21話 ラスボスへの覚悟
家に帰ると、誰もいなかった。
あのあと、重さんは無事に解放され、私と小春はそのまま帰路に着いた。
私はドアベルの音に耳を傾けると、なつかしい鈴の音色が、興奮から醒めた虚脱感と寂しさを優しく和らげる。誰もいない暗闇に、チリリン……と、力なく彷徨った。
大きく息を吸って吐くけど、聞こえるはずのない祭囃子が頭の中で、まだ掻き鳴らされているような気がした。
胸に手をやると鼓動が騒ぐ。
まだ熱っぽい夢の中にいるようだった。神さまに魂を引っこ抜かれたみたいに心が空っぽになる。
はああ……と深く吐き出してから、靴を脱ぎ、整頓とは、ほど遠い玄関を上がる。そしてすぐ目の前の水槽に向かい崩れるようにして、ちょこんと膝をついた。
視線の先には小指の先っちょくらいのヤドカリが六匹いた。ここの持ち場は快晴だった。お父さんの持ち場を引き継いだ形だった。
私は、あの快晴が、この水槽のきれいさを保っているのが、ほんとうに不思議で仕方がなかった。
「ヤドカリくん。そっちは楽しいかい?」
愛嬌がある目と、どこかマヌケなその表情に癒された。
私もこいつらみたいにただただ何も考えることなく生きていけたら幸せなのにな、と。思考を停止して過ごす箱の中は、さぞ心地がよさそうに見えた。
一番小さいヤドカリと目が合った。
白と茶色の線が入った貝殻に入ったやつだ。
こっちに寄ってくる。よく見ると左右でハサミの大きさが変わっているのに気がついた。今更だけど。
ほんと人間って勝手なやつだなとつくづく思った。
「ごめんねー。勝手に餌あげると怒られちゃうのよ」
私はくすりと笑って、水槽をちょんちょんと突っついた。ヤドカリは手足をバタバタさせ駄々をこねてるように見えた。
ふと、水槽のガラスに映り込んだ自分に目をやると、柔らかく微笑んでいた。
見つめていると、水槽についたライトが青白く靄って段々と引き込まれていった。
すべて水槽越しに見える世界だったら——
もっと素直に生きられるのにな。
このフィルターを通した向こう側は、きっと心穏やかなはずだから。
皆、忘れているのだ。
傷を負うことを恐れて無意識にバリアを張っていることを。
ゆっくりと大きく息を吐き出してから、
「——神さま。今日イベント多すぎ。くったくただよ」
と私はボヤいた。
じっと無心で観察をしてると、ぶくぶく、ぶくぶく、と一定に保って噴き出る泡に身も心も吸い込まれていく気がした。時間と一緒になって。流れるままに全てを委ねていく……
すると、ぶくぶく、ぶくぶく、と頭の中でも、ぶくぶく、し始めた。頭の中の思考も次第に、ぶくぶくと干渉しあって振動していく。
あ、なるほど——
そもそも頭と耳は繋がってるのだから当然か。
そんな当たり前のことを考えながら、ただただ、私はじいーーっと水槽を眺めている。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。
ただただ、ぶくぶくと泡を眺めていると、ふわっと、泡の中から青い光がすっすら見えた。
淡く優しい光……
左腕に視線を落とし、石が光っていないことを確認した。
あのとき……たしかに光っていた。
あと、神沢の石も。
近づけたら光が増して、まるで共鳴してるかのようだった。そういえば、
神沢……帰り際に何か私に聞こうとしていた。
何だろ?
今になってものすごく気になってきた。
もしかしたら神沢は何か知っているのかもしれない。——魔女の猫。
やつが懐いていた理由も何か引っかかる。
てか、あいつは嫌ってるくせに何で私の家にやって来るんだ?
お父さんが可愛がっていた猫ではないのに紛らわしい。
「あーーさっぱりわからんーーーー」
私は両手で髪の毛をくしゃくしゃとした。
考えれば考えるほど、ぶくぶくの如く謎が出てきて混乱してきた。
それでも、水の中の星宮七海と目が合って、ぷっと笑ってしまう。
意外にも、表情は聖者のように清々しかった。
そしてもう一度つられて笑う。
「ごめん、ヤドカリくん」言って立ち上がった。
私は少し先へ行くね。私はごめんだ。ただただ餌を与えられて箱の中で過ごす人生なんて。
階段の電気をつけた。
まずは目の前の階段から。
私は一つ一つ、これから世界を牛耳っているラスボスを倒しにいくような意気込みで、階段を登って行く。