47話 竜の意思
十一月。
テスト勉強で相手をしている暇なんてないのに、そいつは突然やってきた。
窓を開けると木の幹から部屋の中へ飛び込んでくる。
そして人様の机の上で「ミャオ」と鳴く。
いつにも増して偉そうな面持ちの魔女の猫は、じっと私の目を見て何かを訴えているようだった。
私はすぐに巻かれた赤い首輪に気がつくと、これじゃあまるで、ほんとに魔女の猫だと思った。
何か付いていた。
見ると首輪に白い紙が差し込まれていた。そっと猫に触れないように手に取る。まるで神のように上から見下ろす魔女の猫をよそにして。
手紙?
開けても平気だろうか。一瞬、躊躇した。でも猫が開けろと目で言っているので、私は紙を開くこととした。
『この猫は、魔女の猫と呼ばれているようです。わたしはこの魔法を願います。みんなの願いが叶いますように』
そう書いてあった。
え……。
魔法?
魔女の猫を見ると、そうだ、と言っている。
書いたのは神沢だと思った。
一度だけ、魔女の猫、と口に出したことがあったのを記憶している。
神沢の字、初めて目にした。
行間が適切で、筆画の整った字だった。
私は思わず、きゅんとしてしまう。そして、乙女かよ、と自分でつっこみを入れて、急に恥ずかしくなる。
私の願いか……
神沢の意を汲むのであれば、リレー形式で繋ぐべきだろう。ぱっと思い浮かんだのは、受験、の二文字。自分はなんて夢のないやつなんだ、と思ってすぐに愕然とする。
ふいに、魔女の猫と目が合った。
やっぱり綺麗な目をしていた。性格とは裏腹に澄んだ瞳をしている。私は吸い込まれるように近づき、——あっ、と我に返った。
「ミャオ」
魔女の猫がそっぽを向き窓の枠に手をかけると同時に木の幹に飛び移った。流れるような動きに、私は呆気に取られる。すると魔女の猫はこっちを見て、首をくいっと玄関に向けて再び足を進め飛び去る。
きっとそういうことなのだろう。
そうなのだろう。
そうなんだろ?
私は、そうに決まってると思い込むことにした。
急いで階段を駆け下り、玄関の乱雑した靴たちを秒で片付けてから、外へと飛び出した。
これ、夢じゃないよな?
そう疑いつつも、私は魔女の猫の後ろをついて行く。頬をつねってみたけど痛いだけだった。
私は魔女の猫に近づき、耳元に口を寄せ、「あ、あのう……」と、ものすごい偉人にでも話しかけるように声をかけるが全て無視される。三度は試みた。
いくつか見慣れた路地を入って行き、何となく察した。こいつは神沢の使いか何かか? この道は、おそらく神社。
星崎神社の表の入口にある大きな鳥居を通り越し、駐車場を歩いていて行き、木がたくさん生い茂る道? らしきところを突っ切ると、神社の裏側へとやって来た。
妙な道を歩かせるなよ、そう思った。私は魔女の猫を睨みつけ、頭や身体についた葉っぱを手で落としていく。
「どげんしょったー? カリカリしょって」
——一瞬でわかった。
顔を上げると、重さんがベンチに腰を下ろしていた。魔女の猫を膝に抱えている。あと一人。隣にいるのは……
「こんにちはー」
私はぺこりと頭を下げてから近づいて行き、こんにちは、と隣に座っていたご老人も声をかけると、「はじめまして」と丁重に頭を下げた。
「こんにちは」と丁寧に返ってきた言葉は弱々しく聞こえた。そのあと、ご老人はゆっくりと腰を上げ、にっこりと微笑んでから頭を下げた。
「これはこれはご丁寧にありがとうございます。はじめましてでしたね」
一目でわかった。この人は神沢のおじいさんだと。
「ちょうど今、おみゃーさんの父親の話をしとっちゃけん」
私が不思議そうに重さんを見ると、「こいつが連れて来たっちゃな」と魔女の猫の顔まわりを撫でている。魔女の猫からは不快感が漂っているが。
「それじゃあー、わしゃあーもう行くけんっ」
重さんは小気味良く立ち上がり、『蘭』の文字が入った青色のスーパーカブにまたがると、黒色の服に散りばめられた赤色のスパンコールが光った。そしてエンジンをかけ、ヘルメットと目にゴーグルを装着し、軽く手を軽く上げ「七海っー。久納さんによろしゅーのー」とだけ言い残してバイクはさっそうと走り出して行く。
私はしばらくの間、音と共にまるでダンサーみたいな小さな老人の花道を見取る。これが粋なんだろうなと、そうしみじみ思う。
「重さんとうちのおばあちゃん。いったいどんな関係なんですかね?」
重さんとおじいさんとの関係値が高いのだろうと見越して、思わず声が出てしまった。ため息交じりな上に、投げありに聞こえしまったかもしれないけど、おじいさんは、七海さん、と優しく微笑んで私の顔を見た。
「重松さんは星崎町の愛の戦士ですよ」
おじいさんは空を見上げ、ほっほっほと仙人みたいに高らかに笑っている。
「愛の戦士ですか……」
と遮ると、おじいさんは温かく受け流して、「七海さん、少しお話ししましょうか」と杖をついて、ゆっくり曲がった腰を下ろした。
斜めから差し込む秋の陽光と、ぽつりと立つ、いろはもみじ。足下には色付いた葉っぱが、まるで誰かが配置したかのように散りばめられている。私は秋の轍に引っ張られつつベンチに腰かけた。
「——まずは、孫の飛月がお世話になってるようで」
おじいさんは、しゃがれた声で丁寧に一言一言ゆっくりと言葉を紡ぎ、ありがとうございます、ともう一度お辞儀をした。
それはほんとうに崇高で、私は慌てて「めっそうもございませんっ」と一度も使ったこともないような言葉を口にして必死に否定した。
おじいさんは深く刻まれた皺をくしゃりとさせ、いえいえ感謝してますよ、とにこりとする。
その笑顔は神沢の面影と重なった。同じ鼻筋、同じ目の形、同じ口元。年を重ねた分だけ、しわが増えて、髪が白くなっているだけだった。
「あの、この石……」
せっかくだから胸の内の全部を聞こうと思った。私は左手のブレスレットを見せた。「星崎神社の御神体なんだと聞いたのですが」
ここ最近のおじいさんの体調が、あまり芳しくないと世間から耳にしていたのもある。
「ほっほっほ」
笑いながらどこか遠くを見つめ、なんだか全てを察したかのような顔でそっと目を細めると、おじいさんは私を見た。
「お父さんと同じ目をしておられる」
柔らかく穏やかな口調は、まるで空気と一緒になって消えていくようだった。
「鹿毛家の話は聞きましたかな?」
「はいっ」私は背筋を伸ばす。「祖母から聞きました」
「そうかね」
何か懐かしむような表情で、おじいさんはぽつりと溢し、杖を握りしめてからゆっくりと話し始めた。
「かつてこの地には、星の動きを全て把握していた一族の末裔がいました。そしてその一族は、神から与えられし叡智を用いて、星崎町に落ちた隕石の落下を完璧に予測したといいます」
私はかたずをのみ、おじいさんの目を見た。
「……そう。それが神沢と鹿毛」
話していて、どこか友ちゃんと同じような感覚があった。私の二、三手を読まれているような。
あ、「でも、言い伝えでは七つ星が落ちたんじゃ⁈」
星崎神社の縁起書には、そう残こされていたはずだ。
「そうでしたな」
おじいさんは何か含みを持たせつつ微笑んでから、私の気持ちを目で制止する。
「一族はその地を聖地とし集い、神から授かった叡智を落下した隕石と一緒に封印したといいます」
おじいさんは神社の丘の上を指を差して「それがあの木の下に眠ってます」と言った。
「どうして」私は思わず声に力が入る。
「埋める必要が?」
「一族の力は次第に強大となっていき、それを恐れる者たちの攻撃から逃れるためだったと」
その声は緩やかに淡々としていた。
「攻撃?」
「そう」
また遠くの方を見つめ、おじいさんは続ける。
「生き逃れるためにこの地を去った。隕石のかけらを手にし、北は神沢、南は鹿毛、それぞれ七つの地へ渡り、天狗と名乗った。石を持って、この地で再び会うという約束を交わしてね」
なんてかなしい歴史なのだろう。
私はそっと左手のブレスレットに目をおとした。
「この程度……」
おじいさんは感慨深く呟くと、「申し訳ない。年寄りが話せるのもここまでですな」と一つ頷いてから表情を緩める。
私にはその意図がわからなかった。
空はこんなにも、陽気にのほほんとしているのに、時折落ちてくる葉っぱは、季節の終わりを告げているようだった。
「そんなことないです」
自分でもずいぶんと的外れなことを言っているとは思ったけど、私は知っていた。星崎神社の宮司さんはとても良くやっていると。地域の老若男女から慕われ、古くから頼りにされていると誰もが口にしていた。
おじいさんは、何かを汲み取ってくれたのだろうか。ほっほっほ、と笑って「かいかぶりですよ」と言うと、重い腰を上げ「永らく自分勝手に、ただ必死に生きた。ただそれだけです。こんな世の中にしてしまい、あなた方若者の皆さんに申し訳ない」と小さく話した。
後悔の念みたいなものは伝わってきた。
この人も何か呪いにでもかかっていたのだろうか。
おじいさんは、ここから確認はできないけれど、竜の石が眠っているという木の方向を、じっと見つめている。
そしてそっと呟いた。「ありがとう」
その言葉は、なんだか頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと染み込んでくるようだった。私も立ち上がり、意思の眠る方を見た。
あの木の下に、私と神沢が探している答えがある。
私は自然と手を握りしてめいた。
「掘り起こしてみますか?」
おじいさんは笑っていた。
「とんでもないっ」
私は全力で否定する。きっとそんな簡単な事で解決するのであれば、そもそもこんな事態に陥ってない、と思った。重さんあたりが挑戦してそうだし。
「私は先代の力を疑うことしかできなかった」
おじいさんは、ほっほっほ、と今度は愉快そうな声で笑い、私と目が合う。
「七海さん。あなたならきっと実現できますよ」
ゆっくりと優しさのこもった声は、何だか神さまに、そっと背中を押されているようだった。
二人で太陽の光を浴びて束の間の時間を惜しむ。
「今日の空も青く澄み切った素敵な空ですな」
おじいさんは、どこか遠くの友人にでも話しかけているようだった。
そして目で、そろそろ行きますか、と言い杖を突いて歩き出すと、ああ、と突然、何か思い出したかのように訊く。
「飛月は家におりますが、呼びましょうか?」