40話 ふざけんな!
翌日の学校帰りに小春の家にやってきた。
空は灰色になり、雲行きが怪しくなってきた。
湿った空気。
雨の匂いだ。
今朝、確認した天気予報では晴れマークだった。
足を進め、玄関に差しかかる手前あたりで、青色のスーパーカブが視界に入る。屋根付きの駐車スペースに停まった原付バイクには『蘭』の文字が刻まれていた。
「あー、たしかにこれわかりやすいかもー」
部屋へ入るなり、私は小春のおすすめの参考書をぱらぱらと中身に目を通した。
「わかりやすい参考書は、優れた教師に匹敵するって言うからね」
と、小春は何処ぞの賢人みたいな顔で腕組みをして、うんうんと頷いている。
「ほれ、これ使ってー」
ちょっと内容を確認してお暇するつもりだったけど、私は言われるがままにクマの座布団に座る。
そして「これ、ありがと」と小春に手渡した。
「ネットですぐ見つかると思うよっ。今、メールで送った」
「サンキュー」
私は、机の椅子に、よいしょと深く腰かける。「母に言って買ってもらうわ」
「で、神沢君とはどうなの?」
小春は勉強机の椅子に座りながら振り向いた。
まあバレてるよな、と思った。
毎日、学校行くとかあからさまだし。一応、「だから、そんなんじゃないって」とは言っておく。
正直なところ自分でもよくわからない。恋愛とかいわれたって。
あ、降ってきた。
急いで小春の家から走り出す。
想定内だったとはいえ、夏期講習のテストの結果が思わしくなかった。
その焦りが伝わったのだろう、小春は心配してくれたのだ。
『神沢君に気持ち伝えてみたら?』
いやいや、気持ちもなにも伝えるって何を? え、好きなのっ? 想像しただけで身体が破裂しそうだった。
『だって、地球滅亡しちゃうんでしょ?』
星は落ちて来ますが、大丈夫なんだと信じましょうよ……。
昔から小春はよく私の核心をついてくる。
地球滅亡=終わり。
滅亡しない=受験。
すなわち勉強はしとけ。
気持ち伝えれば、ハッピーにしろバッドにしろ、勉強に集中できるだろ、と言いたいのだと思う。
まあ、おっしゃる通りではある。
小春には、お父さん絡みの話は一切していなかった。
勉強の妨げになるようなことはしたくないから。
「ただいま」
玄関に踏み入れると、足下にお母さんの靴が三足転がっていた。今朝、皆の分もまとめて整理整頓したばかりなのに。
私は全て靴の向きを揃えてから、洗面所へ向かい手を洗う。お母さんはいると、気配でわかった。
参考書を買ってもらうように頼まなければならない。説得をする材料を頭の中でいくつか用意をしながらリビングのドアを開けた。
それはまるで、ゴミ山のボス猿のようだった。
「ちょっと来なさい」
入るなり、お母さんに呼ばれる。床に散らかった物たちと、くっちゃくちゃの洗濯物たち中にあるソファに片膝を立てて座っている。
私は神妙な面持ちで向かった。「何?」
お母さんが眉のしわを深くしてダイニングテーブルに足を進め、タブレット端末を手に取ると、私に差し出した。
タブレットの画面は、夏期講習の基本集計だった。全科目の講習内容が色を交えて一覧になっており、私の不出来さは一目でわかった。
「あんた、こんなんでどうするつもり?」
はあ、とため息が漏れた。一瞬にしてやる気が失せた。「わかってる」
「わかってるって、あんた」
再びタブレットを私に見せてきた。自分では、国語の数字のみ著しいだけで、その他は頑張った方だ、と思っている。
しかし主のボルテージは高まる一方だった。
「ねえ、ほんとにわかってんの?」
どうしてこの人はいつも高圧的なのだろうか。威圧的な語尾が、気に入らない。お母さんの声が不協和音を奏で始めた。
「計画通りだから大丈夫だって。てか人の物、勝手に見ないでよ」
国語は後半にかけて集中して勉強するつもりだった。そのために小春の家まで行って参考書を確認してきた。なのに、こいつは何を言ってるんだ。
「来週には十月で、二月なんてあっという間よ」
「わかってるってっ」
そんなことは言われなくたって、わかっている。
言いたいことがあるのなら早急に終わらせてほしい。あなたと違って私は忙しいのだから。
「で、何? 勉強すればいいんでしょ? わかったからもう部屋行っていい? この時間がもったいないし」
私は駆られる衝動を抑えるように吐き捨て、お母さんに背を向けると、「待ちなさいっ」
お母さんはさらに語調を強めた。
「私は七海の心配をしてるのっ。最近、勉強に集中できてないんじゃないの?」
は? 何? 心配って……
自分のためでしょ?
もうこれ以上この人と関わりたくない。
「だから、ちゃんと計画通りやってるって。今だけ少し、やりたいことを優先させてるだけだから」
「一体何よ? 受験より優先って」
どうせ中学生のやりたいことなんてたいしたことではないと思ってるのだろう、と馬鹿にされた気がして徐々に苛立ちが湧き上がってきた。
「お母さんには関係ないからっ」
私はリビングをあとにしようとする。
「まだ話は終わってないっ」
今日一番の声は、私の鼓膜を破壊し、家を揺るがした。
そして苛立ちを爆発させた。
私は星宮家のために、自分の気持ちを押し殺して家事を手伝ってきたはずだ。なのにこんな仕打ちは何?
「さっきから何なの? はっきり言ってよ! 勉強するって言ってんじゃん!」
玄関ドアのベルの音がしてから、快晴がリビングへ入ってきた。「一体全体何ごと? どしたの?」
私がこれほどにまで発狂したことなど記憶にない。不思議な顔をしているのは当然だった。
でも、私の気持ちは収まらなかった。思いのままにぶちまけた。
「てか、こんなくっちゃくちゃな部屋で、偉そうに言わないでっ。玄関の靴だって何で毎日片付けられないの? 今日の朝、私がお母さんたちの分まで整理したのさえ気づいてないの? お父さんがルール作ったじゃん、玄関に出していい靴は一人一足までって。毎週ボール打ち込んでる暇あるんだったら掃除してよね! それに学校だって毎日行ってんだし文句言わないでよ!」
そもそも、私は、思い立ったら振り切るように努力しているのに、いつだってお母さんが、不安を助長させるようなことを言ってくる。ただでさえ心配性なのに。
「てか、いつも思うんだけど、何であれもこれも親だからって言うことを聞かないといけないわけ?」
この人の言葉は呪縛のようにがんじがらめにまとわりついてくる。
「何よその態度はっ」お母さんが荒げてこっちを見た。「あんたの心配してやってんでしょーがっ」
「だからそれが余計なお世話だって言ってんの」
この人は自分の自尊心を保つために心配してるだけだ。ほんとに心配してくれるなら、こんな威圧的に従えさせる必要なんてないのだから。
「自分のためでしょ!」
これ以上、お母さんの思い描く世界に引っ張られるなんてごめんだ。
お母さんはいっそう奴隷を従えさせるような口調で言った。
「受かってから言いなさい!」
だめだ。
やっぱこの人は。
論点もくそもない。
自分が王様だかなにかだと勘違いしている。
話すだけ無駄だ。こんな暴君。
お母さんはさらに、この場を立ち去ろうとする私を呼び止めるように投げかける。「あんたが最近、夜遅くまでふらふら、ほっつき歩いてるからいけないんでしょうが」
は? 何それ。ひょっとして神沢のこと言ってんの? もしかして言いたかったことってそれ?
沸点は限界を突破して、私は怒鳴った。
「もうほっといて!」
そのままリビングを飛び出し、階段を駆け上がると、和室の引き戸を思いっきり開き、中に足を踏み入れるなり叩き閉めた。
はあはあはあ。
怒りが収まらん。
呼吸が乱れる。
まさか一カ月も前の話を持ち出してくるなんて。
きっと重さんだ。前に、天体観測のあとに、神沢と一緒に帰宅ところを重さんに目撃されていると、小春に忠告を受けた。
——くそっ。
こんな状態で勉強なんてできるかっ。
何かこの激情を鎮める材料はないかと、あちこち本棚を見て回る。しかし視覚と気持ちが、はちゃめちゃで、本の題名を目にしたところで、脳はいっこうに認識しない。
階下からは、お母さんが快晴相手にぶつぶつ文句を言っているのが聞こえてきた。
私は頭を掻きむしる。
全くもって止む気配のない不快な声質と声量に、あーーなんであいつはいつもあーなんだ、と更に怒りが増幅した。
お父さんのせいだ。
お父さんが甘やかすから、あんな悪魔みたいに仕上がったんだ。
感情のまま本棚を蹴り飛ばした。「痛っーーー」
つま先に激痛が走った。
そして、あーーーーと心の中で叫び倒すと、激昂した行き場のない感情は更に拍車をかけ、震える手に持っていたスマホを投げつけた。
「ふざけんなっ!」
すると、ぼんっと生温い音と共にスマホが消える。
やってしまった……
私は罪悪感と共に襖に近づき、くすんだ白色に握り拳ほどの黒い穴を確認する。
何度、瞬いても確定された事実は覆らなかった。スマホはものの見事に押入れの襖を貫通していた。
まずスマホの生存を願った。大破していたら最悪だ。急に絶望感に襲われた。
でも、ふと押入れの中身が気になった。
ここには何が入ってるんだ?
気に留めたこともなかった。
幼い頃から、お母さんに、物を押し込んであるから開けるな、と言われていた。でも好奇心が勝り襖の引き手に手をかけた。
何に引っかかっているのだろうか。ちょっとの隙間程度にしか開かなかった。こうなってくると意地でも開けたくなる。
今度は両手を使い、襖を思いっきり引き開けた。
「いたい」
何かが頭に落ちてきた。
押入れの中は、たくさんの収納ボックスをはじめ季節もの家電や布団などで、めいいっぱいに埋め尽くされていた。
おそらく、あれだ。
視線を上げると、小包み程度の段ボール箱が一番上にねじ込まれており、溢れるほど詰め込まれた物が落下したのだと予想できた。
足元には封筒が三通。これは——
手に取ると、お父さんからの手紙だった。毎年、私と快晴の誕生日に届いていた。
不思議に思った。
『もうこの手紙で終わりだって』
と、以前お母さんからそう告げられた手紙を最後に、手紙は届いていないはずだった。
でも、これは私宛てで、文字は全て英語。封はそのままで日付は三年前。
謎は深まる。
あの箱の中に他の手紙が?
私は上げた視線をもう一度足元に戻した。
あれ、これ見たことがある……
足元に落ちたもう一通の封筒を手に取り、記憶をたどった。
間違いない……
それは、最後と言われた手紙だった。
お母さんは、この英語をスマホで翻訳していた。私は小学四年だった。
何だろ……
胸の奥がざわざわと騒ぎ始めた。
この封筒にポジティブな感情は一切ない。もちろん経験なんてないけど、寝首をかかれる思いで恐る恐る中に入った手紙に目を通した。
次の瞬間、私は引き戸を叩き開けると、部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。
何これ?
心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。
そのままの勢いでリビングの中へ入って行く。
「お母さんっ! これは何っ?」
私は常軌を逸する顔をしていたのだろう。地べたに座って洗濯物をたたんでいた二人は、ぽかんと口を開けたままだった。
「ちょっとあんた、まだ文句ある気?」
お母さんは、平静を取り繕うように洗濯物をたたみ始めた。
私は手紙を見せる。
「これ、ちゃんと説明してよねっ」
バツが悪いのか、お母さんと快晴は顔を見合わせるけど「ああ七海には言ってなかったわね」と口にするだけだった。
私はこの歯切れの悪さにイライラする。
この感じ。快晴はすでに知っていた様子だった。意気揚々と毎日酸素を吸っていた自分が馬鹿みたいだ。
そしてこのピリついた空気に耐えかねた快晴が立ち上がった。「七海。それさ」
「何っ⁈」
殺意がこもった睨みに快晴は口をつぐむ。
納得がいかない。
どうしてこんな大事なことを私だけに黙ってたんだ。
酷すぎる。
もう何も聞きたくない。
「もういいっ!」
私はリビングを飛び出し、家を出た。
くそ……
くそ、くそ、くそ、くそ——
大粒の雨が容赦なく降りかかる。
制服はずぶ濡れで、髪の先から足の先っぽまで不快感が纏わりつく。
時折やってくる突風と豪雨に横殴りにされる度に無力感と破壊的衝動に駆られ、怒りに火を注いだ。
だめだ。目に付くもの全てをぶち壊してしまいそうだ。
傘を差しのらりくらりと歩いてやってくる老害に、心の中で、邪魔だ、私の道を遮るな、とすれ違いざまに怒鳴りつける。
対岸に打ち寄せられる波のように、胸の内だけが騒ぐ。立ち止まって、目を閉じ、衝動を無理矢理にでも抑え込もうとするも、たくさんの偽善の言葉で頭の中が押しつぶされそうだった。
それでも私は行くあてもなく歩いて行く——