30話 おばあちゃん
夏、冬休みは、すみばあちゃんの家に顔を出すことが、星宮家の恒例となっていた。
電車に乗り、六つほど過ぎた先の駅から十分くらい歩き、小高い丘を上って行くと見えてくる。
初めて一人で眼にする町並みは、より一層新鮮に映った。駅前は栄えているけど、自然豊かな大きめの公園がいくつかあり、都会過ぎない穏やかな雰囲気が、私好みである。
画面越しの世界で、何だか偉そうに全てを知った気になっていたけれど、自分の無知さ加減に辟易すると同時に、ほんとの世界は想像もつかないほど広いのだろうな。
なだらかな丘陵が続く閑静な住宅地を歩きながら、ふと思った。
「七海ちゃん、いらっしゃーいっ」
すみばあちゃんに、家の中へと丁重に招き入れられ、玄関からリビングへと向かうと、おいっ、と思わずつっこみを入れたくなるほど、私は自分の目を疑った。
「ワーオ! 相変わらず見事な眺めね~」
「はあ? 何でいるんっ⁈」
その後ろ姿からでも陽気さが伝わってくる老婆は、窓の外の景色を一望し終えるとら振り返り、ちょこっと舌を出して、てへっと笑い言った。
「マリアも来ちゃった」
「やっぱり綺麗なマンションは素敵ね~。十階とか憧れちゃう。すみちゃん、ここ築何年だったかしら?」
「あら、やだ妙子さん。たしか今年で十二年よ」
「みえないみえない~。内装も今どきの真っ白で素敵だし、日当たり良好ときて見晴らしも最高~。動植物園も見えるし」
「まあ、窓の外にこれだけ緑や青空があると、毎朝カーテンを開けるのは楽しみね。ベランダでちょっとしたピクニック気分を味わったりして、それだけで価値があるかもしれないわね~」
私たち三人はダイニングテーブルに向かい合って座っていた。
「これ。七海ちゃん来てくれるって言うからマドレーヌ焼いたの。食べましょ。七海ちゃんもコーヒーでよかったわよね?」
たしかに……
白色は圧迫感がなく空間を広く感じさせた。そして、これは美味い。お父さんの大好物だというマドレーヌ。
——自然の色調と相性がいいのかな?
私は歴史をゆっくりと噛み締めつつ、無彩色で主張しない壁を眺めながら二人の話を聞き流している。
所々に目につく、絶対に大事にされているのだろう観葉植物と、それこそ焼き菓子のような色をした木材の床。これらは部屋を柔らかく印象付けている気がした。アンティーク調の小物入れやトレイも目につく。側には猫やうさぎなどの動物がモチーフにされた雑貨も並ぶ。
何だか、すみばあちゃんのキャラクターとのギャップが可愛らしいなと笑みが溢れた。
ここで、コーヒーも一口。お、これはミルクたっぷりのカフェオレ。このあたりも、さすがだ。私は視線を二人に戻した。
——おそらく、あの事件をきっかけに二人は急接近したのだと思う。
去年、星宮家の三人で訪れた際、お父さんの嫌味ばかり言うお母さんに、すみばあちゃんが激高したのだ。あまりの修羅場に二度と関係の修復など不可能だと誰もが心していたけど、それを耳にしたマリアは、後日すみばあちゃんの家までやってきて、丁重に仲裁に入ったのだった。
「このお掃除ロボットちゃん、お値段するんじゃな~い?」
髪の毛一本落ちているだけで気になると言う人が、星宮家に来たら、間違いなく気絶するだろうな。
腰痛に肘痛、膝痛ときて老眼、さらに頻尿に白髪と抜け毛。先ほどから落ち葉マークを連想させる会話が続いていた。
どこどこの病院の先生の評判が良いとから悪いのだとか。よくもまあ、次から次へと。病院など無縁だと思わせるほどに、二人ははきはきとしていた。
ネガティブな言葉で、ちょっともたれ気味な私は、デジタルフォトフレームに目を向けた。そこには、家族の思い出が一定の間隔をあけて複数の写真として映し出されていた。
すみばあちゃんもお母さんも若い。快晴は生意気な顔をしている。これぞ、くそガキって感じだ。
十年も前か……
思えばお母さんキャンプ好きだったなあ、なんて毎年恒例行事と化していた記憶をたどった。
あ——
写真は移り変わり、画面で満面の笑みを浮かべているのは私だった。お父さんに肩車された浴衣姿の私は、袋一杯に入ったスーパーボールを手にしている。
何だか、何の疑いもなく笑う自分の姿が不思議だった。そのままその頃の記憶を少しずつ遡っていった。そして次の画面に注視する。
しかしマリアの声がそれを遮る形となった。「そうだ、すみちゃん」
「何?」
「前に話してた、お剣道の方はどうなの?」
剣道……すみばあちゃんは剣道の上級者で、私も経験者ではある。
「それが思いのほか楽しくってねっ」
すみばあちゃんの声は軽やかだった。
「あら、それはよかった。すみちゃん悩んでたから心配してたのよ~」
何やら私には初耳の話だった。私の思いも汲んでいるのだろう。すみばあちゃんは私に微笑んでから話し始めた。
ぽかぽかぽかぽか。陽気な空気に、ぽかぽかしている私……。
ちょっと雑だったかな?
公園のベンチにふんぞり返って座り、タバコの煙を吹き出すかのように空に向かって、息を吐き切る。
マリアの一言で、ドキっとしてしまった。『そろそろ夏も終わりね~』
過剰反応? そのあとは、社交辞令的な話ののち、夏休みも終わりだね、からの、『七ちゃんは始業式どうするの~?』だ。
さすがに被害妄想勃発しすぎか。
そんなに嫌味な人たちではないとわかっているのに。友ちゃんを探す口実で、外に出て来てしまった。
そう、私はいわゆる世間で言う、不登校児?
ではないか……おそらく。
まあ、先生が嫌とか、人間関係が嫌だとかネガティブなことは一切なく、ライトな方だとは自分では思っていた。気が向けば週に一、二日は登校しているし。
ただ単に、学校へ行って、皆で一緒に勉強することに意味を見出せていないだけだ。それに……
もう時期この空から、どでかい星落ちてくるんだろ?
受験勉強とか意味ないやん。
まあ……隕石が落ちてこなかったところで、意味など見出せるはずもないのだけど。
あー……眠むい……。
夜中まで、今日の分の勉強をやっていたせいで、あくびがこぼれた。
青空の上に白い雲。空の果てまで届きそうな輝く光。穏やかな風に、そよそよと揺れる木々の葉。鳥や虫、ベビーカーから聞こえてくる泣き声。
夕方前の空模様は、平和そのものだった……
はぁぁぁーと大きなあくびが漏れ出した。
「久しぶり。七海ちゃん」
声をかけられ、はっとしてから、私は少しばかりうたた寝をしていたのだと気がついた。すぐに、こんにちは、と挨拶をした。
「すみちゃんからメールがきてね——」
友ちゃんは、すみばあちゃんの妹で、色白に、ひょろっとした体型をしていて、常に気鬱気味な表情が特徴だった。IQはいわゆる天才と呼ばれる百三十を超えるらしい。
「すみばあちゃん、元気そうで良かった」
この人には無駄な会話は不必要だから、いつも全て直球でいく。私は歩きながら話しかけた。
「あー。たまにボケてるけど、まだ大丈夫だよ」
十、言わなくても、一で、全てを汲み取ってくれる、この感じが、私には楽でたまらなかった。
そうなんだ、と相槌を打つと、友ちゃんは答えた。
「このまま緩やかな症状が続くなら十年以上、生きてる患者さんも多いって先生言ってたし、まあ、そろそろ新薬もたくさん出てくると思う」
ちょっと安心した。昨年から、すみばあちゃんは軽度の認知症と診断をされていた。
私は早く治療薬ができることを祈った。十年の猶予があるのなら可能なはずだ。