがある。戦況が変わるはずも無い。これほど馬鹿らしいことは無い。

悲しいまでに純粋な若い連中のなかには確かに特攻隊に志願した者もいて、軍の配付した例文を大いに参考にして、今まで使ったことも無い言葉で立派な遺書を家族に送って死んでいった。そして、夫や息子を殺された悲しみを押し隠すしかなかった家族の国家に対する従順さは、美しいまでに愚かだ。

国家に忠誠を尽くす遺書の例文を用意し、その遺書で息子や夫の死を納得しようとする遺族。軍のやり方はやりきれない。

俺は、純粋でもなければ従順でもない。しかし、特攻から逃れる勇気があるのか。非国民と呼ばれることを受け容れられるのか。理屈では、この腐れきった国家から非国民になる事はむしろ喜ばしいことだが、戦友から唾棄されることを無視できるのか。それよりは全く無意味に死んだ方が楽だ、と結論するのか。

俺は特攻に行きたくない。わずかでも生きて帰れる可能性がある攻撃なら、行く。運があれば基地に帰還できる。あるいは被弾してもどこかに不時着できる。運が無ければ、撃墜される。運は皆同じだ。あきらめもつく。諦めるしか無い。

生きて帰ってくるな、必ず死ね、と言う命令は、いくら軍隊でもあり得ない。飛行機乗りは、墜ちるしか無いとなれば、なるべく敵に損害を与えるように自爆する。命令されなくても、操縦装置が効くなら敵に突撃する。最初から、ぶつかれ、死ね、は余りにも飛行機乗りを馬鹿にしている。

例え投下した爆弾が敵目標に中らなくても、生きて帰れば次の爆撃ができる。爆弾を抱いたまま敵艦から外れて海に落ちたら、次は無い。

爆弾を機体から切り離さず敵艦にぶつかるからといって、命中率が上がるわけでは無い。急降下の高速度で浮き上がろうとする飛行機を抑え切れなければ、狙ったところから外れて海に落ちる。ギリギリの高度まで急降下して爆弾を離して、一〇機の内二機でも三機でも帰還できれば、次の攻撃ができる。参謀の馬鹿どもはこんな簡単な計算もできないのか。

軍用機に妾の芸者を乗せる将官がいる軍隊だから、芯まで腐っている。

カミカゼへの対策として近接信管を発明するアメ公の方が、なんぼかましだ。

特攻を命令されたら、どうするか。外地の基地から脱走しても、そのあとどうする。回りは、敵ばかりだ。飛行機で逃げるか。燃料は限度まで積むから、なるべく早く爆弾を捨てれば二,〇〇〇キロは飛べるだろう。ルソン島のリパから台湾まで一,〇〇〇キロ、沖縄の那覇まで一,五〇〇キロ、鹿児島までは二,二〇〇キロ、これは無理だ。沖縄にしても、海の上を目標まで最短で飛ぶのは、海軍の飛行兵ほどうまくはできない。せいぜい台湾が良いところだろう。真っ直ぐ北に行けば台湾だ。通り過ぎても一,五〇〇キロで志那大陸にぶつかる。

特攻で殺されるより、できれば台湾、最悪でも志那まで逃げれば生き残ることができる。この戦は負け戦だ。あと半年か一年だろう。一年生きれば、いつか内地に帰る日が来るかもしれない。

しかし脱走したとなれば、母親も兄弟もただでは済まない。亀代村かめしろむら網代浜あじろはまで飛行機に乗ったのは俺ぐらいのものだろう。それが脱走したとなれば、村民のやっかみから来る嫌がらせもあるだろうし、憲兵や特高が家族に何をするか分からない。

結局は、あの中務の大馬鹿野郎に俺は殺されるのか。それが俺の運か。ここまで、今まで生き残ってきた俺の運がいよいよ尽きるか。戦争で、兵隊はいつかは死ぬだろうが、あんな奴の命令で無駄に死にたくは無い。

同じ死ぬなら、被弾してもはやこれまで、と敵に体当たりする方がすっきりする。それくらいの覚悟は俺も平生から持っているつもりだ。

それでも充分馬鹿臭いと言えば馬鹿臭い。アメ公は飛行機がだめになったら落下傘で脱出するが、日本は落下傘を使わない。飛行機と自爆だ。落下傘はあっても飛行中の小便を吸わせる道具で、いざという時は使えるかどうか分からない。


永友は若い頃からビールは飲まない。満腹になるからだ。日本酒は飲んだが、甘いので得意ではない。経済的にウィスキーを飲めるようになってからは、これ一本槍だ。冬はお湯で割るが、夏は水で割ったり氷を入れたりはしない。ストレートだ。

永友が郷里に生活の拠点を戻して一年余り。月一回か二回、同級生だった佐藤が訪ねてくる。目当てはウィスキーだ。本当は日本酒が好きなのだが、家で飲む事に対し家族が良い顔をしないため永友の家に遊びに来る。永友は自分が飲まないので、お茶は出さない。湯飲みにウィスキーを注ぐ。氷も水も足さない。佐藤も水や氷を要求せず、ありがたく飲む。

佐藤が帰ったあとは行き脚が付いているから、記憶を肴に更に飲む。

何故ひとは殺し合うのか。そうせねばならないのか。戦争することは国家の権利として世界中が互いに認め合っている。戦争に関する国際法があることが、その証左だ。戦争はルールのある殺し合いで、やっても良いことであって、禁じられていることでは無い。但し、ルールを守らない国がある。ほとんどの国がそうだろう。

となれば、ルールの無い殺し合いを世界中の国家が互いに承認し合っている、ということだ。ルールがある振りをして。互いにルールを無視することが暗黙の了解であるにも拘わらず、それでもルールがあるように見せかける。

仕向けておいて、先に撃たれたから自衛のために撃ち返した、と言う。

撃たれるのが確実だったから、被害を最小限にとどめるために先に撃った、と言う。

いずれにしろ、戦争は国家の権利、やってはならないことではなく、必要に応じてやる、飢えたら食う、渇いたら飲む、それだけのことだ。

次に国家は、国民に戦場に行って敵を殺せと命令する。誰も行きたくはない。プロの兵隊でも、殺されるかもしれない、殺すかもしれない戦場には行きたくはない。戦争はしたくない。

国家はあの手この手で国民を戦場に追い立て、敵を撃たせる。戦争に行かないことは卑怯だ、臆病だ、恥辱だ、怠慢だ、不具だ、非国民だと言う。戦争に行って人を殺すことは、正義で、勇敢で、義務で、名誉で、希望で、貢献で愛国であると言う。

あるいは、兵役を終えたら大学を無料にするから学歴を付けてより良い生活を目指してはどうか、軍では民間で必要とされる各種の高度な技術が習得できるから除隊後は高収入が見込める、などと唆す。

それでも戦場に、人殺しに行きたがらない奴には、法を以て罰則を科す。一旦戦場に行ったなら、逃げようとすれば味方から軍法にしたがって銃殺刑を執行される。自分の命を守る自由は無い。敵を殺すか、敵に殺されるか、味方に殺されるか、よっぽど運が良ければ、生き残れる。

何故にそこまで個人は国家に従わなければならないか。自分の命より国家を優先する利益、目的、意味は何か。あろうはずがない。国家が無くても、人は生きられる。移民がある。難民がある。移動が許されれば自分の命を奪おうとする国家から、保護してくれる、少なくても命を奪おうとしない国家で生きることはできる。つまりひとは、母国でなくても生きられる。人は国家のために生きるのではなく、人には生きるために適切な国家があれば良い。

国家による国民同士の殺し合いを拒否して、国家同士、即ち元首なり議員なり大企業の経営者なり、高級官僚なり、将官なりが殺し合えば良い。

家族が強盗に襲われても戦わないのか、という愚かな問いがある。それは、たとえが不適切だ。どうせやられるなら敵わないまでも、一か八か、隙を見て反撃する。家族を強盗から守るには、自由意志で戦う。国家の意思にやむなく卑屈に従うこととは、根本的に違う戦いだ。

敵が自国に侵略してきたら、指をくわえて財産や生命を奪われるに任せるのか、との問いもあろう。状況によっては個人やグループで、ゲリラ戦で敵と戦う。あるいは正規軍に志願するかもしれない。これは徴兵、強制とは本質的に違う戦いだ。

国民に武装をさせる、あるいは武装の権利を取り上げないことだ。政府が武器を支給、貸与しても良いし、あるいは自由に武器を保有する権利を制限しないこと。それら武器は、銃口は、必要応じて侵略国に向かう、強盗などの犯罪者に向かう。また銃口は、政府が国民に不利益なことを企図した場合は、そこに向かう。

武器を利用した犯罪が増加する可能性があるが、それは民主主義のコスト、健全な国家を維持する、侵略から国家を防御するコストと割り切る。人口一億人の国で年間一万六千人が交通事故で死んでも、自動車は廃止できなかった。

個人が武器を保有すれば、国民は敵国からだけではなく自国からも自らを防衛する事ができる。政府は敵国を作らないよう外交に努力し、自国民から攻撃されないよう内政に誠意と労力を惜しまない、と期待する。

政府は外交の最終手段として交戦権と戦力を維持し、国民は必要に応じて政府を攻撃する自己保存の権利と武器を保持する。

政府は戦争をやる事に決めた、お前を特攻隊に選抜したから爆弾を抱いて敵艦に自爆してこいと命令される状況と、誰でも銃を持っていていつ誰かから撃たれるかもしれない状況と、いずれを選択するか。比較、決定は難しい。難しいと言うことは、明らかにいずれかが劣っている、ということではなく、利益が拮抗して悩ましい、ということだ。判定が困難なほどには大差が無いということだ。

頭のおかしな人間が銃を乱射、無差別殺人を起こすことがありえる。暴発事故も起こるだろう。一方では、過去に軍隊が敵に投降しようとする民間人を殺した事があった。泣き声が敵に聞こえるからと、母親に赤ん坊を殺させた例もあった。頭のおかしな人間はどこにも、いつの時代にもいるし、その被害者も同様だ。

銃を乱射する人間を、警察官でなくても、銃を持つ民間人が制圧する可能性もある。民間人を殺そうとする兵隊は、武装している民間人に撃たれる可能性もある。

暴力には、不幸にして暴力でしか対抗できない。少なくても差し迫った時は、暴力に対しては暴力を利用する価値がある。包丁を持って押し入ってきた強盗に、せめてゴルフクラブで一発殴りかかるか、銃があれば撃つのは自らの権利であり、家族を保護するための義務でもある。

国家には国際法で交戦権が認められており、個人には国内法で正当防衛が認められている。頭の中の理想をきれいな言葉で口にしても、強盗や国家の暴力から命を守るには無力で不可能だ。


永友には、叔母や義妹、従兄弟などが時折ウィスキーを差し入れてくれる。日本酒ならもらい物が仏壇にいつもあるが、永友は飲まないのでわざわざウィスキーを持ってきてくれる。毎日酒を飲めるとは、個人も社会も贅沢になったものだと思っている。

そして、あの頃はひどかった、と今晩も思い出す。

海軍の馬鹿どもが特攻を考えて、陸軍の馬鹿どもが真似をして、史仁は、そこまでしなければならないのか、と言いつつ、それにしても良くやった、と虚飾の戦果報告に対して特攻を承認した。

いつかは命令されるかもしれない、という可能性はあった。通常の攻撃ではなく絶対死ぬ攻撃、恐怖があった。

飛行機の消耗に対して製造が間に合わないことは、空中勤務だから身にしみて感じていた。それでも特攻を出すために、ボロ飛行機や練習機まで使っていた。それに護衛も付けないのでは、墜としてくれと出て行く、敵戦闘機の標的機だ。設計仕様以上の重い爆弾と燃料をタンク一杯に積んで行くから、逃げるにも逃げられず、敵の訓練にもならなかっただろう。ひどい話だ。

昭和二〇年一月、とうとう戦隊の飛行機が無くなり内地に飛行機を取りに帰る事になった。戦隊の戦力は三個中隊合わせて定数三六機、全てが撃墜、あるいは地上で空襲を受けて撃破され、機種改変となった。大本営からは昭和一九年一一月に七五戦隊に対し内地帰還命令が出されていたが、現場の第四航空軍が七五戦隊を手放したくなくて握りつぶしていた。しかし、飛行機がなくなってはどうしようもない。

俺は、一八年四月の機種改変時は負傷していて内地に帰還できなかったから、四年ぶりになる。あとしばらく生きていられる、と安心した。新潟に帰るための休暇は取れるだろうか、と期待した。

ところが、内地帰還が発表された翌日、俺は九名の戦友と共に戦隊長から特攻隊に指名された。

なんということだ。内地どころではない、新潟どころではない。生きていられない。死ぬ。戦隊の一四三名は内地帰還、俺を含めた一〇名は特攻。何故だ。

長男は外す、という噂があった。俺は長男だ。妻帯者は外す、という噂があった。妻帯者も含まれていた。噂はただの噂か。

やっと離着陸ができる様になった、長距離飛行も実戦の経験も無い操縦者を特攻にやっていると聞いていた。俺ほどの熟練者でも特攻か。飛行機が無いから、熟練者ももう必要無いのか。九九双軽での急降下爆撃なら、第三中隊では俺が一番のはずだが、それでも一回の特攻で殺されるのか。

形は志願だった。操縦者だけが呼ばれた。嫌な予感がした。どうして無線手と機銃手と爆撃手は呼ばれないのか。

一九年一一月、戦隊長が操縦者を集めて、特攻を志願する者は一歩前に出ろ、と言った。誰も出なかった。戦隊長がもう一度、今度は声を大きくして、言った。「志願する者は一歩前へ」

ひとりが出た。もうひとりが出た。続いてバタバタと何人も出た。俺も、つい出てしまった。

結局七五戦隊の出撃可能な操縦者三〇名全員が、一歩前に出た。戦隊長は全員の志願を感謝し、実際の特攻隊員は後日指名すると言った。

今、その指名を受けた。

あれは志願を募るというやり方ではなかった。あの状況で、自分だけ出ないわけには行かなかった。空気だ。それに数もある。半数以上が出れば、出ない方が少数派になる。辛い立場となる。自分だけ出ないわけに行かない。馬鹿な話だが、死ぬより生きる方を選択することが辛い空気、瞬間だ。

あのとき、一歩踏み出した瞬間に、貧血を起こしそうになった。周りの空間が歪んだ。今度は死ぬのか、と思った。それまでの攻撃では、死ぬかもしれないとは思っても、生きて帰ってくる、と同時に信じた。信じ込もうとした。死んでたまるか、と思いながらも、今度は俺の番かもしれない、とも思った。確実な死ではなく、運が良ければ生きて帰れる、という当てがあった。

特攻にはそれが無い。発動機の故障は無いとは言えないが、それさえも操縦者の責任で、一旦は基地に帰還しても次こそは死んでこい、ということだ。

特攻に志願させられた、選ばれた瞬間から、死は保証されている。これまでの通常攻撃では、生は保証されていなかった。しかし、死の保証と保証されない生は莫大な違いだ。戦争をしていること、攻撃に行くことより、死ぬことを考えるようになる。

いつ執行されるか分からない死刑囚なら、因果応報と諦める、自分を納得させる口実もあるだろうが、俺たち兵隊は今まで命懸けで戦ってきて、それでも不足で、今度は死んでこいと言うのか。どうやって、自分を納得させるのか。

ひどい国もあったものだ。何のための国なのか。そうか、天皇のための国か。俺たちは天皇のための働き蜂、兵隊蟻か。すると、俺たち国民は何のために生まれてきて、存在するのか。働くため、戦うためだけで、命まで差し出せということは、人生に自分のためということはひとつも無いということになる。国民はそれほど弱い、小さい、賎しい、低い、取るに足らない、存在とも言えない塵芥ということか。

だとしても、何故無条件に他人の命令で死ななければならないのか。

それには理由は無い。あるはずが無い。俺たちを奴隷にしようと企む奴らが思い付いた、理由とも言えない滑稽な屁理屈があるだけだ。全く合理性は無い。

国民無くして天皇も政府も軍も役人も無い。不要だ。国民の利益のために彼らの存在を許しているのだ。天皇は必要不可欠ではない。無くて成立している国がいくらでもある。政治家や役人を飼っているのが国民だ。あいつらに国民の生活のための雑事をやらせているのだ。適切な給与を支払って。

蜂や蟻の世界では、一匹の女王のためにその他の全てが存在する。本能。遺伝子。そこには理性は無い。ひとが理性を獲得したとき、王、貴族、武士、特権階級は不要になった。本能の命じるままに、遺伝子を残すためだけにひとは生きるのではない。自由に、愛に、家族を持ち、うまい物を食い、温かい家に住み、快適に眠り、労働と娯楽を享受し、人生を生きるに値するものと実感し、この世に存在させてくれた親に感謝し、理性と良心に従って生を過ごし、自然への恐れを持って老い、次の世代に地球を明け渡す、それこそが生きることだ。

国民が天皇のために死んでも、天皇は国民を顧みることさえない。国民が国家にどれだけ尽くしても、国家は国民に命まで差し出せという。

大多数が生き残るために少数の犠牲が必要とされる状況はあるかもしれない。列強が虎視眈々と植民地にする弱小国を狙っている時代、個人よりまずは国家を強大にしようという考え方もあるだろう。全員が植民地の国民として奴隷になるか、可能な限り少数の犠牲で、国家全体を植民地にされることから救うか。天秤で計る価値はあるかもしれない。もちろん自分が犠牲になる側でない限り。天皇が、政府が、将官が、高級官僚が、大企業経営者が先頭に立って国民に続けというなら、考えてみる価値はあるかもしれない。例え彼らが敵の弾に斃れても、彼らの代替はいくらでもいる。出てくる。七,〇〇〇万人の人口から必要に応じて育つ。

飛行機乗りは馬鹿では無い。飛行機が飛ぶことは物理学で説明できる。何事にもやる気は必要欠くべからざるものだが、やる気だけでは何事も成し遂げられない。軍馬に大砲を引かせるにはまぐさが、兵隊に鉄砲を撃たせるには糧食が、飛行機を飛ばすにはガソリンが必要であるということほど明白に、弾の飛んでくるところには絶対に来ない特権階級が国民や兵隊を好き勝手にすることが害悪であることは明白だ。特攻がどれほど馬鹿馬鹿しい攻撃方法であるかを、今更戦況を覆せないことを、日本国のあり方が誤っていることを、知性ある空中勤務者は知っている。

政府や軍の誤りを知らないが故ににつき従うのであれば、悲しいほどに純粋だとも美しいほどに愚かだとも言えよう。誤りを知っている者達が不幸なのは、理性を実行する勇気に欠けることだ。ほとんどの特攻隊員はあらゆる理不尽を飲み込んで、死んで行った。佐々本友樹伍長ほどの勇気があれば、特攻隊の何割かは戦後まで生き延びて、敗戦からの復興に力を尽くしただろう。それこそが、国家への貢献だ。


ウィスキーのせいもあるだろうし、時間の経過による記憶の揮発もあるだろうし、老化によるもの忘れ、あるいは痴呆症による記憶の喪失もあるようだ。

一方で、記憶していること、あるいはそれが記憶だと信じ込んでいることは何度も続けて思い出す、あるいは思い込む。

永友の記憶には、自身の体験に加えて、七五戦隊長が戦後にものした空戦記の内容も混入している。

永友は今晩も内地帰還を振り返る。

昭和一九年一一月一二日、大本営は七五戦隊に対し機種改変、戦力回復のため内地帰還の大命を降下した。しかし爆撃戦力の減損に苦悩していた第四航空軍は、戦隊に対する内地帰還命令を保留した。このため戦隊は、第三五軍への空中補給任務を一一月中旬から一二月まで、二機を失いながらも遂行した。

捷号しょうごう作戦の大勢が決した一二月二三日、戦隊は第二飛行師団隷下となり、第四航空軍は戦隊に鉾田帰還、航空総監の指揮による機種改変を発令した。

戦隊の一五三名は、双軽及びMC輸送機によって二〇年一月より隊員をフィリピンから台湾に空輸することとなったが、直前に第三中隊の永友曹長を含む一〇名が特攻隊に指名され、残置することとなった。輸送中に二二名が未帰還となり、一二一名が台湾の嘉義かぎ飛行場から鉾田に集結したのは三月上旬であった。鉾田飛行場でキ一〇二、いわゆる五式双発襲撃機を受領、八戸飛行場に移動、訓練を行いつつ終戦を迎えた。

第二飛行師団は第四航空軍参謀長に対し、七五戦隊の総攻撃への参加を要請した。しかし第四航空軍中務司令官は、空中補給の重要性は説明済みであるとして拒否した。

中務司令官が七五戦隊に対する内地帰還命令を握りつぶしていた事によって戦隊の帰還は遅れ、空中補給任務をやる事になったが、第二飛行師団の協力要請に応諾してレイテ島への総攻撃に参加させられていたら、どれほどの損害があったか知れない。七五戦隊にとって中務司令官は、内地帰還命令保留という不幸中の、総攻撃拒否は幸いであったと言えるだろう。

しかし残された特攻要員一〇名にとっては、負け戦の戦場という地獄における、さらなる絶望の始まりであった。

空中補給、爆弾ではなく食料などを、敵ではなく味方に落とす。精密投下が望まれるのは、どちらも変わりなかった。敵の対空砲火があるのは、どちらも同じだ。弾には中りたくないが、味方には補給をしてやりたい。

爆弾を落とすときは敵の対空砲火に対して、これでも喰らえという気持ちだが、補給を落とすときは敵にお返しができない分だけ砲撃が恐ろしかった。

あの補給によって地上軍は敵にいくらかでも攻撃を加えることができたのか、それとも全滅がわずかに延びただけなのか。

空中補給をやっていたころに聞いたのが、岩元大尉の悲劇だ。

海軍の神風特別攻撃隊という体当たり戦法にならって、陸軍もと号部隊を編制することとなった。海軍が敷島隊に坂啓男さかあきお大尉以下を指名、即ち命令したように、陸軍も万朶ばんだ隊に鉾田教導飛行師団が岩元大尉以下二四名を指名した。

岩元陽臣あきおみ大尉は九九双軽の熟練者で、体当たり攻撃の反対論者であった。体当たり攻撃より効果が高いであろうと信じる跳飛爆撃を研究していた。

跳飛爆撃はアメリカ軍が開発したスキップ・ボミングと呼ばれる艦船攻撃手段で、海面上を低空水平飛行して遅延信管を付けた爆弾を投下すると、水切りの石のように爆弾は海面を跳ねて艦船に衝突、爆発するというものである。海中で爆発した場合は、大気中よりも強力な破壊力となる。急降下爆撃ほど困難ではなく、当然ながら操縦者の生還を前提にしており、同一飛行機及び操縦者による反復攻撃が可能となる。

岩元大尉を隊長とする万朶隊はフィリピンへの途次、台湾・嘉義飛行場に到達して初めて、特攻隊であると知らされた。

隊はフィリピン・クラークフィールド飛行場に到着後第四航空軍指揮下となり、連日激しい急降下爆撃と跳飛爆撃訓練をしていた。それを労うためにマニラの料亭に呼びつけたのが、第四航空軍司令官・中務中将である。

岩元大尉は隊の将校四名全員を特攻仕様の九九双軽に乗せて自ら操縦し、第四航空軍司令部に向かう途中、アメリカ軍機F6Fヘルキャットに撃墜され、全員死亡した。

航空を知らず、訓辞と料亭での宴会が部下の士気鼓舞に繋がると信じている浅はかな司令官が、陸軍最初の特攻隊を特攻させる前に一杯飲ませようとして、犬死にさせたのであった。


永友は、実はもらい物の一番安い国産よりももう少しうまい、昔戦地で飲んだようなスコッチを飲みたいと思うときもある。しかし、酔ってしまえば変わりないし、せっかくあいつらが持ってきてくれたものを飲まないわけにも行かない、と思い直す。酒代くらい無いわけでもないが、それは自分の葬式代に残しておくことにしている。

痴呆症では配偶者や子の顔まで忘れる、認識出来なくなることもあるという。永友にとって紛れもなく命懸けであった体験にさえも、記憶の部分的欠落があり、思い違い、思い込みが侵入している。

彼は特攻を命じられたため、機種改変のための戦隊との内地帰還は叶わなかった。そして特攻出撃するも生還し、遅れて次の特攻のための飛行機を受け取りに内地帰還、郷里にも帰ったが、特攻命令とその失敗は家族にも話さなかった。特攻命令は母を悲しませ、特攻の失敗は弟に恥となるからだ。そして終戦を迎えた。


滑走路は隠しようが無いが、使用しないときは木の枝葉で覆って、少しでも上空から見えにくいようにしている。滑走路脇の監視塔にも枝葉をくくりつけてある。本来は対空高射砲を充分に設置したいところだが、もうそれも望めなかった。

さらに電探レーダー設備があれば理想的だが、日本は八木博士等が開発した八木・宇田アンテナを利用する術を知らず、また岡部金次郎博士が開発した電探用高周波発信管であるマグネトロンも同様にその価値を見いだされること無く、電探の開発は遅れた。

英米はマグネトロンで発信した高周波を八木・宇田アンテナの強い指向性を利用して放射し、目標物からの反射波を受信する電探を戦争前から実用化していた。

狭い角度方向にのみ電波を発射する、狭い角度方向からの電波のみ受信する指向性という特徴によって、アンテナの方向が目標、即ち敵機の方向と識別できる。電波の送信から、目標からの反射・受信迄の時間で、距離が計算できる。

日本では海軍は電探の有効性を見いだせず実戦配備されなかったが、陸軍は昭和一六年末に早期警戒用電探を実用化した。しかし、クラークフィールド飛行場には設置されていなかった。

制空権が無く、電探も無く、空襲する敵機を脅かすほどの高射機関砲も無い状況では、できるだけ目立たないようにするしかない。飛行機も当然ながら、滑走路から離れたところで、枝葉で偽装してある。訓練や攻撃で使用するときは枝葉を取り除き、帰還したら滑走路から押し出してまた偽装する手間のかかる仕事である。

人間は防空壕に走って逃げれば良いが、飛行機は偽装するしかない。敵機の襲来時に滑走路に出ている飛行機があれば、操縦者はなんとか離陸して敵機と一戦交えようとする。整備兵は、整備機材だけでも守ろうとする。

ところが、中務司令官は一番に防空壕に走った。なんの指示も命令も出さず、得意の軍刀を振り回す事もなく、逃げた。それ以来、兵隊は非常に複雑な気持ちで司令官に敬礼している。

特攻隊員に至っては、離陸後直ぐに監視塔を避けるように右旋回するのが規則であるが、あえて左旋回して行った者がいた。さらには、監視塔方向に機銃の試し撃ちをして行った者もいた。もちろん本気で監視塔を狙ったものではないが、あの無様な司令官の訓辞と水杯で殺されることを承服できなったのだ。最後の一機で余も、はもはや誰も信じていなかった。

当てにならない情報を元に、雲で視界が悪く会敵が困難であろうと、命令があれば特攻は出撃していった。七五戦隊から選抜された俺たちにも出撃するときが来た。隊員はうんざりした気持ちで、いつも同じ訓辞を聞いた。なんだったら、最後の一機と言わず、たった今俺の機に同乗させてやろうかと、思った。

俺は決めかねていた。そう簡単に死は受け容れられるものでは無い。不治の病にかかったのでは無い。事故で致命傷を負ったのでも無い。敵に撃たれたのでも無いし、飛行機が被弾したのでも無い。今は五体満足だ。死ぬ理由が無い。殺される理由はある。それは、特攻命令という理不尽な理由だ。

死は避けられるかもしれない。避けようとする行動は取れる。どこまで死を遠ざけられるかは、分からない。今日は避けられても、次回は避けられないかもしれない。戦争が続く限り避け続けることができるとは考えにくい。しかし、犬死にはしたくない。無駄に死にしたくない。

俺は今まで、通常攻撃は恐ろしくても逃げはしなかった。どこそこを攻撃してこいと命令されたら、従ってきた。敵機の邀撃や高射砲をかわしながら、できる限り正確に爆弾を落としてきた。急降下爆撃の訓練を受けて、高度七〇〇メートルで爆弾を切り離し、それから機首を引き起こして三〇〇から二〇〇メートルまで降下してから上昇する精密爆撃。地上からの対空砲火は恐ろしかった。それでも、やり遂げてきた。

それが、今度は死ね、という。爆弾と一緒に墜ちろという。今までの急降下爆撃はなんだったのか。岩元大尉の跳飛爆撃の研究はなんだったのか。

岩元大尉は攻撃に出る前に、中務の宴会に呼ばれて死んだ。あの無念な死に方に比べたら、出撃して死ぬ俺の方がましか。跳飛爆撃の第一人者をあのように無為にも殺した奴に、俺も殺されるのか。

杯に一升瓶から水が注がれた。その時、俺は、生を諦めた。


気が付くと、若桜特攻隊員としての俺は九九双軽の操縦席に座っていた。水杯から操縦席に乗り組むまでの記憶が薄い。が、それはもうどうでも良いことだ。

両足の間に床から棒が一本出ている。操縦桿だ。上端は輪になっている。操縦桿前方、床の左右にあるのはラダーペダル。計器板には飛行時計、速度計、昇降計、旋回指示器、高度計、方向探知機航路指示器、排気ガス温度計、油量計切換開閉器、油量計、左右発動機の吸気圧力計、左右発動機の滑油温度計、回転計、旋回指示器調整弁、双針式滑油圧力計、双針式燃料圧力計、速度計排雨器、同調計、気筒温度計、爆弾倉扉標示燈、脚警燈、尾輪警燈、水平儀、自動操縦用真空計、人工水準器、自動操縦装置操舵加減器、方向受示器、自動操縦装置用油圧計、フラップ開度指示器、ふたつの燃料注射切替コック、燃料注射ポンプ、羅針儀、特殊装備である加速度計も付いている。

おそらく、全て正常だ。もはや、おそらく、で充分だ。

計器板の向こう側にいつもいた、爆撃手兼前方射手はいない。後上方射手も、無線手兼後下方射手もいない。いつもと違い、孤独を感がある。一層、虚無を感じる。が、無駄に三人を道ずれにする必要は無い。死ぬのは、俺ひとりだけで良い。

三挺の旋回機銃と無線機は取り外して、代わりに標準三〇〇キロ、特別でも四〇〇キロまでのところを、特攻機は海軍の徹甲弾丙という八〇〇キロ爆弾を積んでいる。陸軍の爆弾は地上攻撃用で落ちたら爆発すれば良いが、海軍の爆弾は艦の甲板こうはんを、空母なら飛行甲板を突き破って、艦の内部で爆発して、より大きな損傷を与えるようにできているからだ。

爆弾は、操縦席から投下できるようにはなっている。しかし、爆弾を投下して帰投することは許されていない。想定されていない。離陸したら、爆弾を投下せず、飛行機ごと敵艦に体当たりすることを明確に命令されている。

俺は、体当たりするのか。敵戦闘機に撃墜されるのか。敵艦の対空砲火にやられるのか。

四航軍司令官・中務が滑走路脇で軍刀を振り回している。飛行機の出撃に刀、明治生まれの歩兵上がりには困ったものだ。

操縦席の正面、計器板の上には急降下爆撃照準用の照星と照門がある。これで敵艦に照準を合わせ、急降下のまま、機を引き起こすこと無く敵艦に体当たりする。八〇〇キロ爆弾を積んでいるから、起こそうにもそう簡単に起こせないだろう。

滑走路の脇には、整備兵等が並んで見送ってくれている。あいつらは、いつもの攻撃前より気合いを入れて整備してくれたと感じられる。部品が充分無いことが、自分にとってより、あいつらにかわいそうだ。俺たちが帰らない特攻だからと、懸命に整備してくれた。泣いている奴もいる。俺たちのために。

行くか。

整備兵に敬礼。

輪留めを外した合図を見た。

徐々に発動機の回転を上げる。良い調子で回っている。

機体はいつもよりかなり重いから、走り始めたら止められない。一発で離陸しなければならない。頼むぞ。

発動機を最大出力にして、ブレーキを解放した。

走り出したが、いつもより加速感が小さい。

重いことを実感する。

自然に滑走速度が上がるに任せるしかない。

この重さでは、向かい風が少々あっても揚力を得る助けにならない。

走れ、走れ、もっと早く。

まずは飛ばないことには、飛行機ではないぞ。

飛んだら、あとはそれからのことだ。

まだ遅い、もっと早く、もっと早く。

滑走路の半分まで来た。まだ速度が全く足りない。

機体の振動が少しずつ激しくなってきた。速度が上がってきたからだ。

まさか、八〇〇キロ爆弾が外れることは無いだろうな、と余計なことがふっと頭をよぎる。

その一瞬後には、離陸したあとに爆弾が外れなくなっていることはないだろうな、とも考える。

離陸に集中しろ、と自分を叱る。

滑走路の三分の二を過ぎた。もう止まれない。

もっと早く走れ。

これは厳しいなぁ、と何故か余裕があるようなことばが頭に浮かぶ。

厳しいどころか、極めて困難な状況だ。操縦桿を引くしかない。

機首を上げすぎては失速するから、滑走路が無くなったあとの椰子に当たらないぎりぎりの高度でやり過ごすしか無い。

少しでも低すぎれば椰子にぶつかる。高すぎれば失速する。

『椰子の木よりも低く』を合言葉に降下し、爆弾を投下する急降下爆撃の訓練をしてきたが、実際は三〇〇メートルほどの高度までの降下だった。今回は椰子の木よりわずかに高く、かわせるかどうか、だ。

急激な昇降舵操作は厳禁だ。

少々爆弾が重くても、最高の整備をされたはずだ。

頑張れよ、頼むぞ。

ギリギリ椰子をかわせるだろうの感覚で、操縦桿を引いた。

脚が滑走路から離れて、機体の振動が減少した時から一瞬の間にいろいろなことが頭に浮かび、過ぎ去った。

機体が重いので、いつもの操縦桿の操作量ではいつもの角度での上昇はできない。

感で、いつもよりは多めに引いた。

かといって、引きすぎてはいつもより簡単に失速する。

難しい操縦だ。

上がらないな。

ここで機首を起こそうとしたら、失速する。

当たるな。

あと少し起こす。起こすしかない。

くっそ、当たるも失速も同じ、墜落だ。

今更だが、発動機の出力が足りなかった気がする。

いや、そんな気がするだけだ。飛べ、飛べるはずだ。

飛べなかった。

椰子をかわせなかった。

滑走路上で機は浮いた。浮いたが、上昇が不充分だった。

意識的に、操縦桿を引きすぎないようにした。引けば一瞬は機首は上を向くが、速度が落ちて失速することは分かっている。

上昇しないから、少しずつ操縦桿を引き増した。引いても、引いても、上昇しなかった。

速度が上がらないから揚力が得られなかった。あれ以上引いても、今度は逆にフラップによる抵抗が大きくなる。

上昇しようとして機尾を下げて、機首が上を向いても、スピードが不充分であれば揚力が得られず上昇できない。

脚を椰子にぶつけた。

脚はもう使えないだろう。引き込むこともできない。

スピードが上がらない。上昇率も、爆弾の重さを差し引いても悪い。

どうする。このまま飛んでも編隊についていけない。護衛機も見捨てるだろう。

くそったれ、どうするか。これでは敵機の邀撃に遭わなくても、敵艦隊までたどり着けない。

渡部隊長機が戻ってきて、操縦席から手で帰れと合図している。帰るか。それしか無い。

死に損ねたのか。

命を拾ったのか。

先ほどまでは、離陸することだけを考えていた。離陸したら、その次を考えるつもりだった。危うく、離陸をしくじって死ぬところだった。やりきれない、間抜けな死に方だ。

俺は知っている。これだけ重い爆弾を積まされて、整備の機材も不充分な機体で飛べと言われてしくじっても、それは操縦者の責任では無い。

特攻という、死ぬ覚悟をして、それを離陸できずに死ぬのは無念以外の何ものでも無い。絶対に、間抜けな死に方では無い。立派な戦死だ。俺も通常攻撃なら急降下爆撃もできるし、今まで生き残ってきて、猛者と呼ばれたこともある。

うまく飛んで行った奴もいるし、離陸前に発動機の出力不足に気づけなかった責任は操縦者の俺にもあるが、通常の倍以上の爆弾を持たされたことも原因のひとつだ。

何とか飛んでいる。基地に戻ろうと思えば戻れる。そう思うと、生き残った、という実感を得た。

だがまだ油断はできない。爆弾を捨てなければならない。まともに離陸ができない機体で、加えて脚がまず間違いなく使えない状態で、八〇〇キロ爆弾を積んだまま着陸できるはずが無い。

爆弾を捨てるにはそれなりの高度が必要だ。只落とせば良いというものでは無い。機体が爆風の影響を受けない距離が必要だ。三〇〇キロなら最低三〇〇メートルの高度。こいつは八〇〇キロだから八〇〇メートルは必要だ。そこまで上昇できるか。できれば一,〇〇〇メートル欲しい。自分の投棄する爆弾で死にたくない。それこそ、間抜けな死だ。

離陸する前は、命令に従って特攻に行くか、不時着して逃げるか、志那まで飛んで逃げるか、などと悩んでいたが、図らずも、基地に戻ることになった。過ぎてしまえばどうということもなく、今回は特攻を免れた。

だが今度は、生きて基地に戻ることを考えなければならなくなった。編隊ははるかに先に行っている。もうまもなく見えなくなるだろう。

燃料は充分ある。爆弾を投棄するために安全な高度まで上昇しなければならない。ゆっくりでも良いから上昇してくれ。頼むぞ。貴様はまともに離陸できなかった借りが俺にある。基地に戻る事ができれば、整備をやり直して充分な性能が出るように整備兵に言ってやる。だから、飛べよ、この野郎。

発動機出力は最大のまま、ゆっくりと操縦桿を引いて、更に高度を得ようとする。なんとか六〇〇メートルまでは来たが、あとが続かない。

このまま飛び続けて燃料消費して軽くなって、上昇できる様になることを期待するか。帰りの燃料は残しておかなければならないが。

それとも、一か八か、ここで爆弾を捨てるか。爆弾まで不発という都合の良い奇跡は起こるはずも無い。米軍からはライターと呼ばれるほど火が付きやすい機体だ。自分の爆弾の破片で燃えて死ぬくらいなら、例え命中しなくても特攻の方がましだ。

まだ燃料はある、飛ぼう。しかし、敵の制空権空域へは行けない。やっと浮いている飛行機は、敵の射撃練習の的にしても手応えが無いだろう。どこへ行く。どこに敵がいるかは情報が無い。レイテ方向を目指してみるか。どうせ引き返すのだから。

九九双軽は五〇キロ飛んで海に出た。地図を見た。マロロスの沖、マニラの手前三〇キロというところだ。

やっと気づいた。単純なことだ。海なら爆弾を落としても爆発しない。むしろ低空なら、爆弾が海面に落ちたときの衝撃も少ない。跳飛爆撃の理屈で、低空で落とせば、爆弾は海面を滑る。目標物が無いから、いずれ海に沈む。爆弾が投下できるように改装されていて助かった。

俺は高度一〇〇メートルまで降下し、鋼索を引いて爆弾を投下した。爆弾を離した瞬間、機体が浮いた。さすがに八〇〇キロは重いと実感した。爆弾は思った通り海面を滑って何度か弾んで、沈んだ。

爆弾は無くなった。あとは脚だ。脚の無い機体で胴体着陸しなければならない。燃料はまだたっぷりある。消費しなければならない。訓練の燃料さえ節約しているご時世に贅沢なことだが、胴体着陸時は燃料があってはならない。

俺は今まで上昇できなかった憂さを晴らすように、発動機を最大出力のまま高度を上げた。

高度を上げたがるのは操縦者の本能である。第一に高い方が安全だ。第二に景色が良い。飛行中に何かあったとき、高度がある分だけ地上までに時間があり、対応がいろいろできる。失速からの回復、不時着ができそうな場所を探すにも高度があった方が良いし、そこに辿り着くにも高度が必要だ。余った高度は低下するに任せるか、左右に旋回すればよい。機体を捨てることになったときは、パラシュートの開く高度が必要だ。飛行中に小便を吸わせてきたパラシュートが開けば、だが。

但し、敵がいるかもしれない空域ではそうはいかない。電探に捕まらないように低空を飛ぶこともある。敵の目から逃れるために、雲に紛れて飛ぶこともある。好きな高度で飛べるわけでは無い。

俺は機首をアンヘレスへ向けた。アンヘレスには南と西のふたつの飛行場がある。アンヘレスからクラークフィールドまではほんの五キロ。この間で燃料を使い切れば良い。

胴体着陸がうまくいくかどうかは分からない。ジャワのバンドン付近で不時着する羽目になったことがあったが、今度もうまく行くとは限らない。大怪我をするかもしれない。死ぬかもしれない。そう考えて、俺はこれが最後の飛行になっても悔いが残らないように、飛ぶことを楽しむことにした。発動機の出力は不足しているが、回ってはいる。上昇、下降、左右への旋回、急降下、水平飛行、直線飛行。水平、直線と言っても風、上昇、下降気流があるので、精密な飛行は簡単ではない。


脚の状態は分からない。どの程度損傷しているのか、左右の両方か、片方だけか。片方だけ使える状態なら、使える方も格納したまま左右とも脚無しで接地した方が良いが、脚引き込み装置も動かない。片方だけ使える状態なら、使えない方、脚の無い方は地面との摩擦が大きいからそちらの方に機首が傾いて、下手をすると滑走しながら機体が回転する。機体の損傷が大きくなり、生きていられないかもしれない。両方の脚が無ければ、ほぼ真っ直ぐ滑走していくはずだ。

しかし、脚の状態を調べる方法が無い。機銃手でも爆撃手でも無線手でも誰かもうひとり乗っていれば、前方旋回機関銃または後下方旋回機関銃座から、左右主車輪の有無くらいは目視できるはずだが、特攻機には俺ひとり。無いものをねだっても仕方が無い。戦友を道ずれにしないだけ良しとする。

燃料を使い切れば、発火や爆発の危険性は減少する。接地の瞬間は、爆弾も燃料もない分だけ、さらに機関銃も無線機も他の三人の空中勤務者もいない分だけ軽いから、あとは俺の腕でゆっくり衝撃の無いように降ろせるかどうかだ。片方の車輪が無ければ無い方に回転するが、いずれかに回転することを想定しておく。両方の車輪が無い、あるいは両方が使えるなら、接地後も直線的に滑走するから理想的だ。

あとは、俺の運だ。こいつの運だ。なかなか良い飛行機だ。アメ公はライターと呼んでいたらしいが、他の飛行機と比べて可動率の高い、約二,〇〇〇機も生産された飛行機だ。その日の搭乗割りによって出撃するたびに機体は違うが、俺が今まで生き残ってきたということには多分に九九双軽の完成度によるところもある。

被弾したことは何度もあったし、不時着も一回やったが、俺が乗せてきた爆撃手、射撃手、無線手をひとりも殺していない。今度も頼むぞ。

発動機の出力は不足していたが回転は安定していたので、俺は九九双軽を出撃したクラークフィールド飛行場に着陸させた。

左の車輪が使えず、右の車輪は出たままで、接地後にしばらくして機体は左に回転したが、停止したとき操縦席は無事だった。俺は風防ガラスに頭をぶつけて、一瞬意識が遠のいたが直ぐに我に返り、火が付く前にと脱出しようとした。ところが、頭をぶつけたことと、燃料を使い切るまで長時間同じ姿勢で飛び続けたことで、素早く思うように体を動かせず、救助に来てくれた飛行場の隊員に助けられてどうにか機から出ることができた。


抑制

俺は三〇年間我慢してきた。お前が好きで我慢して来た、と言われればそれまでだし、誰でも何かを我慢して生きている、と言われてもそれまでだ。だが、俺が言うのは、そんなことじゃない。

貧しかったのは仕方ない。父が早く亡くなって、母はがんばってくれた。恨むことは何も無く、感謝している。

軍隊に入ったのは俺の意志だ。兵隊だから戦争も仕方ない。

憲兵になれなかったのは自分の実力不足、誰のせいでも無い。

飛行機乗りになれたのは自分の実力、密やかな誇りだ。

許せないのは特攻だ。俺は特攻にやられずに済んだ。フィリピンで飛行機が無くなって、内地に取り来て終戦になった。七五戦隊の戦友は何人か特攻にやられた。あんな馬鹿な攻撃、敵艦に中るはずのない、戦果が挙がるはずの無い攻撃をやらされて死んでいった奴が一杯いた。

いや、俺も特攻に行かなかったか。行ったか。おかしいな。はっきりしない。みんなが内地に飛行機を取りに帰るとき、俺と何人か残された気もする。あの薄ら馬鹿の司令官、中務の訓辞を聞いて八〇〇キロ爆弾を抱いて飛んだかもしれない。八〇〇番は、普通は積まない。あれは、海軍の爆弾だったか。

海軍の八〇〇番が頭にあるということは、俺は特攻に行ったのか。

最近のことは覚えられないが、昔のことは覚えているはずだ。この前の戦隊会はいつだったか、去年か、一昨年か、その時、貴様はよく特攻から帰ってきたな、運が良いな、と誰か言わなかったか。

俺は呆けてしまったのか。命懸けのことまで忘れてしまうものなのか。もうポンコツだな。フン。


アメリカは戦争裁判というものをやった。戦勝国が敗戦国を裁きたい気持ちは分かるし、日本が勝っていたらもっと下劣な裁判をやったかもしれない。

しかし、戦争裁判は茶番だ。勝った方は負けた方を好き勝手にできる。大体、日米関係を戦争にまで持って行ったのはアメリカだ。勝つことも分かっていただろう。あいつらは精神論だけの陸軍と違って、まぁ海軍も同じようなものだっただろうが、計算高い。負ける戦争はしない。何より国益を優先する国だ。計算通りに勝って、今度は裁判か。それも事後法を使ってだ。

白人捕虜を虐待したことを裁くのは良いとして、どうして開戦の証書に署名した連中を裁かなかった。中途半端だ。天皇の責任まで裁けば、確かに日本人の出る幕は無かったかもしれない。ところが日本人は、アメリカが裁判をしたから日本は戦争犯罪人を裁く必要は無い、もう終わった、と思ったらしい。間抜けな話だ。

ドイツは、自分でナチスの戦争犯罪を追究した。日本は、あり得ないほど残忍に国民を犠牲にした政府や軍を裁かなかった。撃つ弾が無く、食うものが無くても降伏させなかった軍上層部を裁かなかった。何も無かったことにするとは、国民性というひと言でかたづけるには途方もない暗愚だ。

そのくせ、命懸けで戦争して、運良く死なずに外地から引き上げてきた兵隊に内地の人間は冷たかった。兵隊のせいで日本が負けたような言われようだった。確かに貴様等も思うところがあるのだろうが、怒りの向け先が違うだろう。強いものには巻かれ、弱い者を攻撃する、典型的な唾棄すべき日本人だな。

相変わらず天皇は天皇のまま、軍上層部は軍隊が無くなっても官僚や民間有力企業に横滑りして貴様等を食いものにしているのが分からないのか。その程度だから、ああいう馬鹿な戦争をやらされたのだ。

俺がもう少し小利口だったら、自衛隊に入るなり、民間航空会社で飛ぶなりの道はあっただろうが、自慢じゃ無いが、そこまで腐れなかった。七五戦隊の戦友はともかく、その上の第三飛行団、第七飛行師団、第四航空軍の偉い連中がまたいるかと思うと、ぞっとした。

特に第四航空軍の中務司令官の野郎だけは、面も見たくない。見たら殴ってやりたくなる。あの野郎だ、あいつは、そうだ、俺は、特攻に行った、その時、俺も最後の一機で行くと言って、台湾に逃げた野郎だ。あの野郎は許せない。

インパール作戦をやらされた兵隊の生き残りは、和田口礼也だけは許せないだろう。和田口は死ぬまで自分の非を認めなかった。それどころか、イギリス軍の誰かからインパール作戦成功の可能性に言及した手紙を貰って自慢をこきだし、作戦の失敗は無能な部下のせいだとした、良心のかけらも無い恥知らずだ。

サイパンや沖縄で殺された民間人遺族にも、日本軍を許せないという奴らはいるだろう。民間人に対して自決を強要した軍、子供の泣き声が敵に聞こえるから母親に自分の子を殺せと言った軍。鬼畜は、日本軍こそ、だな。


飛行第七五戦隊会、愉快だった。生き残った戦友、出世した戦友、養子に行って名字が変わった戦友、懐かしい戦友、同じ飛行機に乗った無線手、爆撃手、機銃手、一緒に死にかけた奴ら、俺のせいで死にかけた奴ら、あの頃は気の合う奴もいたし合わない奴もいたが、みんなかけがえのない戦友だ。朝鮮や台湾に帰ってしまって、会えない奴らもいたな。

数年毎の戦隊会で北海道から九州まで行った。一晩飲んで、翌日観光して、それでは物足りないくらいだった。戦隊会の時は、俺はわけが分からなくなるほど飲んだ。それだけ愉快だった。生きていて良かったと思った。あいつらも生きていてくれて良かったと思った。

いつの頃からか、旧交を温めるのは楽しいが、それだけでは物足りなくなってきた。貴様元気か、子供が生まれた、孫ができた、あいつは残念ながら病気やら事故で死んだだの、そんなことだけで良いのかと思うようになった。

何か不足だ。死んだ奴らから見れば、生き残っただけで充分過ぎる。不足だなどとんでもない話だ。だからといって、生き残ったから全部が許せるかといえば、俺には許せないことがある。許せない奴がいる。

特攻は許せない。特攻を考えた奴も、特攻を命令した奴も許せない。仮にそいつらが特攻に行って死んだとしても、許せない。

だが俺は、特攻で殺された奴らのために許せない、と言うほど立派な男ではない。俺自身が特攻にやらされて、やらせた奴が台湾に逃げたことが許せない。

命令を撥ね返せなかった俺も臆病だが、危なくなったフィリピンから逃げたあの野郎は卑怯だ。

卑怯な奴は一杯いた。陸海軍を統帥したというあの野郎から始まって、商工大臣として宣戦の証書に署名して、A級戦犯容疑から逃れて総理大臣になった野郎も、兵隊に対しては戦陣訓で捕虜になるなと指導しながら進駐軍に逮捕される直前に腹の皮を撃って死ぬ真似をして、進駐軍に助けられた総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼任した吉川現きっかわげんもいたし、民間人も含めて本土決戦、日本人が消滅するまでやると考えていた狂った野郎もいた。そんな野郎たちは、俺は良い。俺が許せないのは、第四航空軍司令官、中務真由だ。

軍人と言うより官僚、そんな奴は一杯いただろう。参謀などは、味方の兵隊の命などなんとも思わずに、将棋を指すように作戦を考えていた。兵棋へいぎ演習、兵隊はただの将棋の駒。

その作戦も作戦と呼べるだけ頭を使ったものなら良いが、大和魂だの根性だの気合いだの、鉄砲の弾も食うものも無くても戦えという作戦、馬鹿の考えることだ。自分は絶対に弾が飛んでこないところにいるから、その参謀の作戦を承認する司令官も自分の出世しか考えない。

戦闘に勝つことや部下兵員の損耗を少なくすることより、派手にやって勝って、勲章を貰うことだけが楽しみの連中だ。兵隊はいくら死んでも補充がきく。自分は内地から連れてきた芸者を抱いて酒に酔って、お前達、死んでこい、と命令すれば良い。

国のために、と騙されていたのは兵隊で、自分のためだけに、甘い汁を吸って出世して、もっと甘い汁を吸うことを考えていたのが参謀、司令官だ。

中務は部隊を指揮した経験がほとんど無いまま参謀になって、陸軍省の人事だの次官だのやって、それも吉川総理・陸軍大将にゴマをすってだ。吉川が総理を辞めてからフィリピンに来たが、歩兵すら満足に指揮した経験の無い男が航空軍の司令官だというところに、陸軍という組織は救いようが無いと断言できる。

現実的に、俺が死ぬとき後悔しないためには、復讐しておくことだ。誰に。現実的に復讐できる相手は中務だ。それ以上は非現実的で、それ以下では、俺は死ぬときに後悔するだろう、もっと上をやっておけば良かったと。

非現実的、絶望的、実行できない、そんなことに大真面目に取り組むのは日本の軍隊と同じ愚かなことだ。戦略爆撃機を竹槍で撃墜しようとする無謀と同等だ。

俺を特攻にやった第四航空軍司令官。最後の一機で自分も自爆すると言って台湾に逃げた将軍。戦後はソ連に連行され、生きて帰ってきた捕虜。あの野郎のことだから、兵隊達には将軍風を吹かせ、ソ連軍には共産主義のまねごとをしてみせ、要領よく楽な仕事をして生き延びたに違いない。

わざわざ軍服を着て内地の土を踏んだところに、あの野郎には軍隊時代の反省のかけらも無いことが分かる。戦争が終わって軍隊が解体されて一〇年経っても、あの野郎は陸軍中将のつもりだった。

俺の思いは私怨、単純に明快に俺がやろうとしていることは私刑、リンチ、即ち犯罪。

日本語には公憤という言葉があるが、この様な概念を持たない言語も多かろう。ひとが他人に代わって、あるいは多くの他人を代表しての怒りなどあり得ない。どこまでも怒りは個人的なものだ。

公憤のようなのもがあるとしたら、私憤の集まりだろうが、いくつ集まれば公になるのか、公になったからといって、合法とは言えまい。

独裁者がいて、あるいは誰かを独裁者に祭りあげてその周辺で権力を私用、悪用する体制であっても、法がそれをバックアップすれば法治国家となる。

権力者は一般の法だけでなく、憲法さえ自らの都合に合わせで解釈する。

よって、法治国家というみかけが必ずしも理想的な状態とは言えない。戦争中の日本も法治国家であったのだから。その証左に、日本人は当時の権力者を誰も裁かなかった。罪の有無の検証さえしなかった。全ては適法だったのだ。

人間の理性に限界があるから、人間が定めた法自体にも法の運用にも限界がある。理性に限界が無ければ、法など不要だ。人間の行動は常識、道徳、理性、良心、で自己管理できないから、法が必要になる。ところがその法にも意外にも低い限界がある。常識と法の隙間を信念で埋めようとすると、犯罪と認定される。おかしな人間の社会である。

しかし俺個人の犯罪などは、あの戦争犯罪に比較すればゴミみたいなものだ。追究されなかったからといって、戦争犯罪が無かった事にはならない。厳然として戦争犯罪はある。裁かれていないからといって、あった、という過去形にはならない。いまでも、究明されるべき戦争犯罪は存在する。

人間は既に、他の動物との生存競争には勝利している。ところが、人間同士の生存競争もある。人間同士の競争は、単に生存のための最低限の食料を得ることを大きく逸脱して、各種欲望を実現するために殺し合うところまでやる。それが戦争だ。

条文に規定されたものに加えて、人間の理性、良心、道徳に背くものをも犯罪と呼ぶならば、どこまで遡って犯罪とするかは、線引きの難しいところだ。有史以降の全てを犯罪と認定しても良いし、ヨーロッパがアフリカ、アジア、アメリカを植民地として収奪した大航海時代からとしても良い。

日本が中国を侵略したのは、当然ながら中国から見れば犯罪だ。しかしあの時代、植民する側か、される側か、いずれかと言えば、植民して生き延びることが正義であり、植民される側は力の無い弱者と言える。ヨーロッパ人が北米から先住民をほぼ絶滅させ、残った少数を居留地に押し込んでいることは明らかに犯罪であるが、その追究は無い。アメリカがアフリカから奴隷を輸入したことも犯罪であるが、罪の償いは無い。すると、日本の中国侵略も、日本だけではなく世界中の食いものになっていた中国に一口乗っただけ、とも言えるのか。しかし、侵略には違いない。

アメリカとの戦争は、ABCD包囲網への対処、絶対に飲めないハルノートへの対応として、外交の最終手段たる戦争を使用する以外に無かったと言えるかもしれない。真珠湾への奇襲攻撃は、仕掛けられた開戦か。

であるとしても、外交には責任が伴う。ベストを尽くしたからといって、なにもかも責任が免除されるということはない。過失でも事故でも、責任は負わなければならない。

アジア太平洋で二千万人を殺し、日本軍関連二百三十万人、外地で死んだ民間人三〇万人、国内での戦災死五〇万人、傷病者はどれほどになるのか、失われた財産はどれほどになるのか。これに対して、誰にも何の責任も無い、ということがあろうか。許されようか。

東京裁判は不完全極まりないものであった。原子爆弾を二発使用した国が中心になって、A級・平和に対する罪、B級・戦争に対する罪、C級・人道に対する罪を裁こうとしたのだから。

ここで俺が、特攻を推進して自分は逃げた四航軍司令官ひとりに個人的に復讐をしたとて、どれほどのことがあろうか。悲しく残念ではあるが、この復讐は良い意味でも悪い意味でも、社会には何らの影響も及ぼさない。

老いた元兵隊が上官に戦争中の不条理に意趣返しをした、愚かな事件ということになろう。ただそれだけのつまらない事だが、俺にとっては、老いぼれきって死ぬ前に娑婆で精算する、ケチな人生のけじめだ。これからの社会のためでは無い、死んだ戦友のためでも無い、俺自身が自分の人生に納得するためだ。


反撃

永友の脳はウィスキーでいつものように気持ちよく痺れてきた。

あとは寝るだけだ。テレビは下らない絵と音を垂れ流している。活字にも疲れた。また一口、ウィスキーを含む。心からうまいと思う。そして、回想に堕ちてゆく。

中務がシベリアから帰ってきて一五年。もう一五年とも言えるし、まだ一五年とも言える。戦争が終わって二五年、俺は五二になった。

五〇を過ぎたと考えると、体力が低下したように思うし、気力や根気、集中力も減衰した気がする。そろそろ老後にさしかかる。あと何年生きられるだろうか。男の平均寿命は六七、まぁまぁで一五年、下手すると一〇年かそれ以下、うまくいけば二〇年かもう少し。

平均は平均、誰もいつどうなるか分からない。しかし、少しずつ確実に老いて行く。死に近づく。おそらく一定の速度ではなく加速度的に、これからの一年より次の一年の方が肉体も頭脳も老いの速度が速まる。

そう欲張らずに、余命を一五年と考えておこうか。一五年で何をやるか。同時に何をやらないか。やるべきこと、やるべきではないこと。

やるべきではないこと、今更ウィスキーや煙草を止めて一年や二年長生きしても、見合う価値とは思わない。これから一五年我慢して、プラスの一年や二年、惜しくは無い。俺はずっと自由に生きてきた。妻子は無いから余生に何の遠慮も無い。余生をどう消費しても、誰にもはばかることは無い。欲望の抑制は要らない。

やるべきこと、何か新しい事を始めるのも良い。何があるか。

やったことは、望んだ経験ではないが、貧乏だった。そこから抜け出すために船に乗って、経済的に独立した。それから徴兵された。学歴はなかったが努力を尽くして、憲兵は無理だったが下士官になった。歩兵から空中勤務者、九九双軽の操縦者になった。この目で見てはいないが、俺の操縦した九九双軽から落とした爆弾で、敵とは言え人も殺しただろう。

戦後は警察予備隊や保安隊には一切関わらなかった。もう二度とごめんだった。あの無力な政府、腐敗した軍隊、理不尽な命令、あり得ない組織の運用、兵隊と将校の露骨で膨大な格差、吐き気のする戦争。

民間航空にも近づかなかった。軍で身につけた技術は捨てた。

戦後は漁船に乗って生きてきた。乙種二等機関士を取ったのが昭和三四年、四〇歳の時だった。沿海区域の機関長になった。いい年になってまで勉強したな。

やってみたかったこと、趣味と言えるものは無かった。俺の年代では、そんなしゃれたものを持っている者は少ないだろう。人生では、まず生きること、生活することの比重が大きい時代だった。

読書や映画は好きだが、それほど金も使わない、頭も使わない、体も使わない、熱中もしない、地味な暇つぶしは趣味とはいえない。

今更何かを探そうという気にもならない。

船で花札は良くやったが、掛け金は子供の小遣い程度。余り大きくして感情的になっても船は逃げ場が無いから、船乗りはわきまえている。花札は出港までの、あるいは漁場までの時間つぶしでしかなかった。陸に上がったときに競馬やパチンコをやることもなく、ギャンブルに熱くはなれなかった。

女も、俺を夢中にさせる女には出逢わなかった。女は趣味の範疇ではないか。

この退屈な自分の人生をどうしようとか、世の中をどうにかしてやろうとも思えない。どうも俺は随分と退屈な、つまらない男かもしれない。今まで気づかなかったが、考えてみると仕事をして、食うための仕事、出世しようとか突き詰めようということは考えず、なんとなく生きてきたな、戦争のあとは。

弟や妹の生活を少しばかり助けたことはあったが、大したことはしていない。

母親に親孝行をしたことは無い。今思えば、随分と冷たかったかもしれない。が、今でも字も書けない母親と話をする気にはなれない。もう七五くらいだろう。あと何年生きるか。

自分を歳を取ったとは思うが母親が生きていからか、自分の死はまだ具体的には思い描けない。あと数年働きながらだらだら生きて、年金を貰いながらだらだら生きて、それで終わりか、などと考えることはある。

何が何でも人生に意味を持たせなければならない、ということでもないだろう。戦争で死なずに今まで生きてきただけでも、死んだ戦友よりは、生きた、と言う意味があったかもしれない。

ひとには、名を残す奴もいれば作品を残す奴もいるだろう。それだって、生きていた頃から残す奴もいれば、死んで何十年も経ってから評価される奴もいる。

いずれにしても、死んだあとにどんな意味があるのか。してみれば、生きているときにこそ、やはり何かをやるべきだ。他人からの評価を得るためではなく、死ぬとき後悔しないように。

やらなかったことを後悔、やってしまったことを後悔、どっちも同じだ。

いや、やらない後悔の方がつらい。やったことは過ぎてしまったこと、もはや後悔しても無意味だ。諦めが付く。やらない後悔はやれば良かった、という後悔を生む。諦めが付かない。

やりたいことが無いとしても、やるべきことは無いのか、やらなければならないことは無いのか、死ぬ間際にやっておけば良かった、と思われる様な事は本当に無いのか。

世のため、ひとのための何かである必要はない。自分が死ぬとき、自分の人生を生きた、という感覚を持たせられれば、あるいはやり残しの後悔を減らせれば良いのだ。死ぬときくらい、自分の我が儘を優先させれば良い。

ひとは労働で社会に貢献している。自分の生活のためだけではなく、他人の生活に貢献している。米を作る農民は、自分が食うだけの量を作っているのではなく、他人の食糧をもまかなっている。社会に必要だからその職業は存在するわけで、どんな仕事でも働くことは社会に必要とされていることをやっているのだ。

俺は戦争でこの国を、日本人をアメリカの干渉から救おうと命を懸けた。同時に、日本のアジアへの侵略だったとも言えるが。戦後は漁船乗りとして魚を日本人に供給した。最後くらい、自分の為に生きよう。

さて、何をやろう。夢でも良い。実現できなくても、入口に立つだけでも良い。何をやり残している。プラスにならなくても良い。正でなくても良い。マイナスを小さくすることでも良い。邪でも良い。

邪でも良い、となると選択が自由になる。個人にも社会にも邪はある。団体や社会、政府など大きい組織、権力のある組織ほど邪も比例して大きく、醜い。そうか、邪には邪で対抗するしかないが、人生の最後になら遠慮なく個人の邪を遂行できる。

一般に犯罪に区分けされる邪であっても、やむにやまれぬ衝動、自分では正であると信じている、信念を裏打ちとするものであれば、人生の最後に冥土の土産にする手もある。

仮に俺が大金持ち、あるいは権力者で考えつくことは何でも入手できる、実現できるとしたら、どうする。何が欲しい。何をしたい。

俺を殺そうとした奴に復讐してやろうか。

実現できそうなのは誰だ。七五戦隊長は下っ端だ。なるべく上が良い。七五戦隊の上の第三飛行団、その上の第七飛行師団、その上の第四航空軍、このあたりか。多くの特攻を送り出しながら、自分は台湾に逃げた中将の司令官がいた。あの野郎を何とかしてやるか。

あの野郎の上にも下にも腐っている奴は一杯いた。あの野郎だけでは無い。しかし、俺がやるのはあの野郎だ。あの野郎のせいで俺は特攻に選ばれ、いつもと同じ聞き飽きた糞のような訓辞を聞かされて、俺は四〇〇キロしか積めない九九双軽に八〇〇番を積んで離陸した。

離陸にしくじって脚を壊し、俺は引き返して生き延びた。しかし、特攻隊に選ばれた時から爆弾を捨てて着陸するまでは、生きた気がしなかった。

一度、殺されたようなものだ。あの司令官を一度殺してやるか。


まずは連絡を取ってみる。おだてに弱い馬鹿だから、七五戦隊に居たとうまく言えば会えるだろう。七五戦隊はフィリピンで貴重な戦力だったから。

連絡先は大した苦労もなく判明した。なにしろあいつはいろいろな意味で有名人でなんども報道されたから、東京都世田谷区までは報道で知ることができた。あとは飛行第七五戦隊会のつてで、厚生省引揚援護局の役人から番地まで入手した。


第四航空軍司令官

中務真由閣下

私は第四航空軍隷下第七飛行師団第三飛行団飛行第七五戦隊第三中隊曹長永友博美ひろよしと申します。

突然の通信、誠に不躾の段、何卒ご容赦の程お願い申し上げます。

昭和三〇年に閣下のシベリアからの無事ご帰還を新聞で拝見し、ひとことお祝いを申し上げたいと長い間念願しておりましたところ、今般やっとご連絡先を知るに至り、矢も楯も堪らず筆を執った次第です。

大変遅ればせながら、閣下におかれましてもご家族様におかれましても、無事内地ご帰還、誠におめでとうございます。

シベリアにおける抑留生活は甚だしく過酷であった由、帰国者の話が周知されております。司令官におかれても筆舌に尽くしがたい辛酸労苦があったものと拝察し、深く御同情申し上げます。

また凱旋帰国から既に一五年を経過し、一〇年の抑留の空白はご家族様などにより既に埋められたものと願っております。

下士官曹長風情が中将閣下に出過ぎた言葉をと承知しておりますが、重ねて閣下のお帰りを衷心よりお慶び申し上げるものです。

振り返りますと、昭和一九年一一月、七五戦隊には機種改変のため内地帰還命令が下っていたそうですが、閣下は七五戦隊が必要であるとのことで発令を延期していたとのこと、七五戦隊が閣下のお役に立っていたことの証左であれば、この上ない栄誉です。

また、私は若桜隊特攻出撃時に離陸に失敗して飛行機の脚を椰子にぶつけるというあり得べからざる不手際を犯しました。痛恨の極みですが、もう着陸することは無いから脚は要らないと、敵艦隊を屠るべく編隊を追求しました。ところが今度は発動機の不調で、重い爆弾を抱えて編隊に追従できず、やむなく基地に帰還し、その後内地に飛行機を取りに戻り終戦となりました。

私は都合の許す限り飛行第七五戦隊会に参加して戦友との旧交を温めておりますが、誠に畏れ多いことであることは承知の上で、閣下とも一度お会いしてフィリピンでのお話しなどをお聞かせ戴ければこれに勝る慶びはありません。

どうぞお気が向きましたらご連絡を戴ければ幸甚です。

昭和四五年八月五日

永友博美拝


拝復

抑留のお見舞い、痛み入ります。

帰国して直ぐに新聞には好き勝手を書かれ、国会でまでも難詰され、あのころはいささか腐っていたというのが正直なところです。

振り返るに、小生は帝国軍人として大いに誇る所こそあれ、些かも恥じるところこれ無く、無断で台湾に後退など聞くも話すも汚らわしい限りです。

特攻で祖国を救う覚悟をした貴殿ならば、小生の気持ちをよく分かって貰えると思います。

比島作戦において、七五戦隊は勇敢な戦隊でした。そして、よくぞ戦後も祖国の復興に尽力してくれました。この中務、深謝するものです。

帰国から一五年、小生も戦争を忘れていつの間にか平安に暮らすようになりました。

そうしたところに思いも掛けず貴殿のお手紙を戴き、少々吃驚しましたが、戦争はやはり小生には忘れられない人生の大事と再認識しました。

少し涼しくなった頃にでも是非一度お訪ね下さい。心よりお待ちしております。

敬具

昭和四五年九月二日

中務真由

永友博美様


一〇月四日、船が神奈川県三崎港に入港、漁獲物の水揚げ後に船体、機関の整備点検のために入渠した。一週間の入渠中に一日休みを取って、永友は東京の中務を訪ねた。

酒の飲めない中務に、バナナを手土産にした。カステラにしようかと思っていたが、偶然フィリピンのバナナが目について、それにした。中務がフィリピンから逃亡した事への少しばかりの皮肉を込めたが、勘ぐるほどの繊細さは持ち合わせていないだろう。

玄関に出てきた奥方に名乗り、中務さんにお会いしたいと手土産を手渡した。座敷に通されて直ぐに中務が現れた。

二五年ぶり。相応に老けてはいたが、シベリアで生きるか死ぬかの一〇年を過ごしたほどのやつれは見当たらない。シベリアでもうまいことやったのだろう。

敬礼をしてから、感激したふりをして両手を握る。涙が出そうなふりもしてやる。出るはずがない。俺は貴様を軽蔑するだけでは足りずに、憎んでいるのだから。

奥方がお茶を淹れてきてくれた。当然ながら、奥方にはなんら罪は無い。かわいそうな女だと思う。こんな男の妻になって。世間の夫の評判は知っていようが、この女にはどうすることもできない。真実かどうか夫に確かめる事も、独自に調査、判断することもできない。生活の現実を考えれば、無理にでも夫に対する世間の声を無視してつき従っていくしかないのだ。想像に過ぎないが。

俺がこの女から夫を取り上げたら、この女はどうやって生きて行くのか。しかし、夫がシベリアにいた間の一〇年を暮らしてきたのだから、生きて行くことくらいはできる状況であるのだろう。俺にとっては幸いだ。

奥方から、酒の方が良いか、と訊かれたが、とんでもない、と断った。

酒は、こんな男とは死んでも飲みたくない。それより、今日を取っ掛かりに今後も訪問できるような関係を築くことが重要だ。


俺には目的があった。かつて彼は雲の上の第四航空軍司令官、中将、俺は下士官の曹長に過ぎなかったが、いまは同じ民間人。ましてや彼は軍の卑怯者。俺は特攻崩れならぬ特攻の死に損ない。何の遠慮があるものか。俺の方からフィリピンの記憶を語った。

七五戦隊は一九年二月以来九ヶ月間の前線戦闘任務に疲弊しており、戦隊長はひと月の給養を兼ねた訓練を所属する飛行団長及び飛行師団長に意見具申し、ジャワでの訓練が許可された。

直ちに戦隊はセラム島・アマハイからまずはセレベス島・アンベシャに移動した。ところが給養・訓練飛行場のあるジャカルタへ移動する前に、米軍のレイテ上陸に伴い第四航空軍は七五戦隊を比島戦に参加させる決定を下した。

「中務さん、皮肉なことに、給養のためのアマハイからアンベシャへの移動は、地理的に戦闘のためのマニラへの集結に好都合となったのですよ」と俺は言った。

それを聞いて、中務は苦い顔をした。

「しかし戦隊には、果敢、旺盛な士気がありました。私にもです」

中務はうなずいた。

実際、経験がまだ充分とはいえない若い操縦者の中には、比島決戦には是非飛ばせてくれと涙を流して戦隊長に頼む者もいた。純粋である。一九年秋の戦況が非常に厳しくなっていたことが、彼らをしてそのような気持ちにさせたのだ。内地の大本営や政府、畏き辺り(かしこきあたり)は、この貴い彼らの心情を知っているか。捕虜になるくらいなら死ねだの、鉄砲の弾が無くても大和魂で戦えだのと、それでも言えるのか。

いや、弾の飛んでこないところで指揮を執っていたお前だって、兵隊の気持ちを分かるはずが無い。もう少ししたら、痛いほど分からせてやる。

ルソン島マニラの南、タール湖の東にあるリパ飛行場には七五戦隊と同じく九九双軽を装備する第三戦隊が先着しており、共に第三飛行団の指揮下となり、飛行団は第二飛行師団の指揮下に入った。

士気は高くとも、戦闘機が無いために爆撃機に護衛を付けることができず、損害はいたずらに増えていった。

「中務さん、腹が減っては戦ができないように、戦闘機の護衛無しでは爆撃機は戦えません。爆撃機はスピードは遅く、小回りも利かないし、図体が大きいので敵戦闘機の好餌でした。中務さんは歩兵のご出身ですからご存じなかったかもしれませんが」

中務はまた顔をしかめた。歩兵の専門家、とは言っても実戦経験がほとんど無い、実質は陸軍省の官僚を航空の司令官にするという軍の仕組みの稚拙、吉川総理の失脚に伴う粛正人事という派閥の罪悪。これで死んでいった、殺された兵隊はたまらない。同時に内地や外地で死んでいった、殺された民間人もまた救われない。

味噌も糞も一緒にして靖国神社に祀って、侵略戦争の指導者を国のために死んでいった貴い犠牲だという偽善。しかしそれを許している日本人は、戦争の全てを許したことになる。しかし俺には、許せないものがある。


一九年一〇月二四日、まず護衛の戦闘機二二機と続いて第三戦隊の九九双軽二二機がリパを離陸、レイテ湾へ向かった。

数時間後、ネグロス島第二飛行師団参謀長から第三飛行団長宛てに電報が届いた。『ヒコウダイ三センタイハリリクセシヤ』飛行第三戦隊は離陸せしや、即ち、護衛戦闘機を含めてレイテ攻撃が確認されていていない。

戦隊はレイテ攻撃後リパには戻らず、レイテから二〇〇キロのタリサイに着陸、装備を調え、タリサイからレイテに二回の波状攻撃を掛け、更に夜間タリサイからレイテを攻撃してリパに戻る、未明から夜間までの四撃作戦であったが、第一撃において全機未帰還となった。

熟練操縦者を含む空中勤務者と飛行機の損耗を、歩兵しか知らない航空軍司令官はどう考えたのか、追究しても空しいだけだ。

明日の攻撃を控えた七五戦隊員に、この事実は暗い影を落とした。いや、明日の自分を予感させた。

翌二五日、七五戦隊の九九双軽九機は第三〇戦闘飛行集団の四式戦闘機を護衛に付けてリパを離陸、レイテに向かった。

レイテ上空で戦闘機同士の空中戦が始まった。その隙をついて七五戦隊は敵船団に急降下爆撃をお見舞いした。昨日の第三戦隊の意趣返しだ。

爆撃後、敵戦闘機の追尾をかわすために海面上一五メートルという超低空飛行でネグロス島・タリサイ飛行場に向かった。三機が未帰還となった。

未帰還機のうち一機は不時着、後日救出されたが、一回の攻撃で九機中三機を失うようでは、直ぐに飛行機は無くなる。空中勤務者も損耗する。そこで七五戦隊長は、第三飛行団長が見当たらないため直接第二飛行師団長に夜間爆撃を具申した。師団長は七五戦隊のみならず第三戦隊を含めた第三飛行団に対し、夜間爆撃を命じた。

しばらくして、更に命令が下った。戦艦武蔵を含む海軍がレイテ湾に突入する、七五戦隊から二機出撃しろとのこと。

ところが、第一中隊の二機八名が出撃する直前、師団長の自動車が滑走路に現れて出撃は中止となった。師団長付参謀に依れば、海軍のレイテ湾殴り込みが失敗に終わり、襲撃機一五機のうち八機が撃墜された。九九双軽は喰われに行くようなものだから攻撃は中止となった、という。

多くの部隊を指揮する師団長が、ひとつの戦隊のわずか二機を救おうと、わざわざ攻撃中止の命令を持ってきてくれた。航空を知っており、九九双軽の仕様、性能、長所、限界、弱点を知っており、飛行機と空中勤務者の重要度、有益生を知っており、それらを失うことによる戦力損失の影響を知っており、わずか二機のために師団長自らが動くことを他がどう思うかを気にすることの愚かさを知っている。この様な男が陸軍にも海軍にももっといれば、多くの命を救えただろう。

「中務さん、空中勤務者、特に操縦者は飛行機という当時最先端の科学技術の結晶を扱う誇りがありました。飛行機は根性や大和魂では飛びません。ガソリン、オイル、点火のタイミング、油圧ポンプ、発電機、操縦、航法、整備、気象など広範囲の理論知識、長い時間を掛けて飛行技術を熟達させるこことで飛ぶのです。飛行機乗りは、遅かれ早かれ死ぬだろうとの覚悟も持っています。それをまるで消耗品のように扱われては、たまりません。一方で師団長のような扱いをされれば、男、意気に感じて、実力以上の働きをします。どうせ死ぬ身ですから、死にがいのある使い方をして貰えればこそ、死んで行けるのです」

中務は、今度はとぼけたのか分かっていないのか、表情を変えない。疎水性の物質の表面が水滴を乗せるように言葉の意味だけは分かるのだろうが、親水性の物質の表面が水滴を吸収するように心で言葉を理解することまではできないのだろう。

逆に、あれだけ気軽に、諸子は既に神である、と精神論にのみ重きをおいて特攻隊を大量に送り出した男に、それは良く分かる、などと言われたら、俺はこの場で奴を殴り倒してしまうだろう。

あるいは、遅ればせながら反省なり悔悟の気配でも感じられれば、救いはある。死んでいった連中にも奴自身にも救いとなる。俺もこれ以上馬鹿なことをする気がなくなるだろう。

フィリピン決戦はもう忘れたのか。覚えているのは、少々苦しかったかもしれない一〇年のシベリアでの捕虜生活だけか。今は内地に無事に戻って、新聞や週刊誌に少々叩かれてもどうということもなく、歓喜の限りか。お気楽なものだ。

それとも軍隊が無くなってから二五年経っても、中将の軍司令官殿は下士官、曹長ごときにただ一片の謝罪をする事さえプライドが承知しないのか。それならそれで良い。それが奴の最終結論なら、受け容れる。そして俺は迷わず計画を進めて行く。


七五戦隊は攻撃初日の一〇月二五日から一一月一一日まで毎日四機から七機をもって、レイテ湾の敵艦船、あるいはタクロバンの敵飛行場を夜間攻撃した。

出動のべ機数は一〇〇機以上、そのうち九機を失った。これには、攻撃初日に主力を失ったため七五戦隊と共に戦うことになった第三戦隊の残存兵力も含まれる。しかし、損害に比して戦果は充分以上あったと自負できる。

「中務さん、あのとき七五戦隊に感状を出すような気持ちはありませんでしたか。噂はあったらしく、戦隊長は新聞記者の取材も受けて得意満面でしたが」

「私の部下は皆良くやってくれた。特に七五戦隊の活躍はめざましかった。私も大本営に対して鼻が高かった。感状を出す気持ちはあったよ、確かにあった」

中務は本当に第四航空軍・第二飛行師団・第三飛行団・第七五戦隊について、第三戦隊が壊滅的打撃を受けて第七五戦隊の指揮に入り、第三飛行団は実質第七五戦隊だけとなっていたにしても、末端飛行戦隊の戦果を捕捉していたのだろうか。俺に気を遣って、でまかせに感状を出すつもりだったと言っただけなのか。

一一月一二日、戦隊長はネグロス島の師団司令部に給養を要請に行った。前日までの戦果報告と、戦力の消耗を説明し、数日間の給養を師団長に訴えた。

師団長の回答は、否だった。師団指揮下の各部隊はこの二〇日間でほぼ壊滅状態となり、攻撃を続行できるのは七五戦隊のみとなった。一機でも二機でも夜間爆撃を継続してくれ、というのが理由だった。

タリサイの戦隊本部に戻った失意の戦隊長を、一通の電報は更に打ちのめした。今朝、敵艦載機のべ一〇〇機来襲、双軽一〇機大破炎上とのこと。戦隊の可動機一二、三機のほとんどがやられた。

もともと砲兵であった戦隊長は空中勤務者となるために、操縦、機上通信、機上射撃、爆撃のいずれかひとつ以上を習得しなければならなかった。四〇歳の古参少佐としては今更操縦や通信のトン・ツーは不可能であり、射撃と水平爆撃で及第点を取った空中勤務者である。それがこのフィリピン決戦では中隊長機に同乗して何度も出撃している。見上げたものだ。この戦隊長が飛行機のほとんどを失ったショックは甚大であった。

戦隊長の悲嘆は我々隊員にも伝染し、この戦争は危ないかもしれないという予感が現実味を帯びてきた。それ以前からも非常に厳しい、率直にいえば負けるかもしれないとは思っていた。それが、よりはっきり見えてきたようだった。


戦隊長は飛行機の補給を受ける為にマニラの兵器部、次いでクラークフィールドの航空補給廠に強硬に交渉した。結果、数機の双軽を獲得することができ、マニラの兵器部に戻ったとき、七五戦隊には一一月初めに機種改変のための内地帰還命令が出ているので今更双軽は要らないはずだ、と言われた。

戦隊長は参謀長にただした。参謀長は、確かに大陸命(大本営陸軍部命令)は出ていたが、戦況から、特に爆撃戦力の不足から七五戦隊を前線から外すことはできなかった、必ず出すので、もうしばらく発令を待って欲しい、それと戦意喪失を避けるべく隊員には秘匿しておいて欲しい、と戦隊長に哀願するように言った。あとで隊員はそれを知った。

「当然ながらこれは中務さんの意思、あるいは参謀長が中務さんの心中を忖度したものでしょうが、七五戦隊の内地帰還命令を握りつぶしていたことは覚えておられますか」

「うむ、そんなこともあった。やむを得なかった。戦隊長だけでなく君も、戦況は良く把握していたと思う。七五戦隊は優秀、勇猛で私の指揮する第四航空軍から抜くことはできなかった。分かって欲しい」

なにが優秀、勇猛だ、戦争が終わって二五年も経ってから、俺の追究に世辞を返しやがって。

第三戦隊の二二機が全機未帰還となった数日後に、中務は陸軍特攻隊万朶隊の岩元隊長始め全将校五人をリパからマニラに呼びつけたが、途中敵戦闘機に撃墜され陸軍最初の特攻隊の将校全員が死亡した。中務は、陸軍中将、航空軍司令官の自分がわざわざ部下と会食し激励の言葉をかけることで、部下は感激すると信じていた。確かにそれにやられた部下はいたようだが、時と場合に依るのである。

「中務さん、万朶隊の岩元大尉等が撃墜、戦死されたことをどう思われますか」

「あれは、君、とても残念だった。岩元君は極めて優秀な操縦者だった。特攻隊で神になるはずだった。本当に惜しいことをした」

それだけか。お前が犬死にさせたのだ。気づかないのか。気づかないふりをしているのか。いずれにしても、許されることでは無い。岩元大尉はきっと跳飛爆撃を涙を呑んで諦めて、特攻に行く覚悟をしていたはずだ。それが、特攻に行く前に料亭で歓待しようとした軍司令官の虚栄と暗愚に殺された。例え敵艦船に命中する前に高射砲の弾幕に撃ち堕とされるとしても、せめて特攻に出撃したかっただろう。如何ほどに無念であったことか。

「中務さんは万朶隊の佐々本伍長をどの様に評価しますか。特攻隊で死んだとして二階級特進させておきながら、生きて帰ってきたら特進も感状も取り消しですからね」

「特攻隊は神だ。今でもそう思っている。若い命を祖国に捧げたのだ。佐々本君の場合は、最初の出撃で天皇陛下に戦死と上奏してしまったから、戦死した者が生きていては、天皇陛下に嘘を申し上げたことになってしまう。それで、何度も特攻出撃させることになってしまった」

九死に一生ではない、文字通り一〇死零生の攻撃に対して、充分な護衛戦闘機も付けないどころか、戦果を確認する偵察機も無い特攻はあまりに無慈悲、無情だ。護衛と戦果確認はしっかりやるべきだ。それができないなら、それだけでも特攻はやるべきではなかった充分過ぎる理由になる。

俺も特攻に行かされる前に聞いたが、中務は特攻出撃前の訓辞で、死に急がず、天候不良、エンジン不調や特攻に見合う標的が無いときは帰ってきて何度でも出撃しろと言っていた。一見立派なことを言っているように思えるが、無駄死にしないことは当然で、操縦者も飛行機も貴重な戦力だ。

それより、一度死ぬとやっと決心した隊員が、どういう理由であれ帰ってきて、また一から死ぬ決心をやり直す苦悩を想像できまい。一五〇機近い特攻を送り出して、自分のところに敵の弾が飛んでくるようになったら護衛の戦闘機を付けて戦場から逃亡する司令官だからな、あんたは。


今度内地で受け取る予定の飛行機は新鋭のキー一〇二、五式双発襲撃機である。一,四〇〇馬力の発動機二機、最大速度五八〇キロ、上昇限度一〇,〇〇〇メートル、航続距離二,〇〇〇キロ、五七ミリ機関砲一、二〇ミリ機関砲二、一二.七ミリ旋回機関砲一、爆弾搭載量五〇〇キロと多くの性能で九九双軽を上回る。

九九双軽は故障の少ない安定した高性能機で、従って生産数も二,〇〇〇機近くにもなる。戦隊員は九九双軽に乗り慣れ整備し慣れていたが、今となっては設計が古く、より高性能の新鋭機を受領、訓練することで、戦隊の戦力が飛躍的に増大することは間違いない。

加えて、内地での訓練期間は少なくとも三ヶ月程度が見込まれる。七五戦隊は志那で編成されて以来、志那大陸、南方と転戦してきて内地勤務が無かった。隊員は戦病死、負傷、補充で入れ替わるが、何年も内地に帰還していない隊員も多い。今まで生き残って、何年ぶりかで父母や妻子に再会できるのだ。どれほどの喜びであるか。

であるから、機種改変・内地帰還は隊員にとって何事にも代えがたい痛快事である。その機種改変・内地帰還の大陸命を軍司令官とその参謀が握りつぶしていたのだ。

戦線の軍司令官は目先の戦力低下を嫌い、長期的視点からの戦力増強を考慮せずに命令を無視し、大本営陸軍部では命令が命令通りに実行されたか、少なくとも最大の努力を払って実行しようとしたかを確認する機能を持っていなかった。陸軍には二重の欠陥があったのだ。

軍人の階級が永久資格であり将校は終身官であるから、何をやっても何をやらなくても免官できない、中将は勅任官、即ち天皇が任命した者であるから処罰できない、それは天皇の任命判断が誤っていたということになる、それはあってはならない、という構造的欠陥の連鎖と同じである。

一一月一七日、戦隊は第四航空軍司令官中務の直属となり、やっと補給された九九双軽は中務から直接の命令でレイテ島・オルモックの地上第三五軍に食料投下をすることとなった。戦隊長は参謀長に食料投下任務を受けた旨の挨拶に赴いたところ、七五戦隊から若干名の特攻隊員を選定しておくようにとの指示を受けた。

「本当か嘘か知りませんが、戦隊長は参謀に言ったそうです。特攻隊は充分な時間的余裕を与えてしかるべく情況において命令、承知させておくのが筋で、戦隊長としては内地帰還が見込まれる今、ここで誰に対して戦隊に残れ、誰に対して特攻に行けとは言えない、それならいっそのこと戦隊長始め全員を特攻にしてくれ、と。七五戦隊から特攻を出せというのも、当然中務さんの意思ですね」

「あの戦況において、その必要性は充分に知っていた。参謀が私の気持ちを斟酌したのだろう」

必要性を知っていた、斟酌、か。逃げだ。無責任だ。特攻が統率外道、取るべきではない攻撃方法だとしても、やると決めたのなら、必要だった、と言い切るべきだ。そして、尋常の攻撃方法とは違うのだから、参謀に言わせるべきではなく自らはっきりと言うべきだった。戦隊長は参謀より先に司令官に会っていたのだから。これが、この男の責任に対する限界なのだ。

実は、隊員は内地帰還命令を知っていた。他の部隊から漏れ伝わっていたのだ。秘密が多ければ多いほど、人は情報に飢える。内地帰還は誰もが望む命令であり、噂にもなりやすい。隊長が偶然聞いたように、通常の命令下達系統ではないところから滲み出ることもある。機種改変・内地帰還命令は戦闘作戦命令ほどの厳格な機密保持は要求されない。なにより、時に情報には命がかかっているものがある。

特攻に対しては、恐怖、嫌悪があったが、あり得るだろうという観念、やむを得ないという消極的容認、そしてもちろん帝国陸軍下士官としてのなけなしの覚悟もあった。

戦隊長が、負傷や病気、配属されて日の浅い未熟な者を除いた三〇名の操縦者に、特攻に志願する者は一歩前に出ろ、と言った。三〇名全員が、一歩前に出た。これを単純に志願と言うのは安易に過ぎる。これをまた、志願の形を取った強制と言うのは、あの時の我々の気持ちを正しく表してはいない。

他の部隊は知らないが、七五戦隊において形式上は間違いなく志願であった。同時に、あの頃の陸軍、あの時の飛行機乗り、あの戦況における七五戦隊、特攻出撃可能な操縦者全員を前にして、自由意志で一歩前に出ないことは考えられなかった。

一歩を踏み出すに一瞬の逡巡を挟んだ者は、確かにいた。しかしそれを、誰も嗤えない。一方で、解散のあとに隊長の元へ戻った者もいた。妻子持ちを外すことなく特攻に行かせてくれ、と頼んだとあとで聞いた。

俺は怖かった。前々から特攻は怖かった。本当に覚悟を持っていたか。諦めは持っていたかもしれない。馬鹿らしいと思っていた。通常攻撃でも命懸けだ。

歩兵と違い、手足を撃たれたからといって倒れていれば良いというものではない。操縦しなければ飛行機は墜ちる。アメ公の対空砲火は激しい。よくもあれだけの数の高射機関砲があるものだと思う。それに、近接信管という新兵器によって、弾が飛行機に中らなくても、近くに来ただけで爆発する。爆撃機は戦闘機に比べて鈍重で、護衛の味方戦闘機がいないと敵戦闘機に撃墜される可能性が高い。

特攻は、敵艦に命中してもしなくても、一旦攻撃を始めたら生きて戻れない。必ず死ぬ。間違いなく死ぬ。一〇機のうち一機でも二機でも帰還できるなら、それは自分かもしれないと思って、そう信じて、攻撃に行く。絶対帰還できない攻撃は、恐ろしい。

佐々本伍長の様な男をこそ、勇敢と言える。特攻隊員を決して貶めるものではないが、特攻は勇敢だが佐々本はさらに勇敢だ。敵を攻撃して、さらに味方から死んでこいと言われながら、何度も生きて戻ってきたのだから。お前の死は天皇にも報告されていて生きていてはならない、と言われながら何度も帰ってきたのだから。

操縦者の命を無駄にせず、飛行機を無駄にせず、何度も敵を攻撃する方が与える損害は大きい。一〇機の特攻機の内何機が成功したか、一〇機の急降下爆撃、あるいは跳飛爆撃のうち何発が命中したのか、戦果を確認したのか、その結果として特攻の方の成功確率が高く、熟練操縦者を一回で失っても敵に与える損害が大きいと計算したか、最終結果としてアメリカに勝てると結論したか。

最後の方は、離陸はできるが着陸がおぼつかない訓練不足の操縦者を、性能の低い練習機に爆弾を積んで特攻させたが、どんな意味があったのか。戦闘機の護衛無し、未熟な操縦及び航法能力、旧型機、練習機であるが故の劣悪な性能、機体性能に比して重い爆弾。ほとんどは敵目標まで辿り着くことができなかったはずだ。無駄に若い命を殺しただけだ。

誰も止める者がいなかった。誰も責任を取る者がいなかった。日本の作戦上最大の愚劣な悲劇だ。

特攻に志願して、あるいは命令に従って戦死した者の名誉を少しも傷つけるものではなく、あいつらは立派だった、偉かった、それは間違いない。が、やってはいけない攻撃手段だった。日本人は責任の所在を明確にし、責任者に適切に充分に償わせるべきだった。

アメリカ軍は、日本家屋は爆弾で爆破するより焼夷弾で燃やす方が戦果が大きいからと、軍事目標でもない一般住宅地に円周上に焼夷弾を投下して、住民を逃げられないようにしてから、円の中心に更に焼夷弾を追加するという爆撃や、二発の原爆という戦争とは言え人間としてやっていけないことを、やった。同じように特攻は、人間としてやらせてはいけないこと、だった。

命令、志願を云々する前に、近々の内地帰還が決まっている中での三〇人のうち全三〇人が志願した、この瞬間の勇敢さ、戦友のために自分がという心の美しさ、祖国の為に俺がという純粋さ、後の世の誰にも彼らを批判する資格は無い。同時に安っぽい賛辞も同情も絶対に拒否する。

批判されるべきは、特攻の命令者だ。貴様等の言い訳は、犬にでも食わせてやれ。


戦隊には第四航空軍司令官から直接、地上軍への食料投下任務が命じられていた。これが主たる任務であり、同時に特攻隊に一〇名を差し出せという命令があった。戦隊長は旭光隊に、士官と下士官を各一名、士気は高いが経験が充分ではないが故に比較的未熟な者三名を選考した。

特攻と食料投下、いずれが困難か。敵艦に衝突することと、地上軍が待ち構えている、もちろん敵も警戒している一点に食料を投下すること。敵艦は特攻機にハリネズミのような対空砲火を浴びせながらジグザク航行する。食料投下は敵戦闘機の迎撃をかいくぐって、一日の定められた時間に定められた期間内に定められた量に達するまで継続しなければならない。

特攻には、機体の設計能力をはるか超えた重い爆弾を積むことによる飛行特性の劣化、食料投下よりも小さい、しかも逃げる目標に、ダイブブレーキはあったが急降下即ち異常な高速飛行による操縦、機体制御の困難、何より死という恐怖が伴う。

食料投下は反復的に行うこと、即ち行ったら必ず帰還することが条件とされる。

命を捨てて敵艦に爆弾ごと衝突することと、命を捨てずに味方地上軍に食料を投下することは、比較できない。

特攻は一度きり、食料投下は継続、という一点に限れば、食料投下に経験豊かな熟練操縦者を使用したい。次の任務にも使える。言葉は悪いが、成功するかどうか分からない、要するに戦果が挙がるかどうか分からないが、帰還することは絶対に無い特攻に優秀操縦者を使い捨てる方が、七五戦隊全体として損害が大きいという考えもできる。非情ではあるが、戦隊長はそう判断した。

特攻と食料投下、比較できないが、逆に優秀熟練操縦者をただ一回の特攻で死なせて終わり、経験不充分の未熟操縦者を食料投下に用いて、予定量の半分しか地上軍に渡らなかった、と仮定したらどうだろう。

特攻の成功率と操縦者の熟練度の関係、食料投下の成功率と操縦者の熟練度の関係、食糧投下による味方攻撃力持続と敵艦破壊による敵攻撃力減衰の関係、実験すれば一目瞭然だろうが、同じ操縦者でそれぞれの任務を行うことはできない。自分の部下を生かす方と殺す方に分ける、戦隊長の熟考の果てのぎりぎりの判断であろう。

「中務さん、私はこうやって生きていますが、実は特攻に選抜されました」

更に二回目の、五名の特攻選抜命令が来た。若桜隊だという。

そして、俺が選ばれた。恐れていたことが現実となった。心底恐れていた、というのが正直な気持ちだ。確かに、特攻隊に志願する者と問われて、俺も手を上げた。一瞬のためらいはあったが、ほんの一瞬だった。選ばれたくはなかった。選ばれない、と思いたかった。

人の心の底は想像するしかないが、俺は死にたくなかった。死にたくないが、志願するしかなかった。それがあの時の操縦者全員の心の底だと想像する。一〇代の終わりから二〇代で、誰も、いくら国のためでも死にたいとは思わないはずだ。

あの時の心は表現できない。説明できない。死にたくない、は本当だが、一歩前に出て志願したのも本当だ。それは、見栄や誇りや卑怯者と認定されることを恐れる怯懦や、俺が行けばひとり戦友が助かることや、国のためやもちろん天皇のためではなかった。

七五戦隊はフィリピンに来てから平均すれば三日に一機、四人が未帰還となっていた。どうせいつか死ぬ、いつ自分の番が来るか分からない、多少遅くても早くても変わりはない、それならこの恐怖が続くより早くけりを付けた方が気持ちが楽ではないか。

いや、人間は最後の最後までやはり死にたくないものだ。例え一〇分の一でも生きて帰れるなら、一〇分の一〇死ぬより、生きて帰る方を選ぶ。

では、ただ周囲の空気に飲まれたのかといえば、そのような単純なものでは無い。

何故、一歩前に出て特攻に手を上げたのか。自分でも分からない、今でも分からないが、手を上げるしかなかった。内地の母親や妹、弟たちのため、国のため、命令だから、戦争だから、勝たなければならないから、卑怯者と唾棄されたくない、俺だけが逃げるわけに行かなかったからか、分からない。

七五戦隊で古参になる俺は渡部少尉とともに、配属されてきた少年飛行兵三名を引き連れて飛べという意味で選ばれたと思う。配属されて日が浅いとは言え既に戦友、七五戦隊員。古参の俺が、七五戦隊に臆病者はいないというところをあいつらに見せなければならないという気概が、いくらか俺を支えてくれた。

特攻に志願することは信じられないとか、愚かだとか、特攻命令を拒否できないのは臆病だとか、知らない者、部外者はどうにでも言える。批判も同情もできる。しかし絶対に、死んでいった者を冒涜してはならない。非難や追究されるべきは、弾の飛んでこないところで作戦をこねる参謀や、料亭で芸者と遊ぶ合間に戦線の指揮をする軍司令官、内地でふんぞり返ってこの頃空襲が増えたが軍は何をやっている、などと不平を言う政治家どもだ。前線で鉄砲を撃ったり飛行機から爆弾を落としている現場の兵隊は、敵との殺し合いを強制されているのだ。


昭和二〇年元日、戦隊は各地からリパに集合し内地帰還が始まった。

若桜特攻隊は一月七日出撃した。俺は離陸に失敗、椰子をかすめて脚を壊し、次にはエンジンが不調となり結果的に体当たり攻撃に及ばず、正に瀬戸際で、九死に一生を得た。

どういうわけか、自分でも分からない。生きることを望んではいたが、故意に飛行機を椰子にぶつけたのではない。必死に離陸しようとした。発動機の出力不足に気づけなかった。図らずも特攻に指名され、図らずも生き残った、としか言えない。特攻も生還も信じがたいことだった。そして、人生には信じがたいことが起こる、と知った。

「中務さん、というわけで、恥ですよ、恥。七五戦隊の旭光隊五名と若桜隊四名、合わせて九名の特攻隊員に私は恥ずかしい。自分だけ生き残って、そのことが正直に恥ずかしい。私も一度は死を覚悟して離陸したので、特攻に選抜された隊員以外の第七五戦隊、第三飛行団、第七飛行師団、第四航空軍、帝国陸軍には恥ずかしいとは思わない。しかし、特攻の九人にだけは合わせる顔が無い。生きていて良かったというのも正直な気持ちだが、同時に恥ずかしい。この気持ちは軍司令官殿にはわからないでしょうね」

「永友さんは、私がフィリピンから台湾に移動したことを当てこすっているのかね。あれは、できることならあの時同行した参謀に訊いて貰えば分かるが、命令があったのだ。フィリピン決戦の不首尾で前線には大いに混乱があった。それも原因のひとつだろう。特攻隊諸子を送り出すとき、いつも私は誓っていた。最後の一機で私も行くと。その気持ちに一点の偽りも無かったが、命令だったのだ。そのあと私は志那で一三九歩兵師団長を命じられ、ソ連に抑留され、一〇年の強制労働のあとにやっと解放されて内地の土を踏むことができたのだ。確かに命を拾ったことで、神となった特攻隊の諸子には及ばないが、それなりに苦労をしてきたのだ。分かって欲しいとは言わないが」

分かって欲しいとは言わないが、、、その割に十二分に言い訳を述べてくれたものだ。

「いいえ、閣下もシベリアで一〇年、辛酸をなめつくした事と拝察します。そして失った一〇年を取り戻して戴きたいと思います」

「そうか、ありがとう」

現時点ではいつになるか見当も付かないが、もう一度会わなければならない。もう二度と会いたくないと思われないように、心を殺して芝居の台詞を置いていく。

「閣下、本日はお会いできて大変嬉しく、名誉に思います。お名残惜しいのですが、もう行かねばなりません。いつのことになるか分かりませんが、縁がありましたらまたお尋ねしたいと思います。ありがとうございました」

「そうですか、ご苦労様でしたね。わざわざ来てくれてありがとう。どうぞまたいつでも訪ねて下さい」


俺は勉強して、調査して、研究して、実験して、可能性を期待に上げて、さらに確信の手前まで持っていった。あの卑怯者、臆病者を戦友の手に委ねるためにあの世に送ってやるのだ。

確実性は犠牲にしても良い。苦しませず、惨たらしくなく、後始末の要らない、自分だけで遂行できる、警察に疑われない、という条件を満たす処理方法を探求した。

確実性が不充分な方法でも、繰り返すことで補完できる。尤も、一度でも警察に疑われたら繰り返しは断念する。

遺恨はあるが、なるべく苦しませたくは無い。俺が見たくないのだ。

大量に血が流れたり、手足が千切れるような状況も見たくない。

死体自体もその周辺もきれいなままで死んでいって欲しい。

探せば条件を満たす処理方法は見つかるだろうと信じた。そして見つけた候補が、感電死。

警察に犯罪の疑念を持たれ捜査されること迄は、やむを得ないとする。最悪の場合には事情聴取までは容認する。が、刑務所に入ることは絶対に回避、いや拒否する。そこまでの罪だとは認識しない。有罪に充分な証拠を残さず、自白もしない。

ここでいう罪とは、シンプルに殺人だけを指すものではない。その背景を含めた全体が、俺が刑務所に入ることには釣り合わないと考えている。

 警察にばれないということを唯一絶対の優先順位とすれば、その他の条件は必然と実現するしかない。

即ち、苦しめば死体にその痕跡が残る。爪に何かを引っ掻いた痕が、爪の中には引っ掻き取った何かが、のたうち回った手足の跡が、あるいは壁や床の汚れた跡などが。

血を流したら、いくらきれいに洗浄しても警察は化学的に簡単に見つける。

死体が損壊したら、明白な事故でない限り殺人が疑われる。

死体を隠してしまえば殺人は成立しなくても、そのために死体を発見されないように処理することは容易ではない。重量、運搬、埋めるならその穴掘り、動物が掘り返さないか、人に発見されないか、どこかの時点で目撃されないか、不安要素は多い。運搬に自分の車を使えば、毛髪の一本、皮膚の一片が残ってもばれる。レンタカーを借りても同じことだ。かといって盗難車を使おうにも、素人が他人の車を盗むことは困難だ。

死体を溶かすための強アルカリや強酸を大量に入手することや、容器や廃液の処理なども不可能だ。

人体と分からないほどばらばらに細かく分割して、川や海に流してしまうか。人体を切り刻む作業は、考えただけで吐き気がする。実行すればきっと実際に吐いて、完遂できない。

感電死こそが、今思い付く唯一、全ての条件に合致する可能性がある処理方法だ。

感電事故は、純粋な感電より二次災害が多い。二次災害とは例えば、感電のショックでハシゴから落下して重大な傷害を負ったり死亡する帰結のことだ。

感電の本質、純粋な感電とは何か。人体に電流が流れて、その結果としての死亡まで含めた苦痛だ。

低い電圧の場合は、心臓麻痺や呼吸停止が多い。高い電圧の場合、はこれらに加えてアーク熱やジュール熱による火傷がある。

アーク熱やジュール熱が何であるかを調べる必要は無い。死体に火傷という外傷はあってはならない。だから、低い電圧による感電に焦点を合わせる。

心臓麻痺という言葉がある。医師は、死亡原因が不明の時は死亡診断書に心臓麻痺と記載すると聞いたことがある。だが調べてみると、心臓麻痺とは医学用語ではない。それは一般的な日常用いられる言葉に過ぎず、麻痺、即ち停止、心臓が停止した状態を示すだけだ。

死亡すれば心臓は麻痺するし、心臓が麻痺すれば死亡するから、あらゆる死亡の原因を心臓麻痺としても良いことになる。それでは医学ではない。心臓が麻痺する原因こそが、死亡原因だ。

心室細動から心停止または心肺停止、いわゆる心臓麻痺、つまり死亡となることがある。

または、急性の心臓発作から心臓麻痺に至ることもある。

心室細動や心臓発作がなくても、心臓を麻痺させる方法がある。それは、心臓に電流を流すこと。つまり、純粋な感電。

心室細動とは、心臓の心室が小刻みに痙攣して、正常に血液を送出できない状態。

仮に犯罪が疑われて解剖されても、毒物は検出されず、撃たれたり、切られたり、刺されたり、叩かれたり、轢かれたり、絞められたり、咬まれたり、という外傷は無く、内臓損傷も無い、溺死でもない、窒息でもないと結論される。警察はそのあと、どう捜査を進めるのか。


乾電池はどれほどのエネルギーを内蔵しているものか。ある市販されているアルカリ乾電池の公開されているデータは、単三形で一アンペアの電流を一時間流して、電圧は〇・九ボルトに低下することを示している。

思っていたより大きな電流が取り出せる。思っていたより長い時間電流が取り出せる。乾電池の持つエネルギーは侮れない。

このエネルギーで感電を起こせるか。電圧は非常に低い。実際、乾電池の両端を触ってもビリビリくることは無い。

乾電池の電圧なら、火傷は起こらない。例え電圧が低くても電流が莫大、時間が長ければ大きなエネルギーとなり、火傷もおこすだろうが、乾電池一本ではその電圧の低さから、人体の抵抗に対して取り出せる電流には限りがあり、火傷には至らない。

乾電池一本の電圧で、直接心臓に電流を流したらどうか。乾電池一本の感電を、警察は捜査できるか。


労働省産業安全研究所の資料で以下のことが分かった。

一旦心室細動が起こると、自然に回復することはなく数分で死亡する。

交流なら、周波数としては五〇から六〇ヘルツが危険だ。皮肉なものだ。

各種動物の通電時間三秒における室細動電流を人体に推定すると、体重五〇キログラムと仮定して六七から一〇七ミリアンペアの間、通電時間一二〇分の一秒から五秒までの間で成立する。

資料を読み進めると、直流の場合、一,三〇〇ミリアンペアで〇・〇三秒、五〇〇ミリアンペアなら三秒で、六〇ヘルツの交流なら一,〇〇〇ミリアンペアで〇・〇三秒、一〇〇ミリアンペアなら三秒で心室細動の可能性があり、電流を二・七五倍にすれば確実に心室細動が起こるという。

資料はまだ続く。次は人体の電気抵抗だ。

心室細動に必要な電流の目安は分かった。その電流を流すに、いくらの電圧が必要か。それは人体の抵抗によって決まる。抵抗が大きければ高い電圧が必要となり、抵抗が小さければ低い電圧で事足りる。

資料は、単純な抵抗ではなく体積抵抗率で説明している。単位はオーム・センチメートル。つまり縦、横、高さ一センチ・メートルの試料の抵抗を示す。血液が一八五オーム・センチメートル。内部組織は八〇、筋肉は一,五〇〇、骨が九〇〇,〇〇〇だ。

皮膚は面積抵抗率、単位はオーム/平方センチメートルで示している。これは、皮膚に接触する電極一平方センチメートルと内部組織一平方センチメートルの間の皮膚一平方センチメートルの抵抗を示すもので、四掛ける一〇の四乗から五乗オーム/平方センチメートルとなっている。

抵抗率ではなく、皮膚の電気抵抗、単位はオームの情報もある。人により大きな差異があり、作業者の堅い手の皮膚で一〇,〇〇〇オーム程度、事務労働者の柔らかい手で一,〇〇〇オーム程度。

筋肉の抵抗率を基準にすると、皮膚の抵抗率は一〇〇から五〇〇となる。但しこれは、筋肉一立方センチメートルと皮膚一平方センチメートルの比較である。要するに皮膚で感電するより直接筋肉で感電することは、極めて低い電圧で充分なのだ。

皮膚の抵抗は、皮脂や水分によっても大きく変化する。これに対して筋肉や内部組織は大きく変化することは無い。また直流、交流による差異も少ない。


感電にはマクロショックとミクロショックがある。

マクロショックとは、皮膚経由の感電で、日常起こり得ること。

ミクロショックとは、何らかの理由、原因で皮膚を経由せずに心臓に電流が流れること。例えば、カテーテルなどの身体に入れた医療器具を仲介して原理的に起こり得る。

マクロショックでは一〇ミリアンペアが離脱限界電流、つまり一〇ミリアンペで、自分の意思で感電源から離脱できなくなる。行動の自由を失うのだ。そして一〇〇ミリアンペアから、心室細動が起こる。

ミクロショックでは、〇・一ミリアンペアから心室細動が起こる。皮膚経由の電流、マクロショックの一,〇〇〇分の一で充分なのだ。

抵抗の高い皮膚を経由して一〇〇ミリアンペアを流すには、それなりの高電圧が必要だ。しかし皮膚を経由しない、つまり直接筋肉や脂肪を通じて心臓に〇・一ミリアンペアの電流を流すには、低電圧で間に合う。

工夫すれば乾電池でも、人を感電死させることができそうだ。刺したり、撃ったり、殴打したりせず、絞めたりせず、外傷無しで、血を見ることも無く、心室細動から心臓停止に持って行けるかもしれない。

医療機器の分野では一〇〇マイクロアンペア(即ち〇・一ミリアンペア)でミクロショック、つまり心室細動が起こり得るので、この一〇分の一である一〇マイクロアンペアを心臓へ流れる電流の許容値としている。JIS T 〇六〇一―一で人体の抵抗を一キロオームとしているので、一〇〇マイクロアンペアの電流を流すに必要な電圧はわずか一〇〇ミリボルト、つまり〇・一ボルトとなる。

乾電池の電圧は一・五ボルトだから、心室細動が起こり得る電圧の一五倍となる。

問題は、如何にして心臓に電圧を印加できるか、同じ意味だが、心臓に電流を流せるか、その一点となる。

心臓カテーテルを入れるわけにはいかない。そんな物は入手できないし、医者でもない俺が心臓にそれを入れられるわけがない。

その前に、心臓カテーテルとは何か。それは、心臓に挿入するチューブ。その材質は、プラスチック。プラスチックは一般に絶縁体である。

ところが電気刺激を加えて心電図を取る用途に、電極の付いたカテーテルがある。

つまりは、金属などの導電性の良い材料で製作した針を心臓付近に刺せば、良い電極になる。

その電極に直流から商用周波数程度の必要な電圧を印加すれば、ミクロショックによる心室細動が起こり始める電流である〇・一ミリアンペアは実現できる。


高電圧を皮膚経由で印加して心室細動電流を流すのは簡単だが、皮膚に火傷や感電の痕が残る。従ってマクロショックは不可、ミクロショックを狙う。

医療器の〇・一ミリアンペアは安全面からのアプローチで、最悪の条件が重なったときはこの電流でも心室細動が起こり得ると理解すべきだ。ここで、心室細動を起こす確率を上げるために、三倍の〇・三ミリアンペア流すものと決める。

皮膚を経由せず直接人体に電流を流すために、カテーテルの代わりに針はどうか。

皮膚を貫通する針で、筋肉との接触面積を計算してみる。針で実現できる接触面積、それで決まる抵抗に応じた電圧を用意する。それが現実的であるかどうかだ。

最初に筋肉の抵抗を計算する。

JISでは人体の抵抗を一キロオームとしているが、距離の要素に触れていないため疑問があり、これより厳しい体積抵抗率のデータを優先する。

筋肉の体積抵抗率が一,五〇〇オーム・センチメートルであるから、一平方センチメートルの面積で一〇センチメートルの距離なら一五,〇〇〇オームとなる。この抵抗に〇・三ミリアンペアの電流を流すには、四・五ボルトあれば良い計算となる。

一〇センチというのは、心臓の大きさが握りこぶし程度ということを想定している。つまり、心臓の両端に電極を置く意味で、腕から腕や腕から足などよりずっと距離が短い最良の条件だ。

四・五ボルト、わずか乾電池三本だ。そして、乾電池は数百ミリアンペアの電流を取り出せる能力がある。電源として充分な容量がある。

問題は筋肉と電極の接触面積一平方センチメートルの実現だ。

注射針の太さ、直径はゲージという単位で表し、数字が大きいほど細い。太い物で一八ゲージから、細い物で三三ゲージなどがある。用途によって使い分けるが、よく使う物としては二七ゲージ辺りだ。ミリでは〇・四となる。

この針を五センチ刺したときの接触面積を計算してみる。直径〇・四ミリ、長さ五センチであるから、〇・〇四×三・一四×五は〇・六三平方センチとなる。

一平方センチに満たない。ひとつの電極に針を二本使えば一・二平方センチとなる。ここでも簡単化のため一平方センチとする。

通電時間と心室細動電流について、犬の実験データがある。これによれば、時間が短いほど大きな電流が必要だが、一秒以上は大きな変化は無い。つまり一秒から五秒に通電時間を増やしても、必要な電流は大きく減少することはない。通電時間は、マージンを考慮しても五秒以上要らない。

針の材料金属であるステンレスは筋肉よりずっと抵抗が小さいので、針と筋肉の接触面積が一平方センチ以上あれば接触面積による抵抗増加を考慮しなくて良い。

注射針は入手しにくいが、注射針の必要は無い。ただの縫い針でも充分使える。

針を刺した皮膚の痕跡をどうするか。健診時の採血でも注射痕は残る。針を刺して数分後に心室細動で死亡したら、注射痕は消えずに残る。

鍼灸の鍼の太さは髪の毛程度、ほとんど出血しない、痕が残ることは無い、らしいが、鍼を刺す深さは筋肉で一センチ、臀部で四センチ、方法によってはわずか一ミリから二ミリとのこと。

細い針なら筋肉との接触面積が小さくなる。よって体積抵抗率が大きくなる。だが、針の本数を増やすことで接触面積を大きくできる。細い針を数多く刺すのと太い鍼をただ一本刺すのと、いずれが痕が残り難いかという悩ましい判断が要る。

また細い針による抵抗の増加分を、電圧で補填することは充分考慮に値する。針は細い方が人体に痕が残りにくい。電圧は数十ボルト程度なら皮膚や皮下組織を焼損などさせるには至らない。

細い針ほど曲がったり折れたりしやすいだろうから、要注意だ。曲がる分にはまだ良いとして、折れて人体に残っては致命的だ。

鍼灸の鍼が細いといっても入手できるかどうかと、人体に刺すコツがあるのではないか。

調べてみると、鍼灸は自分で自分に行うには無資格でもかまわないようで、鍼も購入できる。


腕の電極から心臓を挟んだもうひとつの電極まで四〇センチ。一〇センチで一五キロオームであるから、人体四〇センチの抵抗は六〇キロオーム。

この抵抗に〇・三ミリアンペア流すには一八ボルト。九ボルトの電池を二本直列にすれば得られる電圧だ。

いや、そうではない。人体内部にあるのは筋肉だけでない。血液の抵抗率は一八五オーム・センチメートル、内部組織ならわずか八〇オーム・センチメートルというデータがある。骨は筋肉の一五から二〇倍。

血液や内部組織、筋肉の比率が分かれば、人体内部の抵抗はより精密に計算できる。もちろん筋肉質であるか、脂肪が多いかなどの個人差はあるだろうが、筋肉だけの計算より抵抗は小さくなる。

非常に大胆ではあるが仮に、筋肉八〇パーセント、血液一〇パーセント、内部組織一〇パーセントの比率で、これらみっつの並列合成抵抗を計算してみる。

筋肉が二〇パーセント減った分だけ抵抗率は増えて一,八〇〇オーム・センチメートル。

血液の抵抗率は全体に対する含有が一〇パーセントだから一,八五〇オーム・センチメートル。

内部組織の抵抗率も同様に八〇〇オーム・センチメートル。

これらみっつの並列合成抵抗率は四三〇オーム・センチメートル程となる。合成抵抗率は筋肉だけのものより非常に小さくなる。唯、みっつの成分の比率は仮定に過ぎない。

四〇センチの距離では約一七キロオーム。 一・五ボルトの乾電池一本で〇・〇九ミリアンペア、概略一〇〇マイクロアンペア、最悪のケースでは心室細動が起こる。九ボルトの電池二本直列の一八ボルトは高すぎる。

一八ボルトで一七キロオームなら、約一ミリアンペアの電流が流れる。狙いは〇・三ミリアンペアだった。三倍以上となる。

九ボルトにしても〇・五ミリアンペア流れ、狙いの二倍弱だ。

筋肉、血液、内部組織の合成抵抗はあくまで俺の仮定に過ぎないが、筋肉だけの場合より血液と内部組織が並列抵抗として存在する限り確実に合成抵抗は減少する。

電池は九ボルトを一本にする。このタイプの電池は、新品時九・五ボルト、電流四〇ミリアンペアを流して、一分後に八・五ボルトに低下するというデータがあった。容量的に充分だ。

念のため、一八ボルトであっても電力を計算すると〇・〇二ワットと充分小さい。発熱することはなく、電流斑などは生成されない。

大がかりな装置は要らない。乾電池と鍼が二本だけだ。物的証拠は簡単に処分できる。電池は家庭にあって何ら問題無い。鍼はトイレに流してしまえば、見つけられないだろう。わずか四本だ。

国家、即ち警察には、この殺人を追究することはできない。


動物実験を考えた。

やるとしたら、猫だ。近所に数匹野良猫がいる。寄っていけば逃げるから捕まえるのは簡単ではないが、時間をかけて餌付けをすれば何とかなるだろう。

野良犬はいない。野良犬でも人に慣れていれば、犬の方が捕まえ安いだろうが、いないから仕方が無い。

しかし、猫が人間の代わりになるか。身体の大きさも心臓の大きさも違う。身体と心臓の大きさの比率が人間と猫でほぼ同じとしても、猫の身体の電気抵抗や心臓の電流に対する耐性はまったく不明だ

それでも実験の意味はあるか。実験データとしては意味が無さそうだ。猫が人間より電流に敏感でも鈍感でも、それにより結果は変わるだろうが、それだけのことだ。つまり、猫が九ボルトの乾電池で心室細動を起こそうが起こしまいが、身体の抵抗や心臓の電流耐性の比較ができない限り意味は無い。

別の意味があるとすれば、実験の結果ではなく実験するそのこと自体だ。

俺は哺乳類を殺せるのか。それが確認できる。人間をやろうとしているのだから、猫ごときで怯えていたら話にならない。


あいつを殺して何が得られる。なんのためにやる。むしろ、失うものの方が圧倒的に多いのではないか。今でなければならないか。もうしばらく待てば、時間が解決してくれるのではないか。それとも、現状を無視したらどうか。これ以上少しも我慢はできないか。覚悟はあるか。

本当に必要だと信じている。やるべきだと確信している。やらないで、死ぬ瞬間になってからやっておくべきだったと後悔したくない。


刹那

自分でシナリオを頭に浮かべ、その通り行動した。その自分を上から見ているような、おかしな気分がした。

猫でのリハーサルが極めて有用だった。中務での実行で、もたつくことが無かった。やるべき事を手順に従って実行した。

意外なほどうまく行った。いくら一度猫で試したとはいえ、人間に対してそのまま感電による心室細動が起こるとは、意外だった。電圧、電流、時間などに不足があって、失敗してやり直す羽目になっても、むしろその方があり得ると考えていた。思っていた以上にうまくいった、ということだ。

あっけないほどだった。こんな程度のことにあれだけ悩んだのか、と拍子抜けした。案ずるより産むが易し、という場違いな言葉まで思い浮かんだ。

達成感を感じる。調査し、検討し、計算し、実験し、逡巡し、実行し、成功した。

最終的な成功を警察の関与が無いこと、と定義するなら、今しばらく時間の経過を待ってから成功したと宣言しよう。

このあと、何が起こっても誰のせいにもしない。自分のせいともしない、やるべきであったことをやっただけ、社会のせいでもない、国家のせいでもない、自分が生きるために必要と信じた行動を成し遂げただけのことだ。

人が生きるためには、相当のことをしなければならい時もある。動物を食うために殺すことなど日常的だ。それが嫌だからと植物だけを食う人たちもいるが、植物なら殺しても良いという理由はなんだ。動物の命と植物の命を隔てる境界線、合理的根拠はなんだ。

そうは言っても、確かに動物の命と人の命は全く違う。俺もそう思う。その理由が、道徳か理性か感情か怯えかは分からない。俺も人間だから、ということか。人間の理性か。犬には、犬の命と人間の命の違いは無いだろうし、牛は草食主義というわけではない。

人間は、人間の命にも値段を付ける。日本の命の値段と中国のそれは何十倍も違う。日本人が中国で事故死したら賠償は日本人にとっては安価だが、中国人が日本で事故死したら中国人にとっては高価な賠償が支払われる。

原則として殺人が容認されてはならない。法でも禁じている。ところが、国家は刑罰という殺人を実行する。

国家はまた、戦争を行う権利を有している。つまり、他国の国民を大量に殺戮する権利を有している。その時、自国国民も多数死傷する。時に平然とその権利を行使する。

刑罰を執行するときも戦争を遂行するときも、個人に殺人の権利が与えられ、義務が課される。殺人を拒否すると、職を失い、名誉を失い、あるいは刑罰を与えられる。

それでも俺は、この様な単純な人間社会の現実によって自分の殺人を正当化してみようという試みは持たない。

俺は自分の理性に従い、知性を利用し、必要に駆られ、良心の合意を得て、殺人を執行した。

俺の人生はもっと快適になるはずだ。


2/2へ続く


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