医師臨床研修
ランチタイム時の大学病院の職員食堂は、医師や看護師、事務職員などの医療従事者で混み合い、姦しい物音や人声が途絶えることなく続き喧噪としていた。
白衣姿の春歌は、同期の女医ゆう子と瞳と和葉の4人で片隅のテーブル席に座り、食後のコーヒーを飲みながら、疲れ切った表情でぼそぼそと駄弁っていた。
春歌達4人は医大を卒業後に医師国家試験に合格し、法律で義務付けられている医師臨床研修を受けている真っ只中の初期研修医だった。医師臨床研修は、一般的診療に幅広く対応できる力をつけるために、内科や救急、外科、小児科、産婦人科、精神科、地域医療など、各診療科の基礎を2年の間に学びながら経験を積んでいく。
長いようで短かった2年の年月があっという間に過ぎ去り、研修生活も残すところ後数ヶ月となった。
「専門研修はどこにするか決めた?」
春歌の問い掛けに第一声を上げたのは、隣席の地方出身の大金持ちのお嬢様風が見え見えのゆう子だった。
「私は実家の病院」
ゆう子の実家は、その地域では最も有名で大きな総合病院だ。
「Uターン組?」
そう言ったのは、ゆう子の前の席に座る東京出身で医者ではない大金持ちのお嬢様風が見え見えの瞳だった。どちらも大金持ちのお嬢様風が見え見えなのに、東京と地方では与える印象が、こんなにも違い過ぎるものなのか、と思わせるような雰囲気を漂わせていた
「一緒にどう?面倒見てあげるわよ」
と、ゆう子は哀れむように上から目線で言った。すると、
「パパが言ってくれたの、開業するならその資金は入用だけだすからなって。だからね、患者の少ない皮膚科でも。そうすれば、新米ドクターの私でもやってゆけそうじゃない」
負けじと上から目線で返してきた瞳を遮る様に、ゆう子は矢継ぎ早に瞳の横に座る和葉にも勧誘を試みた。だが、
「私は皆さんと違ってただのサラリーマン一家。そのせいで秀才の娘は家族に苦労ばっかりさせてきた。だから、美容整形外科医になって稼いで、稼ぎまくって、少しでも恩返ししようと思ってるの。只今、研修終了後の就職先を探してる真っ最中でございます」
と、あっさりとノーを突き付けられた。
医師臨床研修を終えると、保険医として登録が出来るようになり、開業することが可能となる。
「最後の頼みの綱。春歌ッ」
と悲痛に呼びかけて、ゆう子はこんがんするように手を合わせた。
「ごめんね。私はこれでも、れっきとした跡捕りなの。だから、無理」
と、済まなそうに首を横に数回振った。
「どんなに有名で大きな総合病院でも、地方にあるというだけでソッポを向かれる。医者の成り手不足の深刻さはここに極まれり。これは紛れもない事実であり現実なのよ」
と愚痴るように言って、ゆう子はガックリと肩を落として無念そうに溜息をついた。
初期研修が終わったらすぐに開業医になるつもりは、春歌には毛頭なかった。家族とも相談の末に、一般外科を専攻しとことん追求することを許されたのであった。
2018年(平成30年)4月から新専門医制度が施行され名称が変わった。初期研修医は研修医に、初期研修は医師臨床研修、後期研修医は専攻医へと。
専攻医は初期臨床研修を終えた後の3~5年間、専門に資格取得のために専門研修プログラムで学ぶ研修医。指導医や先輩医師の指導の下ではあるが、実際には研修医としてではなく、一人の若手医師として患者を診察する。専攻医になると診療行為を含むアルバイトが解禁される。
突然、医療用携帯電話のベルがけたたましく鳴り響いた。途端に、一同がそれに反応して、一斉にピクっと跳ね上がった。違うとはわかってはいても、研修医の悲しき習性である。
「ごめん、私」
と、春歌が医療用携帯電話を耳に当てた。ホッと胸を撫で下ろして安堵する、一同。
「えッ!」
と、春歌が愕然と椅子から立ち上がった。
「どうした?」
と、一同が見上げた。
春歌は、呆然とjその場に立ち尽くしていた。
「何かあった?」
と、一同は案ずるように問うた。
春歌はそれには答えず、黙然と弱弱しく頭を振った。職業柄、私に限ってなんてものはこの世には存在しないんだってことは、わかり過ぎるくらいわかっていた。それでも、心の奥深くではやはり私に限ってはと、思っていたのは確かだった。有り得ないことが起こった。何れはそうなる可能性はあっても、今ではなくもっともっと先のこと。
「春歌?」
「大丈夫?」
と声をかけられて、春歌は突如ハッと我に返ったように食堂から飛び出して行った。同期の三人は、心配そうにその後姿を見送っていた。
春歌は、顔面蒼白で廊下を抜けて、救命救急センター(ER)へと駆け込んだ。その時、『手術中』の点灯ランプが紅い炎となって行き成り両目に飛び込んできた。春歌は思わず目を逸らした。手術前に設置された長椅子に並んで腰かけている秋果と夏花が、合掌して祈りを捧げていた。