23話 夕焼けの空
まだ夕方の五時にも満たない時間だというのに、お祭りの打ち上げなるものは始まっていた。
星宮家三人と、パピヨン、マリア。お母さんの妹、るんちゃんと旦那さんの、ゆっくん、娘の凛ちゃん。
リビングには客人用の座卓も用意され、二つのテーブルの上には、出前のピザから近所のスーパーで買ったきた、お寿司や鳥の唐揚げにポテトとチキン、その他揚げ物てんこ盛りのオードブルなどで占領されていた。
隙あらば置かれただろう、お酒の瓶と缶は窮屈そうだった。
「パピさんっ! 今年の山車も最高でしたよ!」
「おれは何もやってないけどな」
ほんのりと顔の赤いパピヨンのコップに、ゆっくんがビールを注ぐ。
海焼けしたという肌に、髪の毛は耳の上まで刈り上げられ、きつめのパーマ。人差し指できらりとする指輪はハイブランドだろうと勝手に想像してしまうのは、私のただの偏見なのだろう。
「あーー! これは失礼失礼。自治会長のお姉さんっ」ゆっくんは言って、わざとらしく慌てた素振りで今度はお母さんのコップにビールを注ぐ。
悪気はないのは承知の上だけど、私は体育会系のノリが苦手だった。事故に巻き込まれぬよう気配を薄めることに努めた。
「まー、会長って言っても順番回ってきただけなんだけどね~」
と言いつつ、お母さんは謙遜するわけでもなく、まんざらでもない顔をしている。
それを見たマリアは、ヒューヒューとよいしょして持ちあげる。
「残ったら大変だから、あんたたち、もっと食べなさいっ」
調子にのったお母さんは、快晴とゆっくんに、真っ赤な顔をして絡み始め、マリアは、待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、空いた瓶をマイク代わりにして、昭和に流行ったのだろう曲をミュージカル俳優顔負けの声量で歌い上げ始めた。
——なぜこうなるのだ。
はあ、とため息が出た。
私には、ハイテンションの同調圧力は、どうも押し付けがましく思えて苦手だ。
「ねー聞いてよー。うちのお店閉店しちゃうんだってえ~」「わ~お! 服屋さん?」「そうだってー」「時代ね~」「最悪~。気に入ってたのに次の仕事探さなきゃー」
お腹も少しばかり良いあんばいになったころ、開口一番お母さんの話題を皮切りに女子会が始まった。
お母さんはマリアとるんちゃんにゲラゲラと笑いながら世間話をしていた。まあ俗にいう悪口といったところか。
私には聞くに堪えない。
「お外、凛ちゃんも行く?」
自分のお皿を下げ、キッチンから戻って来ると、凛ちゃんは私の問いかけに快く返事をして立ち上がった。
「うん。いく!」
リビングの外には奥行六十センチで幅広の窓いっぱいにウッドデッキがあった。高さもちょうど良いくらいの段差になっていて現実逃避にはもってこいである。
二人で足を投げ出すように腰を下ろしてから、私が、オレンジジュース飲む? と訊くと凛ちゃんは二つ返事に、うんと言った。
私は持ってきた二つのコップに注ぐ。中に入った氷が、キシキシ、という。
「夏休みはどお? いっぱい遊べた?」
訊くと、もっともらしい答えが返ってきた。
「あそんだよ! キャンプと虫とり! あとカブトムシもつかまえた!」
いかにも小学一年生らしい答えだった。
「ここ虫いっぱいないてるねっ」
まだ汚れていない言葉に自然と私の顔がほころぶ。今宵も涼しげな虫の鳴き声が辺り一面に響いている。
まだまだ夏だなと、いくばかりか年老いた感じで風情を感じていると、凛ちゃんは「つかまえてくる!」
と勢いよく立ち上がって、私が虫取り網の有無を確認しようとする間もなく「くつ、とってくるっ」と駆け出して行った。
「ママー! たもと虫かごー!」
玄関から叫んでるような大きな声が聞こえてきた。
そして私が、くすりと笑い、いつかのジャングルではなくなった庭を眺めていると、「わー、スズムシいるー」とか「かわいいー」とか「コオロギもいるー」とか、急いで戻ってきた凛ちゃんの無邪気な声が耳に届いた。
平和だなー……
見ていて、こんなどいつもこいつも自分に必死で殺伐とした世の中でも、私の心の片隅には、まだこの平穏なひとときを感じることができるのだな、とちょっとばかり安心した。
「はい、これ」
るんちゃんだ。あとを追うようにやってきた。
おそらく、車までわざわざ取りに戻ったのだと思った。少し不機嫌そうに映った。
るんちゃんは虫取り網と虫かごを手渡すと「虫に刺されるからこれもきてよね」と長袖のパーカーを凛ちゃんに着せている。
身だしなみが小綺麗で華やかなせいか、立ち振る舞いが妙にミスマッチに見えた。これも私のただの偏見か。
「七ちゃん、あとよろしくねー」
るんちゃんはさらりと言い立ち去って行った。
私は、はーい、とだけ軽く返事をした。
虫捕りNGだったのか?
るんちゃの言葉からは、少しばかり棘があったような気がした。
どこの大人もめんどくさいな。
ジュースを強めに飲むと、あーあ、と行き場を失った声が漏れる。
気がつくと暑さは少し和らぎ、オレンジ色に染まった雲が浮かんでいた。またため息が出た。
現実逃避もここまでか。ああ……夜は勉強しなきゃだな。
「はあ」
と、もう一度大きなため息が出た。
そのとき背後から、窓を開けた音とパピヨンの声がした。
「よっ」
振り返るとパピヨンは軽く手を軽く上げる。私は「やっ」と片手を上げ返した。
ふとパピヨンの頭に視線が向いた。自慢だった黒色の髪の毛はすっかり真っ白に変わっていた。表情も角がとれ、娘の結婚式の際に涙して皆に『鬼の目にも涙』と言わしめた面影は微塵もなかった。
「凛ちゃーん、虫は捕れましたかー?」
パピヨンは優しく声をかけてから端の方に座った。
「一本吸わしてもらうなー」
そして遠慮気味に煙草をくわえると、小慣れた感じで首を他所の方に向け煙を吐く。
煙はまだ夜には遠い空に消えていく。
ちょっとだけ日が短くなってきたかな? 空は思いのほか西から東まで均一に夕陽が広がり、物干し竿にぶら下がった私のお気に入りのスニーカーも橙色に染まっていた。
「七海も草むしり手伝ったんだろー? 綺麗じゃーん、庭っ」
携帯灰皿に煙草を擦りつけながら、パピヨンは視線を向けた。
「めっちゃ大変だったー。涼しくなるからとか言って、めちゃめっちゃ暑かったし。勉強も途中だったのに、ほんとあの人わがままっ。リビングの片付けもやらされたし」
私は感情そのままにぶちまけた。まだ六割にも満たないけど。
「そりゃまだ日中は暑いだろー」パピヨンが、ははと笑い、家の中から女子たちの笑い声が響いて、やや間があってから、「お母さんの性格は久納家の血だからなー。ありゃあ変わらんよ」
と呆れ顔で返事がかえる。
家の中から、一番よく耳につくお母さんの声が不快だ。
「どうだ? お父さんのこと少しはわかったか?」
あいつはほんとに口が軽いな。パピヨンにまで伝わっているとは想定していなかった。
私は、ぜんぜんだよー、と首を振って何事もなかったかのようにやり過ごし、歩くスピーカーの通り名は伊達じゃないなと改めて心に留めた。
「宇宙やら星やら本ばっかで意味不明ー」
ふくれる私を見て、パピヨンは目を細めながら笑みを浮かべ、「ひかるは、星の話を始めると目をきらっきら輝かせてたからなー」
と空を見上げる。
私は、ふーん、と呟きながら視線を上げ「星ねー」と声を漏らす。
「あの月が偽物の可能性だってあるとかなんと言ってたからなあ」
「何それー」
普通の人間なら当然の台詞を口にしてから、二人して笑い、しばらく無言で、まだ本調子ではない薄ーい月を一緒になって眺めた。
何だか、私が『普通』に嫌悪感があるのはお父さんのせいなのでは、と思った。口が裂けても人前でそんなこと言えるはずもないのだけれども。
「夏も終わって、あとはあっという間に今年も終わりだなー」
パピヨンは呟いて、凛ちゃんの方を見つめている。
向こうからはいくつもの弾んだ声が聞こえてきた。
夕日に染まったパピヨンの柔らかい表情が印象的だった。
どうやら特大のバッタを捕まえたみたいだ。
凛ちゃんの、にげられたー、と言う大きな声のあとに小さく聞こえた。
「ひかる、帰ってくるといいな」
どうも、夕焼けは、優しさと切なさが相まって混沌とするな。
私は、だねー、とだけ言う。