5話 曇りガラスのヒロイン
あれから魔女の猫は二日おき程度の間隔でやってきた。相変わらず距離感は触れるか触れないか位の絶妙な間隔で。
「なんか言いたいことあるん?」
窓の外から見つめる魔女の猫に問うけど、ミャオと言うだけ。
「あんたは呑気でいいね」
全くぶれない視線。窓から身を乗り出して撫でてやろうとしたけど、ミャオ鳴いて、さっさと逃げて行く。
未だに関係値の変化はなかった。
「七ーー行くわよーー」
下から呼ばれ、急いで階段を下りて行くと、快晴が玄関前の廊下で立っていた。「あれ、行かないん?」
訊くと、快晴は、あれあれ、と首を向ける。リビングに目をやると、お母さんがどったんばったんと動き回っていた。
またか、と私は小さく声をもれた。
この調子だと準備にあと十五分はかかる。ここで快晴と並んで待つのも微妙だし、お母さんのとばっちりを食らうのもごめんだ。「先出てるわ」
外で待つことにした。
今日は車でショッピングモールへ行くらしい。車は中二階の和室の下がビルトインガレージになっていて、そこにある。
新車で購入した軽自動車のワンボックスカー。もう十年以上経つだろうか。お母さんは、そろそろ大きい車に買い替えたいわね、と乗るたびに言っている。
「ちょっと待ってて、すぐエアコンつけるから」
「母さんフルパワーフルパワー」
「これでマックスー。そろそろ買い替えかしらね~」
車内は灼熱地獄と化していた。
私は運転席裏に刺さっていた、うちわを手にして扇ぐ。そしてプリントされた家電量販店の名前と地域のゆるキャラみたいなウサギを尻目に考える。
——今日の車内は邪念がなかった。
パーフェクトではないけれど綺麗にしようと試みた形跡があるうえに、心なしか空気も澄んでいた。
「ダメだ~。ひとまず窓全開にするわよー」
お母さんの服は小綺麗にまとまっている。「母さん母さん! 開けたとこで変わんないって外も暑すぎだから」
快晴からは寝ぼけた感じもなかった。
「しょーがない。閉めて我慢するかー」
お母さんは慌ててボタンを押して全部の窓を閉めた。髪の毛の緩いウェーブに少し落ち着いた髪色。これは美容院に行ったと思われる。
「七ー。暑かったら後ろ、うちわあるからねー」
ルームミラーのお母さんと目が合って、私はうちわを上げ、うんうん、とうなずく。メイクが濃いのはただ単に元美容部員のなごりだろうけど。
「あーごめーん」
私がジーンズのポケットからスマホを出してメールを確認しようとしたときだった。——がたん、と一瞬、体が前のめりになった。
「ごめんごめん、また早かったわね~。もういいー? 出発するわよ~?」
私は思わず舌打ちをした。シートベルト着用前に勢いよく発進。そして急ブレーキからの急発進。これもいつものお約束で、この人はきっと死ぬまでこうなんだと思う。
古ぼけた家が並ぶ住宅路を抜けると四車線ある国道に出た。
「ラッキー。今日、道すいてるー」
「夏休みだから皆んな遠出してるんじゃん?」
子供のようにはしゃぐお母さんにつられて、快晴の声もどことなく弾んでいるように感じた。
「これだけ暑い日が続くと海行きたいわねー」
「おれは山行きたいわー」
「山かー。パピちゃんに連れてってもらったキャンプ場ひさびさ行きたいわね~。パピちゃんは今、車ないからダメだけど」
「たしかに! おれ鮎食べたいかもしれん。また、ひろたやな、行こうよ」
「違うって。広瀬やな」
まるでお笑い芸人みたいなタイミングだった。——すぐに人の揚げ足をとる、この人は。
どうでもいい間違いを指摘ばかりして、限りある時間を人様のために浪費する偽善者。
快晴はおおかた、やなは豊田市にあるから、『せ』と『た』がごっちゃになったとかそんなところだろう。正直どうでもいいし。
「ほんと今日空いてる~。もう着いちゃいそう」
「日頃の行いがいいからじゃん?」
よく言うわ。あんたらのせいで、私がどれだけ迷惑を被っていることか。
くそ。
次から次へと嫌な言葉が出てきた。ぐちぐちぐちぐち愚痴ばかりぼやいていたら、なんだか窓ガラスに映る自分が徐々に薄くなっていく気がした。
バッタ。てんとう虫。蜂にイナゴ。あれはコオロギ。
——あれはいつかの踏みつぶされた蟻……
行き交う車は皆、冷たく感情のない虫けらにしか見えなかった。
ふたたび車が急発進してスマホが落下しても、またどうせ落ちるだろ、と不貞腐れて拾おうともしない。快晴が拾ってくれるけど、うん、と一つ返事で、ありがとう、一つ言えない。
目の前の自分は情けないほど曇った表情を浮かべている。ただただひたすら勉強の日々。私の心は梅雨空のままだった。
この交通量なら帰りも早いかもな……
耳に装置をしたイヤホンから聞こえる英語の音声は、何も役目を果たしていなかった。
私はすでに帰りの算段を立てている。