50話 いざ、受験のとき
自分がこんなにも肝の据わった人間だとは思っていなかった。
あと、こんなにも癖毛が酷いのだということも……。ものすごく久しぶりな気がする。髪の毛をセットするのは。
一週間前から猛烈な勉強の追い込みをかけた。
三年間、自問自答を繰り返し、しんどくてもう無理かもって追い詰められているのに、周りの人たちもしんどいから自分も頑張らないと、なんて無理矢理やる気を奮い立たせては空回り、みたいなことを何度も何度もやってここまできた。戦友たちにも支えられた。
鏡に映る私の顔は、昨夜の不安と緊張が嘘のように、未来への期待に満ちていた。
「早く準備しなさいっ!」
騒がしい階下をよそに、私は内なる炎を抑えながら淡々と一つ一つ身支度を済ませ、ゆっくりと階段に足をかけて行く。
そして、その沸々とくすぶる火に油をぶちまけるかのようなお母さんの声援を背にして家を出た。
『次はN大学、Nだいがくです〜。受験生の皆さま、今日までの努力の成果を生かせるよう精一杯頑張って下さい』
音声合成のアナウンスが流れると、思わず、おおーっと声が上がり車内の緊張が一気に緩和した。
「こんなんあるんだっ」
「初めて聞いた」
座る隙間のない車内に、同じ戦友と思われる女子学生二人の会話が響く。電車は何食わぬ顔で進む。
ついにやってきた。ただ流れる外の景色に目を上げると、電車の音の大きさと共に、自分の鼓動が激しく揺れていることに気づいた。不安と緊張? いや、どちらかといえばワクワクに近い。
どうやら腹構えは出来ているみたいだ。
門に差しかかる前に足を止めた。
よし、と一息気持ちを落ち着かせる。一歩、一歩、踏み出して行く。
「よっ」
小春だ。
「よ」私は声を返した。
それぞれの足で試験会場へ赴いた私たちは、校舎を目に横並びし、いつからか恒例になったグータッチを前を向いたままクールに交わした。
テストも落ちついてこなせたと思う。面接はさすがに緊張したけれど。
徹底的に受験勉強と向き合ったせいか、全ての範囲を俯瞰的に見れたのには驚いた。
これは、小春おすすめの参考書の応用問題と繋がっていて、過去問で何度もつまづいたな、とか、こっちは、寝たのか寝てないのかわからないまま迎えた朝に、脳みそと定着した問題、みたいな。
夜な夜な机に向き合い、こんなのなんの意味があるんだ、と絶望感に打ちひしがれた夜も、なんだか報われたような気がした。
まだちっぽけな私にはぼんやりとしているけど、きっとその過程に意味があったのだと信じたい。
「終わったあーー」
星崎の改札を通り駅の外へ一歩踏み出すなり、二人の安堵した声が同時に出て、一気に緊張の糸が切れたのがわかった。
手袋をしていても手がかじかんでしまう寒空の下、いつもの道を歩く。今朝のネットニュースのトップ記事は、今夜から明日の朝にかけて冬型の気圧配置が強まる恐れがある、だった。
複雑に入り組んだ住宅街の路地裏を抜け、いつも歩き慣れた大きな池を囲むように整備された公園のウォーキングコースをゆっくりと小春と並んで足を進めて行く。
ここの桜が好きだと、神沢が言っていた。
そんなことを思い出した。
あと一カ月ほど経てば、この一周は桜並木に彩られる。
「面接ほんと緊張したしー」一気にすとんと肩を落とす小春に、
「わかるー」と、私はげんなりとして答えた。
対人耐性脆弱の私にしては検討したとは思うが、完璧とは程遠い内容だった。
「てか、その前髪どしたん?」
小春が笑いをこらえるように覗き込む。
「あー見るな見るな」と、私は小春の視線を手で牽制する。
「一緒に試験会場行かなくてよかったわー」
小春はお腹を抱えて大笑いしている。
「このうねりだけは何ともならなかったんだって」
私はわざとらしくすね、そっぽを向く。左右に分かれた髪がおでこにぴたりと張り付いているのかと思うだけで腹立たしかった。
前髪を手でくしゃくしゃするけど、
「ぜんぜん変わらん変わらん」と小春につっこみが入った。
スマホで確認すると、小春のおっしゃる通りで、前髪は左右に分かれ海苔が貼りついたみたいになっていた。
こりゃだめだ……。「もういいわ!」
私は顔を膨らましてショボくれる。
すると小春は、「七は前髪命だからね~」と感慨深く言葉を発してから、いつだっけあれ? と訊いた。
何のことだ?
と、私は思うも、小春はすぐに思い出したのか、あー、と声を上げ歩き出した。
「小二のときだっ」
小春は再び足を止める。
小二といえば。第一次絶望期真っ只中の頃だ。
「私、何かやらかしましたかね?」
頬を刺すくらい風が吹きつけて、私はさらりと小春を追い越して行く。「あー寒い寒いー」
「ちょっと、待ってよ~。あのとき大変だったんだからねー」
思い出の青さに、なんだか鼻の下がこそばゆい。その頃は、おしゃれを意識し始めた頃で、ちょっとばかり髪型が気に入らないだけで、朝から学校に行くたくないと癇癪を起こしていた記憶があった。
「学校中で大騒ぎだったんだからねー。星宮さんはどこ行った? どこ行った? って」
そう、私はその日、男子に前髪をバカにされて学校を帰った。誰にも言わずに。そしてその後、お母さんにとんでもなく怒られた。
「まあまあ。そんな私もちょっとは成長したと言うことで」
私は小春の肩をぽんと叩いて労う。
「何それっ」
小春は決まりの悪い私にそう言って笑い飛ばすと、先へ先へと足を前に進めて行く。
いつぶりだろ。
くだらない話を心の底から、しょーもないと思えたのは。
訳もなく唐突に悟る。
一人では何も生まれないのかもしれない。
おそらくこの世界を攻略するためには……。
「えー⁈ 七、ちょっと何なのー?」
小走りで追い抜いた背中に声が届いてから、私は少しだけ振り返って言った。
「何でもないーーー」
目の前の空は、雲と境目がない。そんなさえない薄墨色の空へ白い息が消えていく。
ちょっとばかり体もほてってきた。
私は大きく息を吸い込んで空に向かって大きく吐いてから、足を止めた。
世間ではあいにくの天気なのに、なんだか楽しかった。
まるで子供だった。
昔、この公園で雪だるまを作って遊んだ。
「いたっ」
小春に背中をバシンと軽く叩かれた。「よしっ」
「は? どしたん?」
隣りに並んだ小春と視線が合うと、「髪、切りに行くぞっ!」
「え? 今から?」
小春は躊躇なく走って逃げる。
え? ほんとに言ってる? これから大雪なんですけどー⁈
「急げ急げーー」
小春に急かされるように私は走って追いかけた。