人生の始まりは江戸時代
享保の大飢饉による影響は、江戸にまで波及して米不足に陥った。米が不足すれば価格は上昇する。不足と値上げの悪循環を繰り返すうちに、
「米の値段が上がったのは、米商人の買い占めが原因だ」
そんな噂が江戸庶民の間に広がり、これが切っ掛けとなって『享保の打ちこわし』へと発展した。農村で領主や役人に対して不満をぶつける一揆と違って、打ちこわしは飢饉後に商人や名主、金貸しらを襲うという都市で起こる暴動のこと。
いの打ちこわしの暴動によって、江戸の町は大混乱を招き大勢の怪我人が続出した。それに対応した養生所は、毎日のように怪我人や病人で溢れごちゅごちゃにごった返していた。飛び交う怒号に悲鳴、耳を劈くような幼子や赤子のけたたましい泣き声。てんやわんやの大騒動となって多忙を極めていた。
幕府は混乱を修めるために、打ちこわしに関わった者達を流罪に処したり、藩の大名や幕府直轄の土地に米を支給したりと対策をとったが、米の価格が容易く下がることはなかった。
江戸の町は、漸く暴動も治まり、いつものような静けさを取り戻した。養生所もまた同様に、怪我人の治療も一段落し、やっといつも通りの静けさと日常生活が戻って来た。
午前中の診療も終了し、自室で茶を飲みながら一息ついていると、突如、静けさを突き破るように”先生”と呼ぶ声が轟いた。途端に、廊下を突っ走る足音が響きわたった。
「何をそんなに騒いでいるのですか」
と、障子を開けて肝煎が顔を覗かせた。
「肝煎さま、大変です」
部屋の前に息を切らして立っている若い医師が、堰を切ったように言った。
「どうしました?怪我人ですか?病人ですか?」
問い掛けに答えるよりもと言わんばかりに元来た方へと引き返した若い医師を、肝煎はやれやれと部屋を飛び出し追っ駆けていった。
待合部屋には既に患者の姿はなく、和服の上に白い衣を羽織った正規医師と幕医の子弟の見習い医師、着物の袖を襷で留めて髪を白い手拭いで覆った女看病人(現在の看護師)、住込みで働く看病中間、食事を作る賄中間など養生所の従事者達が集まって、わいわいがやがやと賑やかにくっちゃべっていた。
肝煎は、取り囲んでいる従事者達の輪を手で掻きのけるようにして前進した。するとそこには、おくるみに包まれた赤子が畳の上に大人しく寝そべっていた。
「この子は、どこの?」
と肝煎りが言うと、それまで泣きもせずに大人しく眠っていた赤子が、身につまされるような何か不幸でも感じ取ったのか、急に泣き出した。
ぎゃん泣きする放置された赤ん坊を前にして、捨子の今後についてどうすべきか思案に暮れていた。江戸時代、捨て置かれる赤ん坊の数は非常に多かった。だが、引き取りにやって来る身内の数は非常に少なかった。一同はそう見聞きしていた。
「奉行所に」
と、誰ともなく一声発すると
「奉行所はな」
と、誰ともなく一声返した。
奉行所に関してもまた、一同は見聞きしていた。奉行所に預けたとしても、赤子のその後はどうなったのか、その行く末について尋ねても誰もそれについては何も答えてはくれないことを。
「暫くあずかりましょう。今後の事については、それから後に。それまで奉行所には」
と、肝煎はそう結論づけて口元に指を当てた。
皆が一斉に頷くと、若い女看病人が赤子を抱き上げた。
「名前は」
と、再び誰ともなく発した。
「名前は・・・。常幸」
常に幸あれと祈りをこめて、と肝煎りが付け加えた。この常幸と名付けられた赤ん坊の人生は、ここから始まった。しかしこの時、苗字までは名付けては貰えなかった。
江戸時代、公家や武家にとっての苗字は必要不可欠で絶対的なものであったが、それ以外の者達にとっては不可欠と言う程のものではなく、あろうがなかろうが然程気にもとめられてはいなかった。常幸は、思慮深くて優しく温かな腕の中で安堵したかのようにニコニコしていた。
瀬戸内の大三島で飢饉の被害が最小限に抑えられたのは、下見吉十郎が広めたサツマイモを栽培していたから。そんな話を耳にした吉宗から、米以外の穀物を奨励せよという命令受けた青木昆陽は、救荒作物としての蕃薯の栽培法・貯蔵法などを記した『蕃薯考』を上申した。
サツマイモは干ばつに強く、肥料が少なくても育てやすく、長期間収穫が可能で、栄養価も高い野菜。
1735年(享保20年)、小石川御薬園で青木昆陽によるサツマイモの試作が開始され、一年後に成功した。青木昆陽は、サツマイモに関する本、『甘藷之記』を書き著して普及に尽力し、「甘藷先生」と呼ばれるようになった。
養生所に人々に愛情深く育てられてから、はや5年の歳月が過ぎ去った。5歳になった常幸は、やんちゃで元気な上に、好奇心と知識欲が旺盛で、周囲の者達は質問攻めにしてくる常幸に少なからず辟易し困り果てていた。
門前の小僧習わぬ経を読む。諺にもあるように常幸もまた、幼い頃からの環境が影響して薬草木の名前やその効用を諳んじるようになっていた。
そんな彼を見守り続けてきた肝煎に、
「医者になりませんか?」
と唐突に提案された10歳になったばかりの常幸は、狐につままれたような顔でぽかんと肝煎りを凝視していた。
肝煎は、口許に笑みを浮かべて穏やかにその返答を黙ってまま待っていた。
「でも、肝煎さま。僕は先生達のような」
江戸時代は、国家試験制度はなく誰もが自由に医者にはなれたが、膨大な専門的知識は必要だった。だから医者には、医師の家系の生まれの者か、
「医者の子供でなくてもいいのですよ」
もしくは、医者から技術を継承している者が一般的だった。
「でも・・・。僕は、無理です」
と常幸は両膝の上に置いた両手を、悔しそうにギュッと握り緊めて言った。
「病気や怪我を治してあげたいですか?」
「はい!」
と、常幸は顔を上げて揺るぎのない態度で力強く返事をした。
「その気持ちさえあれば充分ですよ」
医者になるためにはまず弟子入りして、師匠である医師から訓練を受け、患者の対応の仕方や漢方薬の知識を覚える。学問としての医学が形成されたのは江戸時代中期以降であった。
「修行はとても厳しく、辛い日々が続きますよ」
「僕も、肝煎さまや先生達のような立派なお医者さんになるたいんです」
時を経て、見習いの常幸は17歳の元服を迎えた。江戸時代、庶民に広まった元服は15歳から17歳までに行うことが多く、公家や武家のように冠や烏帽子を被るのではなく、前髪をおろして月代を剃るという簡略化されたものだった。
肝煎を初め、所内の従事者達や周囲の者達は、感慨深く嬉しそうにその姿を眺めていた。暴動のどさくさに紛れて捨て置かれた赤子が元服を迎えるまでに逞しく成長した常幸を。
それから数年の時を経て、前髪をおろして月代を剃り、和服の上に白い衣を羽織った正規医師となった常幸が、ケガを負って大泣きしている患者の童と対座して治療をしていた。