3話 神沢飛月
「ごめーん 待たせたあー」
軽快に門扉を開けると、小春が待っていた。
小春は幼稚園からの幼馴染で家は裏向かいにある。両親が学校の先生ということもあってか常識的というか模範的で、私の口の悪さも角が立たないように指摘してくれる親友だ。
簡単な挨拶を交わし歩き出すと、小春が話しかけてきた。
「メール送ったけど」
夜中のメールだ。「ごめんごめん。属性、闇やった」
「またあー?」
小春は私の顔を呆れてた表情で見ている。
「ああー、何であんななんだ。うちの母は」
まだ耳の奥がキンキンしていた。
「まあまあ。賑やかでいいじゃん」
小春は諭すように言う。
「うるさいだけだって。外まで聞こえたっしょ?」
「まー、聞こえたけど……」
小春は苦笑いした。
最悪だ、と私はうなだれる。家の外にまで実際に声が漏れてるという事実。改めて恥ずかしく思った。
近所の目が今更ながら気になった。この辺は田舎ではないが比較的閑散とした住宅地なのだ。
空気読めない。自己中心的。声でかい。片付けできない。だらしがない。がさつ。足音うるさい。八つ当たり。電気つけっぱなし。言い訳ばっか。行き場のない感情が溢れ出して、頭が痛い。
私は絶望している。「あんな家とっとと出てていきたいー」
「またー、そんなこと言うー」
「自由を手に入れる!」
「でたでた、いつもの台詞」
小春はやれやれといわんばりに嘆息した。
「まあ、自由になりたいとは思うけど」
珍しい。私の自由を肯定するなんて。何かあったか? いつもの小春なら、贅沢言わない! とか言いそうなもんだけど。
「でも、闇ってたわりには今日機嫌いい。なんかあったん?」
「ないない。日々、不自由な毎日だって」
はは、分かる分かる、と小春は小さくうなずいた。
「ま、ひさびさ天気は良き日だけど」
私はマンホール位の水たまりをぴょんと飛び跳ねた。
「あー、そろそろ梅雨明けだってねー」
小春が言うと、私は前を向いたまま、
「見た見たネットでー」と答えた。
そろそろ……てことは、まだ雨は降るのか。
「今日から梅雨明けでいいのにーー」
空を見上げて嘆くと、雲一つない快晴だった。やっぱ青が好き、と改めて感じた。
綻ぶお天道様に、優しく肌に触れる風。私のために鳴く小鳥たち。そよ風の行き先には、星崎神社と書かれた大きなのぼり旗がゆらゆらなびいている。
ふと、思った。——大丈夫だろうか? そろそろ星宮快晴が全速力で走っているころだった。
「今年はお祭りできるかなー」
「どーだろ、今年はやるんじゃない? うちの快晴、張り切ってるし」
「うちもうちも! 梅雨明けたから山車の準備だーって、今朝おじいちゃん飛び出してった」
小春の表情は浮かなかった。
「はは、重さんらしいっ」
星崎神社では毎年、夏に『竜の石』を祀ったお祭りが行われていた。
「あー、うちらは勉強かー」
思いのまま言葉にして、私は行手を邪魔する小石が生意気に見えて蹴飛ばしてやった。
「七は夏期講習だっけー?」
「やるやる。うちの母うるさいから。小春ん家がうらやましい。教えてくれる人いて」
「はは。そんなことないって」
小春はぼんやりと顔を上げた。
やっぱ、何かあったのか? 小春の家族は円満なはずだけど。いつもの覇気は感じられなかった。
私は、ふーん、と横目で様子をうかがってから「オーケー。良い情報あったらメールするー」と口にすると、小春は「うん、ありがとー」とにこりとした。
正門から校舎の中に入ると、テスト返却の日もあってか三年生は各々、複雑な表情をしていた。
この時期のテスト結果が志望校の判断材料になるのは言うまでもなく、バカを除いて皆、全力で取り組んでいる。
私たちも暗黙の了解でテストの話題には触れずにいた。
だけど、私はどことなく余裕があった。何故ならいつも数学、理科、英語はさほど勉強しなくても九十点から百点の間を取っていて、今回は苦手の教科にかなり力を入れて勉強していたからだった。
得意科目は多少落ちても最悪追い込めばなんとかなるという算段である。
「クロキンの謝罪動画見たー?」「見た見た、やばすぎ」
バカを尻目に意気揚々と教室の中へ入って行く。
「七ー、天気良いし屋上行かないー?」
「オーケー」
給食の時間が終わると、私たちは軽快に教室を出た。
「理科の引っ掛け大丈夫だったー?」
声の質と表情で、小春もテストはまずまず想定内の結果なんだろうと思った。私も得意科目の数学、九十八点を筆頭に、理科、九十二点。英語、九十二点ときて、苦手の社会は九十八点ときていた。成果ありあり、上出来に他ならない。残り教科も安全パイのはずだ。
「やられそうだったけど大丈夫だった」
私はにやりと親指を立てる。二人とも足どりは軽い。
「数学の関数は?」
階段を上がりながら振り返って小春が訊いた。
「そこはやられたー」
「同じくー。二次曲線にも一次関数にも乗ってる点の座標」
「それそれー。たしかにどっちのグラフにも乗ってやがるし」
「そう、意外と難しいとこが悔しい」
小春が微笑んで苦笑いした。
「次こそは絶対に……」眼鏡の奥でメラメラとさせている。悪そうな顔で笑っている。
よほど悔しかったのか。その一問が正解していれば全教科が百点だったとか。
小春なら大いにあり得ることだった。
「まっ、次は楽勝っしょ」
言葉の勢いと共に小春を追い越して屋上への扉を開けた。
——ん。
不意をつかれた。当然のごとく青色が広がってると思っていたけど、一瞬で目の前が真っ白になった。待っていたかのような太陽光線に目をつむる。
一歩、二歩と確実に足を前に出してから、徐々に目を細め視線の先をぼんやりと見ると、ゆっくりと青色が見えてくる。ずいぶんと光の中に長くいたような気がした。
あと……
誰かいる——
「七、他行く?」
小春が私の背中ををつついた。
正直、私はまだいまいち目の前の状況が処理できていなかった。んー、とだけ声にして間を繋いだ。
「あー、ごめん。もう行くから」
先客がそう言って振り返ったのはなんとなく把握できた。あと、ぼそっとで少し聞き取りづらいけど、爽やかでハリのある声の持ち主なのだということも。
私は目をこすって脳に視力の回復を促した。目を一度閉じて、ギュッとまぶたに力を入れ、ゆっくりと目を開いた。
ああ。
ようやく視界が開けた。光線は乗り越えた。
私は近づいてくる先客に目を向けた。
——あれは、隣のクラスの……
話したことはないけど知っていた。
神沢飛月。
クラスメイトたちが、格好いい格好いいと噂をしているから嫌でも耳に入ってきていた。マスク越しからでもイケメンであることに間違いないと思った。
妙に落ち着いた雰囲気がクールな印象を受ける。私が知っているだけで、別に面識もない。向こうも知る由もないだろう。
「なんかこっちこそごめん」
普段なら目も合わすこともないし、話しかけるなんて絶対しない。現に今も視線は逸らしていた。でも、私の声は咄嗟に出ていた。
やはり今日の私は機嫌がいいのか? ちらりと神沢を見た。
いや違う。
申し訳なさそうに、ちょっぴりくしゃっと笑う神沢の顔を見て、率直に口から溢れたのだと思った。
どちらかといえば、私たちが邪魔をした側だ。なのに神沢は、あー平気平気、とすれ違うくらいで言い、くしゃりと笑顔で立ち去って行った。
なるほど。女子どもがざわつく訳がわかった。不覚にも、どきりとしてしまった。
「神沢、何してたんだろ?」
さあ、と私は遠くを見たまま首を傾げた。景色はいつもと何ら変わりのない。広ーい校庭と空色だけ。
まあ、日向ぼっこには最高か。