15話 幽霊
空は昼間とは打って変わり落ち着いていた。
沈みかける夕日を浴びて、手のひらが茜色に染まった。
──とはいえ、受験勉強中にお祭り行くの——ちょっと気が引けるな。今更なのだけど……
優柔不断な自分が嫌になる。
「いかんいかん。また醸ってきた。闇臭が」
私はボソっと呟いて玄関のドアを開けた。
チリンチリン──。
「ただいまー……」
「おかえりー。ご飯できてるから手洗って、うがいしてきなさいー」
はあ……。手洗いうがいしろとか何歳児だよ。幼稚園児じゃねーつーの。私はぶつぶつと呟きながら手を洗う。
洗面台にいくつか雑にほかられたボサボサの歯ブラシは見て見ぬふりをした。一気に現実に戻された気分だった。
はあ……。
「なによ。ため息ばっかついちゃってっ」
「別に……」
私はリビングへ向かい、椅子の上にあるTシャツの上から座る。昨日もここに置いてあった。その前の日も。そのときは脱ぎっぱなしの靴下だったけど。
視線をやると時計は六時半。快晴は話に聞いていた通りいないようだ。
「いただきまーす……」
私はうどんの麺を淡々と口に運んだ。
何故だろ?
小春の部屋でのテンションとは打って変わった自分の覇気のなさを不思議に思う。私は多重人格者なのか……
「さー食べよー。いただきまーす」
お母さんも向かいの席に座り食べ始めた。
……。
互いに麺をすする音が続いた。
普段はなんてことのない音だけど、気にし始めるとやたらと癪に触った。
「で、どうなったのよ? お祭りは」
お母さんは間髪入れずに口を開いた。
私はうどんを淡々と口に運ぶ。すする音が何回か行き交った。
……。
「行くことにした」
「夏期講習は大丈夫なんでしょうね?」
心の底からうざいと思った。
「もう平気だって。とっくの昔にオンラインに切り替えたし」
私は気の無い返事を繰り返した。
「ならいいけど」
見ると、お母さんの器の中は空っぽだった。この人はいつも飲むように食べる。
「気抜いちゃだめよ。ごちそうさま」
お母さんは軽く手を合わせて、よいしょ、と立ち上がりキッチンへ向かった。
──ほんと、この人は一言多かった。
「七もコーヒー飲むー?」
食器などが重なった雑な音と一緒にお母さんの声が聞こえてきた。
あと三口ほどで私も食べ終わる。——たまには付き合うか。
「私ももらうー」
──コトン。「はい、どうぞ」
お母さんは藍色のマグカップを私の前に置き、さっきと同じ席にゆったりと座った。私のは牛乳たっぷりカフェオレだ。
ごわごわして少し汗ばんできたお尻の下の服は、何事もなかったかのようにソファの上に移しておいた。
「あんたたちは明日何時に出るの?」
お母さんは訊いてコーヒーを口にした。
そんなことよりも、私は周囲の食べ終えた食器が気になった。ついでに片付ければ良かったのでは? 私の分はさっき自分でキッチンへと運んだ。
「浴衣は着ていかないわよね?」
「着てかない。小春も勉強したいって言ってたし六時過ぎくらいかな」
私もマグを口へ運ぶ。
そして毎晩お母さんが食後に、コーヒー、と口に出している気持ちがわかった気がした。一日のプレミアム感が増し、何だか優雅な気分になった。
「そう。じゃ、お昼は自分でなんか食べなさいね」
この言葉から、お母さんたちは朝早くから祭りの準備で家を空けることが推測できた。おそらく可奈さんも一緒なのだろう。
──リーンリーン、チンチロリン、リーリーリー……
心地よい虫の音色が聴こえ、日中とは違い幾分と涼しい風が抜けた。夏の風情……
祭りの前の静けさだろうか、と思っているとお母さんがおもむろにテレビの電源を入れたせいで、私のプレミアム感は一気に消し飛んだ。
暑苦しい体格のいい男芸人と安っぽい女タレントの苦痛な声が聞こえてきた。
大食い番組。画面は、『超盛り盛りわんぱくカレー』の文字とカツやらハンバーグなどが、ルーが隠れるほどに盛り付けられたカレーライスの映像だった。
八人前とかアホだろ。
つい今さっき早食いを目の当たりにしたせいもあるが、この手の番組の面白さが私には全くわからない。こんなご時世の中、無理やり食べることに何の意味を見出せようか。
あと、人間が地球上で一番偉いとひけらかしている感じが、伝わってくるためか不快で仕方なかった。こういう奴らは、一度食べられる側になってみればいいのだと心底思う。
「私もこんなに嫌ってほど食べてみたいわね~」
もう、そのまま灰燼に帰してしまえ。
まんざらでもない母との会話は途切れ、くだらない雑音とコーヒーを互いにすする音だけが将棋の対局みたいに続いていた。
「そろそろ庭の手入れしないといけないわね」
コマーシャルが入ってお母さんは唐突に声を出した。
テーブルに片肘をついて窓の外をぼんやり見つめて「もうじぎ夏も終わりね」なんて口にする母親を見て、今度は侘び寂びしてるな、と思った。
小春の部屋から認識はしていたが、改めて目にすると、さほど遠くない未来が容易に見えてしまい、心が折れた。先の見えない戦いは必ずやってくる。
気晴らしにスマホで『侘び寂び』と検索してみると『日本の美意識の一つ。貧困と孤独のなかに心の充足をみいだそうとする意識。閑寂のなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう』と出てきた。『人の世の儚なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている』とも書いてある。
——なんて深い言葉なのだろうか。こんなにも真理に触れた内容だったとは思ってもみなかった。
私も深い茂みをぼんやり眺める。教えを乞うたまま人の世の儚を噛みしめながら。
妙にみちたりて生ぬるい空気を感じ、心の中で考えた。そして、がさがさした音と一緒に聞こえた気がした。魔女の猫の声が……
今日の朝は来ていなかった。
「小春が言ってたんだけど……」
と、私は小さく声にした。
「んうん? なあに?」
お母さんはゆっくりこっちを向いた。
「この地域に転々と住み着いてる野良猫がいるって」
「猫ねえー……」と、お母さんはまた片肘ををついている。
リーンリーン——、さっきから聞こえるのはスズムシだろうか。鼓膜の奥を心地よいくらいに刺激した。そのまま音色の先にみえる夏の記憶をたどっていく。
そして奇跡的に虫の鳴き声が止んだとき、
「それって——」
と、お母さんがこぼして目が合う。
さっきまでの食い意地は浄化したように見えた。情緒がゆったりとしている気がした。
「黒猫のこと? 以前あの人が可愛がってた。青い目をした」
驚いた。お母さんの口からお父さんの話が出てくるとは。あの人、と言っているところから月日の経過を感じるけど。
「お父さんが飼ってたの?」
「飼ってまではなかったけど、しばらく家にやってきてたわね。うんちやらおしっこ臭くて最悪だったけど」
何かいちいち鼻についた。
「絶対に餌付けしちゃだめよ。大変なんだから」
私は、してない、と否定をしながら、やっぱ癇に障るな、と思った。
「ずいぶん長いこと可愛がってたと思うけど」
「ふーん」
魔女の猫はお父さんに会いに来ているのかもしれない。やっと腑に落ちた——
と同時に蝉が私の鼓動を掻き鳴らした。
電車が滑る高架下で楽器演奏してるくらいガチャガチャとし始める。なんだか……
もう少しお父さんの話を聞きたい——
でも。
私は口をつぐんだ。
お母さんは私の知らないどこか遠くを見つめながら、そっと口を開く。
「死んじゃったけどね」
「え」
——死んだ?
「見なくなったと思ったら、なんか老衰で死んじゃったって聞いたわよ」
頭の中がごちゃごちゃで混乱してきた。
——どういうことだ? 魔女の猫とは全く別の猫の話をしているのだろうか。「あ、え——」
私は少し目を伏せる。
——え? またバカなことが頭の中で浮かぶ。
——私はあの猫に、いまだに触れたことがない。何故だか手で触ることができていないのだ。
「ひょっとして——」
あいつは。
幽霊?
──リーンリーン、チンチロリン、リーリーリー……と虫が鳴いた。
深い茂みの暗闇の中から不適な声が聞こえたような気がして、一瞬ぞくっと、全身の身の毛がよだった。