裏庭の桜
冬来たりなば春遠からじ。春は心地好くて夜が明けるのも気づかない。春眠暁を覚えず。孟浩然『春暁』の冒頭文。春の夜明けは趣がある。春はあけぼの。清少納言『枕草子』の書き出し文。春暁は夜が明けようとする頃で、その後に空が次第に明るくなりはじめる時間を春曙という。冬の寒さで凍り付いた身を温かな春が溶かしていく。春の息吹を感じるこの時期は、3月下旬~5月上旬頃をさし、行事が目白押し。3月の中旬から下旬にかけては卒業式で、桜の開花宣言がされる。4月の初旬は入学式・入社式が催され、新しい門出の始まりの季節でもある。
今年もやってきた春の風物詩、桜の開花宣言とお花見の春の慣例行事。その楽しみ方は、満開の桜の木の下に集まって皆で弁当を広げて食べたり飲んだり、もしくはイベントや祭りに参加したり、将又クルーズや夜桜に行って見たり、とひとそれぞれ。
一方小石川家の花見はそれとは異なり、家族五人だけで裏庭の老木の下で、馳走を食べながら満開の桜の花を愛でるのが恒例となっていた。裏庭の老木は、祖父が娘の誕生を祝って植樹した記念の桜とされているが、それは建前であって本音はそれとは別のところにあった。祖父の願いは一つだけ。男児の誕生。ただそれだけだった。しかしその願いが叶うことはなかった。
植樹以来五十数年の間欠かすことなく、満開の桜花の下で娘の誕生祝いを兼ねての花見が小石川家の毎春の行事となった。
「乾杯!」
の掛け声とともに五個のグラスがカチンと合わさった。そのグラスの中味は野菜ジュース。小石川家に代々受け継がれてきた医者の不養生にあらず、常に健康第一を心がけよ。医者の家筋らしいこのモットーは代々変わることなく守られ続けてきた。
満開に咲き溢れた1本の老木の下に敷かれたおしゃれな布製のレジャーシートの上に広げられた三段重ねのお重に盛られた豪勢な仕出し料理。それらを囲むようにして車座になっている小石川家の家族5人の面々が、花見と洒落込んでいる。
「今年こそは手料理。何時頃その満々なやる気がそがれたわけ?」
研修医の長女・春歌が、からかい半分に言うと、
「この時期って、矢鱈と患者が増えるのよ」
小石川診療所の女医の母・秋果が言い訳がましく返して、
「毎年そう言ってる」
医大生の次女・夏花が、間髪入れずに嫌味ったらしく言い返した。
「あんた達二人が手伝えば、仕出しなんか頼まなくても」
院長の祖母・冬華が娘を庇い孫たちを咎めるように言った。
「孫は可愛いとか言いながら」
「こういう時のお祖母ちゃんは娘の味方」
揶揄うように言って、春歌と夏花は顔を見合わせて笑った。
「そういうあんた達も、毎年同じことを言ってるわよ」
「そうだっけ?」
春歌と夏花は素っ惚けたように口を揃えて秋果に言い返して、顔を見合わせて小首を傾げた。
「こういう時だけ、仲が良いんだなお前達ふたりは」
医者の父・亨が言った。瞬間、
「座布団1枚!」
と秋果が叫ぶと、亨は苦笑した。
一家の長とは言え、女だらけの中での家長の立場と言うものは、案外弱く脆いものである。冬華が亡き祖父に対してそうしてきたように、秋果もまた常に亨を立てることを心掛けていた。そうすることが家庭円満の秘訣だと思い込んでいたのだ。亨の苦笑につられるように、家族皆の中に笑いが巻き起こった。
「夏花、来年の国家試験」
冬華が言いかけると、透かさず夏花が笑みを浮かべて、自信満々に両方の親指でトゥーサムズアップした。
「大丈夫そうね。春歌は?」
と声かけたその時、亨の携帯電話の着信音が鳴った。
電話に出た亨は、用件を聞いて快く承諾し、電話を切って告げた。
「往診に行ってきます」
「私も」
と、夏花がスクっと立ち上がった。
亨は、首を横に振った。
「お姉ちゃんと同じように」
と言ったが、亨は黙然と再度頭を振った。
「経験出来るのは、跡取りだけなの?」
夏花が頬を膨らませて不服そうに言うと、亨が立ち止まって振り返り、チラリと冬華を窺った。途端に、冬華がそれに返答するように頷いた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
冬華と秋果と春歌の三人に見送られて、亨と夏花は裏庭を後にして車を走らせ往診へと向かった。
”私に限って”
人は皆誰しもがそう思うものだ。だがしかし、誰一人として限ってなんてものはないのである。変わり映えのしない在り来りの日々の日常生活の中に突然、それは予告も無しにやってきた。その生き方、その考え方を根本から悉く覆していまうような予測不可能な出来事が。一陣の風が吹き、老木の桜の花が舞い散り、裏庭一面が淡いピンク色の花弁の絨毯に覆われた。