真の豊臣家の忠臣1人目
太閤秀吉は天下統一後に徐々にもやに包まれるようになって行き晩年は悪評を囁かれることが多くなっていたのは歴史の事実である。
しかし、実の息子である捨丸の加護による助けもあり完全に正気を取り戻していた。
そう今の太閤秀吉の心身は主君織田信長の仇を討ち、その志を継いだころに戻ったのである。
自身の失態により愛すべき者達や家族を失ったのを理解していた。
しかし、真に豊臣家と太閤秀吉、そして捨丸を守り死んでいった3名の忠臣の最後を聞いた際に涙が止まらなくなってしまった。
まずその1人が佐吉こと石田三成である。
佐吉は頭の良い男であり、近江国で寺を訪ねた際に、最初はぬるくて量のあるお茶、次におかわりを頼んだ際にはその中間、最後に少量で熱く濃いお茶が出てきた。
太閤秀吉はその器量に惚れ込んで寺から佐吉を引き取り自身の家臣にした経緯がある。
ただ、佐吉は太閤秀吉に関しては真の忠臣であったが、能力は高くいうことがないが口下手で人付き合いが苦手であった。
後世で言う官僚的なタイプだったのかも知れないが、太閤秀吉とその子捨丸に対しての忠誠心は他の追従を許さないほどであったのだ。
関ヶ原の合戦において裏切りにあい、敵側に捕らえられた際にも城門で処遇を決める際の集まりまでの時間に晒され罵声を浴びても豊臣家と秀頼への忠義をまもり裏切り者の福島正則に罵声を浴び暴力を振るわれようとも逆に主家への不忠を罵り返したほどである。
そして最後の死の瞬間までも豊臣家への忠義を忘れずに喉の渇きに柿を勧められても身体を冷やすから良くないと断ったりあざわられても真の忠臣は最後まで諦めず忠義を尽くすものだと語ったと言う。
関ヶ原の合戦の後に裏切り者達主体の軍勢に攻め滅ぼされた石田三成の居城である佐和山城では誰もが戦利品に期待したが城内は空っぽだった。
徳川家康や反三成派の武将達による流言により三成は私腹を肥やし贅沢をしているなどと言われていたが、現実は質素倹約な生活をして雑穀米に味噌汁、沢庵で食事をする程であり家臣達もそれに従った。
質素倹約により貯めた財は全て主家の為に使い関ヶ原の合戦の際に豊臣方の大名や将兵に豊臣秀頼からの戦費の補填等の名目で全て吐き出してしまっていたのである。
大阪城には金銀の蓄えが山ほどあるではないかと言われるかもしれないが三成が自由にできる金銭は皆無に近かったのは考えればわかることだ。
令和の時代まで残る佐和山城跡の石田三成地蔵は善政をしき決して庶民を苦しめなかった三成を慕う地域の住民が後世まで祈り続けたからであることでわかる通り石田三成は豊臣家の忠臣であり義将であった。
このくくりに島左近などの副将や大谷義経などの親友、宇喜多秀家など心刺しをともにする義将たちが出てくるが、これは熱田大神により豊臣秀吉への記憶の伝承なのでこの回では深く触れず伏線として2人目の記憶へと進む。
石田三成は豊臣家になくてはならなかったのだが、しかし人間とは醜い生き物であり、後から来て槍働きと違う分野で太閤秀吉から重用される佐吉に皆が嫉妬した。
それは3人の豊臣家の忠臣である2人目の加藤清正も例外ではなかった。




