表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

03 その香りを思い出しては

 日が暮れると、市場の喧騒は静まりを取り戻す。人々は家路を急ぎ、商人たちは店じまいに勤しむ。そんな中、私は立ち尽くしたまま、テレンスとの出会いを反芻していた。


 日差しに照らされた彼の横顔。優しく微笑む唇の端。そして何より、私を見つめる澄んだ瞳。まるで夢の中の情景のようだった。


 ハンカチを大事そうに握りしめ、私はゆっくりと歩き出す。足取りは軽やかで、心は高鳴っていた。このざわめきに満ちた世界で、誰かに心を通わせられるなんて。それも、私なんかに。


 小屋に戻ると、テレジアが心配そうに出迎えてくれた。


「ルォシー、遅かったわね。どうしたの?」

「ごめん。ちょっと人とぶつかって……」


 言葉を濁しながら、私はテレンスから貰ったハンカチを見つめる。何て言えばいいのかわからなくて。でもテレジアは私の手元を見て、にっこりと微笑んだ。


「ふふ、なぁんだ、素敵な出会いがあったのね」

「え……?」

「いいのよ。幸せそうな顔をしているもの」


 テレジアは優しく頷き、夕食の支度を始めた。私はただ、ハンカチを握りしめたまま。


 幸せ、なのかな。


 胸の奥に、かすかな希望の灯火が灯ったような気がした。


 夜が更けても、私の心は落ち着かない。布団の中で、何度もハンカチを広げては畳んでいた。


 柔らかな絹地に、かすかに香る金木犀の香り。それは私の知らない世界の香りだった。


 不意に、テレンスの言葉を思い出す。


 ──君と話していると、肩の荷が下りるんだ。


 私も、同じ気持ちだった。生まれも育ちも違う彼と話すことで、何かが解き放たれるような感覚があった。まるで、魂が共鳴し合うように。


 やがて、私は夢の中へ滑り込んでいく。そこには、いつもの貧民街の情景とは違う世界が広がっていた。


 ──錦を纏った人々が行き交う華やかな通り。

 ──宮殿のように豪奢な屋敷が立ち並ぶ景色。

 ──そして、その中心には、テレンスがいた。


 月明かりの下、彼は私の名を呼ぶ。まるで、ずっと探し求めていたかのように。


 ──ルォシー、君に会いたかった。

 ──僕も、ずっと君を待っていたよ。


 私たちは手を取り合い、踊りだす。まるで生まれた時から、こうして踊ることが決められていたかのように。二人の身体は、音楽に合わせて波のように揺れ動いた。


 私はテレンスと出会うために生まれたのかもしれない。そんな予感に、胸が熱くなった。


 朝日が射し込む小屋で、私は目を覚ました。隣では、テレジアがいつものように眠っている。


 夢の余韻に浸りながら、私は外へ出た。まだ街に人影はない。私はひとり、街を歩く。


 足に感じる土の感触。鼻をくすぐる朝露の香り。遠くで鳴く鳥の声。

 

 いつもの風景なのに、どこか違って見える。それはきっと、私の心が変わったから。


 この気持ちを捨てないでいいの?


 こんな気持ち持っていてもいいの?


 その問いに答えを出す前に、私の胸が言った。


 ──テレンス、もう一度会いたい。

 

 この出会いが単なる偶然でも、私の一方的な思い上がりでもいい。特別な何かを感じられることが、きっと泥沼に居た頃よりは良いんだ。


 空に浮かぶ白い雲を見上げながら、私はテレンスとの再会を想った。この出会いが、私の人生を変える一歩になること。そして私たちが、運命に導かれていること。夢想するにはあまりに幼稚だけれど。


 ──テレンス、きっとまた巡り会えるわ。

 

 風に祈りを乗せて、私は足を速めた。今日が、また新しい一日の始まりなのだから。

貴重なお時間を割いてお読みいただき誠にありがとうございます。

お気に召しましたら☆☆☆☆☆からご評価いただけますと幸甚です。

ブックマークも何卒よろしくお願い申し上げます。

ご意見・ご感想もいつでもお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ