化け猫
「悪い、シキ。遅くなった」
普段と何一つ変わらない優しい声色で、クレインはシキに声をかける。
「なんだ、てめぇ!?見張りはどうした!?」
人攫い集団のボスである男は大声で威圧する。けれどもクレインは臆する様子を一切見せない。その冷静沈着ぶりには、ある種の貫禄が漂っている。
「外にいた連中なら眠っている。心配せずとも、命を奪うつもりはない」
「舐めやがって!てめぇら!敵は一人だ!ぶるってねえで殺せ!!」
男が怒号を飛ばすと、呆気に取られていた手下たちが一斉にクレインへ襲い掛かる。
ナイフを持った手下たちがクレインの眼前に迫った時、手下たちのもとへ雷が落ちる。
「派手な登場だな」
そうぼやくクレインの背後からオロチが現れる。
「シキは無事?」
「目立った外傷はない。それと、俺に雷が当たりかけたぞ。バチッてきたからな。バチィッ、って」
「ちぇっ。外したか」
「おい!まぁいい。あと1人だ」
クレインは男を睨みつける。しかし男は窮地に立たされているというのに、焦りは全く感じられない。
「手下じゃ相手にもならんか。何者だ?ただの生徒じゃないだろう。なかなかやるようだし、久しぶりにあれをやるか。 深い地の底を跋扈し、不快な混沌の渦を呑む 彼方の深淵よ 今宵は千夜に一度の大晩餐 噛み砕き、喰い散らせ ”月之狼王”」
詠唱が終わると、男の影が膨れ上がり、黒く大きな狼へと変貌する。
「こいつは俺のとっておきだ。この魔法を使って死ななかった奴はいねぇ。こいつは強力過ぎて、俺にも制御できない。こいつを使った以上、悪いが降参は受け付けられん」
現れた漆黒の狼に、シキは戦慄する。
その狼は生物と呼ぶにはあまりに禍々しかった。死を連想させる強烈な殺気が漲っていた。
シキは対面していないにも拘わらず、呼吸の仕方を忘れるほど圧迫される。
では、それほど殺気に真正面から晒されているクレインはどうか?
クレインはというと、美術展を訪れた評論家のような目をして、男の魔法を批評する。
「見たことが無い魔法だ。もしかして、オリジナルの魔法か!?類似するものはあるが、ここまで自立性と凶暴性に特化した魔法は知らないな。ふむふむ、大体わかった。こんな感じか? ”月之狼王”」
クレインが唱えると、今度はクレインの影は実体化し、男が召喚したのと瓜二つな狼が現れる。似ているのは見たてくれだけではない。狼から溢れ出る凄まじい殺気も再現されている。男が召喚した狼とクレインが召喚した狼が、間違いなく同一のものであった。
「待ってろ。拘束を解く」
「ひゃぁっ!」
突然耳元から聞こえてきた声に吃驚して、シキは頓狂な声を上げる。いつの間にかオロチがシキの隣に移動していた。オロチは制服を脱ぐと、衣服を剥がれ下着姿のシキに学ランを被せる。
「オ、オロチ!?私よりも先にクレインの加勢に」
「必要ない。じっとしてて。縄をほどく」
「あ、うん。…それで、クレインはどうして相手と同じ魔法を使えるの?」
眼前に広がる不可解な状況について尋ねると、オロチはなんでもない顔をして答える。
「クレインが相手の魔法を模倣したんだろ」
「摸倣って!!あれだけレベルの高い魔法を、鍛錬もなしに倣えるわけないじゃない。書道で例えるなら、お手本を1ミリもずれることなく書き写すようなものよ」
「クレインなら出来る。というか、実際に出来ているだろ。クレインは卓越した魔術師だ。敵の魔法を隅から隅まで解する分析力。魔力を思うがままに操る技量。全てが神がかっている。あいつは一度でも魔法を視れば、属性も難易度も無視して、如何なる魔法をも模倣できる。あいつはどんな魔術師にも成れる。だから僕は昔あいつを、”化け猫”と呼んでいた」
大抵の魔術師は簡単な初級魔法を除き、適性のある1種類の魔法しか使えない。だというのに属性を無視して初見の魔法を模倣するなど、到底信じがたい神業。
「無茶苦茶だわ」
「同感だね」
「でもなんでこんなことを?」
クレインにこれほど圧倒的な魔法の技術があれば、わざわざ模倣なんてする必要もない。より強力でより効果的な魔法を使えば良い。シキの疑問に対し、オロチは分かり易く説明する。
「それは単純。相手の自尊心を粉々にするため。想像してみろ。自分が使える最高の魔法を、あっさり真似される。相手にからすれば、屈辱の極みだ。実力の高い者ほど効くから、今回は効果覿面だね。見ろ。プライドを砕かれた男のマヌケ面が拝める」
男は現実を受け入れられず、口をパクパクと開いて閉じる。まさに茫然自失といった様子だ。先刻の薄ら笑いを浮かべている姿とは、まるで別人である。
「有り得ない!形だけの猿真似だ!!」
男は半狂乱になって叫ぶ。
形だけの模倣だと本気で思っているのなら、男がこれほど動揺することはない。完璧な模倣であることを、心の底では理解している。しかし己のプライドを守るため、猿真似だと信じ込んでいるのだ。
その姿は被害者であるシキでさえ同情の念を覚える程に惨めであった。
けれどもクレインは冷酷に実力差を見せつける。
「なら猿真似じゃねぇと証明してやるよ」
クレインの狼が弾丸の如き速さで男の狼に近づき、喉笛を噛み千切る。男の狼は溶けて、影へと戻る。
クレインの”月之狼王”が相手の”月之狼王”より本物であることへの、これ以上ない証明だ。
男は腰が抜けたようで、その場に尻もちをつく。屈辱と絶望からその顔は醜く歪んでいる。
男にもう抵抗する気力がないことは、言うまでもない。