42話 ありがと
二丁目。
気がつくと隣の番地まできていた。コンビニとファミレスがある道路を跨いで番地が変わる。ちなみに私の家は一丁目だ。
建築工事の音がうるさかった。
新築の戸建やマンションが至るところで目に付いた。あと値段の高そう車も。
この辺りは昔から代々、医者やら弁護士など箔のついた職業の人たちが住んでいると聞いたことがある。お母さんから。
「あ」
良さげな場所。
屋根の下にベンチが二つ。一直線に足を向け、そこに深く腰掛けると自然とため息が出た。
一人にすらなれない。
やり切れない気持ちから絶望感が波立ってきた。目を落とすとスニーカーは泥だらけだった。
家出少女かよ。
心配そうにしていた美幸の顔が思い浮かぶ。
私と美幸は似ていた。
共に自己顕示欲が強く意見が食い違うこともたびたびあった。でも決定的な違いは、たぶん視野の広さだ。美幸は何でも能動的に関わる。
リアルに触れる情報が多いせいか常に前向きだ。
あっけらかんとしていて、私立に通っているエリカを疎ましく思うことなんてないだろう。
……明日の靴はどうしたものか。
洗って、脱水。それからドライヤー。
靴の救出方法を考えながら、あれから——十年も経つ。私は小学校の受験を思い出していた。
結局のところ、受験は私が言い出したのがきっかけではあったけど、今になって考えてみると、お母さんが行かせたかったのだと思う。
合格したあとに、私が入学を拒むと、もの凄い形相で問い詰めてきたお母さんの顔はいまだに記憶に新しかった。
お父さんとも意見が食い違っていたみたいだったし、そのせいで、幼い私はしばらくの間、お父さんが帰ってこないのは、私のせいだと思っていた。
あのとき、本当に私のためを思って説得してくれていたのだろうか——
もし、私立に行っていれば、どうなってた?
小春もだった。
私の勝手で小春の未来まで変えてしまった。一緒に合格したのに。
少し肌寒くなってきた。
まくっていた制服の袖を元に戻す。そろそろ半袖と長袖の境界線に悩む時期も終わる頃だった。今は、単純に雨に打たれすぎただけだけど。
ふらっと水飲み場へと足を運ぶ。
限界だった。
蛇口をひねり軽く口をすすぐ。
すると近ごろ当たり前のように耳にするようになった救急車のサイレンが聞こえた。
目で遠くを追うと、工事を終えた車両が一台、二台と忙しなく通り過ぎて行く。
と同時にコンビニでの会話が私の脳裏を過り、とっさに身体が強張った。来年、この辺りに真由ちゃんが引っ越しをする予定なのだと美幸が言っていた。
どうも一丁目は昔から好ましくなかった。これも全部お母さんのせいだ。エリカのせいにはしたくない。
厚い雲の間から見える夕焼けが、張り巡らした防御策の隙間を掻い潜ってしみてくるようだった。私はベンチに座りながら再び思い返す。
思えば、美幸たちと仲良くなり始めたきっかけも小春だった。
お母さんから、小春のお姉ちゃんが高校受験が終わるまで学校を休むのだと、聞かされたときは驚いた。単純に、ああ学校休んでいいんだ、と思った。
そのときは感染症が流行していて学級閉鎖もちらほら発生していた。
小春もそれが理由で学校を二ヶ月ほど休んでいたと思う。
私が何か学校を休みがちになったのもこの頃だった。何か理由をつけて休むたびに、お母さんから嫌味を言われて。
その狂気じみた説教は毎朝、半年ほど続き、私は病人あつかいされるはめとなった。
あれこそ呪いといえよう。
学校をズル休みするやつはクズなのだと。
皆勤賞を目指していた昭和の筋肉マッチョな脳みそでは、とうてい私の主張などわかるはずもなかったのだろう。
私はまた小春に心配をかけてしまっているのだろうか。
きっとあのときも。
小春が休み始めの頃、私は学校で一人だった。学校なんて意味がない。家で勉強すればいいじゃないか。そう思った。
混沌と変化していく毎日に思おうとした。
でも、なぜか、救いの手が訪れた。
最初は何か、同情と蔑みで憤りのようなものを感じていた。
何度だろう。
美幸と真由ちゃんが声をかけてくれたのは。
独りぼっちの私に。
あのとき小春が描いた未来は何だったのだろうか。
結果私は二人の声かけに、距離を取り学校を休んだ。
あのとき、私が違う選択を取っていれば、と今でも後悔していた。
——ちょっとまて。
どこか記憶が食い違っている気がした。
二人の誘いを断り続けて休みがちになった?
ほんとにそうだったか?
少し記憶が曖昧だ。
美幸と真由ちゃんとは、いつから仲良くなった?
二人とはその後は、絡むことなんてなかったはずだけど……
夢と現実が入り交じってる?
私は小さな声でつぶやいていた。
小春、と。
そのときだった。
突然、背後から声が聞こえた。
「星宮じゃんっ」
は? 何っ?
私は慌てて振り返った。
「よお、久しぶりじゃん?」
こいつは……
たしか、神沢のクラスの……黄正人。噂の不登校の学級委員。
「辛気くせえ顔してどおしたよ?」
どうもこうもないわ、と口には出さずに私はおし黙った。冷たい態度で意思表示もきちんとした。
でも、何故だか黄は私の隣のベンチに腰を下ろした。
何? 今日は厄災の日か何かか?
次から次へと妙なものを引き寄せてしまう。私が何をしたのだというのだ。思いっきり神さまを恨んだ。
「べつに」
私は馬鹿にでもわかるようにあしらった。
黄とは、小学校が同じだけで話しをしたこともない。絡む理由がどこにも見当たらなかった。
でも黄は、ああ、と言い私の気持ちなどお構いなしに話し出した。「これか?」
んなことは訊いてはいない。私は無言を貫く。
「これはトレカだって。すぐそこにトレカショップあっから」
私は、自分のリアクションのせいなのかと反省し、そうなんだ、と答えてみた。しっかりと拒否反応も示せたと思う。
なのに、全くもって伝わっていないようだった。
黄は、近年のトレーディングカード人気需要の増加や自身のコレクターとしての才能を一人で熱弁し始めた。一枚で何十万とするカードもいくつか保有しているとか。
たしか、噂で聞いたことがあった。
黄はトレカの収益で家族の生活の家計を助けていると。
口走った瞬間に後悔した。
「すごいじゃん」
たしかに、すごいと思った。私も自力でお金を稼ぐ方法はないものかと何度も考えたことがあった。
だけれど、この場で口にするのは絶対に間違っていた。現に黄は図に乗り、だろだろ? と距離を縮めて来た。
「さっき仕入れてきたこのカードなんか、来年には三倍にはなるからよお」
黄は得意げな顔で、何やら黒いビニールの袋の中から一枚のカードを見せてくる。
早急に着地点が必要だった。
私はいっそのこと◯んで、と言わんばかりに、はいはい、と冷く言う。
それなのに、黄のトレーディング愛は続き、私は心底うんざりとした。
「おれさ」
と、今度は真剣な面持ちだ。
「は?」
何なの、と言って私は不快感たっぷりに睨みつける。黄は立ち上がって近づき、こっちをじっと見ている。
徐々に生理的に無理なのだと悟った。私の本能が猛烈に拒絶していた。
「おれ、今さあ。英語の勉強してんだよね。ユーチューブで」
動画? 英会話の? いろいろと想像はついたが、黄の様子が気になった。
「星宮知ってた? 海外のやつらって付き合うときに告白しないらしいぜ」
ますます意味不明だった。
急に恋愛の話になったのだろうか。
私は、お前に一体何があったんだ、と見てみるも、黄は不快な動きをしていた。
何だか体をくねくねさせて落ち着きがない。照れてるのか? 何度もこちらの視線を伺ってモジモジしていた。
さっきは、あんなにも無理をして強気な態度を見せていたのに。
率直に、まじキモい、と思った。
「星宮って、かわいいよな」
とか言っているし。
何言ってんだ、こいつは。ほんとに。私は少しずつ距離を離す。
「前から思ってたんだわ」
言いにくそうに、黄は続けた。
「おれたち付き合わない?」
はあああ⁈
私は秒で答えた。「無理」
「……」
私は慌てて可能な限りベンチの端へと避難する。
「え?」
黄の顔が見る見るうちに引きつっていくのがわかった。私も同じに。
てか、つい今さっき、告白しない、と言っていたのは何? 黄はしょんぼりとしている。本気でワンチャンあるとでも? 間抜けな表情に、私は苛立ちを覚えた。
「ばーか! 何、間に受けてんだよ」
すると黄は動揺は隠さず、
「冗談にきまってんだろ」
と言い放った。
私は立ち上がり、ふざけんな、と言い返そうとするが、黄はすでに背を向けて逃げ帰るように走り出して行った。
なんて日だ。
これをもらい事故というのだろうか。
心の底からこの世から消えてくれと願った。
そう、呆然と立ち尽くしていると、黄が遠くの方で叫んでいる。
「下着、透かして誘ってんじゃねーよ! ばーか!」
そしてやっと私の視界から消えたのだった。
正に厄災だ。
……ん?
私は一息入れるためにベンチに腰かけるも、安堵する間もなく黄の放った台詞が、頭の中で引っかかった。
は?
下着?
私は慌てて服を目で確認するけど、カップ入りのインナーが透けているだけだった。人目についても平気なはずだが。
男子ってそんなとこ気にしてる?
私は不思議に思いながら公園をあとにした。
ほんと何なんだ今日はっ。
段々と歩幅を広げて進む。
もうこれ以上の厄災は勘弁して下さい、と天に願った。
……でも、家路を歩きながら思った。
あーもーどーでもよくなってきた、と。
厄災にさえ見舞われたはしたけど、良くも悪くも頭がすっきりとした。
自分に問う、織り込み済みだろ? お父さんが死んでることなんて。
そう。
何となくずっと前から思っていた。
暗闇に迷い込み、お父さんの思い出で心を満たされるたびに、悪魔がそっとささやく、
『お前の父親は死んでるぞ——』って。
その度に私は空を見上げていた。
涙が溢れてしまわないように。
心の奥底では感じていた。
その可能性もあり得ると。
空は、えらくさっぱりとした夕闇だった。
控えめに輝き始めた星を見て思った。
なんだか、素直に、会いたい。
足取りは早やかった。
お母さんの好きなシュークリームがあるケーキ屋を、しばらく見ない間に外観がずいぶんと歳を取ったな、と思いつつも軽快に通り過ぎて行く。
そのとき、ふいにあることが脳裏をよぎった。
以前、神沢と雨の中を一緒に歩いた日に借りたパーカーのことを——
飛び跳ねるように、かっと全身が熱くなった。
今、やっと理由がわかった。
一つずつ思い返すこともなく、先ほどの黄の捨て台詞から点と点が一直線で繋がった。
急に恥ずかしくなった私は全速力で駆け出した。
私は——
パーカーを渡された意味なんて、ぜんぜんわかっちゃいなかった。
家のドアを開けると、玄関の靴はきちんと整理整頓されていた。
物怖じすることなく、ただいま、と口に出し、私はリビングのドアを開けて中に入る。
「ただいま」
キッチンに足を運びながら言う。
「おかえり」
見ると、お母さんは淡々と晩ご飯の準備をしていた。
お得意の必殺、都合の悪い事は三分で全て忘れる、が初めて長所に思えた。
そんなお母さんに向かって私は高らかに宣言する。
「絶対、受験は合格するから、金輪際、口出ししないでよね」
言って私はキッチンに背を向け、二歩踏み出すが、まだ言い足りなかったため、振り向いてからもう一度言う。
「それと、これはあくまで私のためだから」
するとお母さんは、はいはい、と堪忍したように言い放ち「応援してるわ」とだけ口にして再び料理に取りかかる。
リビングは少しばかりだけど片付いていた。
私はドアに差しかかったところで、キッチンに向かい、無理矢理絞り出した言葉を大きく声で投げ捨てた。
「ありがとっ」