32話 惑星キラー
今日は、早朝からお母さんはいない。一日中ママさんバレーの試合だと聞いていた。呑気なもんである。
前髪を念入りに整える。服は何着も試着を繰り返し、当たり障りのないジーンズとTシャツに落ち着いた。ハンカチ、ティッシュ、タオルをリュックに入れ、手首にブレスレットを巻いてから家を出た。
異性と二人きりで出かけるなんて、生まれてこの方初めてだった。私は少しばかり緊張している。「おはよー」
星崎駅の改札口の前で待っていた神沢に声をかけた。
「星宮、おはよ」
軽く手を上げ、返ってきた声は、まるで高原の清々しい朝を思い起こした。その普段と変わらない出立は、私の気持ちを一気に楽にした。装いもベージュのパンツにTシャツとシンプルだ。
大学への道のりは、星崎駅から四つ目の駅で地下鉄に乗り換え、七つ先のN大学駅で下車する。電車の椅子に腰を下ろしてから、スマホアプリで改めて確認をした。
土曜日かつ早い時間とあって、電車は空いていた。
目的地までの到着予測はおよそ三十六分程度となっていたけど全く気に留めなかった。
——神沢の予測が事実なら、人類の危機だ。
その直面している危機。いや、空気感みないなものを、お互い何となく意識しているためもあるのか、全くと言っていいほど、人類にとってはどうでもいい話ばかりが続いていた。
「何それ! ほんと? そのあとどうなったん?」
私が笑うと、ははっと神沢も微笑む。
神沢のクラスの学級委員は、月に一回ふらっと登校して来るだけの男子なのだという。私よりタチが悪い。
「立候補した生徒を強制的に辞めろとは言えないらしく、皆んなで、代わりばんこになって学級委員やってるよ」
「強く言えないとか、先生かわいそー。ほんと変な世の中だよね~」
「星宮がそんなこと言ってるんだからねー。変な時代だっ」
やっぱ学校を休んでるの神沢にバレてたか。
笑いながら言う神沢に、私は「わたしは週に一、二回は行ってますぅー」と、ふくれて言い返したときには、もう二人で笑い合っていた。
「神沢君と星宮さん? はじめまして、広野です」
N大学キャンパスの正門? だか東門なのかは私にはわからないが(入口たくさんありすぎ)指定された入口で、神沢が到着のメールを送ると、すぐに学生? 研究員? らしき女の人が来てくれた。
私が挙動不審なせいか、
「広くてよくわからないでしょう。私も最初は迷子になったから」
気にかけてくれたのだと思う。広野さんは、すごく気さくで感じの良い人だった。
キャンパス内は緑が多く整っていて、広場や芝生があり、何やら重厚な石造りの校舎や近代的な研究棟らしき物体もあちらこちら目に付いた。
学問の歴史というやつだろうか……案外、静かで落ち着いた雰囲気なのかもしれない。
ここが、お父さんが通っていた学校か——
私の心も次第に落ち着いていった。
ふと訊いてみた。
「夏休みでも皆さん大学に来るんですね?」
想像していた以上に人がたくさん行き交っていた。ずらーっと横並びのベンチでは、談笑をしている人たちも見えた。
「理学部や工学部だと卒論があるから、四年生なんかは夏、秋、冬、休みは基本的に朝から夕方、あるいは夜まで研究室に出勤してるかなー。私も徹夜明け」
訊いて何となく、広野さんは四年生の学生なのだと理解した。スマホの事前情報では、N大学の研究力の高さは、ノーベル賞の受賞者を複数輩出している実績にもつながっているとなっていたが、この人もそれに近き人なのだろうか。
目に付く人々が皆、すごい人に見えてくる。広野さんは「いつもは信じられないくらい人がもっといるけどね」とも付け足した。
辺りの垢抜けた学生とは少し様子が違い、広野さんの服装は動きやすい格好というのが適当か。
「ここが十一号館です」
言われた建物は古ぼけていた。広野さんの後ろを歩き階段を上って行く。窓からは街並みが見える。
都市部へやって来ると、急に自分がおしゃれになったかのように勘違いをしてしまう。隣の神沢は、やや緊張感があるようにも思えた。
私は、あ、と思い立ちもう一度、遠くの外に目をやった。昨日、目にした景色と類似していた。この辺りは、すみばあちゃんの家に割と近いのかもしれない。
会議室みたいなところ? 広野さんはドアを開け、どうぞ、と私たちを部屋の中へと誘導した。
随分とこじんまりとした空間だった。書類や資料みたいな物が溢れんばかりに詰め込まれた棚と、手前にPC類が設置された机が一つ。あと目の前に、かなり年季の入った灰色の六人掛けの机だけが目に付いた。
「そっち座って待っててください」
そう奥の椅子へと促し、広野さんは、「リザ教授呼んできますね」と、エアコンの電源を入れてから部屋をあとにした。
「なんか、えらい所に来ちゃったね。緊張してきた」
「同じく。おれも」
二人は真ん中の椅子を一つ空けるように腰を下ろす。おそらく教授は、向かいの真ん中の席に着くのだろう。
少しばかりの沈黙の間、部屋中に漂っていた昭和の匂いと共に過ごした。
トントン、とノックする音が聞こえて、ドアが開いた。
「ようこそ。はじめまして。リザです」
「は、はじめましてっ」私はすぐに椅子から腰を上げてから頭を下げ、名前を名乗った。神沢も同じだった。
「会えて嬉しいわっ」
リザ教授は、やや興奮気味に手を差し伸べて握手をする素振りをしたが「こんなご時世だからやめておきましょうか」と言い椅子に腰掛けた。
私たちもそれに習って腰を下ろした。
リザ・カスミール。アメリカ出身の宇宙物理学者。そのあまりに流暢な日本語は自然で、深く藍色の眼光は鋭く、閃きは知的で情熱的に映るけど、長い茶色の髪は、軽くウェーブがかかり、それが柔らかな肌と相まって、女性らしい気品を漂わせていた。
ただならぬオーラだった。
事前にインターネットで得た知識なんて次元の彼方へと吹っ飛んでしまう。
きっと、私がさっき行き交った人たちの誰よりもノーベル賞に近き人物なのだと、圧倒される。
そして——次の瞬間、
一瞬にして多次元の世界へと迷い込むこととなった。
「まず最初に。ここでの会話は全て盗聴されてると思って。いい?」
は、はあっ? 意味不明な問いかけに、呆気に取られる。
「どういうことですかっ?」と神沢。
当然、私と一緒の気持ちだった。
間を置くことなく、リザ教授は確信めいた口調で話し始めた。
「結論から言うと、神沢さんの主張は事実である、とだけ言っておこうか。AIを駆使して何億回とシュミレーションした結果、九十九%の確立で地球は滅亡する。それ故に危険な情報であるということ。と、私の思いは、これ以上この問題に関わらないでほしい。それだけ」
「じ、事実とわかってて、なぜニュースに取り上げられないのですか? 早急に政府機関に知らせるべきでは?」
神沢は今にも立ち上がりそうだった。
「隕石については父親から?」
そう含み笑みを吐いたリザ教授は、我が子を撫でるかのように見つめていた。目をつむり少しばかり考え込んだのちに、ふっ、と微笑んでから口を開く。
「……血は争えない。か」
リザ教授は嬉しそうな表情で続けた。
「数年前に……世界中のありとあらゆる機関に知らせた。あなたたちのお父さんが、ね」
神沢のお父さんもN大だったんだ……私のお父さんと親友だったのだから、何となく、そうなのではないのかなあ、とは心してはいたけど。
「おかげで、私たちは世界中の政府機関から監視される身となった……」
リザ教授は机の上にスマホを出すと呆れたような様子で言う。「これも監視対象ね」と。
困惑した私たちを尻目に、リザ教授は淡々と話を続けた。
私たちの父親二人は、N大学に入学してきた当初から巨大隕石の存在をほのめかし。後にそれが確信へと変わっていき、世界中に警告を続けたが、声は届くことはなく、リザ教授含めた三人で解決策を模索するようになったのだと言う。
「その頃から、何者かの研究を妨害する嫌がらせが続くようになり、研究費も止められ、私たちは表だった研究を辞めざるを得ない状況となった。そのあと星宮ひかるは大学を辞め別の道を模索した。しかし神沢守が死んだ年に姿を消した」
「父は一体どこにいるんですかっ?」
私は前のめりになっていた。こんな確信的な情報は初めてだ。
「残念だけど、私にはわからない」
リザ教授は口をつむる。
「ある時期から連絡が途絶えてしまったからね」
私も一気に谷底へと落とされた気持ちとなり口を閉ざした。
しばらく沈黙が流れ、リザ教授は、ただ、と言葉をこぼしたあとに口を開いた。
「一つ言えることは……。ひかるは素晴らしい研究者であったということ。彼は誰も思いつかないようなことを次から次へと創造し、それを実現するためにありとあらゆる人材を構築し、実現していった。皆、彼の言う言葉を疑う者なんていなかった。不思議なんだ……皆んな彼のことが大好きだった。守もその中の一人だったのだと思う。N大の研究室から、ずっと彼を支えていたから」
「その……解決策はみつかったんですかっ?」
語尾の強さで、神沢の熱量が隣から伝わってきた。
「ない」
「ミサイルで破壊するとか——」
私も神沢と同じことを考えた。現代の科学は、年々目まぐるしく進歩しているはずだ。
「まず一つ……」
リザ教授は念を押すように言葉をおいてから、浅はかな考えの私たちにわかるように諭した。
「隕石が人類の最大の脅威だ。このことはかねてから世界的に権威のあるイギリスの理論物理学者が警鐘を鳴らしており、世界中の研究者たちがその脅威のため準備をしている。私たちの宇宙望遠鏡が捉えたデータによると、太陽系に向かって進んでいる巨大な隕石は現在、地球から約三十二億キロメートルの距離にあり、核の幅は約百四十キロメートル。ただし、距離がまだずっと離れた場所にあるため、あくまでも推計値。ちなみにこれまでの観測史上最大の隕石は約百キロメートルだ」
——これを見つけたんだ。と、私は隣りで固唾を呑んで話を聞いている神沢を尊敬した。
「私たちは太陽系のはるか遠くの暗くて見ることのできない何千もの小惑星がある中、非常に明るかったため巨大な隕石に違いないと確信した。そして驚愕した。……その速度にね。音が空気中に伝わる速度が毎秒三百四十メートル。一般的な隕石の落下速度は秒速数十キロメートル。マッハ三十程度だ。現在、最も速いミサイルの速度はマッハ二十そこそこ。今、向かってきている巨大隕石はその数十倍を超えるだろう」
リザ教授は眉を上げると困った表情で笑い、私たちこう投げかけた。
「正確な軌道を計算し、そこにミサイルを撃ち込むなんて想像がつく?」
何も返す言葉がなかった。誠意あるリザ教授の話は、まだどこか空想じみていた私の心に現実を叩きつけていた。いつも覗き込んで見ているスマホの中の人たちとは違う。
ここにリアルがあった。
「現代の化学技術によって、隕石の成分分析や化学反応の研究などが劇的なスピードで進化しているのは確かだ。落下日時の予測にも一定の精度が得られるようになった。隕石の放射性同位体を分析することで、隕石の年代を特定することもできる。隕石が宇宙空間で受ける太陽風や宇宙放射線などの影響も考慮し、落下までにかかる時間を予測する研究も進んでいる。……でも、複雑な大気圏での気象条件によって落下日時に変動が生じることがあることから、完全に正確な子測はまだ困難なんだよ」
圧倒的な講義を目の当たりにした私たちの顔が、捨てられた子犬にでも見えたのか、リザ教授の表情はそっと柔らかくなった。
「人類は、テクノロジーを駆使して全てを網羅した気になっているけど、現段階の常識的な科学なんて、まだその程度ね」
最後は女性っぽく笑ってみせた。
今から約六千六百万年前、『惑星キラー』と呼ばれる直径十キロの小惑星が地球に衝突し、ユカタン半島沖のメキシコ湾に直径二百メートルの『チチュルブ・クレーター』が出来た。チチュルブ衝突と呼ばれるこの衝突により、恐竜を含む当時地球上に生息していた全生物の七十六%が絶滅したとされる——
ちなみに、これは、私が事前に調べたスマホ情報。