2話 猫.2
起きたらまず歯を磨く。
私はお父さんの教えをずっと守っていた。
これはのちに知ったことだけど、虫歯の菌を食前に減らすと、食べ物を口にしても元凶の菌が減って酸が生じにくくなるのだが、歯磨きしないで食べると酸性度が一気に高まるからダメージ大なのだという。
私は合理的な人間である。
得意げに普段よりも要領よく歯を磨き終え、床に落ちてる靴下を足でひょいっと器用に上げ、洗濯カゴへと入れる。
これも私の日課だ。人の脱いだ物を入れる。まさに奴隷といっても過言ではない。そしてタオルで鏡を満遍なく拭きあげ、リビングへ向かう。
やたらと良い匂いがした。焼けたパンだ。キッチンからは、おはよう、と言う声もした。
お母さんは慌ただしく朝ご飯の準備をしている。艶やかな唇と、整えられた明るめの髪。おそらく、今日は朝から仕事なのだろう。お母さんは飲食店とアパレルショップのバイトをしている。
覚悟を決め、高圧的な空気に動じることなく足を進める。足先に引っかかった服も、なんのその。ソファーの上に散乱した脱ぎっぱなしの衣服も、なんのその。何枚も目に飛び込んできたけど、何食わぬ顔でスルーした。
でも、少々間違いを犯してしまう。
好奇心から、普段制御してるフィルターを解除しまったのだ。目を凝らしてしまう。
——衝撃的だった。
リビングを見渡せば、口がぱっかり空いたカバンに使いかけの化粧ポーチ。爪切りからメガネ。お菓子の空箱も数えきれない。あの飲みかけのコップとペットボトルは何? 何日前の? 片足のスリッパに靴下——え? カバン、何個使ってんの? ぱっと見、五、六個は転がっている。
私はそっと眼圧を高め、制御フィルターをかけるのであった。
——この家は、私がどうこうしたところで何も変わらない。
「痛っ」
制御フィルターをかけたせいだ。食卓に足を運ぶ途中で、転がっていた掃除機に足をぶつけた。すぐさま蹴り飛ばし、更に足が痛くなってきて、もうなんだか泣きたくなるけど、はあ、と息を吐いてから掃除機を隅に寄せることにした。
今日の私は機嫌が良いのだから。
「七、おはよー」
「おはよ」
どうやら、対照的にやる気のない私の挨拶が気に食わない様子だった。私はテーブルの椅子に腰かける。
「早いとこ夏期講習の申込しなさいよー」
「はいはい」
やろうと思っていたことを言われるとイラっとくるのは何故だろう。私も負けじと気に食わぬ顔をしてやる。
「はい、は一回でよし!」
つくづく癇にさわる奴。三倍返しでイライラが返ってきた。
かろうじうて気持ちは保つが、私の防衛機制が反射的に張り巡ったのがわかった。
私は中学三年生で、受験生真っ只中であり、焦りだす大人たちは悪である。がんばれ、大丈夫、なんて言葉は不安を掻き立てるだけで、がんばってるし、大丈夫なわけがない。
この不安から解放されている時間はとっても貴重で、お願いだから黙っててくれ。
すかさずスマホを手に取って画面をタップした。
でも、お母さんの縦横無尽に鳴り続ける音が不快で、全く情報が頭に入ってこなかった。
何回キッチンとリビングを行き来すれば気がすむのだろう。お母さんは、手当たり次第に行ったり来たりと繰り返していた。
視線を落とすとコップには牛乳が一口にも満たないくらい入っているところを見るに、おそらく注いでいる途中でクリームスープの方が気になって、慌てて牛乳を手にしたまま駆け寄った。そんなところだろう。
キッチンから漂ってくる牛乳とキノコの香りで、そう察した。
この人には段取りという概念はない。しっちゃかめっちゃか、という言葉がピッタリだった。
本人いわく干支のせいらしいけど。
——猪突猛進。
見たまんまでお似合いだ。ふっ、と思わず唇の端が上がった。
「いただきまーす」
私は、そっとカウンターの上にあった牛乳をコップに注ぎ、元の位置に戻してから、厚切りのトーストにバターをべったりつけ口に入れる。でも——何故か冷たかった。
パンが冷めているせいでバターが溶けないことに気づいた。しかたなくクリームスープで口直しすることにして、これは間違いないな……と思いながら、もう一度飲んだ。
そのときだった。
バタン、という大きな音と、キッチンから只ならぬ気配、そして同時に冷蔵庫を閉める音がした。
私は即座に防御バリアをフルパワーにした。
「快晴ーー! 快晴ーー!」
私が何かを思う前に、お母さんはリビングを勢い良く飛び出していた。
「快晴ー! いいかげんにしなさいよー! もう八時よー!」
更にギアを上げ二階へ向けて声を張り上げている。
時計の針は、まだ六時半手前だった。私の頭の中は冷静だ。触らぬ神に祟りなし、と繰り返していた。やはり、今日の私は機嫌が良いのだろう。
このあとの展開は予想できた。
「一体、何事なの?」
慌ただしく快晴がやってきたけど、私は、お前事だよ、と思うだけで無言をつらぬいた。
「おはよ。とっとと食べちゃいなさい。また遅刻するわよ」
キッチンからの強い口調に、おはよ、と声を溢ししてから快晴は席に着く。
しれーっと視線を上げると、快晴は、ぼけーっと一点を見つめている。
このお地蔵さまみたいなのが、私の志望校に通ってるとは信じられなかった。髪の毛は寝癖でボサボサ。頭を掻きながら大きくあくびをしている。——歯磨けよ、と思った。
さて、今度は何だ?
キッチンからは、ガシャン、ガシャンと、狂気的な音が聞こえる。食器が何度も何度も繰り返し重なり始めた。沸々と邪気が漏れ出してきたことを感じた。
「ごちそうさま」
すぐに察した。最後のトーストを一気に牛乳で流し込み、食器を手早くキッチンに持って行く。
「夏期講習、忘れちゃだめよ!」
「はいはい」
「はい、は一回!」
ぶつぶつと小言が聞こえるキッチンを向こうに、私は足早に立ち去る。
——うるさ。
二階まで聞こえる。あーでもこーでもない。やりっぱなし、出しっぱなし。片付けろとか、どの口が言ってんだ。お母さんは思ったことは口に出さないと気が済まない性分で、とにかく角が立った。
そして本人で自覚しているところが、また腹立たしい。どうやら私と相反して、お母さんの機嫌は悪い。
まあ、お腹が空いただけで当たり散らしてくるような人だから、どーせ大した理由なんてないだろうけど。
名言が降りてきた。
『人の振り見て我が振り直せ』
先人たちの知恵が凝縮された言葉に、少し優越感を感じつつベッドに腰を下ろした。陰気臭い空気を外へと控えめに開けた窓からは、癖のある匂いがした。
ずっと雨ばかりというのもあるけれど、いつぶりにだろうか。空が青いとか考えたのは。
スマホを操作すると、予報は今夜からまた雨マークがついていた。
左から右へゆっくりと流れる雲を窓ガラスごしに見つめていると、前髪が気になった。
もう少し可愛い髪型にならないだろうか、とガラスにうっすらと映る自分を見て思った。
癖が強いせいか、思ってるようにならないのが不満だった。
——ん?
閉じようと窓に手をかけたとき、何かを感じた。
何だろ? 水滴のキラキラではなくて、別の何かだ。異物が紛れ込んだような、何か。
でも、時間が気がかりで、その辺の小鳥かなと、強引に記憶に刷り込ませスマホを手にする。でも——
やっぱり気になった。
結局、外を見た。
その瞬間、そこの色彩には似つかわしくない物体が、すぐ目にとまる。
黒猫。
それは木の幹にひょこんとつかまって異様な雰囲気を醸し出していた。
猫は、ただただこちらを直視している。私に興味があるのだろうか。
ずっと見られると目を逸らしたくなくなる。この、無駄に負けず嫌いな性格。早く大人になりたいと常々思う。
ほんとに何なんだろう。
決して愛想が良いという印象ではない。どちらかといえば、ふてぶてしく、感じが悪い。そのせいで私は声をかけるか迷っている。あと、躊躇したのは、一瞬で逃げられ、この時間が終わってしまうのがもったいないな、とも思い始めていた。
結果、窓を開けて手招きしてみることにした。
すると、「ミャオ」と鳴く。
こいつ……なんか、かわいい。よく見ると、ドヤ顔で憎めない顔してる。謎の直視は継続中ではあるけど。
黒猫で、ふと頭に浮かんだ。
ほうきと女の子。私が想像する黒猫といえば……
魔女の猫。
「ミャオ」
こんなに愛想は悪くないか。サイズも一回り大きかった。
魔女の猫は、ゆっくりと自分よりも細い枝を伝って向かってくる。怖くないのかなと心配したけど、そんなことは微塵も感じさせなかった。
そして手を伸ばせば触れられるくらいのところで止まった。
「きれー……」
輝く海をそのまま閉じ込めたような透明感あふれるブルーに、ぼわっと白い雲のようなシラーぽい光が浮かんでいた。透き通った瞳に吸い込まれそうだった。
ふと、目を落として、これと瓜二つだなと思った。
左腕には小粒のアクアマリンと透明な水晶が繋がった天然石のブレスレットが巻かれている。
アクアマリンの語源は水と海。私は勝手に自分の名前を意識して、これは自分のためにある石だと思っていた。
好きな色は? と聞かれれば、当然、青色だ。
魔女の猫は、相も変わらず直視していた。
何か言いたげだけど、そうでもなさそうな表情。
私は意味なんてあるはずもないのに、このイベントの意味を探していた。
餌? そう思ったが、ミャオと鳴く様を目にして、すぐに絶対違う、と思った。
ひたすら意味深な合図を送り続けるキャラクター。運命の出会い?
てか、こいつは味方? 見た感じそうは思えなかった。どちらかといえば闇臭が強い。
渾身の視線をじぃーと送り返してやった。するとチャイムが鳴った。
——小春だ。
出発時間を五分も過ぎていた。慌てて身支度を済ませ部屋を飛び出した。
階下では主が大暴れしている。
「七ーー! 七ーー! お迎えよーー! 七ーー! 七ーー!」
ここは動物園か。
たく、うるさいな。お母さんの声が家中に響き渡っている。
「——やば」
学校に付けて行くわけにはいかない。急いで戻りブレスレットを机に置くと、すでに駆け出していた。音速の音を立てて階段を駆け下り「行ってきまーす」と家を出た。