漢方医学と蘭方医学
1740年(元文5年)徳川吉宗は、青木昆陽と野呂元丈の2人にオランダ語を学ばせ、書物を翻訳させたこれが大きな切っ掛けとなって、
1771年(明和8年)杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らによってクルムスが著した人体解剖書の翻訳が始まった。
1774年(安永3年)『ターヘル・アナトミア』の翻訳書で、日本で最初の西洋解剖学書『解体新書』が出版された。これは日本医学の大きな躍進となり、蘭学は更に発展しいくこととなった。
8代将軍・徳川吉宗の時代から9代目、10代目と移り変わって、11代将軍・徳川家斉の時代になり、西暦もまた18世紀から19世紀へと変遷して、1802年、年号は享和の2年となった。
漢方薬や医学書などの書物や出版物が、山積みされた書棚の本の中から、解体新書の蘭学書を手に取る。書棚の横には百味箪笥。生薬を保管する数多の引き出しには、薬名の書かれた名札が貼られてある。その並びの道具棚には、針灸や種痘の道具箱、薬草をすり混ぜるための様々な種類の乳鉢と乳棒、人骨を忠実に模した木骨の入った箱などが上の段から置かれ、下段には製薬道具。薬草を切って細かくし加工しやすくするための道具や丸薬や錠剤を作るための道具が棚からはみ出して置かれてある。
還暦を過ぎて数年後、常幸は小石川養生所から身を退いて自宅で開業していた。細長い船形で、中央がV字型にくぼんでいる薬研の中に生薬を入れ、円板形の車に通した軸を両手でつかみ、前後に回転させて押し砕いて薬剤に加工していた。
「じぃっちゃん」
と声を掛けながら、棚から手に取った出版本を持った孫がやってきて、常幸の傍らに座って本を開いた。
「そろそろ、小石川養生所に見習いに行くか?」
常幸が問うと、
「ううん」
孫は首を横に振って否定した。
「お前の歳には、じぃっちゃんもおとっちゃんも」
「俺は、小石川養生所じゃなくて、こっちがいい」
と、開いたまま差し出されたそのページには、人体の解剖図が描かれていた。
それを受け取って、パターンとそのページを閉じる常幸の倅。表紙に書かれた『解体新書』の文字。
「で、あの子には何て?」
と聞かれて、常幸は頭を振った。
「父さんは、それでいいんですかッ?」
「昔、子供だったわしは、初代の肝煎さまに訊ねたことがあった。何故に、小石川養生所を作ったんですかってな。肝煎さまは暫く押し黙って、それから、知識も教養もないわしにも解り易いように言ってくださった。流れる水は腐らず、という諺をな」
諺の『流れる水は腐らず』とは、常に動いているものは停滞や退化を避ける。流れが新しい水を運んでくる川のように、常に動いていれば腐らないという意味。水溜まりや流れのない淀んだ場所の水は腐りやすいから、停滞せずに活発に動き続ければ沈滞や腐敗がないことの例え。
「常日頃から勉強や仕事を頑張っていれば、常に何かしらの進歩がみられる。だから医学の進歩と、治療を受けられない患者を減らすために、養生所を開業したってな」
それを聞いた倅は、
「明日にでも、肝煎さまに相談してみます。倅には蘭方医学を学ばせてやりたい」
と、納得したように返答した。
常幸は、大きく首を縦に振って
「そうしてやってくれ。あの子のためにな」
と、頼み込むように返した。
1867年(慶応3年)10月に大政奉還。江戸幕府が天皇に政権を返上するも、それに反対する旧幕府軍と新政府軍との間に争いが勃発し、1868年(慶応4年)1月、京都の鳥羽・伏見を皮切りに新政府軍と旧幕府軍の戦いが開始される。しかし、当年の4月に新政府東征軍によって、江戸城が無血開城された。
これによって、1603年初代将軍徳川家康から、1868年15代将軍徳川慶喜までの、265年間続いた江戸時代は事実上滅亡した。