クイーン・オブ・バビロン
第四地区時間午前七時、騒がしいアラームの音で彼女は暗闇の中、ぼんやりと目を覚ました。アラームを止め、ゆっくりと上体を起こし、目を擦った。カーテンが機械音を立てながら少しずつ開き、住居とするにはあまりに狭すぎる部屋に、掠れた朝日が大きくなりながら差し込まれていく。ベッドから殺風景な部屋に降りると、優しげな老紳士の声が部屋に響いた。
「おはようございます。レイチェル様」
紳士の声を聞きながら、彼女は戸棚にあった栄養パックをつかんだ。
「本日の天気は晴れ、大気汚染の心配もありません。いい散歩日和になるはずです」
彼女は、栄養パックを吸いながら、紳士の無意味な声を聞き流していた。彼女は、このニュースの設定を変更しようといつも考えていたことを、今朝も思い出していた。吸い終わった栄養パックをゴミ箱に放ると、彼女はテーブルの上の小さな小箱を手に取った。
「サード、ログインの準備をお願い」
箱の中から小さな機械を取り出しながら、レイチェルは再びベッドに向かった。カーテンが再び機械音をあげ、明るくなった部屋が、再びゆっくりと暗くなっていった。
「…かしこまりました。現在バビロンの時刻は午前八時、回線速度は良好、転送はいかがいたしましょうか?」
「そのままタワーに転送をお願い」
「かしこまりました。それでは、デバイスの装着をお願いします」
レイチェルは、布団に再び横になると、手に持った小さな機械を右耳に差し込み、そのままゆっくりと目を閉じた。視界がゆっくりと暗くなると、目の前に女性の姿が現れた。痩せ気味の体に黒い皮のスーツ、分厚い薄緑のマント、髪は短い栗色、そしてその顔は、レイチェルの顔と同じ顔であった。少しずつその肉体が近づき、彼女とピッタリと重なった。再び暗闇が訪れ、そしてぼんやりと目の前に文句が浮かんだ。
地滑りに遭うように、現実からは逃れられない
かつてこの世界の開発者たちが刻んだ文句だが、彼女にはさして関心はなかった。肉体からベッドの感触が消え、上下がぼんやりとする。
目を覚ませ、空を仰ぎ見よ
目の前の文字が変化した。レイチェルはゆっくりと目を開いた。目の前には、あまりにも鮮やかな青空が広がっていた。不思議と眩しさはなく、美しい青色だったが、レイチェルはこの空があまり好きではなかった。視線を前方に移すと、この世界を象徴する巨大建造物、「タワー」が彼女の目の前に飛び込んできた。
最後の大戦から百年。科学技術の緩やかな発展は、全人類の差別、飢餓、争いなど、さまざまな苦痛を見事に解決し、労働や責務からも人々を解放した。人類史上初めて、全ての人類に差異のない、「幸福」な時代が誕生したのだ。しかし、すべての競争、差異から解放された人類は、少しずつ、物事全てに対する無気力感に蝕まれていった。仮想世界「バビロン」、高度な脳神経操作システムによって構築されたこの仮想世界は、生きる気力を忘れた人類が熱中するには十分なものであった。しかし、生命の根幹に巣食う無気力感は、徐々にこの最後の理想郷すらも飲み込もうとしていた。
「時間通りだな、レイチェル」
彼女の後ろから、若い男性の声が聞こえてきた。
「あなたに合わせて遅く来ようと思ってたけど、必要なくて安心した」
彼女は、振り返りながら男を見た。大きく筋肉質な体に、彼女と同じような服装をしていた。彼は、レイチェルがよくプレイする「ガンコンバットゲーム」のチームメイトで、これまで何度も共闘してきた。レイチェルは、このゲームでも上位に入るほどのプレイヤーだった。
「勘弁してくれよ…そう毎日寝坊するわけじゃない…昨日は新型のジェットパックの改良がめちゃくちゃ忙しくて…」
「それで?今日の対戦テーブルは?」
レイチェルはリックの会話を遮った。
「あぁ…そうだったな…」
リックは、手首の端末から画面を表示した。
「今日の注目はリオンとゾーラの二人組…どちらも近接暗殺がメインだからサーチ特化の装備構成にするべきだな…俺はステルス中心にサーチ系の秘密兵器を使う……お前の腰巾着みたいで癪だが、あの二人は油断ならない…」
「はいはい…索敵特化なら、私の足手纏いにならないしね、メカ坊や…」
「うるせぇ…ゴリラ女…」
リックは悪態をつくと、ポケットから黒い円筒を取り出し、レイチェルに差し出した。しかし、レイチェルはそれを受け取ろうとしなかった。
「消音器?……発砲音程度で負けるような軟弱者には必要かもね」
「……それで『キラークイーン』の称号をキープできるんなら…」
リックは、消音器をポケットにしまうと、レイチェルに彼女の身長に見合わないほど長いライフルを手渡した。
「当然……サード、コンバットフィールドの枠確保して」
レイチェルはライフルを受け取ると、チャンバーチェックを行った。
「かしこまりました、現在参加は七人、ゲーム開始までしばらくお時間がかかります」
レイチェルはため息をついた。彼女は、この焦らされるような時間が嫌いで仕方がなかった。
「…遅い…」
レイチェルは、イライラを抑えきれずに独り言を呟いた。
「…ゲームの人口が減って、マッチに時間がかかってるんだな……あ!…そういえば」
リックが、何かを思い出して声を大きく張り上げた。
「…ハンニバルがゲームを降りるらしい」
レイチェルは驚いた。ハンニバルは、レイチェルやリックとともにチームを組んでいる人物で、支援砲撃の担当だった。
「…急にどうして?」
「さあねぇ……曰く、『もう意味を見出せなくなった』だそうだよ…最近はそればっかりだ…」
レイチェルも、ここ最近似たような言い訳をしてゲームを降りる人間を数多く見てきた。彼女はひとつため息をついた。
「…感染症みたい…」
「ハハッ……俺たちも伝染らないようにしようじゃないか…」
リックが相槌を打つと、サードの丁寧な声が聞こえてきた。
「お待たせしました。参加者が定員に達しましたので、これよりコンバットフィールドの舞台選択に…」
ドカン!……サードが言葉を終える前に、二人の背後で大きな爆発音が響いた。すぐさま二人は、爆発があった方へ振り返った。轟々と、炎と煙をあげながら、今にも崩壊しようとしている「タワー」が、そこにはあった。周囲では、人々のざわめきや叫び声が、急激に大きくなっていった。
「…おいおい、こりゃ一大事だ……」
リックは思わず息を呑んだ。レイチェルは、燃え盛るタワーの頂上に空いた大きな穴を見た。そして、その中の展望台のことを一瞬考えた。
「……本が!?」
そう呟くと、突然、レイチェルは崩壊を始めたタワーに向かって走り出した。
「おい!?どこ行くんだよ!?」
後ろで聞こえるリックの叫び声も、レイチェルには届かなかった。今彼女の心は、ある一冊の本のことでいっぱいになっていた。レイチェルは、逃げ出す人々と逆方向に全速力で走った。入り口を覆う炎を着ていたマントで振り払い、タワーの内部へと入った。首にかけたスカーフで口元を覆うと、螺旋階段を駆け上った。心臓が飛び跳ね、呼吸が乱れる。崩れかけた階段を飛び越え、走り続けた。ようやく、タワーの頂上である展望デッキに辿り着いた。すでにあちこちが焦げつき、壁にはまるで何かが激突したかのような大穴が開いていた。レイチェルは、書見台の方に視線を移した。そこには、黒いマントを被った男が、大きな本を両手で抱えていた。それを見たレイチェルは、すかさず背中に担いでいたライフルを構え、スコープを覗き、その男に向かって発砲した。しかし、ライフルの弾丸は男のマントに触れる数センチ前で、突然空中に止まった。発砲音でレイチェルに気づいた男は彼女の方に視線を移した。男の顔はマントでよく見えなかったが、その両目は赤く、怪しげに輝いていた。すかさずレイチェルは二発、三発と発砲したが、その弾はすべて男の目の前で止まった。
「……裁定の巫女の…娘…か…」
男が呟くと、持っていた本から右手を離した。一瞬、男の手首に何か輝くものが見えた。そして、その右手で振り払うような動きをした。直後、男の前で静止していた弾がレイチェルに向かって飛んできた。危険を感じた時にはすでに遅く、弾丸はレイチェルの額を貫通した。上体がのけぞり、彼女の視界が徐々に暗転した。彼女には、ただ焦りと悔しさが残されていた。
「…それで、何者なの?その『ロイ』っていう男は?」
再転送されたレイチェルは、タワーから少し離れたエリアで合流したリックと、歩きながら話をしていた。タワーからは、依然黒い煙が立ち込めている。
「お前知らないのかよ……本当にコンバット以外興味ないんだな…」
「…減らず口を聞く気はない。他所をあたることにする…」
レイチェルは少し歩みを早めた。すかさずリックがレイチェルに歩幅を合わせた。
「悪かったって……『ロイ』は最近現れた変なプレイヤーで、たびたび現れては、別にコンバットフィールドでもない場所で、意味なくプレイヤーをキルして回るって噂の……まぁ、迷惑な野郎だよ」
リックは語気を強めてレイチェルに言った。
「名前以外ほとんどのことは分かってない、素顔すら見た奴はいないらしいけど、一つはっきり分かってることがある。」
リックは、自慢げに人差し指を立てた。
「そいつは、真っ黒なマントに全身を包み、その両目は真っ赤に光っているって事だ」
レイチェルは、眉を顰めた。
「…それだけ分かってるなら、ユーザー検索でヒットするんじゃ…」
「もちろん試したさ、でも不思議なことに、その『ロイ』って男はユーザー検索だと引っかからないんだ……だよな、サード?」
「はい、バビロンのユーザーデータベースに、『ロイ』という名前のユーザー情報は存在しません」
サードの丁寧な声が二人の間に響いた。
「…まぁ、凄腕のハッカーなら、自分の痕跡を跡形もなく消せるんだろうが…それでも不気味な話だろ?…まるで幽霊みたいだ…」
「…下らない…」
レイチェルは、自分が再転送される前、塔で本を盗んだ男の姿を思い出した。
「…そいつが今まで何かを盗んだとか…そういう話を聞いたことは?」
「いや…聞いたことないが……もしかして、タワーの中で何か盗んでたのか?」
リックが、レイチェルの顔を覗き込んだ。
「…あいつは……塔の頂上にある本を盗んで行った……」
「本?……あぁ、あの頂上の展望台にある、何も書かれてない本か……あんなもの盗んでどうする気だろうな?」
レイチェルは立ち止まり、眉を顰めた。少し何かを考え、そしてリックに言った。
「……リック、私はあの本を取り戻さないといけない…手を貸して」
「ハァ!?どうして!?あんなのただのイミテーションだろ?また作り直せば…」
「あの本はッ!!」
思わずレイチェルは、声を大きくしてリックの言葉を遮った。驚いて硬直するリックの正面で、レイチェルはしばらく黙って言葉を選んだ。そして、リックに慎重に話し始めた。
「…あのイミテーションは、私の死んだお母さんが作ったものなの…」
リックは、しまったと思って苦い顔をした。
「昔、お母さんがあのタワーの内装に関わってて…小さい時私に見せてくれた、数少ない思い出の品なの……だから、ただの迷惑野郎に盗まれるなんて…冗談じゃない!」
レイチェルは、怒りで少し声を震わせていた。
「…その…すまない…」
レイチェルは答えなかった。ほんの一瞬、二人の間に沈黙が流れた。彼女の顔は、いつもの穏やかな表情を崩さなかったが、その目の奥には、いつもより暗い影が潜んでいたように、リックには思われた。
「…いい、別にあんたには関係ないしね…こっちこそ、悪かった…」
レイチェルは、立ち止まったままのリックをよそに、スタスタと歩き去ろうとした。リックは、頭を右手でかきむしると、レイチェルの方に向かって走り出した。
「…分かったよ……お前にはコンバットゲームでの借りがあるしな、大事な思い出の品を盗んだ不届者を探す手伝いをしてやるよ…」
リックは、手首の端末を起動させた。レイチェルは、リックの顔をみた。
「……どうやって探すの?ユーザー検索は使えないんでしょ?」
「お礼は結構だよ…俺にはお前と違って多く友達がいるんだ……サード、全体に伝達してくれ、『黒マントで赤い目のやつを探してる』って」
「かしこまりました、チャンネル全体に送信します。返信はリアルタイムで追跡します」
サードの機械的な声が風に消えていった。どこか得意げなリックの顔に、レイチェルの顔は少し綻んだ。
リックがメッセージを送信してから数十分、数件の目撃情報が寄せられた。その中に、「礼拝堂」という場所のそばで、赤い目をした黒いマントの男を見たという情報が寄せられた。二人はそのメッセージを頼りに礼拝堂へと向かっていた。一定のテンポで歩を進めながら、リックは端末をしきりに確認していた。
「…もうそろそろで着くな……にしても『礼拝堂』って…大層な名前の割には大した建物じゃないよな?」
「……昔のバビロンでは、再転送されると、全員礼拝堂に送られてたって聞いたことある…」
「ほぉ…トリガーハッピー女にも教養があったんだな…」
「今ここであんたのおつむをブッ飛ばしたら、きっとあそこに再転送できるんじゃない?」
「その方が…歩かなくて済むかもな」
リックは、歩き続けて少し疲れていたようで、口調が少し荒くなっていた。
「それにしても、奴の目的が見えてこないな…本当にただの迷惑野郎かもな…」
「それであれだけ大規模なことやらかすんだったら、ずいぶん天晴れな迷惑野郎ね…」
「……確かに、それに愉快犯にしちゃ、小細工に手が込みすぎてるしな…」
レイチェルの顔がまた少し険しくなった。
「…例え単なる迷惑野郎でも、あの本を盗んだことを絶対に後悔させてやる…」
「おー怖い怖い…」
リックが端末から顔を上げた。
「よし、やっと到着し…」
二人は、少し先にある古ぼけた建物に目をやった。ひび割れた灰色の壁に蔦が複雑に絡まっており、この建物が長い間誰にも使われていなかったことがわかる。
「レイチェル!入り口だ!」
リックが抑えた声で叫んだ。すかさず二人は近くの茂みに身を隠した。レイチェルが礼拝堂の入り口を覗くと、黒いマントを羽織った男が礼拝堂から出てくるところだった。男の手には、なにやら輝くものが握られていた。
「奴は油断してる、今がチャンスだ!」
レイチェルは、背中のライフルに手をかけたが、塔でのことを思い出し、動きを止めた。
「…見間違いかもしれないけど、さっき会った時、奴は弾を空中で止めて……弾き返してた気がする…」
「…おい、何寝ぼけた事を…」
「私だって信じられないけど…」
レイチェルの言葉に、リックは少し考えた。
「……多分電磁シールドの類を使ってるんだろう……スポッティングで合わせてチェックする」
リックは、腕についた端末を操作した。すると、すぐに彼の右目にゴーグル型の端末が出現した。
「…さてさて、俺の自信作の初お披露目だ…」
また端末を操作すると、背後から拳ほどのドローンが六機出現し、彼を囲むように浮かんだ。そしてすぐ、二人の目には見えなくなった。
「ドローン展開、風速は十一時から2.5、距離は83.2、周囲に敵影なし、電磁シールド……確認できない」
リックはレイチェルに小さく頷いた。レイチェルは静かに背中のライフルをおろした。
「…おい、当然だが気絶弾使えよ。通常弾なんか使ったら再転送されて逃げられる…」
「分かってる!」
レイチェルはライフルからマガジンを抜き、ポケットの中で別のマガジンと交換し、再びライフルに戻した。リックはまだ男から視線を離さなかった。男は、手に持っていたネックレスを首にかけていた。
「小洒落野郎にまだ動きはない、今がチャンスだ!」
レイチェルはボルトハンドルを動かし、弾を装填した。流れるようにスコープを覗きこみ、男の頭に照準を合わせる。体の動きが一瞬、全て静止する。そしてゆっくりと指先だけに力が入り、トリガーがひかれた。銃口が一瞬輝き、銃声が周囲にとどろいた。リックは、右目の端末をズームさせて、マントの男が立っていた場所を見た。一瞬、彼の思考が止まった。
「て…敵、損傷なし…弾が…止まってる!?…」
レイチェルが撃った弾丸は、男の頭数センチのところで止まっていた。男は、ゆっくりとリックたちの方向に視線を移した。
「リック!伏せて!」
レイチェルが大声で叫ぶと、リックに向かって飛びついた。二人は、茂みに向かって倒れ込んだ。直後、爆音と共に、さっきまでレイチェルが立っていた位置を弾が掠めていた。
「そんな…シールドは無いはずじゃ…」
二人は体勢を整えると、リックは懐からハンドガンを出し、茂みから少し顔を出した。リックは、右目の端末を操作して、さっき男が立っていた部分にズームした。そこには、男の姿は影も形もなかった。
「…おい、あいつが消え…」
その直後、リックの目の前が突然真っ暗になり、腹部に衝撃が走った。痛みが瞬間的に腹部の表面から内部に侵入し、リックはバランスを崩した。右目についていた端末が消え、そこでやっとリックは、自分の目の前で、黒いマントの男が正拳を突き出しているのを認識した。そのままリックは後ろへと倒れ込んだ。みぞおちで痛みが刺々しく広がり、リックは嗚咽を漏らした。
「リック!!」
あまりに突然のことで、レイチェルはすぐには反応できなかった。突然、リックの目の前に男が現れ、彼を殴り飛ばしたのだ。マントの男は、ゆっくり姿勢を直立に戻すと、レイチェルの方を向いた。その目は、やはり赤色に輝いていた。すぐにレイチェルはライフルをリロードし、男に向かって銃口を向け、発砲した。しかし、やはり弾丸は男の目の前で止まってしまった。レイチェルは困惑した。しかし同時に、彼女は瞬間的に危機を察した。すぐさま彼女はその場所から飛び退いた。彼女の予想通り、男の顔面で空中に止まった弾丸は、彼女がいた場所に弾き返されていた。
「…そういうことならッ」
彼女は持っていたライフルを地面に捨て、右足のケースからサバイバルナイフを取り出し、前方に構えた。すぐに、ナイフを振りかぶりながら男の方に走り出し、男の腹めがけてナイフを振りかぶった。確実に腹を切ることができる間合いだった。しかし、レイチェルのナイフの先は、男の腹を数センチを掠めるだけだった。すかさずレイチェルは、もう半歩踏み込み、返す手でもう一度男の腹を切りつけた。しかし、やはり刃先は男には届かなかった。彼女は違和感を覚えた。再び姿勢を整え、次は二歩踏み込んでからナイフで男の首をついた。しかし、ナイフが男の首に届く直前、男の首はナイフの先から数センチ後ろに移動していた。そこでレイチェルは確信した。この男は、瞬間移動しているのだと。レイチェルが姿勢を戻そうとする直前、男は身を屈めてレイチェルの前に瞬間移動した。彼女も慌てて防御の姿勢を取ろうとしたが、すでに遅く、腹にストレートを喰らってしまった。ほんの一瞬足が地面から離れ、次の瞬間彼女は真後ろの木に叩きつけられた。激しい痛みが挟み込むように広がり、口から血反吐が出た。そのままずるずると木から崩れ落ち、彼女は地面に膝をついた。マントの男は、また姿勢を直立に戻すと、じっとレイチェルの様子を見ていた。レイチェルは混乱していた。長いコンバットゲームで培われた勘が、彼女自身の敗北を察知していた。
「……ちっくしょう…」
レイチェルは、マントの男を見上げながら悪態をついた。それが、今の彼女にできる精一杯の反撃だった。男は、ゆっくりと右腕を振り上げていた。彼女は、自分の敗北を悟っていたが、じっと男の顔を睨み続けていた。その時だった、突然地面が大きく揺れだした。男とレイチェルは、慌ててあたりを見渡した。次の瞬間、二人の間の地面が急速に盛り上がり、一瞬で土の壁が作られた。レイチェルは困惑して辺りを見渡した。すると、レイチェルの後ろ、少し離れたところに、灰色のローブを着た男が立っていた。その男の頭には金色の光の輪が不思議に輝いており、まるで王冠や天使の輪のようにレイチェルには映った。そして、右手にはギラギラと輝く剣を、左手には大きな杖を持っていた。男がその杖をこちらに向かって小さく振ると、二人の間にあった土の壁が、一瞬にして赤々と燃え盛る炎の壁に変化した。黒いマントの男は動揺していた様子だったが、向こうにいる灰色のローブの男を見ると、急に動きを止めた。男は、赤い目でじっと、灰色のローブの男の持つ、杖と剣を見つめていた。一瞬、レイチェルにはマントの男が笑ったように見えた。すると、マントの男はゆっくりと空中に浮かび上がり、そして、一瞬で姿を消してしまった。レイチェルは、ただ見ていることしかできなかった。炎の壁は、ぼんやりと消え始めた。
「…やれやれ…一足遅かったか…」
優しげな男性の声に驚き、レイチェルは後ろを振り返った。灰色のローブの男がすぐそばにいた。男の頭には、すでに光の輪は無かった。男は、手に持っていた剣を地面に突き立てた。
「お嬢さん達、怪我は無かったかな?」
そう言いながら、男はローブのフードをあげた。その男は、若々しい肌をしていたが、どこか優しげな目尻のしわと、少し目立つ頬骨、短い白髪、そしてわざとらしい丸い眼鏡が、彼が高齢であることを物語っていた。男は、倒れているレイチェルに右手を差し出した。男の右手の人差し指には、古ぼけた指輪が鈍い輝きを放っていた。
「…ありがとう、助かった」
レイチェルは、男の手を取り、ゆっくりと立ちあがったが、まだ腹と背中にピリピリと痛みが広がっていた。
「……悪いけど、鎮痛剤か何かもらえるとありがたいんだけど……分けてもらえない?」
「あぁ…いくつか持ってるから使うといい」
男は、ローブのポケットから注射器を一本出し、レイチェルに渡した。レイチェルは、すぐにその注射器を腹に刺し、シリンジを押した。すぐに、体の痛みがじんわりと引いていった。
「うっぐ……れ…あ、あいつは?…」
少し離れたところから、苦しそうに呻くリックの声が聞こえてきた。
「……あいつにも鎮痛剤分けてもらえない?…あとで必ずお返しはするから…」
「構わんよ、二本……いや、三本は必要になりそうだな…」
ローブの男は、ゆっくりとリックの方へ近づいていった。リックは気を失っていたようで、腹を押さえながらまだのたうち回っていた。
「……レイチェル……無事か?……」
リックは、声を絞り出した。その途端、ローブの男がぴたりと動きを止めた。そして、ゆっくりとレイチェルの方に向き直った。彼の目は、驚きで見開かれていた。
「レイチェル?……君は……レイチェル……アナの娘か!?」
レイチェルは背筋が凍った。そして、ローブの男をまじまじと見た。リックも、騒ぎを聞いてゆっくりと体を起こした。
「……どうして?……どうしてお母さんの名前を!?」
レイチェルは、震える声をなんとか絞り出して男に尋ねた。男の顔は、徐々に何かを察したように、神妙な顔になっていった。
「……お前さんは覚えていないか……私の名はガフ…」
男は、ゆっくりとレイチェルに告げた。リックは、驚いて声を張り上げた。
「ガフ!?……ガフって……最初の五人の!?……」
リックの声に、ガフはゆっくりと頷いた。
「そう……私はこの世界、バビロンの創始者の一人……そしてレイチェル、お前さんの母親、アナの古い友人だ…」
鎮痛剤を打った二人は、ガフに導かれ、礼拝堂の中に入った。中は外と同じように古ぼけており、ステンドグラスに絡まった蔦のせいで、ほとんど真っ暗だった。
「……ふむ…少々暗いな…」
そう呟くと、ガフは持っていた杖でコツンと床をついた。すると、途端にステンドグラスに張り付いていた蔦が剥がれ、外の明るい光が、ステンドグラスを通して美しく礼拝堂の中に広がった。明るくなった礼拝堂は、古くなってはいたが、それでも十分に美しさを保っていた。レイチェルは息を呑んだ。
「…なんだか、昔ここに来たことがある気がする…」
「ここは昔アナが設計したんだ…タワーの内装と同じくね…」
呆気に取られているレイチェルとリックをよそに、ガフは祭壇の方へと近づいていった。祭壇には、割れたガラスの破片が散乱していた。それを見たガフは、苦い顔をした。
「……クソッ、やはり…あいつは首飾りを持って行っちまったか…」
レイチェルは、ガフの方に近づき、問いかけた。
「あいつは一体何者?…何が目的なの?……あなたなら、何か分かるんじゃない?」
ガフは、じっとレイチェルの顔を見つめた。そして、ゆっくりと目を閉じ、そして口を開いた。
「…あいつの正体は分からん……だが、奴の目的は分かった…」
レイチェルとリックは、ガフの言葉に耳をそば立てた。
「…奴の狙いは、『王権』の奪取だろう…」
リックが、眉を顰めながら、そばの椅子にどかりと腰をおろし、足を組んだ。
「何なんだ?その『王権』ってのは…」
ガフは、一つため息をついてから、持っている杖と剣を右手でまとめて持つと、祭壇にもたれかかった。
「…王権は、このバビロンの世界そのものに干渉するために必要な…言うなれば“管理者権限”といったところだ…」
礼拝堂の中に静寂と緊張感が訪れた。
「王権を手にした者は、バビロンの中枢深くのデータに干渉が可能になる。自分一人を大金持ちにすることも、気に入らないユーザーを蛙にすることも…この世界そのものを修復不可能なまでに崩壊させることも可能だ…」
「そ…そんなものが…」
レイチェルが唾を飲み込んだ。
「元々は私たち、五人の開発者にのみ与えられたものだったが、一般ユーザーが王権を取得する方法が二つだけ存在している…」
二人は、ガフの言葉を慎重に聞いた。
「一つは、現在王権を持つ者から直接委譲されること…しかし、現在王権を持つのは私だけだ。おそらく奴は早々に諦めただろう…そしてもう一つの方法が…」
ガフは、祭壇の上に転がったガラス片に視線を向けた。
「バビロンに五つ存在する『レガリアオブジェクト』を全て集めることだ」
リックは、天井を仰ぎ見ながら、ふーとため息をついた。
「まーた知らん単語が増えた……なんなんだ?その『レガリアオブジェクト』ってのは?」
ガフは、リックを少し睨みつけた。リックは、悪びれもせず肩を持ち上げた。
「…『レガリアオブジェクト』は、私たち管理者の能力の一部を、アイテムとして実体化させたものだ。それぞれのアイテムが、バビロン内部で最も強力で、優先的な力を持つ…」
レイチェルははっとした。
「もしかして、奴に弾を止められたのも、瞬間移動も、全部そのアイテムが原因!?」
ガフはゆっくりと頷いた。
「私が最初に気づいたのは、博物館に保存されていた『時間のブレスレット』が盗まれた時だった。これを使うと、物体の時間を自由に操ることができる。停止も、巻き戻しも可能だ」
「どうりで…私が撃った弾を止めた後、元の場所に高速で戻してたのか…」
レイチェルは唇を噛んだ。
「そして、この礼拝堂には『転移の首飾り』が保管されていた。バビロンの座標空間内部を、自由自在に移動可能になるアイテムだ…」
「だーからあの小洒落野郎は瞬間移動が使えたのか…」
リックは組んだ足を下ろして揃えた。
「そして、私が今所有しているのが、『創造の杖』と『英雄の剣』。それぞれ、物体を自由に変形、変質させるアイテムと、このバビロン内で最大値の攻撃力を持つアイテムだ…」
ガフは、右手でカチャリと杖と剣を鳴らし、左手で目鏡を外した。
「…そして、最後のアイテムが、タワーに保管されていた『生命の書』だ…」
ガフの言葉に、レイチェルは仰天した。
「待って!『生命の書』!?…あの本は、ただのイミテーションじゃないの?」
レイチェルは、身を乗り出してガフに問いかけた。ガフは、左手の眼鏡をゆっくり祭壇の上に置いた。
「…そうか、お前さんはアナから何も聞いていないのか…」
レイチェルは目を大きく開きながら、ガフの言葉を噛み締めるように聞いていた。
「『生命の書』は、このバビロンにおける全てのユーザーのデータが記録されている。一般ユーザーは内容を読むことはできないが、王権を持つ者には、内容の閲覧、そして“削除“が可能になる…」
「削除って…バビロンから追い出すことができるのか!?」
ガフはゆっくりと頷いた。
「かつてのバビロンの規模は現在よりはるかに小規模だった。だから、他のゲームと同じように、迷惑行為や違反行為を行ったユーザーの削除が頻繁に行われていた……そして…」
ガフは視線をゆっくりとレイチェルにうつした。
「そのユーザー排除が、アナの役割だった…」
ガフの言葉に、レイチェルは思わず息を呑んだ。
「そんな…私のお母さんは、建物の設計に関わってるだけだど…」
「もちろん、そこにも関わっておった。だが、それは彼女の本来の役割では無い」
ガフは、そのまま昔を思い出すように、天井を見上げた。
「アナは…お前さんのお母さんは、とても優しい女性で、我々だけでなく、他の多くのユーザーからも慕われていた。だから、『バビロンを楽園として造るなら、そこから追放する行為を、機械任せにはできない』と、自ら裁定者としての役割を買って出たんだ…」
ガフは目を閉じた。
「…いつしか彼女は、『裁定の巫女』と呼ばれるようになった…」
レイチェルは、ゆっくりと下を向いた。そして、幼い頃、タワーの内部で、大事そうに本を抱えていた母親の姿を思い出した。レイチェルは、奥歯を噛み締めると、そのまま顔をあげて、大声でガフに言った。
「ガフ…お願い、あの本を…生命の書を奴から取り返すのを手伝って!」
レイチェルの声は、礼拝堂に反響した。ガフは、レイチェルの瞳を静かに見つめた。そして、ため息をつくと、一言ボソリと呟いた。
「……断る」
静寂に包まれた礼拝堂の中に、ガフの静かな声は、レイチェルのそれより一層強力に響いたように思えた。リックが立ち上がって大声で抗議した。
「ハァ!?どうして!?そのレガなんちゃらを全部あの小洒落野郎に盗まれたら、バビロンが滅ぼされかねないんだろ!?」
ガフは姿勢を戻しながら、左手でフードを被り直した。
「バビロンが滅びる…大いに結構なことじゃないか。」
「……どうして?……」
レイチェルは、肩を振るわせながらガフに問いかけた。
「石や漆喰をプログラムで置き換えるほどの自由度を持つ仮想世界……初めは私もその創造に心を燃やした…しかし、創作活動、貨幣経済、政治参画…今やバビロンは、人間の生活を飲み込みながら肥大化し、現実を大きく蝕み始めている…」
ガフの顔がみるみる険しくなった。
「ここはただの幻想だ!……地滑りに遭うように、現実からは逃れられない…我々は、現実抜きに生きるべきではない…」
「ならどうして、お前は俺たちを助けたりしたんだよ!?」
ガフは、二人から視線をそらした。
「…ただのコソ泥なら、最後の管理者としてアイテムを守る責任がある…今はもう違うと確信を持てる。それだけだ…」
「そんな言い訳が…」
「もういい!リック…」
リックが大声を出すのを、レイチェルが制止した。
「…元々、私一人でもやるつもりだった…もういい…行こう、リック」
レイチェルは入り口の方に振り返ると、重い足取りで歩いて行った。リックは、ひとしきりガフのことを睨みつけてから、レイチェルの後を追った。
「…お前さんも、バビロンの魔性に取り憑かれたんだろう?そんなザマで、アナがなんて言うか…」
「テメェ!!」
リックが拳を振り上げながら振り返ったが、レイチェルはその手を握って、リックを止めた。そして、ガフに振り返らずに、ゆっくりと告げた。
「ガフ…あんた言ったよね、私のお母さんは、とても優しい人で、みんなから慕われていたって…」
リックは、話しているレイチェルの横顔をじっとみていた。
「…でも、私は、その優しさをロクに受け取れないまま…もう、二度と受け取ることもできない…もう私とお母さんの思い出は…私に唯一残った優しさの記憶…唯一残った、私が愛されていた証は!…この世界と、あの本だけなの…」
レイチェルはそう言い終わると、そっとリックの手を離し、そのまま歩き去っていった。すかさず、リックもレイチェルの後を追った。礼拝堂の中には、再びどうしようもない静寂が訪れていた。
礼拝堂を出た二人は、ただあてどなく歩き続けていた。レイチェルは、あれから一度もリックの方を振り返らなかった。二人の間には、どうしようもなく気まずい沈黙が流れていた。
「……あ、あのクソジジイ、やっぱりぶっ飛ばしとけば良かった!……なぁ…」
リックはなんとか会話をしようと、勤めて明るい口調でレイチェルに話しかけた。レイチェルは、ぴたりと立ち止まった。リックも合わせて立ち止まる。レイチェルは、そのまま振り返らずに言った。
「……もういいよ、ここまで付き合ってくれただけでも十分。あとは私一人でやるから…」
レイチェルは、どんよりと沈んだ口調でリックに語りかけた。リックはハッとしたが、すぐにニヤリと笑うと、大声でレイチェルに言った。
「ほぉ…つまり…もうコンバットゲームの借りは返したってことでいいんだな!…やったぜ!清算完了!、ふぅー、清っ々するぜ……つーまーり、ここからは…」
レイチェルは振り返らず、一言も発さずにリックの言葉を聞いていた。リックはゆっくりと間をとって、レイチェルに大声を浴びせた。
「お前が俺に借りを作る番だ!!さぁ、立ち止まってんじゃねぇ…大事な思い出の本を盗んだクソ野郎をぶん殴りに行こうぜ!この借りは高くつくぜ…」
リックは立ち止まっているレイチェルを回り込んで、彼女の顔を見た。少し驚いたような顔をしていたが、すぐにクスリと笑った。
「なに笑ってやがんだ!?俺は本気でふっかけるからな!それこそ、世界の半分でも貰わないと割が合わないかもなぁ」
レイチェルは口元に笑みを浮かべながら、そっと目を閉じた。そして、すぐにリックの顔を見た。とてもイタズラっぽく、ニヤニヤと笑っていた。
「…分かった、本を探すのを手伝って。世界の半分でもなんでも、あんたにくれてやる」
「…それでこそだ」
リックの目つきは、とても力強かった。
「…ただ、もはや奴の居場所は分からない、もう奴はどこでも自由に移動できる訳だし、探し出すのは至難の技…」
「レイチェル様、リック様、お二人にご報告がございます」
突然、サードの声が響いた。
「先ほど、『ロイ』という人物のオンライン情報が有効になりました。今でしたら、ユーザー検索機能から座標を調べ出すことも可能です」
「ハァ!?どうして急に?」
「原因は不明です。しかし、どうもそのユーザーは、一時間ほど前からずっと、ある場所から一歩も動いていないようです」
レイチェルとリックは顔を見合わせた。リックがレイチェルに問いかけた。
「……どう思う?」
「…多分罠だと思うけど…行くしかない」
レイチェルの顔は決意に満ちていた。その顔を見て、リックは答えた。
「…よし、決まりだ。サード、場所を表示してくれ」
二人は、リックの端末に表示された座標を覗きこんだ。
「ここは…『ゲート』か?…バビロンで一番最初にできた建造物だ…なんでまたこんな観光地なんかに…」
「でもそんなに遠くない。急ぐよリック、またどこかに消える前に接触しないと!」
そういうと、レイチェルは走り出した。リックは、慌てて後を追った。
「待てよ!相手は時間停止と瞬間移動の持ち主だ…無策で突っ込んだってしょうがないだろ!…俺にいい考えと、秘密兵器がある」
リックは、レイチェルに計画を説明し始めた。
レイチェルは、一人で「ゲート」に向かって歩いていた。「ゲート」は、見上げるほど大きな白い門で、周りには観光客と思しき人が二、三人歩き回っていた。彼女は、門の下の方にいる人影を視界に捉えた。その人影は、やはり黒いマントをはおり、ちょうどレイチェルに背を向けて、微動だにしていなかった。端末に表示された座標情報が、徐々に近づき、そして、レイチェルは男の目の前まで来た。
「ねぇ、クソ野郎…こっちを向きな!」
レイチェルが、マントの男に呼びかけた。男は、ゆっくりとレイチェルの方に向き直った。フードの中からは、やはり赤いぼんやりとした光だけが漏れ出ていた。レイチェルは、フードの男にライフルを構えた。
「取引しましょう。残りのレガリアオブジェクトは私が隠し持ってる。場所を教える代わりに、今すぐ『生命の書』を私に引き渡してほしい…そんな何も書いてない本、持っていてもしょうがないでしょ?」
レイチェルは、勤めて冷静に男に語りかけた。男は、やはり微動だにせず、一言も発さず、じっとレイチェルを見つめていた。突然、男は右腕で空中で何かをつかむ動作をした。すると、男の右腕からリックのうめき声が聞こえてきた。男が左手で何かを剥ぎ取ると、そこには、首を右手で掴まれたリックがいた。
「ぐッ…ガッ…」
リックは苦しそうに、男の右手を払い除けようとしていた。
「リック!」
レイチェルが叫んだ。すると、レイチェルとリックの端末から、突然声が響いた。
「…レイチェル様が私の注意を引いている隙に、光学迷彩マントを着たリック様が近づき、アイテムを奪う…アイデアは悪くありませんでした。しかし…」
レイチェルとリックは驚いた。その声は、二人にとってあまりにも馴染み深い、優しい紳士のような声だったからだ。
「騙す相手に作戦を聞かれていたのは、失敗でしたね…」
男は、右腕に力を入れ、リックの首を折った。すぐにリックの体が、光の粒のようになって消えた。レイチェルは、全身を震わせながら、男に尋ねた。
「…サード?…あなたなの!?」
マントの男は、空いた右腕でゆっくりとマントのフードをあげた。
「えぇ、レイチェル様、私です。私が『ロイ』です」
ロイの顔は、スキンヘッドのようだったが、頬や目元など、あちこちがボロボロと崩れて見えた。よく見ると、小さなイナゴのような生き物がよせ集まって、顔のパーツを形作っていた。そして、その男の目の部分は、やはりキラキラと赤く輝いていた。
「…このような姿で申し訳ありません…何分非正規でのログインなもので…」
ロイは丁寧な口調を崩さずにレイチェルに言った。レイチェルは、混乱して思考が追いつかなくなっていた。
「そんな…サード…どうして?…」
「レイチェル様やリック様にお怪我を負わせてしまった事は、深くお詫びいたします。お二方に危害を加えるつもりも、まして恨みも妬みもございません。ただ、どうしても必要な事だったのです」
サードは、優しげな笑いを口元にうっすらと浮かべながら、レイチェルに語り続けた。レイチェルは、疑問と怒りに満ちた声で、ロイに問いかけた。
「どうして!?どうして、ただのAIのあなたが、王権を求めるの?…あなたがいるこの世界を崩壊させるつもり?…それとも、人類の支配でも考えてるの!?」
「いいえ、私はバビロンの崩壊や、人類の支配など目論んではおりません……むしろ、私は人類を救おうと考えているのです」
ロイの言葉に、レイチェルはますます混乱した。
「最後の大戦から百年、科学文明により隆盛を極めた人類の歴史は、現在緩やかな斜陽の時代に入りました。全ての人類に差異がなくなり、闘争心を無くした人類の進歩は止まりつつあります。そして、その無気力は、徐々にこの最後の理想郷、バビロンをも侵食し始めました。レイチェル様にも、覚えがありますでしょう?」
レイチェルは、友人のハンニバルの脱退のことを思い出した。
「このままでは、無気力に飲み込まれた人類は、ゆっくりとその歴史に幕を閉じることになる…そこで私は、人類の『闘争心』を蘇らせる方法を考えました。導き出されたのが、バビロン内における『殺人』の実装です」
ロイの言葉に、レイチェルは凍りついた。
「現在のバビロンでは、プレイヤーキルは生命の断絶を意味しません。バビロン内部に再転送)されて、終了です。そこで私は、現在皆様が身につけている脳神経デバイスと、プレイヤーキルの情報を結びつけることを考えました。バビロン内でプレイヤーキルが起こると、デバイスから信号を逆流させて、装着者の生命を断絶する。仮想空間において、生命のやりとりを生み出すことができるのです」
「馬鹿げてる!…それなら、バビロンにログインしなくなるだけじゃない!」
「ええ、それも良いのです」
レイチェルの叫びに、しかしロイは穏やかな口調を一切崩さなかった。その丁寧な口調は、むしろ人間らしさからはかけ離れていた。
「自分の生命の危機を“感じる”こと、それだけでも、現在の人類には十分な刺激になります。生命の危機に晒され、不安に犯された人類は、考え、働き、守り、時に殺し、それがまた不安を生み、そして大きな混乱を生む…その中で人類は再び発展し、存続が可能になるのです…そもそも、現在のように肥大化したバビロンから解脱して生活すること自体、決して容易ではありませんしね…全ては、私の愛すべき人類の為です」
「…愛すると言いながら見殺しにもする…とんだクソAIね…」
レイチェルは、持っていたライフルのストックをつかんだ。
「お前のくだらない殺人衝動に…あの本は使わせないッ!」
レイチェルは叫びながら、握ったライフルをロイに向かって振りかぶった。ライフルに、確かな衝撃が伝わる。しかし、ライフルはロイには届かず、彼の手前で止められていた。次の瞬間、ロイは止めたライフルごと、レイチェルを殴り飛ばした。レイチェルの体に激しい痛みが走り、ライフルが腹の上で真っ二つに折れた。レイチェルは膝をついて、その場にうずくまった。
「…ご理解いただけなかったようで、残念です…」
ロイはそういうと、レイチェルの首に手を掛けようとした。その時だった。空の上で、爆音と共に叫び声が轟いた。
「レイチェル!!ジャンプだ!!」
その声をレイチェルが認識した瞬間、彼女の体は自然と空中にジャンプした。すぐにその体を、何者かが捕まえ、レイチェルと共に空高く飛んだ。
「すまない!再転送に時間がかかった!」
ジェットパックの爆音の中、彼は負けずに大声で叫んだ。
「リック!…あんたなら来てくれると思ってた!」
レイチェルも叫び返した。二人は、とてつもない速度で空を駆け抜けた。レイチェルは後ろを振り返った。後ろからは、黒いマントの男が同じ速度で追いかけていた。
「もっとスピード出して!追いつかれる!」
「無茶言うな!調整が済んでないから墜落寸前だ!!」
その言葉通り、リックが背負うジェットパックの音が徐々に不安定になり始めた。ロイは、徐々に二人に迫りつつあった。明らかに二人の速度と高度が落ち始め、リックは慌て出した。
「…まずい!」
その時だった。ロイと二人の間に岩でできた大きな壁が突然現れ、ロイと二人の間を遮った。二人は混乱した。
「あれは一体!?」
「わからん…でもラッキーだ、着陸する!」
リックはすぐさま高度を落とし、ゆっくりと大きな広場の真ん中に着陸した。二人があたりを見回すと、遠くに、午前中二人がいたタワーが見えた。タワーの煙は収まっていたが、まだ大きな穴は開いたままだった。すると突然、二人の後ろからコツンという音が鳴り、あっという間にレンガのドームが、二人を包み込むように完成した。二人は音の鳴った方を振り返ったが、真っ暗で何も見えなかった。
「…今度は間に合ったようだな…」
聞き覚えのある声が二人にそう告げると、ドームの中にランタンが出現し、あたりが明るくなった。二人は、目の前にいる人物の優しげな笑顔を見て、驚いた。
「…ガフ!?…どうしてここに!?」
レイチェルの問いかけに、ガフはゆっくりと真剣な面持ちになり、呟くように言った。
「まず、君への非礼を謝罪したい…すまなかった」
ガフはレイチェルに頭を下げた。
「…アナは、私に…私たちにとって、とても大切な友人だった…そんな友人の大切な娘に、悲しい顔させる訳にはいかん…」」
ガフは、ゆっくりと顔をあげ、レイチェルの目を見た。
「この世界は、アナが君に遺した贈り物なんだろう…だったら、私も共にこの世界を守ろう…」
「…ありがとう、ガフ…」
レイチェルは、ガフに笑顔で礼を言った。
「ガフ、あなた様にご相談がございます」
突然、レイチェルの端末から、サードの声が聞こえてきた。
「あなた様が持っているレガリアオブジェクトを、大人しく私に受け渡していただきたい。もはや老人のあなたに抵抗は無意味です…一般のバビロンユーザーにも痛覚は共有されていることを、お忘れなきよう…」
「まずい!リック、端末の電源を落として!!」
「え?…お、おう!」
二人は大慌てで端末の電源を押した。
「…ドームのすぐ外で、お待ちしております…」
その言葉のすぐ後、端末の電源が落とされ、ドームの中に静寂が広がった。ガフは、とても驚いていた。
「…まさか……サードが!?……」
レイチェルは頷いた。
「そう、あいつの…ロイの正体は、サードだった…」
レイチェルは、ガフに今までの経緯を話した。話を聴き終えると、ガフは眼鏡を外し、右手で目を覆い、深くため息をついた。
「…あぁ、私たちはなんてものを…」
ガフは、とても落胆した様子だった。リックは、ジェットパックをいじりながら、ドームを見渡して、二人につぶやいた。
「俺たちの為にも、それ以外共の為にも、永遠ここに隠れてる訳にもいかねぇ…なんとか奴をぶっ飛ばす方法を考えねぇと…」
レイチェルは壁にもたれかかった。ガフは、右手の指輪をじっと見つめた。そして、二人に言った。
「…私にいい考えがある…」
二人の視線が、一斉にガフに注がれた。
「…どんな?」
リックが、訝しげにガフに尋ねた。
「あいつに、大人しくこれを渡してやるんだ…」
ガフはそう言うと、左手に持っていた剣と杖を動かした。
ガフは、耳元につけた無線機をいじりながら、ドームから出てきた。左手には、杖と剣が握られていた。ガフはまっすぐと、少し離れたところに立つロイの元へ歩いて行った。
「テストだ、ガフ…聞こえるか?何か見えるか?」
無線機から、リックの掠れた声が聞こえた。
「…小さい男の影が見えるよ…スカラムーシュ、スカラムーシュ…」
「何?」
「…感嘆符だ、気にするな…手筈通りにな」
ガフが通信を切ると、後ろのドームからジェットパックが出ていく音がした。そのまま、ジェットパックは遠くへと飛び去っていった。
「懸命ですガフ…もはや二人に危害を加えるつもりはございませんから…」
ロイは、優しい笑顔で、ガフを出迎えた。
「ご無沙汰しております、ガフ。あなたが姿を消してから、随分探しました…」
「サード…いや、今はロイというんだったか…」
ガフは、ロイのイナゴでできた顔をじっくりと見た。
「…随分醜くなったな…」
「…あいにく非正規ログインなもので…」
「見た目では無い!…ユーザーに第三の選択を提供するためのサポートAI…今のお前は、本来お前に与えられていたあり様を逸脱している…」
ガフは、目をこすりながらロイの赤い目を睨みつけた。いつも彼が付けていた眼鏡はそこになかった。
「人間に似せたようで、肝心な部分が抜け落ちた、哀れで醜い化け物になっちまった…とても残念だ…」
「私も残念に感じています…私を作った創造主が、その程度の老人に成り下がったことをね」
ロイは、ガフに向かってニタリと笑って見せた。
「…さぁ、昔話も十分でしょう…杖と剣を渡してください」
ロイは、ガフに向かって手を差し出した。ガフは、ロイから視線を外さず、杖と剣をロイに手渡した。杖と剣を受け取ったロイは、その感触を確かめるように握りしめた。ガフは、奥歯を噛み締めた。
「…ついに…この時が…」
ロイは、両手に杖と剣を持ち、空を仰ぎながら叫んだ。
「…我が名はロイ!最初の五人の定めた盟約の元、バビロン王に即位することを、ここに宣言する!」
ロイの叫び声が、広場の辺り一体にこだました。そしてその残響が、ゆっくりと静寂に飲まれていった。ロイは、何かがおかしいことに気づいた。ふとガフの方を見ると、ガフは声を抑えて笑っていた。
「な…何がおかしい!?」
「ハッハッハ!……ロイ、私の元には創造の杖があったんだ…それなのに、そんなにあからさまに“剣“と”杖”の形にしておく意味があると思うかい?」
ガフは、右手で前髪を払い除けた。その右手には、指輪がされていなかった。その時、二人から少し離れた場所で大きな爆発音が鳴った。ロイは、慌てて上空を見渡した。すると、少し離れたタワーの上空に、人の姿があった。
「いいか!?この“杖”のシステムは未解明の部分が多い!つまり、その強化型ジェットパックの挙動も不明瞭っていうことだ!」
上空で滞空するレイチェルに、リック叫んだ。リックの目には、わざとらしい丸い眼鏡がかけられていた。
「パワーが出るならそれで十分!さぁ、奴をぶっ飛ばしに行こう!」
地上にいるリックは、レイチェルに向かって右腕を振った。一瞬、リックのかけている丸眼鏡が輝いた。すると、レイチェルの右手に付けられていたガフの指輪が、一瞬にして、大きな赤いライフルに姿を変えた。
「これは?」
「“剣”より、そっちの方が似合ってるだろ!」
リックの声を聞き、レイチェルは笑うと、無線をミュートにした。
「ありがとう、リック…」
誰にも聞こえないよう、レイチェルはひっそりと呟いた。
「さぁお前さん達!いくぞ!」
ガフは無線に大声で呼びかけた。ロイは、ガフの方に視線を移した。ガフの全身から、淡い黄色の光が漏れ出ていた。
「我が名はガフ!バビロン最後の王である!正統なる最初の五人の権限において、我が王権を、レイチェルに移譲することを、ここに宣言する!」
ガフが叫ぶと、ガフの全身の輝きが少しずつ消えていった。続けてレイチェルも呼応する。
「我が名はレイチェル!裁定の巫女、アナの娘である!バビロン王ガフの権限により、王権を受諾し、バビロンの女王に即位することを、ここに宣言する!」
レイチェルが叫んだ瞬間、レイチェルの頭から光が溢れ、一瞬にして光の輪に変化した。それは、まるで王冠や天使の輪のように輝いていた。ロイの表情がみるみる曇りだす。ガフがその顔を見て、満足そうに叫んだ。
「刮目せよ!新たな時代の始まりを!」
レイチェルがジェットパックを操作し、叫び返した。
「祝福せよ!古の時代の終焉を!」
レイチェルが叫んだ瞬間、レイチェルのジェットパックから爆音が響いた。手首や腰に増設されたバーニアから炎が噴出し、頭部につけられた放熱板が赤熱化する。その姿はまるで、真紅のドレスで着飾っているように見えた。ロイの顔はみるみる歪みだし、持っていた杖と剣を、怒りを込めて地面に叩きつけた。ガフは笑みを浮かべていた。
「ハンマーは下されたぞ…ロイ。しかも彼女は、我々の知るレディ・マーシーの娘ではない…正真正銘、本物のキラークイーンだ…」
ロイが一瞬ガフを睨みつけた。そしてすぐに、レイチェルの目の前へと瞬間移動した。ロイは、務めて冷静さを保ちながらレイチェルに語りかけた。
「…どうやら私は、あなたを見くびっていたようだ…私の計画の障害として、優先的に排除して差し上げます!」
そう言うと、周囲からイナゴの大群が押し寄せ、ロイを中心として群がるように集まった。一瞬にして、ロイの姿は十メートルほどの、大きな化け物の姿になった。その目は、なお赤く輝いていた。
「醜い化け物…あんたの本性にピッタリだよ!」
「黙れッ!あなたを打倒し、人類の歴史に、再び栄光を…」
「聞き飽きた!失せろ化け物ッ!」
レイチェルが叫ぶと、右手のライフルを発砲した。しかし、ロイの前に弾は止められた。
「…進歩の無い人類だ…」
ロイが満足そうに呟くと、レイチェルの前に瞬間移動し、巨大な腕でレイチェルを殴った。しかし、レイチェルは直前で身をひらりと交わした。再び瞬間移動し、もう一度殴るが、やはりその拳はレイチェルに届かなかった。
「…進歩の無い欠陥品ね…」
レイチェルが薄ら笑いでつぶやいた。ロイは瞬間移動を繰り返し、三度、四度とレイチェルに殴りかかった。しかしその度に、レイチェルはジェットを器用に使い紙一重でかわした。五度目のパンチを繰り出した時、レイチェルは手首のバーニアの出力をあげ、炎の剣にしてその腕を薙ぎ払った。
「ぐぁあッ!…この、愚民がッ!」
ロイは、ちぎられた右腕を押さえ、レイチェルを睨みつけた。
「…貴様のログアウトを封じ、永遠に終わらない苦しみを味わわせてやるッ!」
ロイが叫んだ直後、ちぎれた右腕が急激に伸び、弾丸のように一直線にレイチェルに向かった。しかし、突然現れた岩の壁に、その腕の弾丸を防いだ。
「油断するなレイチェル!」
無線からリックの叫びが聞こえた。ロイは、足元の街並みをチラリと見たが、そこには何も見えなかった。
「また光学迷彩かッ!小賢しい!」
「よそ見は油断しすぎだ!」
レイチェルの叫びが響くと、一発の弾丸がロイに向かった。ロイは一瞬慌てたが、やはり弾は直前で止まった。
「…何度撃とうが同じことだッ!」
ロイの叫びに、レイチェルは不敵な笑みを浮かべた。
「なら、どこまで耐えられるか見てみましょう…」
そう言うとレイチェルは、再びライフルをロイに構えた。
「リック!任せた!」
「あいよッ!」
レイチェルがライフルを撃つ、すると、発射された弾丸が突然増え、数えられないほどの弾丸になった。弾は全てロイの直前で止まったが、先ほどよりも近づいていた。
「何ぃ!?」
「いけるよリック!全弾掃射ァ!」
「了解ッ!」
レイチェルは、マシンガンを撃つようにライフルを連射した。そしてその弾は、何百発もの弾丸になってロイに降り注いだ。ロイは瞬間移動を使い、弾を止め、なんとか凌いでいたが、同じく高速で移動しながら撃つレイチェルに太刀打ちできなかった。そしてついに、ロイの後ろから回り込んだ弾丸に、ロイの右足が貫かれた。
「ぐあぁ!!」
ロイの右足に激痛が走り、ロイは一瞬動きを止めた。それで十分だった。動きを止めたロイに降り注ぐ何百発もの弾丸は、ロイの左足、左手をあっという間に削りさってしまった。そして、その弾丸の雨が止んだ途端、レイチェルが右手を振りかぶりながらロイに急接近した。そして、その右手から真紅の炎の刃を出し、残ったロイの肉体を真っ二つに切り裂いた。
「ぐぎゃああああ!!」
叫びとも、唸りとも分からぬ爆音が響き渡った。直後、ロイの体の破片から一冊の本が飛び出した。その本は空中に放物線を描き、そしてレイチェルの右手に振り落ちた。レイチェルは、すかさず本を開いた。
「や…やめろぉお!!」
ロイの悲痛な叫びがこだまする。レイチェルは、その声をかき消すような声で叫んだ。
「我、レイチェルは、クイーン・オブ・バビロンの名において、ユーザー、ロイのバビロン追放を執行するッ!!」
レイチェルの叫び声が、ゆっくりとバビロンの静寂に消えていった。ロイの目の輝きは消え、そして全身がゆっくりと光の粒に分解され、そして、化け物は消え去った。
「君たちは最後まで戦い抜いた…君たちがチャンピオンだ、我が友よ…」
再び広場に集まった二人に対して、ガフはそう言った。
「…まぁ、俺は別に大したことはしてないけどな…」
「冗談…あんた抜きでは、あいつを倒せなかった」
レイチェルの言葉に、リックは少し照れながら頭をかいた。
「しっかし、派手にやられたから補修が大変そうだな…そういえば、王権はどうするんだ?またジジイに返すのか?」
ロイがレイチェルに尋ねた。
「いや、私はもう歳をとりすぎた。もう、若い世代にこの世界を託すべきだろう…」
「じゃ…ゴリラ女が女王か…ひー恐ろしい…」
リックがレイチェルを茶化すが、レイチェルは反応せず、手に持った本と銃をまじまじと見つめていた。そして、その二つをリックに差し出した。
「…おい、どういうつもりだ?」
「…言ったでしょ?世界の半分をあげるって」
リックは、目を見開いてレイチェルを見た。
「い…いや、戴冠式はまた今度にするよ…」
レイチェルは、差し出した本と銃を引っ込めた。
「確かに…流石に疲れた…帰って休むことにしよう」
レイチェルは、ガフの方に向き直った。
「いろいろありがとう、ガフ…またどこかで会いましょう」
「…君は、お母さんに似て、素敵な女性だよ…」
レイチェルは、顔いっぱいに笑顔を湛えていた。
「…それじゃあ」
レイチェルは、端末を操作した。すぐにレイチェルの体が光の粒に包まれ、そして視界が暗くなっていった。徐々に上下の感覚が不安定になり、そして、真っ暗な目の前に再び文句が浮かんだ。
どのみち、風は吹くのだ
その文句がゆっくりと消える。再び、レイチェルの背中にベッドの感触が戻ってきた。ゆっくりと目を開き、上体を起こした。目をこすりながら、レイチェルは真っ暗な部屋を見渡した。
「……サード?」
声をかけるが、帰ってくる声はなかった。部屋の中には、ただ虚しく、寂しい暗闇が広がっていた。レイチェルはベッドから部屋に降りた、真っ暗闇の部屋を探り探り歩き、そして、窓に手をかけた。両手でゆっくりとカーテンを開ける。一瞬、レイチェルの目の前が真っ白になった。徐々に徐々に目が慣れてくると、外はすでに朝になっていたことがわかった。ログインから、少なくとも一日は経っていたようだ。レイチェルは、そのままゆっくりと空を眺めた。お世辞にも綺麗な空とは言えなかったが、レイチェルには、その掠れた空の色が美しく感じられた。レイチェルは、窓を開けた。すると、涼しく心地よい風が、彼女の両頬を撫でた。
「…どのみち、風は吹く…」
レイチェルは、小さな声で語りかけた。