9話 ほしみやひかる☆☆☆
部屋の窓からは、たくさんの星が見える。昔、お父さんと星の話をした。夜空の星は、北極星を中心に時計と反対方向へ回っていく。
今日は星がいつもより眩しく見えた。遠くの星まで手が届くような気がした。
ある日、一番頭がいいのはだれかなー? とお父さんが言った。家族四人で食事をしているときだった。
「そりゃ、お母さんでしょ!」
そう得意げに言うお母さんに、それはない、と快晴はきっぱりと言い、「おれに決まってんだろ」と意気込んだ。
私は、七が一番! と当然のような顔をしたけど、快晴に、お前はバカだろ、とあしらわれ、また快晴にイヤなこと言われたー、と助けを求めた。お父さんは優しげな目で、はは、と笑う。
そのあとは皆で楽しく罵り合った。「さいきん快晴はユーチューブばっかみてるからバカになったんじゃない?」とお母さんが言ったところで、私は思った。
「お父さんは誰だと思うの?」
少し考えて、「色々なことが閃く人が頭いい人だと思うから、おれじゃん?」
とお父さんは言う。
「たしかに父さん遊びを考える天才だから父さんが一番じゃん?」
快晴の意見に私とお母さんも、たしかに、と同意した。
けれど、お父さんは、あー、と何か思い出したように、
「おれ、昔テレビで人は居る場所によって時間の流れが違うって言ってるの見て、未来に行く方法思いついたんだけど、すぐ忘れちゃったんだよなー」
と言って笑い出し、忘れちゃったの? と皆で呆れて大笑いした。
「残念ながら、この中でおれが一番バカかもしれんな~」
ひょっとしたらお父さんは未来に行ったのかもしれない。子供みたいに笑って。
「七ー、忘れてるー入るぞー」
ドアを叩く音がしてから、快晴が入ってきた。左手には、るるぽーとの帰りに買ったコーラを持っている。右手のコーラは半分くらい減っていた。
「今日、外で宝石狩りのイベントやってたな」
快晴は当たり前のように、私の椅子に座り机に背を向けた。
「まだ隕石採れるんかな?」
快晴が私の部屋に来るなんていつぶりだろうか。これもハワイアン効果か。
「コンドライト? 快晴ぜんぜん駄目だったじゃん」
「まあそうだけど……」
快晴はペットボトルを口にする。
外では「ジーーー」やら「ビーーー」とか虫が鳴いている。
「んなことより、国語苦戦してんだろ?」
「そうだけど」
快晴は立ちあがって、ちょっと待ってろ、と部屋を出て行った。
「これ使え」
すぐに戻ってきた快晴から、私は一冊のノートを受け取る。「過去問まとめな」
かなり使い込んだ感のあるノートだった。快晴がこういった泥くさい勉強をしてることが意外だった。てっきりタブレット派かと。
ノートを開いて、もう一度驚いた。
中身は余白余すところなくビッシリと文字が書かれていた。問題を解き、赤で直しをしたあと、間違った箇所には、なぜ間違えたのかを青や緑など目立つ色で書いてある。
さらに、その問題から導き出される一般的な注意事項も書いてあり、問題を解くなかでわからなかった知識をわかりやすくまとめてあった。さらには、復習時に参照しやすいように、ノートの右側に解いた過去問の年度を赤ペンで書いてあり、自分がどれだけできていなかったのかが明確になるよう自己採点の点数も記載されている。
「すご……」
あまりの完成度の高さに、この言葉しか出てこなかった。
「快晴やっぱすごいんだね」
「どーせ、七海もおれと一緒で読解力で苦戦してんだろ?」
快晴はまた椅子に座り「てか、やっぱって、なんやねん」と口をつく。
「快晴も?」
これも意外だった。快晴は勉強だけはできるイメージだった。
「まあ、父さんの子だからな」
「お父さん?」私は動揺した。
いつの日からか、お父さん、はNGワードだと思ってた。何年ぶりかの話題に全身に力が入る。
たしか小四んときだっけな、と机に置いたコーラを手にして「おれも国語ぜんぜんできなくて父さんに教えてもらったことあるんよ」
と快晴はコーラをぐいっと飲み干す。
私は「へえ」と頷いた。
快晴が小学四年生ということは、私は小一か。新しい日常が始まって夢や希望に胸いっぱいに膨らませてた頃だ。
「父さんが言っててさ。おれも文章がみんなと同じように理解できなくて苦労したって」
ちょっと待ってな、と快晴はスマホをポケットから取り出して素早くタップする。「これ、すみばあちゃんに教えてもらったやつ」
画面には一枚の答案用紙だろうか。ずいぶん古ぼけた印象だ。
「テスト?」
快晴が二本の指で拡大すると、一年三組ほしみやひかると書いてあった。
「そう、父さんが小学生のときのテスト」
きっと大切な宝物なのだろう。スマホの画面からでも保存状態の良さが伺えた。さすが、すみばあちゃんだなと思った。
すみばあちゃんの我が子愛は人一倍で、ちょっとでも悪口を言おうものなら、雷鳴が激しく家を揺るがすほど迫力がある。
「ちょっと見づらい。携帯貸して」
快晴のスマホを手に取り、私は画面を凝視した。
なるほど……国語の文章問題だ。私が苦戦中の。まあ、これは小一だけど。
答案用紙には横断歩道が一本描いてあった。横断歩道を大人の男性が左側から歩いていて、子供二人が手を上げて右側から歩いて向かってきている。横断歩道の右端には歩行用の信号機があり、その右横に①。横断歩道を左側から歩いて来ている大人の男性の左横に②と描いてある。
一問目が、あるくひとのためのしんごうきです。①と②どちらでしょう。
二問目が②はなんといいますか。
となっており、答えは一問目が①で、二問目が横断歩道だろう。
だけど、答案用紙を見てみると一問目は①で正解だが、続く二問目は、おかえり、と書いてあった。
ぷっ、思わず吹き出してしまった。
「なにこれー、おかえりって」
笑いをこらえることができなかった。
「な、おもろすぎだろー」
快晴も爆笑している。
「でもさー、これってある意味で正解なんだよなー」
「ん? どういうこと?」
「だって問題は②はなんていいますか。だろ?」
私は興味津々に相槌する。たしかに、②はなんていいますか。と書いてある。
「②はなんといいますか。なら不正解だけど、なんていいますか。だから、父さんは②の男の人がなんて言ったのかって思った訳だろ?」
うん、再び私は頷くけど、いまいち言いたいことが理解できてない。思考をめぐらせて話に耳を傾ける。
「しかも右側から歩いてきてる子供二人が手を上げてるのも、男の人に向かって手を上げてると解釈すれば、ある程度の親密な関係とも考えられるから、おかえりでも正解じゃん」
私は問題の絵をじーっと見つめた。
たしかにこの絵だとそういった解釈にもとれる。子供の二人はとても楽しそうに男の人に手を上げて挨拶している。
「てか、名前欄のとこ、ほしみやひかる☆☆☆、とか可愛すぎでしょ」
一瞬でこれを書いた人物が、どのような小学一年生だったのか見て取れた。
「おれも似たような感覚はあるけど、ここまでぶっ飛んではないから、父さんだいぶ苦労したんじゃないかな」
「たしかに……」
私もこのクリエイティブさは持ち合わせていない。
「こんな人でもN大学に行けるんだから、七海も大丈夫だって」
お父さんは県内一難関といわれるN大学出身者で、私と快晴もこの大学を目指している。
「日本語難しいんだって。色々な視点で解釈できるから、いっそ英文にしてもらった方がシンプルに解釈できるんだけど」
私なりに言語化してみた。
すると快晴は、あーー、と立ちあがり、思い出した!、と言う。「父さんからのアドバイス」
目の輝きようで、どれだけお父さんのことが好きだったのかが見てとれた。私は昔の快晴を回想した。
「まず文章を自分流に理解してから、そのあとに皆んなの考えに合わせるように直していく感じだなって言ってたわ」
「自分流?」
一瞬、変なことを言ってんなーと思ったけど、すぐに理解した。蛙の子は蛙だ。
「まー、ようはさっき七海が言ってた、英文を訳すと同じ感じだろ?」
常識人からしたら宇宙人同士の会話だ。それぐらい私たちの会話は世間とズレていると思う。
でも、快晴のおかげで暗闇の中の微かな光が見えた気がした。
「なんか解ける気がしてきたかも」
たしかにそうなのだ。私は一般的な価値観に寄せて解釈しているつもりでも、大抵一人だけ思考が浮いている。たまに自分だけ違う次元にいるんじゃないかとさえ思うほどだった。
最近だと『明日のランチ午前中急遽予定が入っちゃった! 開始時間を十三時から十四時に変更(お店に確認済)しようと思うんだけど大丈夫?」と、きたグループメールに、私は十三時にお店行った。急遽な予定が入ったから、十三時から十四時までの間でランチしよってことだと解釈をして。
だけれど、その日は一人で一時間待ちぼうけすることとなった。自分だけ勘違いをしていたのだ。小春と一緒に行けばよかったとどれだけ後悔したことか。
こんな調子で、文章問題も考えれば考えるほど、訳が分からなくなって負のループに陥っていく。私は一般的ではない。普通ではない。それを認めてしまえ、と父は伝えたいのかもしれない。妙に腑に落ちた気がした。
部屋に一人になり、快晴が座ってた椅子に背預けた。
空のペットボトルを手にしてゴミ箱に捨てる。快晴が飲んだやつを。
るるぽーと行きは、どうやら快晴が計画してくれたっぽかった。
風にゆらめくレースカーテン。夏の夜はひどく雑な匂いがする。木と葉っぱ、虫と土がまざりあったような匂い。あと、うんこ。何だか幼稚でミステリアスな感じがまた良かった。
壁にかけたワンピースは、パピ、マリに今日買ってもらった物だ。ネイビーで、たっぷり入ったプリーツの袖なしのワンピースに、少し細く薄い黒ボーダーの白地のトップスを合わせる。なんともいえない上品さである。
私はコーラの蓋を勢いよく回し、そのまま豪快に流し込んで、活発になる胃腸を抑えるようにペットボトルを机に置いた。
側に置いてあったブレスレットが光って見える。
アクアマリン。
なつかしいな……
あの頃、石集めるの流行ってた。
鮮明に覚えている。
映画を観たあとに三人で参加した宝石狩り。
小学生になって初めての夏休み。
この夏を境にお父さんはいなくなった。