18話 ヒネクレタ
よいしょ。
私たちは人混みから外れ、膝下くらいの石に腰を下ろした。
「はい、七おつかれさま~」「おつかれちーん」
ラムネで乾杯した。瓶がぶつかる音がしてから、ビー玉がころころ、と音を立てる。
一飲みして喉の渇きを潤してから、私はスマホを手に取り、マリアからの返事を確認した。
英語で『エンジョイ』という文字と、本人の似顔絵なのだろう。妙なキャラクターが親指を立てているスタンプ。
自作なのかな? 何だか似るに似つかないクオリティで笑ってしまった。そのまま、ありがとう、の文字が付いたパンダのスタンプを送信した。
「あーこんなにお腹いっぱいなのに走ったから、まだまだいけそー」
小春は膨れあがったお腹を突き出してさすっている。私はそのキャラに似つかわないシルエットがおかしかった。「あの子もお祭り楽しんでくれたかなー」
足を小刻みに揺らして星空を見上げた。
「七! グッジョブ」
小春は格好よくラムネの瓶を軽く上げる。一仕事終えたこともあってかリラックスした面持ちだった。
いつも小春は気を使ってくれる。私のお父さんを連想させるようなことは基本、口にしない。迷子のお父さんのことも、ふーん、とだけだった。
「小春ありがとね」
言うと、小春は、にこりとだけした。
心地よい風が吹き抜ける。興奮したことによって、ほてった身体に平静をうながす。
——ほんの一瞬のことだった。
ひらひらと一枚の枯れ葉が舞い落ちる。笛の音色にゆれて風が優しく頬に触れる。昔、触れたお父さんの手のあたたかさにつつまれて、あま~い香りが時間という概念を曖昧にしていく。すると甘く湿った匂いと虫の声が耳の奥で広がって、艶やかなりんご飴がいたずらっぽく顔を出す。胸が高なる。何となく目の前の現実に視点を合わすけど、全てがなんだか遠~いかなたから聴こえてきている気がした。
——頭上には夏の大三角のひとつ、デネブが光る。
やや北東にはカシオペア座。そして南に目線を映していくと秋の四辺形。
気がつけば音色は秋へと変化していた。枯葉は、私の足元に落ちて、隠し疲れた子供じみた風味は、飴が砕ける音がするのと同時に酸味と共に煌めいて消えていく。
今日もあと少しで終わる……
楽しい時間は時の経つのを忘れる。
ゆっくりと身体中に空気を吸い込んで、大きく息を吐いた。
「どげんしょったー? 若いもんが二人、夜風にふけよって」
鯉口シャツに腹掛けと股引、足もとは地下足袋に羽織った背紋には大きく『南』と斜めに書かれていた。背格好は小柄だけど、妙に祭り衣装が様になっていた。
「おじいちゃんっ!」
小春が大きく声を上げて、私は「重さん、お疲れさまですー」
と町内の重鎮を丁重にねぎらった。重さんは祭りの運営にも大きく関わっていた。
「おう! 七海」ぷしゅっとコーラの缶を開け「年寄りはちと休憩じゃけん」と言って重さんは、私と小春の間に座った。ほんの少しだけ、吹き出したコーラがおでこを濡らしていた。
「どじゃ? 久納さんは元気しちょるかの?」
重さんは湿った額は気にも留めずに話しかけてきた。
久納はマリアの旧姓で、何だか会うたびに訊かれている気がするのだけど、深掘りしたことはなかった。
「相変わらず元気だよ。さっきもきてたし」
「そげんか。よかったばい」
重さんはコーラを勢いよく飲んだ。
そして、げっぷ、ではなく、太鼓が大きく鳴る方を見て「桑水社、もうじき来るけ、早う準備せえよ」と言い放った。
賑わい具合から、向かっている山車は三、四台くらいだろう。桑水社の順番は最後だと耳にしていた。おそらく、到着するのはあと三十分くらいではないかな、と私は予想した。
「飾り付け早く見たいなー。今年はいろいろ新調したんたんでしょ?」
「そうっちゃ」
重さんは小春に向かって、そうだな、と言っている。
重さんの言葉は少々クセが強かった。年寄り特有の訛りと複数の方言が相まって解読難易度はやや高めだった。
「みんな張り切っちょるけ山車は絶対に見らにゃー」
山車は祭礼に出る練り物の屋台のことで、山、鉾、人形などで飾りたて、大勢で担ぐか、屋台車に乗せて引く物のことを指している。あと人も乗る。桑水社は星崎町の山車組の名前のことだ。
まあ、とりあえず、とにかく格好がいい、とでもいおうか。
どんどんどんどん、と音を立て祭り囃子の太鼓が刻々と大きくなっていく。桑水社の山車は着実と星崎神社へと向かっている。
このあと、各町内の絢爛豪華な山車、九台が神社前の交差点に勢揃いする。
コロコロコロ、コロ、コロ、コロ。リィリィリィ。チリリリリリリ。ミャオ……
過ぎゆく夏を感じながらラムネを飲むのも妙な気分だな、と瓶に口を付けてから思った。
きっとあっという間だ。目の前の葉たちが落っこちて秋の色となるのなんて。
カナカナカナ。ケケケケケ。
蝉が声を上げる。
「あほーなヒグラシが祭りにつられて鳴いとるけん。わしゃーも行くけんよ」
意気揚々と立ち上がり、右手のコーラを飲みきった重さんは言った。
私と小春は、がんばって、と声をかけた。
「これ、よろしゅーなー」
重さんは小春に缶を託し「じじいの炎、とくと見ときゃー」と振り返ることなく颯爽と喧騒の中へと消えて行った。
私より小さい背中が大きく見えた。
背中から脇、袖へ続く三本線は、桑水社の法被を継承しているのだという。これを粋というのだろうか……
哀愁漂う後ろ姿から、私は昭和の色気を感じ取った。
さっきから、何かに焚きつけられているような気がしていたけど、ただ単につられて高揚しているだけなのかもしれない。
あほーな蝉と一緒だ。
ヒグラシ……日が暮れたあとに鳴くと、ヒクレタか。
……いや、待てよ。
あまのじゃくな私は、ヒネクレタ、ってところだろう。
虫が鳴いた。
「ミャオ……」と。
「どしよ? 私たちも下に降りるー?」
「行こっか」
私は相槌をうった。
でも、何か喉の奥につっかかるようなものがあった。
「ちょっとまった……」私は立ち上がった。何? このただならぬ違和感は……
そういえばさっきも聞こえたような。
「何かあったん?」
小春は不思議そうな顔で見上げている。
そのとき背後からただならぬ気配に気づいた。とても妖気的な感じだった。
すぐに振り向くと猫と目が合った。
水色の瞳……
薄暗い木の影からでも黒い猫だと認識できた。
そして、ふてぶてしく、ミャオ、と鳴く。
小春に説明をしたかったが、猫は朱色の鳥居をくぐり、狭い急斜面の石段を上がって行ったため、
「ちょっと待ってて。すぐ戻るっ」
私は言い放ってから、ラムネの瓶を置き追いかけた。
——絶対、魔女の猫だ。
そうに決まっている。