小石川養生所
1716年(享保元年)8代将軍の座についた徳川吉宗は、1716年から1736年の享保時代に幕政”享保の改革”を行った。この物語は江戸の町から始まる。
1638年(寛永15年)3代将軍・徳川家光の時代、江戸幕府は国内は無論の事、アジア、欧米諸国に至るまでの野草木の植物を受け入れ、品川に幕府直営の標本園『品川御薬園』を創設した。
1650年の中期頃になると、医療は庶民にも普及し、薬草木の輸入品を増量しても賄い切れなくなっていった。
1684年(貞享元年)5代将軍・徳川綱吉の時には、品川御薬園を小石川白山御殿地に移設し、『小石川御薬園』と改称した。
薬種を輸入に頼り過ぎたことが財政悪化の一大要因だから、国内産の薬種に切り替えようとの声が幕府内で高まり、
1721年(享保6年)吉宗は、小石川御薬園の広さを1万4000坪から4万4800坪まで拡張して、国内や外国産の薬草木の種苗を掻き集めて、栽培製法や研究などして増産し続けた。
小石川御薬園は、西北側半分を芥川小野寺元風が、東南側半分を岡田利左エ門が管理し、それぞれの屋敷には御薬種干場(乾薬場)があり、園内生産の薬草を干して用いられた。
更に吉宗は同年に改革の一環として、意見や提案を広く募るための『目役箱』を設置した。毎月3回決められた日の午前中に、江戸城竜ノ口評定所前に鍵の掛かった目安箱が置かれたが、武士の投書は禁止され、庶民だけが許された。但し、投書の
際には、住所と名前を必ず記入すること。
目安箱は、家臣達からの忖度や隠蔽を避けるために、常に吉宗自身によって鍵は開けられて目を通され読まれた。
そんなある日、切実なる要望の書かれた投書が吉宗の目に留まった。投書者は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』のモデルにもなった町医者の小川笙船。
直訴状には、公平無私な治療も受けられずに喘ぎ、声も上げられずに苦しむ患者達のために施薬院を建立して収容し、治療を与えるべきだと書かれてあった。
施薬院とは、診療を受けられない病人に対して施薬・治療を行うための施設。723年(養老7年)に光明皇后が私財を投じて興福寺に設立。
直訴状を読んだ吉宗は、すぐさま御側御用取次の有馬氏倫に調査を命じて設立を急がせた。
1722年(享保7年)、御薬園の岡田利左エ門の管理地内に1000坪に柿葺の長屋の建物に診療所、男女分けされた病人部屋などの複数部屋に、薬膳所が2か所に井戸も設置された『小石川養生所』を設立した。収容人数は40人で、無料診療の他に生活面のサポートも受けられた。施薬院には与力や同心を配置して、管理や入院許可は江戸町奉行が行った。
小石川養生所の診療科は、本道(内科)の他に外科と眼科があり、医師は小川笙船、林良適、岡丈庵、木下道円、八尾伴庵、堀長慶、幕府から2人の小普請医師が任命され、近所に住む町医者も協力した。
初代の肝煎(病院長)は小川笙船が務め、世襲制によってその子孫に代々受け継がれた。
診療は漢方。漢方は7世紀頃に伝来した中国伝統医学を、独自に発展させた日本伝統医学の専門用語。
漢方は、西洋医学的な検査などで病名を明らかにするのではなく、病気に対する体の反応を見て診断・治療をする。診断名は『証』で表し、使用薬は1種類か、多くて2~3種類が限度。
開所当初40人だった入院患者数は、施療を希望する患者が次第に増え、収容人数を150人まで増加し、若い医師の育成にも力を注いだ。
1732年(享保17年)、西日本中心に享保の大飢饉が起きた。前年の暮れからの雨は、年が明けても止まずに降り続いた。夏になると、冷害や害虫による被害が中国地方から四国、九州へ、そして瀬戸内岸辺にまで広がり、イナゴやウンカなどの虫害が大量発生して深刻な凶作となった。これによって250万いじょうの人々が、飢えに苦しんだり亡くなったりしたと、『徳川実紀』に記録が残されてある。




