34話 一期一会
剣道は礼に始まり礼に終わる——
子供の頃に何度も教わった言葉だ。
礼をする場面は三つあった。
一つ目は、道場に入るときと出るときに道場への敬意を表すために行う礼。二つ目は、稽古の始めと終わりに指導者と仲間への敬意を表すために行う礼。そして三つ目は、稽古と試合で相手と向き合うときの始めと終わりに行う礼。
礼をすることで、感謝の気持ちや相手を思いやる気持ちを表すのだという——
弾んだ声を耳にして、私はほっと一安心した。
「あ、あったー。星宮、ここじゃないっ?」
半ば強引に連れて来てしまった。少しばかり心配していた。
でも、神沢も前向きに捉えてくれているようだった。
——よかった。
すみばあちゃんのマンションの近所にある公園の、敷地内の隅の方にある地域のコミュニティセンターと児童館の、横に隣接している道場。
間違いない、ここだ。
「何とか間に合ったー」
私は神沢と視線を合わせ、見ていたスマホの地図アプリを閉じた。
「扉、開いてるけど入っちゃっていいのかな?」
私は、うーん、と声を漏らし辺りを見回した。「入って平気だと思うけど……」
中からは、子供たちの血気盛んなかけ声が聞こえてくる。すみばあちゃんの気迫のこもった声も。
おそらく稽古の真っ只中なのだろう。私は控えめに道場の中を覗き込んだ。
幼稚園児かな……
竹刀を手にした稽古着姿の子供たちが男女十人ほど。指導をしているのは、すみばあちゃんと、お父さんの弟の圭さん。仕事の合間だろうか。圭さんはいつも作業服みたいな格好をしていた。
呼吸をすると、剣道独特の匂いがして、ああ道場にきたなあ、と思った。
圭さんと目が合った。手を上げ、おおー、と稽古を妨げないくらいに言い、駆け寄ってくる。
ちょっとばかりわざとらしい動作が憎めなかった。
「七海ちゃーん。久しぶりだなー。ほらほら中、入って見学してって。おっ、彼氏さんも入って入って」
彼氏ということを否定する間もなく、私たちは靴を脱いでから、入る前に一礼し、勢いのまま板張りの床へと足を踏み入れる。
神沢は、あははと少し気まずそうに微笑んでいた。
「この辺で見てて」
圭さんは子供たちの指導へと戻って行き、私たちは、見学している数人の保護者と同じように、隅に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。目が合って、すみばあちゃんは私に、にこりと笑う。
広さはおよそ学校の教室二個分。上座といわれる道場の正面には『一期一会』と看板みたい大きな文字が掲げられていた。
横には太鼓も見える。ああ、クーラー完備はありがたい。
顔を真っ赤にして竹刀を振り上げる子供たち。
かけ声はボタンの掛け違いみたいではあるけど、皆すみばあちゃんの声に、めんっ、と一生懸命に合わせようとしている気持ちが伝わってきて、私も心の中で、面を打つ。
そして知らず知らずのうちに、私は過去の自身の経験と無意識にだぶらせていた——
稽古は終わり最後に黙想をする。見学の保護者たちも皆一緒に目を瞑っていた。確認をしなくても皆が姿勢を正したのがわかった。
道場全体的に、ぴっとした空気が流れた。
子供たちは皆、親しげにすみばあちゃんに声をかけ、お礼を言って帰って行く。保護者の人たちも同じで、丁重に頭を下げて話し込んでいた。
私には、皆すみばあちゃんを必要としているように映った。
私たちの方を向き、ごめんね、と口には出さないけど、手を合わせているすみばあちゃんの顔は、なんだか生き生きとしていて嬉しくも思った。
「ごめんねー。お待たせー」
ことを終えたすみばあちゃんが、私たちのところへやってきた頃には、片付けも大方終わっていた。私と神沢も圭さんの動きを倣って、椅子の片付けを手伝った。
「はじめまして。神沢です」
神沢がすぐさま頭を下げ挨拶をすると、すみばあちゃんも「はじめまして。七海の祖母の、すみです」と言葉を交わす。
「片付けありがとー」
いやいや、いえいえ、と私たちは謙遜する。
「嬉しいわ~。まさか今日来てくれるなんて」
何だか昨日のすみばあちゃんより背筋が伸びている気がした。
「ちょっと近くまで用事があったから、行っちゃえ、と思ってさ。急でごめんね」
それから、神沢も剣道経験者だって聞いてたからと、私はさりげなく二人の仲をとり持った。
「そうなの? お父さんに教えてもらったの?」
「はい。三才から始めて小学五年生の最後までやってました」
私と神沢の剣道歴は似たようなものだった。
ここでふと、外から風が入ってきて、防具の匂いを思い出した。汗のせいかわからないけど、腐ったカビのような感じ……
それを皮切りに、私の頭の中は剣道に関する黒い言葉で一杯になった。
焦げ臭い、煙臭い、外したあと身体中臭い。手が臭い。洗っても取れない。石けんと混ざるとさらに臭い。
ああ、夏は暑すぎだし、冬は寒い。テレビ見たかったー……習い事の時間は、ちょうど私がはまっていた教育番組の時間だった。
どうやら、これらのどす黒い感情は人間同様に、負のエネルギー同士がくっつき合いを求め増殖していく傾向があるように思えた。
悪い魔女が夜な夜な劇薬を煮詰めている鍋の中みたく、グツグツと感情が湧いて出てくる。
ろくなもんじゃないな。
でも——
「それはいいわ! どお? 二人もちょっとだけやってたら?」
すみばあちゃんの問いに、神沢はきらきらした瞳で答える。
「え、いいんですか⁈ ぜひやりたいです!」
まじか、と私は面を食らう。
奥の部屋にある竹刀を使っていいと言うので二人で足を運ぶと、そこは防具や備品などがある倉庫みたいな場所だった。二人で懐かしがったあとに、神沢は背を向けた。
「ねえ? 昔、これで遊ばなかった?」
これとは何ぞや? と思い、私は神沢の方に行った。
すると神沢は突然振り返ると、私の鼻に小手をぴたりとくっ付けてきた。
「ちょっ、くさっ!」
神沢は悪ぶれることもなく、にやにやと憎たらしい顔をしている。
私もすぐさまやり返した。
「臭いってっ」神沢も笑いながら応戦してくる。
昔、同じように快晴と小手でふざけ合った記憶がある……
「こら。防具で遊ばない!」
さぞ、うるさかったのだろう。私たちは、すみばあちゃんにお叱り受けた。
当時もこんな感じで、お父さんに注意された。
ひょっとしたら、黒色の感情は……
気持ち一つで、赤にも黄色にだって変わるのかもしれない。
剣道は礼に始まり礼に終わる。まずは正座をして黙想をする。
一瞬にして道場は、しんと静まり緊張した空気に包まれた。
集中力を高め心を鎮める。そして少しして太鼓がなり、叩き終えたすみばあちゃんが私たちの前へと戻って来ると、つむっていた目を開け、背筋を伸ばしたまま、正面の上座へ礼をしてから、すみばあちゃんへ礼をする。
横目で見える神沢の所作が最もすぎて、過去に習ったことが断片的にしか思い出せず、辿々しい動きしかできない自分が恥ずかしく思えた。
すみばあちゃんが話し始める。その一つ一つ丁寧に発せられる言葉からは、かつての厳格さを思い起こさせた。
上座に掲げられた『一期一会』とは、一生に一度限りの機会という意味で、『一期』とは一生、『一会』とは一度の出会いのことなのだという。何度も会う機会がある人に対しても、常に『これが最後かもしれない』と考え、そのときを大切にしてほしいという、すみばあちゃんの思いが込められているそうだ。
歳を取るにつれて、今までできていたことが段々と困難になっていく自分を受け入れられず塞ぎ込んでいた時期に、この言葉によって救われたんだと。人生は人の縁と縁が糸のように織り成してできている——
「ありがとうございましたー」
だいぶ端折ったという十五分くらいの稽古はあっという間に過ぎ、終わりも始まり同様、正座、黙想、先生に礼、正面に礼、という順番で締めくくる頃には汗だくになっていた。
稽古は簡単な素振りだけだったけど、気がつけば次第に余計なことは一切考えず無心に竹刀を振りかぶっていた。神沢も同じだったと思う。
精悍な表情から伝わってきた。
防具は付けなくて正解だった。すみばあちゃんに勧められたけど、そこは必死に抵抗した。
「はーい、お疲れさーん」
圭さんが手を叩きながら道場の中へ戻ってきた。「ほらー疲れたでしょー? これ飲んで飲んでー」
私と神沢は、「ありがとう」「ありがとうございます」と圭さんからペットボトルを受け取った。
「ほら、お母さんもこれ」
「あら気が利くわね。ありがとう」
すみばあちゃんもペットボトルを手にする。
皆で蓋を開けて水を飲んだ。一斉に、美味しい、の声が出る。
「で、このあとはどうするの?」
圭さんが訊くと、すみばあちゃんは「あ、悪いけど座布団持ってきてちょーだい」と言った。
圭さんは、へーい、と返事をして防具が置いてあった奥の部屋へと向かった。
「え? 座布団?」
私はすみばあちゃんの顔を見た。
すると、すみばあちゃんは優しく微笑んでから言葉にした。
「鹿毛家をみくびっちゃだめよ~」
いつものすみばあちゃんだった。