26話 高鳴る鼓動.2
──カーカーカーカー……
私は朱色の鳥居の前に立っている。まだ空は薄暗いか。
静けさの中で叫き散らすカラスたちに、ちょっと足がすくんだが、周りを見渡す限りカラスしかいない。鳴き声は、まるで私を拒んでるかのように聞こえた。
でも、私は足を一歩踏み出す。
上等だ。
ケッケッと、カラスに声を投げつけ威嚇をして、昨日ここで焚きつけられた思いを呼び起こした。
私の邪魔をするな。
──一呼吸してから一礼し、軽快に鳥居をくぐって進んで行く。少しばかり朝日が射して朱色の圧力が増しているのがわかった。
草でひび割れた石垣の階段まで上がってくると、厳かな空気は随分と和らぎ、木々に降り注ぐ光によって神聖な雰囲気を引き立たせている。
しばらく時が立つのを忘れるほどに眩しかった。
今日は飲みもの持ってきた。私は得意げな笑みを浮かべ、ウエストポーチから水筒を取り出し、氷で冷えた水で熱を冷ます。
リズミカルな氷の音が足を軽やかに進ませる。
──再び参上っと。
思い切り良く坂を登りきり、朝日に目を細める。一瞬で空気が暖かくなったことを実感した。
もうじきかんかん照りになりそうだなと、ふと思い、目を見開くと自身の頭の中で想像していた景色との乖離に驚いた。
てっきり、土と石がゴロゴロと転がっているだけなのかと思っていた……
目先には、夜の雰囲気とはまるで違い、陽の光が広がる芝生を満遍なく照らしていて、風を纏う緑色が生き生きとしていた。
私は思いきり空気を吸い込んで呼吸を整えてから、遠くを見るように端から端まで視線を向けた。
あと、思った以上に広かった。
学校の校庭くらいはあるだろうか。
そして、あの大きくそびえ立つ木——
この空間で、あそこだけ異質な雰囲気を醸し出していた。
自然とそこに足が向かった。
近づくと、その存在感に圧倒された。
敷き詰められた緑の苔に、何本もぐるぐるとうねる太い幹。思わず見上げ、まさに巨木だと思った。
人間が手を回して掴めるとか掴めないとか、そんな次元じゃない。横幅だけでも、ざっと二メートルを越える。いったい何歳だ?
その生命力は、威厳と逞しさにあふれ、何か圧倒する雄大さがあった。
何だか自分なんか、ちっぽけで虫けらに思えた。
これはたしか……
しめ縄?
ということは、これは御神木?
木には今にもねじれ切れそうな古ぼけた太い縄が巻かれ、雷みたいなギザギザの白い紙がいくつか垂れ下がっていた。
ポーチに入っていたスマホで、ささっと『御神木』について調べてみると、『特別に神聖視される樹木。この世と神域の境に結界として立つとされる』とあった。
悠久の時の流れのパワーを肌で感じ身も心も引き締められる思いだった。
触っても平気かな……
私はゆっくりと距離を縮めた。するとふわりとどこか懐かしい癖のある匂いがして、そっと朝風にのっていく。
そのときだった、背後からいきなり、おはよ、と声がしたのは。
私は「おっ、おはようございます⁈」と、びくりと身体が硬直してしまい、そんな返事をしてしまう。
振り返ると神沢が微笑んで立っていた。「か神沢っ」
「朝、早いんだね」
「まっ、まあね」
と返事をする私は、突然のことで上の空だった。
「ちょっとごめん」
その上、あわよくばと期待はしていたものの、動揺は隠せず、一気に水筒の水を飲んでしまい、咳き込む始末だった。
「ごめん。突然、声をかけて」
しかも申し訳なさそうに口にするせいで、小さな咳をいくつか漏らしながら、水筒をポーチの中に押し込み、平気平気と、可能な限り平静を装って訊いた。
「神沢は天体観測?」
神沢の背中に、おそらく望遠鏡が入っているだろう黒色のケースが、先ほどから目についていた。
「あー、これは観測はしない。明るいうちに設置する位置なんかを確認しようと思って。お供えついでに」
神沢はそう答えると、ちょっといいかな? と背中のケースを足元に置いてから、私と入れ違いになるように御神木に身を寄せた。
何か願いごとでもあるのかな、と私は黙って神沢を見つめた。
呼吸が落ち着いてきたころ、私は剥き出しの太い根っこを目にして改めて驚いた。まるで汚れた人間たちを寄せつけないよう邪魔をしているようだった。
──あれは何だろ?
神沢の背中の先に何かが見えた。
お社みたいな?
それは木の根っこに埋もれるように存在していた。かろうじて、根の影響を受けていない、小さな冷蔵庫くらいの大きさの神棚みたいな部分だけ確認できた。あと小さな鏡もあるか。
神沢は手際よく手提げ袋から取り出し、それらを神棚みたいな所へと手を伸ばしている。
おそらく水とお米で、きっとこれがさっき言っていた、お供え物なのだろう。
「手伝おっか?」
何だか、むき出しの大きな根たちに行く手を阻まれ、お供え物を置く定位置までは、距離があるのか大変そうに見えた。
神沢はめいいっぱいに手を伸ばして、うーんうーん、とうなだれている。
「うーん……なんとか大丈夫かな」
そう答えるも、神沢はまだ木にへばりついている。
そんなに大変な思いをして何をお願いしたいのだろうか。合格祈願?
……いや、まだちょっと早い気もするな。
そもそもこのお社は、何の御利益があるのだろうか。謎は深まるばかりだった。
私はもう一度、全体的に巨木を大きく見上げるけど、そのまるで見下す稲妻のように広がる樹枝の枝枝に、一瞬で圧巻してしまう。
すると、「よし……」と声が聞こえ、視線を戻すと、こちらはまるで神官のようだった。
神沢は、これが本来の正しい姿勢なのだろうと思わせるようなたたずまいで手を合わせていた。
あまりの神々しさに悩む。手を合わせるべき? 私は空気を読もうとした。
——でも。ん? なんか図々しい? やっぱしないのが普通?
などと思考が巡り過ぎてよくわからなくなってしまい、無難にそっと右と左の手をくっつけた。
この場に漂う空気は、何だか神さまに見られているような、そんな不思議な気持ちにさせた。
神沢は、ふぅーと長い息を吐きながら立ち上がり振り返ると「しんどかったあー」と笑い飛ばす。
額には汗をだらだらと流し、服には木やら土やら苔やらいろいろくっついていた。
「もー大丈夫ー? 頭、頭。枝ついてるよ」
私は、枝にまみれた神沢の頭を指差すと、二人でおかしくなって笑った。
私は勝手にクールだと思い込んでいたのかもしれない。
……なんていうか。目の前の隙だらけの神沢を見ていると、私の対人バリアが自然に無効化されていくのがわかった。
「何をお願いしてたの?」
望遠鏡のケースを手にして歩き出した神沢の後を私はついて行く。
「願いごと? 違う違う。おじいちゃんの代わりにお供えしてただけ」
おじいちゃんとお供え物。全くぴんとはこなかったけど、後ろ姿を見ながら思った。神沢はきっと本格的に天体を観測している人なのだと。
神沢は立ち止まると手際よく望遠鏡を設置して覗きこむ。
……。
不意にやってきた沈黙も不思議とへっちゃらだった。
「よし……」
神沢はスマホを操作している。何か記録でも付けているのだろうか。
「ごめんごめん。待たせた」
「何か見てたの?」
神沢は、あれあれ、と言って空を指差した。「今、あの彗星追いかけてる」
言われた空を凝視したけど、私にはどれが彗星なのかわからなかった。ただ……今日も一日、良い天気なのだろうということは容易だったけど。
「この時間だと肉眼じゃ厳しいかな。見てみる?」神沢は望遠鏡に親指を向ける。
「え、いいのっ?」
一気に気持ちが上がった。初めてかも。望遠鏡。
「ここにそっと目を当ててみて」
言われた通り、何処にも触れないよう、そっと覗き込むと、
「あ! あれのこと? すごいんだけどっ」と恥じらいもなく騒いでしまう私。
「見えた? 白い尻尾みたいなのがついてるやつ」
視界にはっきりと、下に向かって白く尾の延びた星が確認できた。まるで魔女のほうきみたいだ。
もしやこれが、ほうき星? ……でも、
「これ全然動かないんだねー?」
しばらく覗いているが、彗星はぴくりともしなかった。
「ん? それは彗星だから流れ星みたいには動かないけど」
「え、そなの?」私は望遠鏡から目を離した。「流れ星と彗星って違うの?」
「はは。違う違う。彗星は太陽や星と同じくらいのゆっくりした速さでしか動かないから」
知らなかった……
高校入試理科の地学分野で出題頻度の高い、星と太陽の日周と年周運動の時差計算は得意なんだけどな……。
「まあ、彗星から放出された砂粒が流星だから似たようなものだけど」と言いながら神沢は望遠鏡を片付け始める。「それと、あの彗星はあとちょっとで終わりだし」
終わるって……消えてしまうのだろうか。私には意図がわからなからなかった。
「いつもここで見てるの?」
まさかとは思ったが、私は聞いてみた。お祭りの日にこの場所で、星が良く見えると私が言ったときに、神沢が、今日は良く見える方かな、と口にしていたことも頭に引っかかっていたのもあった。
「天気によるけど、ほぼ毎日来てる」
はあ? 私はまずその体力を疑った。まさかが現実となった。こんなけもの道を毎日。しかも望遠鏡を背負って。おまえは修行僧かよ、と思った。
「もう慣れたけどね。小一からずっとだから」
はあ⁈ 絶対無理だし! 私はノックアウトされる。
「びっくりしすぎだって」と神沢は笑っている。
「小一とか言うから。やりすぎだってっ」
「ぜんぜん自覚ないです」
と、神沢がチャーミングに答えると、何それ、と私は、一瞬どきりとした動揺みたいなものを隠すかのように、くすくすと笑った。
そして神沢が手際よく望遠鏡を片付けるのを待ちながら、私は目先に広がる星崎町を遠くに見つめた。
「景色、祭りのときとはぜんぜん違うね、うちたちの学校もある」
「だね」
神沢の微笑みと共に何とも自然な雰囲気が流れた。
「その望遠鏡って、るるぽーとのイベントの景品のやつ? 小一のときやってた」
帰りのけもの道で私は訊いた。
夏休みの宿題とか学校行事とか、何気ない会話のやり取りから、共通の友達の小春の話題になったときだった。
「イベント?」
神沢は足を止めることなく少しだけ振り返って、足場の悪い坂道を降りて行く。「ここ滑りやすいから気をつけて」
「小一のときもらってたじゃん。宝石狩りのイベントで」
神沢の助言通り、私は足元の苔まみれの木の根っこを回避した。
「宝石ー?」
神沢は歩きながら回想をしているようだ。後頭部がそう言っている。あと、時折りそよ風と共にやってくる男子臭が、私の脳を活性化させる。
と同時に自分の汗臭が気になり始め、首に隠し巻いていたタオルで額を拭った。
「あー、るるぽーと。ひょっとしてあれのことー? 隕石をみつけろ! みたいなやつ」
「それそれー。あのとき私と小春も参加してて」
「え、そうなの?」
神沢は、人生絶賛迷走中の私でも、大丈夫、と思わせてくれる不思議な安心感があった。
ここまでの一連の流れの中で、将来の目標に向かって真面目に自分と向き合っているのだということがわかったし、あと韓国ドラマが好きだということも。
「すごいよねー、自分一人の力で石見つけたんでしょ? 人だかりの中で言ってた」
「よく覚えてるね」
「自分は父親に頼りっぱなしなのに、同い年ですごいなーって」
神沢は、ぜんぜん、とちょっとだけ照れ臭そうに微笑み、また前を向いて足を前に進めて行く。
「なんか恥ずかしいな……」
溢れるように声が私の耳に届いて、小学一年生の神沢の笑顔と今の神沢が重なった。
あの神沢と、この神沢が……
目の前の神沢をもう一度確認して思った。お父さん……
今の私と会ったら、誰かわからないんじゃないっ?
「あのさ」
立ち止まった神沢と目が合った。
「もしよかったらなんだけど……」
神沢は顔を赤らめて視線をちょっとだけ外す。
えっ、何? その恥じらい方。
神沢の不自然な仕草に、私は、かあっと全身が熱くなった。
「……今日の夜。またここで彗星見ない?」
神沢はちらっと私に視線を戻して訊く。
「あ……」
言葉が詰まった。私の心臓メトロノームは狂ったように乱れていた。
「お祭りのときに聞きたかったこともあるし」
神沢は軽くまた目を逸らすと、何かを誤魔化すようにして首の辺りを掻いている。
お祭り……光る石……
そうだった。そのために来たんだ。
私はここへやってきた本来の目的を思い出した。
「何時に来ればいい?」
平常心を装い、よそよそしく言葉を絞り出す。
「んー……七時半くらいかな」
神沢の表情が薄っすらと、柔らかくなった気がした。それと、ほんのたわいのない一つ一つの間が永遠にも思えた。
「わかった七時半に来る。え、私っ?」
返事をしたとたん、スマホが鳴った。
「あー、ごめん、そろそろ行かなきゃ」
神沢は慌ててスマホを手にしている。アラームを設定していたようだ。その様子に、ぎりぎりの時間まで相手をしてくれたのだと、思い私は少し申し訳なく思う。
「今度はおれの番だっ」そう口にすると神沢は笑い、目を細め右手を顔の前に出すと、ごめんと言う。
「いやいやこっちこそ。なんかごめん」
私の言葉は、神沢が予定していたものではなかったのか、すぐに「え、なんで?」と返される。
そして神沢は駆け出しながら「じゃ、先に行くね。七時半に待ってる」と、にこりと笑う。
私はすぐに、うんっ、と声を口に出したけど、神沢に届いたどうかはわからなかった。神沢の背中はあっという間に遠のいて、見えなくなっていった。
──異常を察知して胸に手を当てた。
どくん、どくん、どくん。
何故、鼓動がこんなにも早いのかなんて、私は知る由もなかった。