03 その香りを思い出しては
日が暮れると、市場の喧騒は静まりを取り戻す。人々は家路を急ぎ、商人たちは店じまいに勤しむ。そんな中、私は立ち尽くしたまま、テレンスとの出会いを反芻していた。
日差しに照らされた彼の横顔。優しく微笑む唇の端。そして何より、私を見つめる澄んだ瞳。まるで夢の中の情景のようだった。
ハンカチを大事そうに握りしめ、私はゆっくりと歩き出す。足取りは軽やかで、心は高鳴っていた。このざわめきに満ちた世界で、誰かに心を通わせられるなんて。それも、私なんかに。
小屋に戻ると、テレジアが心配そうに出迎えてくれた。
「ルォシー、遅かったわね。どうしたの?」
「ごめん。ちょっと人とぶつかって……」
言葉を濁しながら、私はテレンスから貰ったハンカチを見つめる。何て言えばいいのかわからなくて。でもテレジアは私の手元を見て、にっこりと微笑んだ。
「ふふ、なぁんだ、素敵な出会いがあったのね」
「え……?」
「いいのよ。幸せそうな顔をしているもの」
テレジアは優しく頷き、夕食の支度を始めた。私はただ、ハンカチを握りしめたまま。
幸せ、なのかな。
胸の奥に、かすかな希望の灯火が灯ったような気がした。
夜が更けても、私の心は落ち着かない。布団の中で、何度もハンカチを広げては畳んでいた。
柔らかな絹地に、かすかに香る金木犀の香り。それは私の知らない世界の香りだった。
不意に、テレンスの言葉を思い出す。
──君と話していると、肩の荷が下りるんだ。
私も、同じ気持ちだった。生まれも育ちも違う彼と話すことで、何かが解き放たれるような感覚があった。まるで、魂が共鳴し合うように。
やがて、私は夢の中へ滑り込んでいく。そこには、いつもの貧民街の情景とは違う世界が広がっていた。
──錦を纏った人々が行き交う華やかな通り。
──宮殿のように豪奢な屋敷が立ち並ぶ景色。
──そして、その中心には、テレンスがいた。
月明かりの下、彼は私の名を呼ぶ。まるで、ずっと探し求めていたかのように。
──ルォシー、君に会いたかった。
──僕も、ずっと君を待っていたよ。
私たちは手を取り合い、踊りだす。まるで生まれた時から、こうして踊ることが決められていたかのように。二人の身体は、音楽に合わせて波のように揺れ動いた。
私はテレンスと出会うために生まれたのかもしれない。そんな予感に、胸が熱くなった。
朝日が射し込む小屋で、私は目を覚ました。隣では、テレジアがいつものように眠っている。
夢の余韻に浸りながら、私は外へ出た。まだ街に人影はない。私はひとり、街を歩く。
足に感じる土の感触。鼻をくすぐる朝露の香り。遠くで鳴く鳥の声。
いつもの風景なのに、どこか違って見える。それはきっと、私の心が変わったから。
この気持ちを捨てないでいいの?
こんな気持ち持っていてもいいの?
その問いに答えを出す前に、私の胸が言った。
──テレンス、もう一度会いたい。
この出会いが単なる偶然でも、私の一方的な思い上がりでもいい。特別な何かを感じられることが、きっと泥沼に居た頃よりは良いんだ。
空に浮かぶ白い雲を見上げながら、私はテレンスとの再会を想った。この出会いが、私の人生を変える一歩になること。そして私たちが、運命に導かれていること。夢想するにはあまりに幼稚だけれど。
──テレンス、きっとまた巡り会えるわ。
風に祈りを乗せて、私は足を速めた。今日が、また新しい一日の始まりなのだから。
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