24話 呪い
さよならー、皆それぞれの場所へと帰って行く。
私は、またねーと元気よく手を振る凛ちゃんに、もう一度笑顔で「またねー」と手を振り返した。凛ちゃんの後ろ姿は弾んでいた。
家に入ると、お母さんがソファーに横たわっていた。腕っぷちの強そうな二の腕は丸まって、まるで意気消沈したクマさんみたいだった。
庭でパピヨンと話しをして、リビングに戻ってからは——お母さんの妹の育美ちゃんも合流して、お母さんの長女たる権力の暴挙も散々たるものだった。
るんちゃんの旦那さんは酔いつぶれていたし、なお陽気で手のつけられなくなっていたマリアは、世話やきの次女の育美ちゃんがなだめていた。
私たち子供は、ソファに座って壁に掛かったテレビで、ゲームに夢中だったけど、育美ちゃんが来年の秋に結婚するのだという話は耳に入ってきた。そのあと、おめでとー と、声が次々と上がり、新郎さんの話となって、その流れからパピヨンとマリアの馴れ初め話へと移っていった。
「当時は造船の製造が盛んだったな」
パピヨンが口を開くと、マリアが、自分の父親も造船関係の仕事をしていて九州から転勤してきたのだと言う。それと、二人は社内恋愛の末に結ばれた。
「マリアちゃんモテモテだったんだから~」マリアは得意そうに、ねぇ? パピちゃん? と言い、パピヨンの肩に手を回す。絶対お酒飲みすぎだって、と私は思った。
二人の会社は、家電製品から車に飛行機なんかを製造している財閥系の大企業なのだと。
そして「マリアちゃんはそこの事務担当だったな」と、パピヨンがそう言葉を発したあたりから、マリアののろけ話が始まった。
それからは、照れ臭いのかパピヨンはちょっとづつ女子会から距離を置いて、子供たちの方へとやってきていたのが印象的だった。
「これでよしと」
皆が帰ったあとの家の中はいつもより暗く感じた。嵐が去ったあととはこのことか。真っ暗な窓が目に付いて急に孤独を感じ、自身も思った以上に楽しめていたのだな、と実感した。
快晴は片づけがあらかた終わると、自分の部屋へと戻って行った。
私はキッチンでミネラルウォーターをコップ注ぎ一気に飲み干した。出しっぱなしだった時点で生ぬるいとは認識していたが、想定以上に満足感は得られなかった。
横になっていたお母さんが、ゆっくりと体を起こす。
「やっばー、頭いたーい……」
上半身を大きく使って背の伸びをしている。
「お母さんも水飲む?」
訊くと、私はコップに水を入れる。意味不明な手の仕草だけど意思表示はすぐに伝わった。おまえはゾンビかよ。手際よく氷も足してやった。
お母さんは手に取り、ありがと、と小さく口にしてから、あいたたた、とこめかみあたりを押さえている。私には、顔の火照りはずいぶんと引いたようには見えたが。
椅子に腰掛け私も水を飲む。乱暴に雑食したあとには、キンキンに冷えた水が一番美味しいのでは? と思った。さっぱりと身を清める。
「片付けやってくれたのね。助かった。ありがと」
「皆んな少し片付けてくれてたから楽だった」
お母さんはまだ頭を押さえている。こんな代償を払って、この人はいったい何を得たのだろうか。
「てか、パピヨン。ロケット作ってたとかすごい人だったんだね」
「高卒で部長までいったからかなり優秀だったんじゃない? マリアがいつも自慢してるし」
私は、マリアなんだ、とはあえてつっこまなかった。
しばらく沈黙が続いて、無神経に響くコップとテーブルが喧嘩する音と、チチチチと、時計の針があてもなく進む。
「あのさ……」
と、私は訊く前に助走を声にした。水をぐいっと力強く飲んだ。
「んうん?」
お母さんはゆっくりと顔を向けた。呪いは祓われたのか嫌な感じはしなかった。
「あの部屋の本って——」
おそらく、表面上は何事もなく過ごしている家族にとって、初めて漂った不自然な空気。時計の秒針が早くより大きく耳についた。
「あれは研究に関係する本よ。学生の頃からずっと続けてる」
「何それ?」
「私もよくわかんないけど宇宙物理とかなんとか。あと他にもいろいろあるみたいだけど、さっぱりね」
コップを手にして、お母さんは立ち上がる。まだ動きは鈍い。「そのためにN大学行ったんだし」
疑問だらけの私を尻目にして向かい合って座った。
「N大学の宇宙物理学科って世界的認知されててね。あと有名な学者の教授がいるんだって」
知らなかった。ただ立地と箔とお父さんが行ってた、という理由だけで熱心に目指している自分がちんけに思えた。でも——
「仕事って壁紙貼る人でしょ?」
私は慌てて訊いた。
「大学を辞めたと思ったら、何やら色んな仕事をして、また違う仕事に変わるのかと思えば、すぐに一人で事業を始めて、あっという間に会社を始めてたわ」
「はあ? お父さんって中退してるの?」
「うーん……」
お母さんは少し考え込んでから答えた。あの人の考えは私にはわからないけど、と前置きをしてから。
「まず、卒業後に研究者って選択はなかったんじゃないかしら。一般的な研究者になるためには卒業して大学院へ行くってのが普通だし」
「そのために大学行ったんじゃ」
「別にあの人は世間一般的な研究者になりたかった訳じゃなかったのよ。辞めた日、N大で得たいものは全て得た、って言ってたし」
いまいち私にはピンとこなかった。何をどうしたら宇宙と結びつくのだろう。しかも中退って……
理解に苦しむ。
「まあ、あの人のことがわかる人なんていないんじゃない?」
この人は今のアメリカ大統領が誰なのかさえわからような人だ。無理もない。
でも、とお母さんは口にしてから言った。「きっとすごく大事なことをしてるのよ」酔っている感じもなく、はっきりした口調だった。「お父さん、星が降る日には帰ってくるって言ってたでしょ?」
その真っ直ぐな言葉に私は、うんと首を縦に振った。
「お父さんは言ったことは必ず守る人よ」
私は一言一句、耳に留めた。
「あと、お父さんが口にした言葉には必ず伏線がある。意味のない言葉は発しないし、行動しない」
「伏線……」
遠い星の瞬きのように思えた。
けど。お母さんの言葉に背中を押される。
「私はバカだから、はみ出ちゃったけど、あんたたちは必ずお父さんの伏線状にいるはず」
心臓がギュッとなった。
ふと、左腕を見る。光る石……
一瞬、石についても訊こうと思ったけど、すぐにやめた。何となく、お母さんにはわからないような気がした。というか、もうソファに横になって寝ている。
お母さんはあくびをしながら「あと電気よろしくー」と言った。
そして思い出したかのように「あー、夏期講習無事にクリアしたからって油断しちゃだめよー」と、いつものルーティンを口にしてから眠りについた。
……こいつ、また呪われたな。