水晶宮の夜
平成7年4月上旬、野間初男は早朝家を出る。
行き先は山梨県の昇仙峡である。そこで水晶を買い求める。夕方までに長野県の白樺高原の近くにある和田峠に行く。黒曜石を手に入れるためである。
和田峠のロッジ和田峠で一泊の予定。1ヵ月前に予約済み。
常滑を出発したのが朝6時。半田の町を通り向け、東浦、大府市の市街地を通過して、豊明市役所前を通り過ぎる頃には東の空が明るみがかってきた。
・・・三好インターまであと15分くらい・・・。
野間は車のカーナビを見ながら呟く。
中央自動車道に入り虎渓山パーキングエリアで休憩をとる。4月とはいえ、早朝は肌寒い。紺のフリースジャケットの内ポケットに財布を入れ、車を降りる。
早朝の事もあり駐車場は車はまばらだ 。彼の車は三菱のデアマンテ。グレーの外観、3000CCのエンジンは音も静かで滑るように走る。
1ヵ月に1度は長距離ドライブを楽しむ。排気量の大きい車の方が快適であるし疲れにくい。
パーキングエリアに入り、コーヒーと野菜サンドを注文する。
野間初男、45歳。中肉中背,薄い眉の下の大きな眼に特徴がある。鼻梁が高く唇が薄い。頭のてっぺんが禿げかかっている。顔全体が四角で浅黒い。
人と付き合うのが苦手である。近所付き合いもしないし、久しぶりの同窓会にも顔を出したこともない。
両親とは10年前に死別。25歳の時に結婚したが、12年前に妻と死別。子供もいない。現在一人暮らし。
野間家は昔土管製造を営んでいた。昭和40年代に土管に見切りをつける。広大な工場跡地に長屋式のアパートを建てる。知り合いの不動産屋に入居者の管理を一任する。家賃収入で家計を賄っている。
野間は測量事務所で働いている。測量で山の中に入る事も珍しくない。両親や妻の死後、ヒマさえあると、車でドライブを楽しむ。
妻の生家が長野県諏訪市にあるので、妻の生存中は2ヵ月に一度は長野県や山梨県に足を延ばしていた。
野間はコーヒーを飲みながら、フリースジャケットのポケットから水晶を取り出す。直径5センチほど、太さ2センチ。価格としては5百円ほど。妻の形見なので肌身離さず持ち歩いている。
野間が水晶に興味を抱いたのは、妻の影響である。
それまでは、水晶もメノウ石などの宝石類は興味がなかった。それに水晶などは市内の店には売っていない。
妻の勧めで水晶を収集するようになった。
水晶玉のような加工品は値が張る。安価な原石集めが中心となる。
昇仙峡などの観光土産店で買うと、1キロの重さで大体1万円。ところが、これから野間が行く、昇仙峡の麓にある“問屋”だとキロ3千円くらいで分けてくれる。ただし、1度の買い物で10万円分購入する必要がある。
水晶の収集に凝りだすと、その美しい輝きに魅せられていく。お金と同じでいくつあっても足りる事はない。手に取って眺めていても、見飽きることもない。
野菜サンドを食べてコーヒーを飲み終わる。威勢よく立ち上がる。サービスエリアを出て、ディアマンテに乗り込む。エンジンをかける。静かな心地よい音がハンドルに伝わってくる。虎渓山サービスエリアを出ると一気に加速する。百キロのスピードながら、大地を滑るような走りである。ハンドルも軽い。スピード感覚もない。
瑞浪市を通り恵那市に入る。通行量も少ない。諏訪湖サービスエリアまで一気に駆けるつもりだ。
35歳の時に相次いで両親の死に見舞われて、ショックは大きかった。それから2年後、妻が死んで野間の心は虚ろになる。寂しさを紛らわすために遠乗りが頻繁になる。
車内から景色に目をやる。ふと妻の事を思う。
丸顔で愛嬌のある顔立ちだ。小柄でほっそりとした体つきだ。
妻と知り合ったのは知人の紹介による。
野間が24歳の時、知人が結婚した。奥さんんは長野県の出身だ。彼女の紹介で妻を知った。
野間は無口で孤独を好む。妻の時枝は社交性に富んでいる。人付き合い良いし饒舌なほど喋る。話すのが楽しいのか、聞いていても引き込まれる。嫌味がない。野間が陰なら妻は陽。引き付けあうように2人は結ばれた。
妻が死んだ後も、野間は度々、妻の実家を訪問している。今日も和田峠へ行く途中で立ち寄るつもりでいる。
諏訪湖サービスエリアに着いたのは10時前後。10分の休憩の後、甲府昭和インターまでノンストップ。約1時間。目的地の昇仙峡入り口にある水晶房に到着するのは11時半ごろ。昼食後、水晶房に入る。
今日は10キロと30キロの水晶を入荷済みとのこと.そのあと、メノウ石などの原石も買い求める予定でいる。
もっともこれらの水晶は国産品ではない。水晶のほとんどはブラジル産と言われている。商業ペースでは国産品は採掘尽くされている。
野間初男が所持している水晶で一番大きなものは50キロある。当然一人では持ち運べないので人手を借りることになる。
水晶房の主人によると、数年前ブラジルから1トンもある水晶を輸入しようとしたことがある。船から降ろす段になって、2つに折れてしまった。それで送り返したとか。
水晶の産地は他にもアメリカのアーカンソーで良質のものが算出する。水晶の産出国は全世界に及ぶ。スイスもあればフランスにもある。ロシアも商業ペースで量産している。
昇仙峡は正確には御岳昇仙峡という。そのすそ野に拡がる田や畑の中に孤立するように水晶房がある。昇仙峡への道筋にあるのだが、200メートルほど西に入っているために見逃しがちである。道路交差点に矢印の看板があるのみ。店というより工場である。スレートの建物に申し訳程度の事務所がある。周囲は田んぼが延々と続く。
車を駐車場に止める。
事務所のドアを開ける。中は8帖程の広さ。隅に薄汚れた茶色のソファとテーブルがある。その横に事務机と椅子があるのみ。
入口の所に“ご用のある方はこのブザーを押してください”という張り紙がある。ブザーを押す。しばらくして「はーい」という声とともに、事務所の奥のドアが開く。
「やあ、来ましたな」ヘルメットを被った四角い顔の男が防塵用のマスクを外しながら入ってくる。
「まあ、座って」
言いながら、割烹着のようなビニールの上着を脱ぎ棄てる。
「相変わらず大変ですねえ」
野間は低い声で話す。
水晶房では大小さまざまの水晶玉や、お土産用の十二支の動物をかたどった置物を作っている。ネックレスやイヤリング、数珠の注文も舞い込んでくる。
数年前、水晶ブームとかで、開運グッズと銘打った置き物も作っていた。
水晶は強度7.ダイヤモンドの粉を混ぜた研磨機で加工していく。電気掃除機を大きくしたような排気施設の中で研磨していく。
水晶はガラスと同じ石英である。その煙のような粉塵を吸い込むと肺に付着する。ガラスの粉は肺から体外へ排出されにくい。肺機能に悪影響が出るために、ビニールの上着を着て、防塵用のマスクを付けて作業する。
スレートの作業場の一角を間じ切って、研磨室としている。研磨中は霧状の水を吹き付けて行う。
水晶房の主人、和田健二はヘルメットを脱いだ白髪の混じった髪に手をやりながら、ソファに腰を下ろす。
「急ぎますかな」太い眉の下の大きな眼がギョロリと光る。
この後甲府市内の山梨宝石博物館に立ち寄ってみようと思っていると答える。夕方までに和田峠に行けばよいと付け加える。
「実はですね、注文の品の他に1つみてもらいたい物がありましてな」
ここの主人、和田健二は怖そうな顔をしているが、心根は優しい。もったいぶった言い方をするときは、掘り出し物があるという事なのだ。
「何でしょう」野間は薄い唇を蛭のように動かす。
「まあ、こちらへ」
和田は大きな体を大儀そうに起こす。作業場のドアを開ける。中は2階建てとなっている。大小さまざまの水晶やメノウ石、紫水晶、紅水晶、オパール、碧玉などが所狭しと置いてある。カットした後の水晶のかけらが無造作に山積になっている。
彼はどんどん奥へ歩いていく。奥の突き当りにアルミ製の引き戸がある。
「どうぞ、こちらへ」
和田は引き戸を開けると、野間を招き入れる。畳1枚ほどの玄関があり、右側が台所、左側が洋間となっている。
「ちょっと、お茶入れますね」
和田は洋間のソファに野間を座らせると台所に消える。洋間は15帖程の広さがあろうか、、窓を省く壁という壁には棚が並べられて、水晶の原石や水晶玉のように加工された商品が所狭しと並んでいる。
・・・これはすごい・・・野間は心の中で感嘆の声を上げる。1つ1つなめるように見て回る。
「どう、面白いのあります?」
急須とポットを持った和田が声をかける。柔和な顔で野間を見る。いかつい顔が子供のように愛嬌のある表情になる。
「ええ、ありますがお金の方が・・・」
「よかったらもっていって、代金は今度見える時いいから」和田は独り言のように呟く。
今度来た時で良いと言われても野間は気が引ける。常滑から気軽にこれる距離ではない。
「今度来るときにいただきます」
「そう・・・」
和田は軽く受け流す。お茶を入れながら、
「今日は和田峠に行かれるんでしたね」
ソファに腰を降ろす野間に湯呑茶碗を差し出す。
野間は黙ってうなずく。
「明日、ついでに和田村に行ってもらいたいのだが」
和田は名前の通り、長野県和田村の出身である。
1ヵ月に1回は、和田村の自宅に帰るのだが、今月は注文の仕事が多くて帰る暇がない。私の名前を言ってもらえれば判るから、荷物を持って行ってほしいというのだ。
「見せたい物とは、その荷物で・・・」テーブルの上の荷物をみて野間が問う。
「いやいや、これはこれでね」
和田は段ボール箱の荷物をテーブルの下におろす。壁の棚の小荷物入から和紙で包んだ“物”を取り出す。テーブルの上で和紙を広げる。中から顔を出したのはペンダントである。
「これをあなたに進呈します」
和田はいかつい顔で野間を凝視する。
水晶のペンダント、別に、珍しいものではない。
野間は手に取って鑑賞する。全体が赤みがかっている。大きさは大人の中指くらい。六角形の原石である。
「それ、私の故郷で見つけたものですわ」
和田は語る。
和田峠付近は黒曜石の産地として有名であるが、山の中を丹念に探すと、握りこぶし大の水晶が見つかる。小さな水晶が群生した、クリア・クリスタルというものがほとんどだ。褐色に濁っているので、商品価値は低い。
今、野間が手にしているものは、ローズコーツと言われるものに近い。桃色の水晶は若い人に人気がある。恋人獲得に効果があると言われている。
赤い色の水晶と言えばもう1つ、紫水晶がある。鉄が混入したため、赤紫を帯びることになる。赤というより、文字通り紫色をしている。
「角度を変えてみて」
和田の声に、和田は指の先でくるくる回してみる。
心の中であっと叫ぶ。眺める角度で赤い色が薄くなったり、血のように濃くなったりする。
「ほう・・・」野間は感嘆する。
「これ、本当にくれるんですか」
野間の問いに、和田のいかつい顔がにこやかになる。軽くうなずく。
「野間さんなら、大事に扱ってくれると思いましたのでね・・・」
今度は野間が頷く番である。
「ところで・・・」ふと心によぎった疑念が口をついて出る。一呼吸おいて「この水晶の効能は?・・・」
途端に和田が笑いだす。無理もない。巷間では水晶パワーがもてはやされているからだ。
恋人ができた。金が手に入った。宝くじが当たった。新興宗教の現生ご利益のように、水晶を持っていると、何でも手に入るように宣伝されているからだ。
笑い終わって「さあ、どうなんでしょうかねえ」和田は関心なさそうに、それ以上取り合おうとはしない。野間もつまらない質問をしたと思ったので、それ以上追求しない。
水晶房を出たのは昼の2時。30分かけて山梨宝石博物館に到着。1時間ばかり見学。再び中央自動車道の甲府昭和インターに向かう。ここから諏訪インターまで30分。
インターを降りると4時過ぎる。上諏訪温泉を過ぎ、諏訪大社を右に見る。大社の秋宮から春宮に入りその裏手に車を止める。この奥に妻の墓がある。墓参りを済ます。本来ならば妻の実家によるところだが、和田ロッジまでは、少なくても5時半までには入らねばならない。
・・・明日立ち寄ろう・・・心に決める。
国道142号線の上り坂を、アクセルを踏んで駆け上がる。対向車がいないので、ぐんぐんスピードを出す。白樺湖を過ぎる頃、道路は夢の平スカイラインのヘアピンカーブに差し掛かる。
蛇ののたくったような道を注意深く登っていく。左手は切り立った崖が広がっている。諏訪の街並みや諏訪湖が遠望できる。和田トンネルを抜けると雪がチラついている。
・・・こんな季節に雪か・・・
雪は吹雪のように激しくなってくる。風も強い。別世界に入り込んだ感触だ。タイヤがスリップしないようにハンドルさばきが慎重になる。トンネルを抜けて2キロほど先の山の中腹に和田ロッジがある。
ロッジ前の広場に車を駐車する。一面の銀世界である。
広場の東側、一段と高い場所にロッジがある。この季節、ロッジの利用者はない。
野間はロッジを降りると、雪を踏みしめて石段を登りロッジの玄関ドアを開ける。
ロッジは中央玄関の所が切妻まで、左右の2階建てが陸屋根である。玄関を入った右側に数十人が座れる大食堂がある。正面玄関に受付のカウンターと階段がある。
玄関先で雪を払い、靴を脱いでスリッパに履き替える。カウンター越しから声をかける。予定より少し早めに来た。
カウンター奥の部屋から、背の低いがっしりとした体つきの男が姿を現す。丸顔で3分刈りの頭だ。眼が小さく唇が厚い。
「やあ、いらっしゃい」ここの主人、岡野公平である。
「まあ、野間さんいらっしゃい」部屋の奥から奥さんが顔を出す。ご主人よりも背が高い。面長で整った顔立ちをしている。髪が肩まである。2人とも紺のトレーナーを着ている。
2階の部屋まで案内され、着替えと荷物を解く。風呂に入り、食事になるまで寛ぐ。
和田ロッジ周辺には八島湿原、霧ヶ峰、白樺湖、エコバレースキー場、青少年旅行村,キャンプ場などが点在している。その為、夏はキャンプ、冬はスキー客でにぎわう。
野間が訪れた4月上旬は季節の変わり目で、ロッジは閑散としている。野間以外の客はいない。夕食も広い食堂で野間1人がすき焼きの鍋をつつくのみ。
その後、野間の部屋に主人の岡野が現れる。黒曜石を手にしている。野間が買う約束をしていた。
黒曜石は古代人が石器(矢じり石)として使用していた。
現在、この石は浄水器に入れて、水の活性作用に使用されている。
工業用としては、製鉄所で、黒曜石の粉末を溶けた鉄の中に入れると、溶鉄の中の不純物が一ヵ所に集まる。
建築資材としても利用されている。コンクリートを軽くするには、コンクリートの中に気泡をいれる。ただし泡を入れたコンクリートはもろくなる。
黒曜石は焼き上げると、黒い成分が焼けて白くなる。それを気泡剤とともにコンクリートの中に混入する。コンクリートが軽くなり、その上粘りも出てくる。
黒曜石が大量に使用されるようになり、国内の産出量だけでは賄いきれず、現在はほとんどロシアからの輸入に頼っている。
黒曜石は水晶と同じく、身辺に置くと体に良い影響を与える。野間は諏訪を訪れるたびに少しづつ黒曜石を購入している。
和田ロッジでは一般向けに黒曜石の販売は行っていない。通信販売をしているとかで、電話1本で送ってもらえる。
野間の宿泊の部屋は8帖1間である。押し入れに布団が入っている。自分で敷いて、自分で後片づけする。部屋にあるのは室内電話とテレビのみ。
主人の岡野にビールを注文している。肴の漬物を出してもらい、主人と雑談に講じる。岡野は小柄ながらがっしりとした体格をしている。
和田ロッジのある場所は旧中山道である。国司跡の和田宿本陣、永代人馬施行所などを見るよう、主人は勧める。
野間はほんのりと酔った勢いで、水晶房の主人和田の話をする。その時にもらった水晶のペンダントを見せる。
岡野も和田村の出身である。和田の事はよく知っている。
「ほう、和田がねえ」水晶のペンダントを手にするなり岡野の顔がほころぶ。
「それを身に着けていると、何か良いことが起こらないかと思ってね」野間は和田から笑われたと付け加える。
「で、和田はこのペンダントについて何か言いませんでしたかな」
岡野は真顔になる。小さな眼を見開き、分厚い唇が一文字になる。野間は禿げ上がった頭をつるりと撫ぜる。
「いや、別に・・・」
水晶房から見れば野間は上客だ。サービスとしてくれただけだと思っている。
「これは和田村だけでしか採れない水晶でしてねえ」
岡野は押し頂くようにして、ペンダントを野間に返す。
以下岡野の話。
見る角度によって水晶の中の色が違って見えるのは珍しい。これは野間にでもわかる。
世界広しといえど、この水晶が採掘される場所が和田村のある一部分だけしかない。それもめったに出る物ではない。非常に希少価値の高い物というのだ。
「いわば和田村のお宝ですな」
「ほう・・・」野間は神妙な顔つきになる。
「では、そんな大切なお宝を、私にくれたという事は・・・」
野間は岡野の説明を求めようとする。
「それは・・・」岡野は口ごもり眼を伏せる。
「とにかく、和田の家に行けば判りますから」
岡野はそれだけ言うと、ビール瓶や料理用の皿を片付ける。
野間もそれ以上聞こうとはしない。ビールをもう1本追加してテレビを見る。ガスの暖房が程よく効いている。ビールを飲んで、布団を敷いて、一気に夢の世界に入り込む。
翌朝8時に起床、洗面と用足しを済ませて、食堂で朝食を済ます。外は雪が積もっている。野間の車の上にも雪が積もっている。
野間の食事中、主人の岡野は雪かきに精を出している。
和田ロッジは旧中山道から2百メートル中に入っている。広場の車を駐車している周辺の雪をとり省いているのだ。食後のコーヒーを飲みながら岡野の奥さんに和田村への道順を尋ねる。
奥さんはしげしげと野間を見つめている。昨夜のような突き放した、慇懃無礼な態度はない。たとえがおかしいが、有名人に出会った時の驚きと尊敬の眼差しに似ている。
9時に和田ロッジを出発。
和田村は八ヶ岳中信高原公園の中にある。和田峠から北に向かう。和田村のはるか北には小諸市や上田市が控えている。時間にして約30分。道路は緩やかな下りで雪景色は消えている
国道142号線は車の通行も少ない。ここは長野県のほぼ中央に位置している。周囲は山また山で、国道沿いに、永代人馬施行所や、三十三体観音、一里塚などの観光名所が点在している。
和田村は役場が国道沿いにある。和田川が道路に沿うようにして流れている。役場のすぐ後ろに本陣がある。歴史の道資料館や黒曜石資料館もある。
少し行くと和田神社が左手に見える。その後ろの菩薩寺のほぼ中間あたりに、水晶房の主人、和田健二の自宅がある。自宅と言っても、家の主は彼の兄、健一氏が継いでいる。中学生、高校生の子供が3人いる。
和田健二は独身で、普段は1ヵ月に一回の割合で和田村に帰る。今月は帰れないために、野間が預かった荷物を持って訪問したのである。
この一帯は観光地なので、国道沿いには売店が軒を連ねている。歴史の道資料館付近がその中心になっている。
和田村の特産品に、わさびやきのこ、そば、いわな、野沢菜漬がある。
和田神社に裏手に車を止める。
和田の家はすぐに見つかる。いぶし銀に瓦を葺いた2階建の大きな家である。家の裏手に和田川の支流である野々人川が、せせらぎの音を立てて流れている。
観光地とは言うものの、名所、旧跡が点在するのは国道沿いのみ。一歩国に入ると、昔ながらの畑が広がっている。民家は国道沿いに集中している。時代の流れなのだろう、新しい家が目立つ。
和田家は家の作りが古い。屋根だけを葺き替えている。玄関は一軒幅の鎧戸である。窓も小さい。
野間は鎧戸についているくぐり戸を開ける。大きな声で案内を乞う。薄暗い家の中から、太い男の声が返ってくる。
四角い男が顔を出す。この家の主人と判る。顔かたちが和田健二とよく似ている。1つ違うところは背が低い。眼付、鼻の形、太い眉と大きな眼,瓜2つのように似ている。健二氏は怖い顔つきだが、健一氏は大人しい表情をしている。
野間が自己紹介をする。和田健一氏は、馬鹿丁寧に頭を下げる。
「弟から聞いておりますでなあ」言いながら、
「まあ、どうぞ中へ」手刀を切って、家の中へ招きいれる。
くぐり戸を入ると2間幅の土間である。地面は三和土である。天井の太い柱が黒光りしている。左手は50センチばかり高くなって、和室が続く。田の字型の部屋の中央には黒光りした大黒柱が威容を誇っている。土間の奥は改装したのであろう、床のベニヤも新しい。システムキッチンが入っている。
「まあ、どうぞ、上がって」
和田健一氏の言葉に甘える。スニーカーを脱ぐ。畳の上に正座すると、和田健二氏から頼まれた段ボールの箱をテーブルの上に乗せる。
台所からお茶を持って、和室に腰を降ろす和田氏に、
「これ、健二さんからの預かり物です」野間は段ボールの箱を渡す。
「やっ、これはこれは」
和田氏は段ボール箱を押し頂くようにしてテーブルの下に置く。
「すみませんなあ、今日は家内も子供たちと出ておりましてなあ」
白髪の3分刈りの頭に手をやる。いかにも申し訳ないといった顔つきになる。
「いえいえ、どういたしまして」野間は手を振る。恐縮するのは自分の方である。
水晶房では水晶を格安に分けてもらっている。昨日はこんな水晶のペンダントをもらって・・・」
野間はペンダントを首から外すと和田に見せる。
「ほう、弟がこのペンダントを・・・」
和田の大きな眼が一層大きくなる。意外そうな顔で、野間の顔とペンダントを見比べている。
野間は浅黒い顔をつるりと撫ぜる。禿げ上がった頭に手をやる。驚くのは野間の方だ。
和田ロッジの夫婦と言い、この家の主人と言い、ペンダントを見て不思議そうな顔をする。
・・・このペンダントに何かあるというのか・・・
「実はですねえ・・・」
野間は和田ロッジでの主人の話をする。
和田健一氏は実直そうな顔で聞いている。大きくうなずいたり、ため息をついたりする。
野間が語り終えると、代わって和田健一氏が語りだす。
このペンダントの水晶は和田村でしか採出できない。全体が薄赤身がかり、見る角度でその色が薄く見えたり、濃く見えたりする水晶は世界広しと言えどここでしか採れない。では探せば簡単に見つかるのかと言うとそうもいかない。
自分はここに50年住んでいるが、一度も手にしたことがない。
弟が手に入れたのは、水晶探しが3度の飯よりも好きなこともあるが、水晶を採掘するために、毎日のように山の中を歩き回っている事。
・・・そういえば・・・
和田健一氏の話を聞きながら、和田健二氏の言葉を思いだす。彼は暇さえあれば、野宿も辞さずに山歩きをして水晶を求めるという。
野間は合づちをうって、再び和田健一氏の話に耳を傾ける。
「弟は、和田村にしかないこの水晶の事は、よう知っておりました」
和田は頭をごしごし掻きながら話続ける。喋り方は朴訥としている。野間の顔色を伺うようにして話す。
和田健二は和田村の周辺の山々の隅から隅まで探し歩いている。
5年前、和田健二はすがる思いで和田神社に願掛けしている。端の者が見ると笑いだしたくなるが、彼には真剣だったのだ。
神様に願いが通じたのか、ある日夢を見る。
和田村から南の方に約10キロほど行くと、物見石山がある。海抜1935メートル、なだらかな稜線を持つ山である。石山さんと親しまれている山である。その麓に直径1キロほどの湖がある。湖の北側に戸数十数戸の部落がある。石山の麓に“石神”と呼ばれる祠がある。部落民の信仰を集めている。
その石神さんが、和田の夢の中で燦然と輝いたのだ。和田健二は夢のお告げを信じて、石山部落を訪ねて、水晶を手に入れる。
「どうやって手に入れたのかと,聞いても、弟のやつ何も言わない。これは俺が手にするものじゃない」怖い顔でぼそりと言うのみ。
和田健一氏も好奇心で石山部落へ行ってみたが、水晶のかけらさえ手に入らなかった。
この水晶について、弟の奴、何か言ってましたかな」
和田健一氏は穏やかな顔で尋ねる。
「いや、別に・・・」野間は口ごもりながらも、大笑いされた事を話す。
和田は子供のように微笑する。
少し間をおいて、野間は尋ねる。
「そんな苦労をして手に入れたものを、どうして私に?」
野間は妻と一緒になる前は水晶については何も知らなかった。水晶を手にして親しみが湧く。以来、小遣い程度の収集が始まる。手元に置いて撫ぜたり触ったりしている。
購入するのも原石のみ。加工品は価格が高いこともあるが、完璧すぎて冷たい感じがする。原石の粗削りで素朴さが好きである。
「何故でしょうねえ」和田はとぼけた口調になる。
とぼけた表情になるのは、どうやら和田の癖らしい。
和田健一氏は、喉を鳴らしてお茶を飲み干す。
「実は、石山部落には、昔から、奇妙な言い伝えがありましてなあ」
以下和田氏の話。
石山の上に“物見”という文字がついている。そのいわれは定かではない。
和田健一氏はねずみ色の作業服の皺を延ばす。うつむき加減の顔をふる。
――言おうか言うまいか――そんな迷いの表情が浮かぶ。意を決して顔を上げる。
「笑わないで聴いてください」はにかむように言う。
昔、昔、気の遠くなるような大昔、物見石山の麓一帯は赤みがかった水晶であふれていた。ここに来ると、病人は元気になる。どんな病気も完治する。
人々の心はおおらかで、水晶を持ち去ろうとする者はいなかった。病人でなくても,ここに来さへすれば幸福な気持ちになれる。
好奇心や気分転換で訪れる人が多かった“ものみ”的に軽い気持ちで来れる。水晶石のある山という事で、いつしか物見石山と呼ばれるようになった。
しかし、時代が下ると共に邪な心を持つ者が多くなる。水晶を我が物にしようと、持っていく者が多くなる。
水晶の神様はそれを見て、激しく怒り、山を噴火させて、水晶を地の底、奥深くに埋めてしまった。
「言い伝えでは、物見石山の地の底に、水晶宮があるとか・・・」
野間は和田の話を聞いて思わず笑いだすところだった。笑っては失礼だと口元をぐっと引き締める。
童話でも聞いているような雰囲気だ。
「そのペンダントですけどね」
和田は野間を見据える。探せば見つかるという代物ではない。物見石山の神様がこれはという人に与えるお宝だと言われている。
「ほう・・・」野間は不思議な気持ちでペンダントを手に取る。
「ですから、弟が自分が手にする物ではないと言ったのは、弟に与えられる物ではないからです」
「それじゃあ、私に・・・」
和田は大きく頷く。
「でも何のために私に」野間はせっつくが、和田は笑って、
「さあ・・・」と首をかしげるばかり。
「昔からの言い伝えですとね」
和田の四角い顔が野間の浅黒い顔を畏敬の念で眺める。和田ロッジの奥さんの顔つきにそっくりである。
まじかに有名人を見ているときの表情――驚きと畏敬の入り混じった顔色がにじみ出ている。
「あなたは選ばれたんです」
「選ばれた・・・?」野間はオーム返しに聞く。意味が理解できないのだ。
「でも、これ、和田さんから貰った物なんですよ」
野間の返事に和田健一は大きく手を振る。。
「弟が言ってました。あなたこそこの水晶を持つにふさわしいって」
和田は野間をじっと見る。
「弟は昨日会った時にそれが判ったとね」
「まだよく判りませんが・・・」
野間の疑問に和田は以下のように答える。
この水晶を持つ者は、近い将来、物見石山の地の底に眠るという“水晶宮”に招かれる。その世界は想像を絶した至福の国と言われる。
「水晶宮への入り口でもあるんですか」
「それは誰にも判りません」
和田は話を続ける。神様の計らいは人知を超えている。その水晶を手にしたものは、ただただ、神様の意思に従うのみ。
野間は聞いていて、大変な事になったと感じている。
和田ロッジに行くことは予定内の事だった。しかし和田村に来ることは予定外だ。水晶房の主人から頼まれてくれないかと言われて、軽い気持ちで引き受けただけだ。
・・・自分は選ばれた人間だなんて・・・
思歯がゆいというか、気恥ずかしい気持ちなのだ。野間は平々凡々に生きているだけだ。社会を動かす特別な存在ではない。ましてや週刊誌に載るような“有名人”でもない。水晶に興味を持つ一市民に過ぎない。
――選ばれた人――と言われて悪い気はしない。
野間の意中を見抜いたのか、和田健一氏は石山部落に行ってみないかと誘う。
野間は首を縦に振る。
和田氏の家を出る。昨日とは打って変って雲1つない天気である。薄暗い屋敷から急に明るい外に出たせいか、眼がチカチカする。しばらくするとそれにも慣れる。時計を見ると10時半。
「ほれ、あの南の方に聳える山が物見石山です」和田が指さす。
麓の石山部落まで、徒歩で1時間、野々入川に沿って歩けば、いやでも部落にたどり着く。石山と部落の間にある湖が野々入川の源流である。
部落と言っても戸数が十数戸しかない。あちらこちらに点在している。部落の入り口に15坪ほどの一軒家がある。吉松という老人が一人で住んでいる。電話を入れておくので、まずはそこを尋ねるとよい。
野間は和田に礼を言って川沿いの道を歩く。川幅は3メートルほど。歩くにしたがって川幅も狭くなる。道幅は1メートル程.轍の跡がついている。自動車が通行できないので、リヤカーか荷車などの車輪の跡とみる。
4月上旬とはいえ、この山の中空気は冷たい。
太陽がそろそろ中天に差し掛かろうとしている。右手、川のせせらぎの姦しい音を聞きながら歩く。左手はそば麦の赤みを帯びた茎が群生している。秋になると白い花が一斉に咲き乱れる。雪が降り積もったと見違えるほどだ。
30分も歩くと、そば畑も消える。白樺を交えた雑木林に代わる。道は登りとなる。汗が噴き出る。紺のフリースジャケットを脱ぐ。ブラウンのセーター空気が通る。
測量の仕事で、時々や山を歩くので苦にはならない。むしろ周囲の景色を見たり、冷たくおいしい空気を吸いながらの山歩きに,清々しい気分になる。
登り道が険しくなる。道も細く川幅も狭まる。雑木林も深くなる。熊が出てもおかしくない。そう思うと、野間は緊張のあまり身震いする。かといってもう後戻りができない。とにかく前進するだけである。
道には轍の跡がついているものの、和田村を出たころに比べると、それほど深くはない。和田村と石山部落はそれほど頻繁に行き来しているのではないとみる。
そんなことを考えながら坂道を登る。
突然、目の前が開ける。雑木林が切れてそば畑が広がる。広々と続く台地に出たのである。
狭い視界が急に広くなる。青い空がまぶしいほどに輝き、前方にはお椀を伏せたような山が聳え立つ。深い緑に覆われて、圧倒する大きさで天を突いている。
右手を流れる川は、せせらぎの音を立てて、ガラスの粉をまぶしたような、白い泡を見せている。
もはや“川”とは言えない。くぼみを流れる一筋の水にふさわしい。台地の上から滝のようにほとばしる流れも深い草木に覆われている。
台地は緩やかな下りとなっている。1キロほど歩く。そば畑も消える。遠方に点在する人家が見える。その奥、物見石山のの麓に、チカチカ光るのが湖らしい。
腕時計を見ると11時半。太陽は山の頂上で白い光を放っている。
右手は台地と同じ高さでうっそうたる森林が続いている。下にある部落まで2百メートル程あろうか。
部落の入り口に小さな平屋がある。屋根も壁も板で囲ってあるだけ。庭先に野菜畑がある。
野間が感心するのは、日本はどんな山奥に行っても“電気”が通じていることだ。よく見ると、左手のそば畑の後方に電柱が立っている。
あの小屋に住む人が吉松という老人なのだろう。すでに電話しておくと言ってあるから、野間の来るのを待っているのかもしれない。
15坪ほどの小屋は板を無造作に打ち付けてあるだけのものだ。侘しいほど粗末な作りだ。入り口も半分開いている。1間ほどの大きさの“ドア”である。家の柱に縄で括り付けただけだ。ドアを持ち上げて開けて中に入る。
「こんにちは」
野間は声をかける。家の中は窓がないので暗い。勝手に家の中に入るのも気が引ける。一旦外に出る。庭には大根、ニンジンなどの青い葉っぱが若々しく色づいている。
この部落はほぼ自給自足なのだろうと推測する。庭の向こう側に白樺の雑木林が広がっている。家の裏に道がある。東側奥に点在する部落まで伸びている。
野間は所在なさそうに、庭先の石に腰を降ろす。待つこと5分くらいして雑木林の方から、背の高い老人が現れる。手に鮎をぶら下げている。野間は立ち上がり、深々と頭を下げる。一陣の風が吹き抜ける。禿げ上がった野間の頭部をかく乱する。慌てて手櫛で少ない髪の毛を整える。
吉松老人は雑木林を抜ける。庭先まで来ると、
「待たせたかな」カーキー色の作業服についた葉っぱを払い落とす。ゴム長靴についた土を落とす。
彼は野間の手前まで来ると、野間を凝視する。
目じりはノミで彫ったような深いしわが刻まれている。3分刈りの白髪の頭は大きい。頬の肉が垂れて、がっしりとした顎が精悍さを漂わせている。眼は糸のように細く、白い眉毛が長い。長寿の相なのであろう、顔全体に張りがある。感情を顔に出さない性格なのだろうか、野間が挨拶しても、無表情に突っ立ったままだ。
「昼飯まだだと思って、鮎とってきた」
手にした5匹の鮎を野間の目の前に差し出す。
「まあ、家に入って」
吉松老人は1メートル80センチはあろうか、大柄な体をくぐめるようにして家の中に入る。野間も後に続く。
家の中は10帖の板の間以外はすべて土間である。吉松老人は裸電球をつける。板の間には畳1枚分のコタツがある。壁際には黒い電話機がある。今時珍しいダイヤル式である。
土間には人一人が入れるような瓶が3つある。中に水が入っている。流し台はセメントで作った60センチほどの大きさだ。
「便所は外にあるでな」吉松老人は独り言のように言いながら、流しで鮎をさばく。慣れた手つきだ。土間の中央、板の間寄りに囲炉裏が添えてある。吉松老人は囲炉裏の上にかかっている鉄鍋のふたをとる。さばいた鮎を無造作に放りこむ。庭先から野菜を採ってきて、流し台で刻んで、これもまた無造作に鍋に入れる。木のしゃもじで手荒くかき混ぜる。
野間は立ったまま呆然と見ているだけ。吉松老人は板の間に上がりこむと、コタツの布団を跳ね上げる。コタツの中から鉄鍋を取り出す。囲炉裏を囲むようにして茣蓙が敷いてある。鉄鍋を囲炉裏の傍に置く。流しの物入れの中から木の椀を取り出す。箸は木の枝である。
野間に茣蓙の上に腰を降ろすように促す。鉄鍋からそば粥を椀の中に入れる。野間の前に置く。囲炉裏の上の手鉤にかけた鉄鍋から鮎や野菜の煮物をもう1つの椀に入れる。
「食べて」野間の前に粥と一緒に並べる。後は自分用の鮎や粥を椀に入れると、器用に木の枝の箸を使って口の中にかっこむ。食べ終わるまで無口。野間も無口で腹に収める。
食事が終わると、吉松老人は「村長の家に行くから」言いながら立ち上がる。野間も操り人形のように後に従う。
部落と言っても十数軒が軒を連ねているだけ。板葺屋根や萱葺屋根の家ばかり。全体として粗末な作りである。人口は103人だと、吉松老人はは歩きながら教えてくれる。
この一帯は長野県のほぼ中央に位置しながら、不思議な事に雪が積もった事がない。冬の寒さは厳しいが、春や夏、秋は過ごしやすい。湖があるせいか地下水に恵まれて、山の幸も豊富に採れる。食物の不足しない。
部落の中央にひと際大きな家がある。茅葺屋根で2階建である。昔は2階で蚕を飼っていたというが、昨今は着るものに不自由しない。電気が通じてテレビや電話もある。テレビのアンテナは物見石山の山頂にあつらえた共同アンテナから引っ張ている。
世間から隔離された社会とは言うものの、この部落に住む人々はそれなりに幸福に暮らしている。
「ごめんよ、吉松だがなあ」
村長の家の前に来て、玄関の引き戸を開けると、老人は声をかける。
野間が腕時計を見ると、12時半、昼食の時間のせいか、ここまで来るのに人影を見ていない。
「まあ、入りやな」中から声がかかる。
吉松老人は声が終わらぬうちに家の中に入っていく。野間も後に続く。
家の中は和田健一氏の家の作りとほぼ同じである。玄関を入った所が10帖の三和土で、左手に黒光りした上がり框がある。その上に8帖の畳の部屋が4室控えている。4室の中央に大黒柱が立っている。和田宅と違うところは、玄関先の三和土の北奥も土間なのだ。その東側の壁際には昔ながらの竈が2基据え付けられている。
和室の窓も小さく家全体が薄暗い。天井のむき出しの梁につけられた蛍光灯が妙に明るい。
吉松老人は無言のまま上がり框に腰を降ろして、ゴム長靴を脱いで畳の部屋に上がり込む。野間もスニーカーを脱いで畳の上にかしこまる。
北隣の和室が食堂になっているようだ。しばらくすると、襖を開けて、野間と同世代くらいの男が入ってくる。
襖を閉めながら「どうもどうも」と言いながら、畳の上に胡坐をかく。座布団はない。
「おーい、お茶」奥に声をかける。桑畑作務衣の上に綿入れを着ている。度の強い眼鏡をかけている。眉が濃く、女のような白い肌をしている。顔の表情が湯上りのように美しい。
すぐにも襖が開いて、細君と思しき女がお盆の上にお茶を載せて入ってくる。
割烹着を着て、髪を後ろに束ねている。整った顔立ちをしている。畳の上にお盆を降ろすと、野間の顔をしげしげ見ながら、奥へ消える。
「石神さあ、この人が、和田さあの言った人・・・」
吉松老人はお茶を飲みながら野間を紹介する。
綿入れの男は、ふさふさの髪に手をやりながら野間を見る。
「まあ、楽にして」野間に足を崩すように言う。
野間は足を崩してお茶を飲む。
「あんた、名前は?」石神の問い。
野間は自己紹介と今までの経緯を述べる。綿入れの石神はいちいち深く頷きながら、野間の話に聞き入っている。
「私、石神家の当主、菊夫、一応東京の大学を出とります」女のような赤い唇が蛭のように動く。
「和田さんからお伺いしてるから、あえてくどくど申しません。今から石神様にお参りしませんか」
野間は複雑な気持ちで聴いている。
“選ばれし者”とおだてられてこの地までやってきた。それに・・・。密かな期待感を胸に抱いている。
和田村付近は昔から黒曜石や水晶の産地として有名だ。和田ロッジの主人の話によると、数年前、山梨県のとあるブドウ畑園を取り壊して山を崩したところ、水晶の洞窟が出てきた。こういうハプニングがここ和田村でも度々起こっている。
和田部落に来れば、水晶宮についてもっと詳しい情報が得られるという期待感もあった。ひょっとして山を歩けば水晶がゴロゴロ転がっているのではないか、野間は密かな欲望を抱いていた。
吉松老人も石神家の当主も水晶については何も言わない。石神様にお参りしようと言うのみ、野間が失望のあまり、口を挟もうとしたとき、
「しのさん、支度はよろしいかな」石神は奥の部屋へ丁寧な声をかける。
「はい」澄んだ声が返ってくる。襖が開いて出てきたのは、歳の頃20歳くらいの色白の女性である。石神家の娘であろう。石神氏の後ろの正座して、野間に向かって深々と頭を下げる。
野間も慌てて頭を下げる。石神氏の後ろにいるとはいえ、顔はよく見える。
長い髪を後ろに束ねている。射るような大きな眼が美しい。富士額に三ヵ月眉.柳眉とはこの眉の事を言うのだろう。野間は娘の美しさに息を飲む。豊な頬に、筋の通った形の良い鼻。朱に染まった唇。赤いカーデイガンを羽織っている。
野間の来ているのもは紺色、吉松老人はカーキー色。石神氏は黒の綿入。室内は全体に煤けて暗い雰囲気だ。天井からぶら下がった蛍光灯だけがかろうじて室内の雰囲気を明るくしている。
そんな中にあって“しの”という娘の血のような赤いカーディガンは花が咲いたように鮮やかに浮き上がっている。顔の白さが際立っている。
「この方が石神様まで案内しますから」
しのの美しさに見とれていた野間は慌てて頷く。
「わしゃあ、これで帰るから」吉松老人が腰を上げる。ついでにしのが立ち上がる。彼女は上がり框の下にあるつっかけを履く。野間がスニーカーの紐を結び終えるのを待っている。
外に出る。野間は吉松老人に礼を言う。老人は少し振り向いたまま、速足で去っていく。
「石神様って遠いんですか?」野間の問いに
「ゆっくり歩いて20分くらい」しのは射るような眼で野間を見ている。背丈は野間と同じ。
石神家の前の道を歩く。家と家との間は百坪ほどの空き地となっている。どの家も野菜を作っている。野菜を作るのは女の仕事と見える。部落の外れまで十数軒ばかり。昼休みの時間が過ぎたと見えて、姉さん被りの女たちが野菜畑で精を出している。しのと野間の姿を見ると、頭から手ぬぐいを取り、腰をかがめて挨拶する。
野良着姿と言っても一様に作業服である。男たちは山に入り、ハチの巣を採ってくる。巣と言っても軒先にぶら下がっている胡蜂ではない。樹の根っこに自生する野生の蜜蜂の巣である。巣ごと掘り出して、袋に入れる。火で蒸してそば粥に入れて食する。栄養満点でおいしい。
しのは喋るのが楽しいのか、眼を細めて話す。
野間の頭の中は水晶で一杯だ。山の中には水晶がゴロゴロしているのではないか、そんなことを尋ねようとして口を切る。
「吉松老人ってどんな人?」
・・・おや・・・野間は腹の中でいぶかしく思う。どうしてこんな質問が飛び出したのか、自分でも不思議なのだ。
「あの人、この部落の長老なの」
昔からこの部落を訪れる者は吉松老人に案内を乞う事になっている。人によっては部落に入る事を拒絶されることもある。
「まあ、面接試験みたいなものね」しのはきれいな歯並びを見せて笑う。
「わたしの場合は・・・」野間は気になって尋ねる。
「昼食をよばれたでしょう」
吉松老人が食事に呼ぶことはめったにないという。
「あなたは選ばれた人だから」
しのの口から和田氏と同じ言葉が飛び出す。
野間はその言葉の意味が理解できないと問う。
「いずれ判ります」しのは澄んだ声で言う。
部落を外れると満々と水を湛えた湖に出る。湖はほぼ円形。野々入川の源流である。湖の底から湧水が出ているという。魚も豊富で水も澄んでいる。部落の至る所から清水があふれている。
太陽は物見石山の山頂から少し西に傾いている。時計を見ると2時になったばかり。湖面が鏡のように反射している。
右手はうっそうたる森林が広がっている。物見石山の山並みが、湖と部落を囲むようにして伸びている。
話が途切れがちになる。
・・・今度こそ・・・
野間はしのの横顔を見る。こんな山奥にいても、話し方は標準語だ。ラジオ、テレビ、現在はインターネッの普及で、どんな情報も瞬時に手元に届く。時間、場所を問わない。
ひと昔ならこの部落は隔絶した世界だった筈だ。しののような娘でも“モンペ”姿であった。
野間はそんなことを頭に描きながら一句一句言葉を選んで喋る。
「このペンダント、ここで採れたものとか」
言いながら、ここは水晶がいくらでも採れるところではないのかと聞く。ありきたりの質問だが、野間には言い出しにくかった。物乞いでもしているように思われていると考えたのだ。
「ええ、それはあなたの為に神様が出してくれたのよ」
しのは眼を細めて答える。野間の心の内を知ってか知らずか、この部落内ある水晶はここから持ち出すことはできない。ここにあるものすべては石神様の持ち物という。
しのの話を聞いて、野間は石の神秘力という本を読んだことを思い出す。
木内石亭小伝の中に、
ある時,石亭は陸奥の国金華山に金石という石があるのを聞き込む。
金華山に上陸するとき、船頭が言うには、金華山は神代の昔から聖なる島で、砂粒1つさえ島からよそへ移してはならぬと言われている。
船に乗る前に、履物の底についた砂でさえ、きれいに払い落とす事と諫める。もしそれをしないと、風が巻き起こり、波が出て船が沈没すると釘をさす。
石亭は神社に礼拝した後、金砂を手にすくい、懐に隠して何食わぬ顔で乗船した。
ところが、船が桟橋を離れてしばらく海の中を進んだところ、いきなり風が吹いて波が荒立つ。風は次第に強くなり波は逆巻き始める。
船頭は山の神の怒りだと言いながら、乗客の持ち物の中を調べ出す。石亭が懐に金砂を持っている事が露見する。船は島に戻される。
それでも石亭は懲りずに、船頭の眼をかすめて金紗を懐に入れて神殿にぬかずく。
「私は石を愛するもので、わざわざこの砂を手に入れるために、はるばる遠くからここまで旅をしてまいりました。どうか神様、このような真似をする事をお許しください」
祈願して、その場で小1時間ほど瞑想する。意を決して再び乗船したところ、今度はお咎めもなく、船は無事に帰りついたという。
野間は興味があり、他にこれと類似する話はないかと調べたところ、全国各地に多数ある事が判る。
話に共通していることは、水晶やその他の鉱物、砂や金砂に至るまで、そこに鎮座する神様の分身と考えられていることだ。
日本は昔からどんな樹や石にでも精霊が宿るとされている。その思想がそういった形で表れていると思った。
「もしも黙って持ち帰ったら、どうなりますか?」
野間はしのの白い横顔を見ながら話しかける。
「その人は必ず、不慮の死を遂げます。その人が持って行った水晶はいつかここに帰ってきます」
野間は信じがたい話だと思ってが、あえて意義を挟まなかった。
百メートルほど先に祠のようなものが見える。
前方に見える山は圧倒的な巨大さだ。ここは日もささずひんやりとしている。物見石山はなだらかな起伏を持っている。昔は神の山として崇拝され、禁足地であった。
近年、山頂にテレビのアンテナが設置される。電力会社の鉄塔が立つ。それでも石山部落の者は、石山に入る時は身を清めてから入山するという。
うっそうたる樹木に覆われて、祠は近くでないとよく見えない。祠は大社造りでお祭りの時の神輿ほどの大きさ。弓なりにそった屋根は茅葺である。観音開きの戸がわずかに開いている。神殿の前には山の幸が供えられている。
祠は小さいがその周囲は整地されて20帖程の広さがある。湖と祠の間には冠門のような木の鳥居がある。鳥居をくぐると、右手に小さな池がある。清水がこんこんと湧いている。
しのはその池で口を漱ぎ、手を清める。野間も見様見真似で口を漱ぐ。
神殿で二拍二拝する。しのは両手を合わせたまま、化石のように動かない。野間は両手を合わせたまましのの動向を見守る。
お参りを済ませると2人は湖を一周する形で歩を進める。20分ほど歩くと吉松老人の家の前に出る。
吉松老人の家で休憩して石神家に到着した時は4時を回っていた。8帖の和室に通されてお茶をよばれる。
野間はそろそろ暇乞いせねばと考える。この時間にここを出て和田村に到着するのは5時頃になる。それから常滑まで帰っても夜の9時過ぎになろう。途中で夕食と休憩を摂れば11時を過ぎるかもしれない。
「明朝、出発なさったら」しのは射るような眼で言う。石神家の主人も「そうしなさい」と勧める。
野間は携帯電話を入れる。測量事務所の社長宅につなぐ。野間は正社員として雇われているのではない。測量に必要な時だけ手伝う。パート社員である。明日は測量の仕事がないことを確認する。
・・・今日はずいぶんと歩いた・・・
和田村から石山部落、吉松老人の家で昼食をよばれる。そして湖を一周している。歩きなれしているとは言うものの、歳のせいか疲れが残る。
「しのさん、テーブルを運ぶのを手伝って」
石神氏の細君がしのを奥の部屋に伴って姿を消す。
「お疲れのようだから風呂に入りませんか」石神菊夫は口を動かしながら、電気コタツを奥の部屋から運び出す。コタツの掛け布団を載せる。同時に石神家の奥さんとしのがテーブルを持って入ってくる。コタツの横に並べる。
「おい、風呂湧いてるか」石神は細君に尋ねる。
風呂場は家の裏手にある。上がり框を降りて,竈のある土間を通ってガラス戸を開ける。左手に板囲いの小屋がある。薪で焚くようだ。湯気に混じって煙の臭いがする。風呂は五右衛門風呂。
野間の家も小さい頃は五右衛門風呂だった。石炭をくべて焚く。鉄鍋をひっくりかえしたような、風呂桶の底に丸い板を沈めて入る。
この風呂場には煙突がないのか、煙で目がチカチカする。
「熱いようでしたら、そこにある瓶から水を入れて下さい」石神家の細君の声。天井には20ワットの裸電球がぶら下がっている。風呂場は板が貼ってある。人一人がすっぽりと入れる大きさの瓶が1つおいてある。木の手桶で湯を冷ましながら入る。
風呂から上がって和室に戻ると、
「作務衣に着替えて、寛いで下さい」石神家の主人が、桑柚の作務衣を手渡す。野間の寝室は奥の8帖の間。石神家の夫婦は2階で寝る。
家は煤けて古いが、テレビや電話がある。飯も電子炊飯器で炊く。電子レンジもあれば電気の餅つき器もある。電気掃除機もある。ただ1つ冷蔵庫がない。この部落は自給自足が原則なので、食べのをの余分に貯める習慣がない。野菜も山の幸も新鮮である。そば麦が主食なので、接待用にもそば粉が提供される。
野間は作務衣に着替える。胸には水晶のペンダントがある。寛いでテレビを見ている。
野間初男は中肉中背だが、近頃中太りを気にしている。人との付き合いは苦手だが、根は真面目である。
思いもかけぬ接待を受けて、石神家には帰郷後、お礼をせねばならないと考えている。
それに美しいしのに会って胸がときめいている。
女の性の事には疎いが、男というもの、いくつになっても色気が抜けない。美しい女性を見れば胸が騒ぐ。
奥の台所で夕食の支度をしているようだ。しばらくして主人の菊夫氏が湯上りの火照った顔を出す。色白の肌が女のように桃色に染まている。
「しのさん、お風呂に入って、後は私がするから」襖の奥から声がする。
「はい」しのの澄んだ声が響く。
しばらくして石神家の細君が電気コンロや土鍋、ネギや豆腐、こんにゃく、肉などを山盛りにした竹の笊を持って入ってくる。
「今夜はすき焼きですよ」テーブルの上に料理の材料を並べていく。
石神菊夫は電気コンロのスイッチを入れたりして、手際よく支度していく。野間は黙ってみているのみ。
「野間さん、お酒いけますかな」
石神氏は上気した白い顔を向ける。赤い唇が鮮やかである。野間は酒が好きだ。軽く頷く。
「この部落はね、昔からどぶろくを作っているんですよ。税務署には内緒ですがね」笑いながら立ち上がると奥に消える。
どぶろくと言えば、白川郷のどぶろく祭りが有名だ。観光地では濁り酒として売られている。清酒に親しんでいる野間には、口には合わないが好意を無視できない。喜んで頂戴する事にした。
やがてしのが風呂から上がって部屋に入ってくる。乾ききらない黒髪が肩まで乱れている。それが妙に生々しい。項の白さと相まって、晴れ晴れするような色気を発散している。赤い寝間着に紺の羽織を着ている。射るような大きな眼が野間に向けられている。野間と対座するようにコタツに入る。
「しのさん、これを・・・」
部屋に入ってきた石神は、一升瓶をコタツの上に置く。湯呑は茶碗ほどありそうなお猪口を4つ、コタツの上に置く。彼は野間としのの間に座を占める。
「家内が風呂にはいってますから」しばらく待ってくれとばかりに、一升瓶のどぶろくを、これも大きな徳利に移している。
「どぶろくはね、生で飲むとおいしいんですよ」
石神氏が喋っている間に、しのは、しし肉やネギなどを土鍋に入れている。
用意が整ったころ「お待ちどうさま」
石神氏の細君が、湯上りの顔を上気させながら入ってくる。顔色は野間と同じように浅黒いが、整った顔立ちをしている。彼女は普段着の上に割烹着を着ている。
「まず一献」石神家の当主は野間に酒を勧める。
甘酸っぱい香りが口の中に拡がる。アルコール度が高いのか、喉の奥が熱くなる。皿に盛られた料理を口に運ぶ。
飲むほどに酔いが回るがお腹にもたれる感じはしない。料理もおいしいし、石神家の家族の雑談を聞きながらの宴も興がある。
野間が驚いたのは、3人とも酒に強いことだ。野間が2盃か3盃開ける頃には、彼らは5盃か6盃たしなんでいる。
野間は20歳頃、佐渡島に行った時の事を思い出す。
佐渡から常滑焼の急須の作り方を習いに来ていた若者がいた。野間が宿泊施設を世話したこともあり、後日佐渡に招待された。
12月の事である。寒さを増しても、知多半島は温暖であった。寒さに慣れていない野間には佐渡の寒さは異常であった。それでもその日は温かい方だと聞かされた。その時、本当の寒さはどれくらいか想像すらできなかった。
その時に飲んだ酒は喉が焼けるほど熱かった。まるでウイスキーをがぶ飲みしているような苦しさに、天井がグルグル回った。
火をつけると燃えると程アルコール度が高いと聞いてびっくりした。そんな酒を一晩で一升あけると聞いて2度びっくりした。
寒気の厳しい地方では酒が強いと聞く。ここ石山部落でも冬は“しばれる”程寒いのだろう。
そう思って3人を見る。
「どんどん飲んでくださいね。悪酔いはしませんからね」石神家の主人は真っ赤に火照った顔で言う。
しのが付け加える。
このどぶろくは特殊な成分が含まれている。飲みすぎても、翌朝、頭が痛くなる事はない。食欲不振や吐き気に襲われることもない。薩摩の芋焼酎と思えばよい。
そういうしのも桜色の肌をしている。輝くように美しい。
野間初男は、酔いつぶれてやろうと心に決める。さされるがままに、ぐいぐい開ける。猪肉もこんにゃくもおいしい。
飲みながら、野間は3人の会話に耳を傾ける。とはいうもののその会話は日常ありふれたものばかり。
山のどこそこへ行くと松茸があるとか、うさぎの肉もうまいとか、一家だんらんのありふれた会話である。
1時間もたたぬうちに、一升瓶が空になる。石神の細君はつっと立って、もう一本、一升瓶を持ってくる。3人はお茶でも飲むようにぐいぐいとお猪口を空けていく。
野間は酒には強い方であるが、さすがに3人にはついていけない。したたかに酔いつぶれて、激しい睡魔に襲われる。コタツの中に足を投げ出したまま、その場に横になる。
前後不覚のまま、野間は奥の和室に寝かせられる。真夜中、野間の意識は僅かに覚めていた。酔いのために体が重い。悪酔いはしていないが、夢心地である。半分意識があり、半分ウトウトしている。
部屋は暗闇だ。
その時、野間の耳元でするすると帯を解く音がする。
・・・夢を見ているのか・・・野間は呆然と聞いている。すぐにも音はやむ。
・・・空耳か・・・ずいぶん飲んだもんな、再びうとうとする。ぱさりと着物の落ちる音がする。
はっとして、闇の中で聞き耳を立てる。人の気配を感じる。
・・・誰がいるのか・・・混濁していく意識の中で、必死になって眼を開けようとする。
・・・人がいる・・・そう感じた時、野間は喉の奥で、声ならぬ声を上げる。
闇の中に、人の輪郭が浮き上がってくる。それは見えるか見えないかのほの暗い光のようであった。野間の眼は釘付けになったままで瞬きさへしない。
・・・しのさん・・・野間は喉の奥で叫ぼうとする。声にならない。光の輪郭は月明りほどになる。しのの射るような眼が野間を見下している。肩にかかった黒髪が漆黒に溶けている。朱に染まった唇がかすかに開いている。
光はなおも強くなる。しの肢体から光が発していたのだ。燐を塗り込めたような鮮やかさだ。白い富士額が美しく輝いている。
すらりとした肢体が野間の目の前にある。それが眼が眩むほどの輝きになる。白い肢体は、やがて赤みがかってくる。
しのは身をかがめる。野間の顔を覗き見る。その表情は優しく微笑んでいる。野間の寝具に体を滑り込させて、その体に密着させる。
野間は自分が裸であるのを知った。
「眼を瞑って・・・」しのの澄んだ声が耳元でささやく。野間は眼を瞑る。しのの熱い体感が野間の全身を包み込む。
野間の意識は遠のいていく。再び混濁した闇の中へ落ちていく。しのの“輝き”も消える。すべて元の漆黒の闇に返って行く。
翌朝、野間が目覚めたのは朝の9時近くである。
「やっ、寝すぎた」腕時計を見て、思わず布団をはねのける。寝間着を着ている。ペンダントの水晶が枕元にある。ずいぶん飲んだはずなのに気分は爽快である。気力が漲り、若返った感じである。
野間は布団をたたみ、寝間着をかたずける。紺のフリーズジャケットに着替える。
きまる悪げに襖を開けて台所に入る。
「お目覚めになりました?」
石神家の細君が漬物を漬けながら野間を見上げる。
「風呂場で顔を洗ってください。その間に朝食の用意をします」
風呂場には歯ブラシも用意してあるという。野間は言われるままに、土間の裏手の風呂場に駆け込む。
鏡で自分の顔を写してみる。頭髪は薄いので櫛を入れる必要もない。大きな眼がギョロリとしている。鼻梁が高いので団子鼻に見られる。どう贔屓目に見ても男前ではない。
野間は自分の顔を苦にしてはいないが、不愛想な性格を何とかしなくてはと、反省する事がある。
――お前、むっつりしとったら、女にはもてんぞ――よく言われる。無理してモテたいとは思わないが、しののような女には思い焦がれる。
・・・あれは夢か・・・昨夜の妖しい光景は現実とは思えない。夢の中の世界に過ぎない。
顔を洗い、和室に入る。コタツの上に朝ご飯とみそ汁とたくあん漬けが載っている。
野間は朝飯を食べながら、お茶を入れる細君に尋ねる。
「しのさんとご主人は?」
「しのさんは自分の家に帰りましたよ。主人は松茸狩りに山に入りました」
野間は驚いて、口の中で頬張っていたご飯を喉の奥に押し込む。
「しのさんって、ここの娘さんじゃないんですか」
細君は白い割烹着の皺を伸ばしながら、
「私たちには子供はおりません」寂しそうに笑う。
・・・しのさんの家はどこ・・・
野間は尋ねたかったが声が出なかった。四十面した男が、まだ20歳そこそこの小娘の住所を聞いてどうする。野間はぐっと唾をのみ込むと、一言、
「また、ここに来てもいいですか」哀願するように言う。
「いつでもいらしてください。主人もしのさんも喜びますわ」細君の整った顔が崩れる。
野間は色が白く度の強い眼鏡をかけた石神氏の風貌を思い浮かべる。こんな大きな家の中で2人だけの暮らしは侘しいだろうと想像する。
そういう野間も80坪ほどの家で一人暮らしである。寂しいと思う事は度々だが、付き合いが下手だから、友人もいない。夜などは一人酒で寂しさを紛らわす。
帰り支度を整える。主人の石神氏やしのに会ってから、ここを出たいと思っていた。しのは当分ここには来ないという。主人は弁当持参で山に入ったから夕方でないと帰ってこないという。
やむなく、野間は細君に礼を言って石山部落を後にする。和田村の和田氏に礼を言い、車に乗り込む。諏訪湖サービスエリアで昼食を摂り、一路常滑に向かう。自宅に帰り着いたのが夕方である。
平成7年4月中旬。
野間の一日に大した変化はない。パートの測量も毎日あるわけではない。仕事と言っても、野間はポールを持って測量点に立ったり、測量杭を埋めたりするのみ。
主たる収入はアパートの家賃である。知り合いの不動産屋に一任してあるから、家賃は銀行の口座に振り込まれる。
暇なときは収集した水晶の手入れに余念がない。どんな小さな水晶でも心を込めて手入れする。大きな水晶は50キロの物がある。
珍しいのはブラジル産の針入り水晶がある。10キロ程の重さがある。色は茶褐色、萌黄色の針のようなものが無数に入り組んでいる。
蛍石や黄鉄鉱が付着したロシア産の水晶もある。面白いのはブラジル産の松茸の形をした水晶もある。
今――、野間が一番いとほしく感じるのは、水晶房の主人から貰ったペンダントだ。赤みがかった色を見ていると“しの”を偲ばずにはいられない。
年甲斐もなく、しのに思い焦がれている。せつない思いが募る。
・・・5月になったら、連休を利用して石山部落に行こう・・・野間は矢も楯もたまらず、計画を立てる。
2日過ぎた夜の事だった。
玄関のインターホーンを鳴らす音がする。
・・・誰か来たのか・・・布で水晶を磨いていた野間は渋々と腰を上げる。部屋のドアを開ける。
「どなた!」大きな声を玄関先に向ける。夜の訪問者は宅急便か新聞配達の集金人くらいなものだ。
電話の受話器をとれば、インターホーンの声が聞こえるが、野間はいつも玄関先まで出向いて誰何する。返事がないので玄関先の明かりをつけて、玄関の引き戸を開ける。
訪問者の顔を見て野間は絶句する。タイルを敷きしめたポーチに立っていたのは、しのだった。
「しのさん・・・」野間は夢からさめたような気持になる。彼女は赤の縮緬ジャケットを着ている。手のは赤のバッグを持っている。門灯や玄関先の明かりに照らされたしのの表情は陰影がくっきりしている。射るような大きな眼が明かりに反射して、猫の目のように光っている。
「入っていいかしら」呆然と佇む野間に問いかける。
「あっ、すみません、入って」
野間は慌ててしのを家に招き入れる。
野間の家は広々としている。家は東西に長い。その中央にある玄関は2坪の広さがある。南向きにある玄関を入ると、一間幅の廊下が南北に伸びている。左手手に和室が⒉間、玄関前に15帖の応接室、その奥に10帖の食堂、食堂の左手隣に10帖の野間の部屋がある。その南側が壁を隔てて和室になっている。
応接室の東側に半間の廊下がある。廊下の北奥、食堂の東隣にトイレや風呂場がある。南北に延びる廊下の東側は両親が在命中に使用していた和室や応接室がある。広々しすぎて掃除が大変である。
野間は几帳面なので、食事は自分で作る。
しのを応接室のソファに座らせる。会いたいと思っていた当の本人が、思いがけずやってきた。
「電話くれれば、迎いに行ったのに」
野間の心の中は、思いもかけぬ福の神の訪問にうきうきしている。何故ここに来たのか、その理由を尋ねようとはしない。
「私をここに置いてください」しのはにこりともせずに言う。
野間に異存はない。
「別に構いませんが」野間はそれだけ言うのがやっとである。
春とはいえ夜は冷える。応接室の暖房は効いていない。野間は自分の部屋にしのを導く。部屋の壁という壁には棚が吊ってある。その上に水晶が所狭しと並んでいる。
20年前に結婚した時から集めている。1ヵ月に1回か2回くらい山梨や長野に旅行に行くたびに購入している。1回の旅行で4~5個手に入れている。20年もたつと膨大な数になる。
この部屋は適度な温度に保たれている。テーブルや安楽椅子も置いてある。酒もある。しのに部屋の中の水晶を見てもらいたい気持ちもある。
しのは部屋に入るなり、親しみのこもった顔で水晶を眺めまわす。
その時――。野間は不思議な感覚に襲われる。おびただしい数の水晶がしのが現れると同時に光輝いた、と感じたのだ。一瞬夢見状態に陥る。“水晶たち”がざわめき、歓喜して歌っている。野間がそう感じたと思った時、
「感じのいい部屋ね、水晶たちも喜んでいるわ」
安楽椅子に身を投げ出したしのが、澄んだ声で言う。
野間ははっと我にかえる。
「この部屋気に入りました?」笑顔で問いかける。
しのは答える代わりに「お酒、いただける?」野間を見上げる。
しのの振る舞いは、はたから見ると傍若無人だが、野間には自然な振る舞いに見える。遠慮のない親しみのこもったしのの態度なのだ。
野間はしのに酒を勧める。
「私、ここにいてもいいわね。料理くらい作るから」
野間は子供のように頷く。食事なら自分が作っても良いと思っている。
時計を見ると、まだ7時である。野間は心が落ち着かない。しのに色々と尋ねる。
常滑までなんで来たのか。
――早朝に石山部落を出て、電車やバスを乗り継いできた――
あなたは石神家の娘ではないと聞いているが。
――その通り、彼ら夫婦は私に仕える者――
あなたは石山部落のどこに住んでいるのか。
――物見石山――
物見石山と聞いて野間は要領を得ない。ほんのりと桃色に染まったしのの豊かな頬を見る。野間の顔にはよくわからないと書いてある。
しのはそんな野間を眺めながら、いたずらっぽく笑う。
「私ね、水晶の精なの・・・」
しのは射るような眼で、野間の四角い浅黒い顔を眺める。野間は余計不可解そうな顔をする。
「水晶の、精・・・」野間は語句を確かめるように反芻する。眼は宙を泳いでいる。
・・・冗談を言っているのか・・・
野間は思い直してしのを見つめなおす。笑っている顔だが、まんだら冗談を言っている顔ではない。
「石神の家で、私と寝たでしょう。覚えていない?」
野間はあっと叫ぶ。
「あれは夢・・・」
しのが野間の口に人差し指をたてる。
「判ったでしょう」しのは真顔になる。野間は合点せざるを得なかった。
それから野間としのの夫婦のような生活が始まる。
しのはめったに外に出ない。買物は専ら野間の役目。料理はしのが作る。2人とも酒が好きなので、晩酌を欠かさない。
しのが持ってきたバッグの中身は、小銭入れや財布、ハンカチ、櫛が入っているだけ。つまり彼女は身1つで常滑くんだりまで来たのである。
しのの為に、赤のネグリジェ、下着、衣類を買い求める。化粧はしない。水で洗顔するだけ。
野間が外出している間、彼女は野間の部屋で一人、ソファにもたれて、何時間でも瞑目している。部屋の中の水晶たちが光り輝きざわめき合う。野間が身に着けているペンダントの水晶も赤い色が濃くなっている。野間自身そのことに気づいていない。
彼は買い物や仕事を済ますと、一直線で家に帰る。もともと彼は人付き合いが苦手である。しのが来てからというものの、その傾向が強くなっている。
しのもまた、野間にかいがいしく仕えている。2人の蜜月は瞬く間に過ぎていく。
不思議な事だが、今までは1ヵ月に1度は車で一泊旅行をしていた。しのが来てから1度も旅行をしたことがない。しのも石山部落に帰りたいとは言わない。
春が過ぎ夏の季節から秋になる。石山部落にも電話がある筈なのに、しのが電話をかけるのを見たことがない。
「寂しくない?」尋ねても、しのは笑って頭をふるのみ。
冬が来て、平成8年の春を迎える。
野間は夢のような生活を過ごしている。しのが来てからというもの、再びこの世の春が巡ってきたと感じている。もうしのなしでは1日たりとも過ごすことはできなくなっている。
彼女がどうしてここにやってきたのか、問うた事は一度もない。彼女さえいてくれればそれでよいと思っている。
しのが野間の家にやってきて、丁度1年になる。
ある日の事、「私妊娠しました」しのは野間に告げる。その表情は普段と変わらない。狂喜したのは野間だ。
46歳という年齢で、彼は再婚を諦めていたのだ。人との付き合いが下手で女を喜ばすような浮いた文句をいえない。当然子宝に恵まれることなど、夢の又夢であった。
ペンダントの水晶を手に入れて、石山部落に行ったことから運命が変わった。夢に見た“しの”が我が家に現れた。
野間はしのに歳を尋ねたことはないが、どう見ても19か20である。
――妊娠した――と聞いた時、二重の喜びに満たされたのである。
野間家の跡継ぎができた。生まれてくる児が男であろうと女であろうと構わない。丈夫な赤ちゃんが誕生する事を願うばかりである。
野間は思い切って告げる。
「結婚しよう」
華々しい結婚式を挙げる必要はない。数少ない友人、知人、親戚だけを招いて、ささやかな祝宴を張りたいのだ。
「しばらく考えさせて」しのは射るような眼で言うのみ。しのの気持ちが固まるまで待とう。野間は頷く。
その日から野間の人生は張りが出る。家の中にいても、食事や掃除も野間が行う。
しののお腹は目立つほどではないが、顔に少しむくみが出る。大事をとって、体を動かさないようにしている。
五月に入る。野間は石山部落の吉松老人や石神家に連絡を入れようかと、しのに話す。
「その必要はないわ」しのは興味なさそうに言う。以来その事については野間も触れないようにした。
七月が過ぎ八月となる。しののお腹がだんだんと目立つようになる。医者に見てもらおうかと、野間が訪ねる。しのは笑っていらないと答えるのみ。
そうはいっても、臨月になれば入院の手続きを取らねばならない。出産の予定は11月の下旬か12月の上旬と見ている。9月下旬には市民病院に行こうと話す。
9月に入って、残暑が厳しい中、野間は仕事で三河へ行くことになる。高浜で1万坪という大掛かりな測量の仕事が入ったのだ。2人や3人の手に負えない。応援のために、野間が務めている測量事務所に声がかかった。
常滑から高浜の現場まで車で1時間。朝8時に出発、現場に9時集合。夕方5時に解散、1週間かかりっきりとなる。
野間は測量事務所のワゴン車に相乗りして現場に向かう。帰りは測量機器の後かたずけをして現場を出発すると、常滑には6時半に到着。
野間はその足でスーパーに寄って夕食の買い物をする。帰宅するのは7時過ぎになる。それから夕食の支度。8時頃夕食となる。
妊娠が判ってから、しのは晩酌をしなくなった。しのに付き合う意味で野間も酒を飲まない。
こんな生活が6日続づいて、最後の1日となる。日中は夏の余波があるので汗ばむほど暑い。本当は一杯やりたいが、しののためとぐっと我慢している。幸い体力があるのでばてることはない。ただこんな仕事が1週間も続くと朝起きるのが辛くなる。
あと1日、野間は気力を振り絞って家を出る。しのが赤いキャミソールを着て野間を見送る。
「いってらっしゃい」しのの口から出る言葉だ。しかしその日に限ってしのは口を閉ざしたままだ。表情も硬い。なんとなく影も薄い。
それでも野間はしのに笑顔を送る。
その日の夕方帰宅した野間は、しのがいないのに気付く。いつもなら「お帰りなさい」しのの温かい声が玄関先に響く。その声で野間は1日の疲れも吹き飛ぶ。
家の中はがらんとしている。何処かへ出かけたのかなと思ったが、身重の体だ、外出するとは思えない。それにしのはめったに外に出ない。
しのの部屋に入る。普段着もそのままだ。なくなっているものと言えば、しのがここに来た時着ていた赤のちりめんのジャケットとバックである。
野間は不吉な予感に襲われる。
・・・まさか・・・、身重の体で石山部落へ帰ったとは思えない。思えないが万が一という事もある。
迂闊な事に、野間は石神家や吉松老人、和田村の和田家の電話番号を聞いていない。
仕方なく、山梨県の昇仙峡の麓の水晶房に電話を入れる。事情を話す。和田健二の怖そうな顔を思い浮かべる。
受話器の向こうから和田の落ち着いた声が返ってくる。こういう事態を予測していたような喋り方だ。
「しのさんは、お産の為に帰郷されたんですよ」
それならどうして黙って家を出ていったのか、野間の問いに、和田はそんなこと当たり前ではないかと言う。
「しのさんから聞いているでしょう」
「何を?」野間は甲高い声で聞く。和田の受け答えは禅問答のようでイラついてくるのだ。
「水晶の精って、聞いていないですか」
和田の声には、野間の勘の悪さに、イライラした響きがある。
「聞きました。でもそれはただの冗談かと・・・」
「しのさんが冗談を言う人かどうか、判っているでしょう」
言い込められて野間はグーの根も出ない。だがそれと、黙って家を出た事の因果関係が不明なのだ。
和田は穏やかな口調で言う。
しのは人間ではない。だから人間の世界で子供を産むことはできない。出産のために里に帰ると言えば、野間の事だ、ついてくるに違いない。
しのが子供を産むところを、相手が誰であろとも立ち入ることは許されない。石山部落に滞在することも許されない。
野間は選ばれた人間だから、しのは生活を共にしたのだ。子種を得るために、しのが野間を選んだのだ。
野間は話を聞いていてもまだよく理解できない。ただ1つ不安なのは子供を産んだ後しのはここに帰ってくるのかという事だった。
その疑問に対して、和田の答えは冷淡なものだった。
しのが野間のもとに帰ることはあり得ない。野間がどうしても会いたいと言うなら、石山部落に行かなければならない。
「行けば会えるのか」と野間。
「会えるが必死の覚悟がいる」
和田は一旦口を閉ざす。
「詳しくは吉松老人に尋ねること」
ただしと、和田は釘をさす。今は会えない。子供を産む準備に入る。会えるのは来年1月中旬以降。
会いたい気持ちを持ち続けていれば、その時期は自然と判る。
「くれぐれも、ペンダントの水晶を大切に。それはしのさんの分身です」
言うなり和田は一方的に電話を切る。
しばらくの間、野間は呆然と受話器を握ったままだった。ここ4ヵ月ばかりしのに会えないという。
昨日までは家中、しのの体臭で満ちあふれていた。
玄関の引き戸を開ければ「おかえりなさい」しのの温かい出迎えの声が聞こえていた。
「いってらっしゃい」家を出るときの見送りの声にも、野間は人生の張りを感じていた。身重の体ながら、家の中はきれいに掃除されて垢抜けされていた。食事にもかいがいしく精を出す。バラ色の家庭の雰囲気が満ちていた。
しのの抜けた今、家の中は死の家のように寂しい。来年の初めには会える。とは言うものの、しのはもうここには帰ってこないという。
その夜野間初男は、しのと飲み交わす酒を一人侘しく、ぐいぐいと喉に押し込んだ。したたかに酔いつぶれて、翌日眼が覚めたのは昼過ぎであった。
起きた時頭が締め付けられるほど痛かった。文字通りの2日酔いであった。それでも布団から起き出す事が出来なかった。横になったまま、ぼんやりと天井を見るのみ。
ふと、ペンダントの水晶を手に取ってみる。薄赤い色が眼を射る。
――しのの分身――野間はいとほしく水晶をほおずりするのだった。
翌日、野間は測量の仕事に出る。仕事をしなくても借家賃の上がりで食っていけるが、雇われている以上仕事はしなくてはならない。野間は根は真面目で責任感が強い。
仕事が終わると、真っすぐ家に帰る。食事を済ますと、水晶のある自室に閉じこもる。ペンダントの水晶をしっかりと握りしめて瞑想をする。部屋の中の空気が凍り付いたようで、野間の体もぴたりと動かない。そんな状態が2時間は続く。明かりも点けない。暗闇の中、野間の心は石神家で体験した、しのとの不思議な情交の思い出が錯綜している。
9時頃、彼は一升瓶を手にして部屋に入る。昨日のような無茶な飲み方はしないが、酔いつぶれるまで、酒を喉に押し込む。
こんな毎日が1週間、2週間と続く。普段無口な野間は一層無口になる。人付き合いの悪さも手伝って、仕事以外、外に出ない日が顕著になる。
1ヵ月が過ぎ、2ヵ月目が立つ。季節も11月下旬となる。毎日酒浸りの日が続く。顔色がどす黒くなる。眼が血走る。悪霊にでも取りつかれたような凄絶な顔つきになる。
寒さも厳しくなる。外の仕事もきつくなる。アルコールが野間の体をむしばんでいく。急激に体力が落ちていく。測量のポールの棒持って立つのもやっとである。
そして――、ある日、野間は測量中に脳溢血で倒れた。救急車で市民病院に運ばれた。野間が意識を回復したのはベッドの上だった。
日頃の付き合いの悪さが災いして、見舞客は2~3人程度、その見舞客も野間は煩わしく感じた。
測量事務所の所長は「元気になったらまた来てや」一言言い残して去っていく。2度と見舞いには現れなかった。
野間が退院したのは12月中旬頃。もともと体力には自信があった。アルコール中毒症状から脱して、何とか元の体に戻った。
しかし――、、野間の心は闇の中にあった。喜怒哀楽の情が顔から消えた。それでも大晦日を過ぎる頃、野間の心に一条の光が差し込む。
・・・もう少しでしのに会える・・・
夢がだんだんと近づいてくる。しのに会えるなら何でもしようという気持ちになる。
正月が過ぎたら、何が何でも石山部落に行こう――彼の希望は日増しに強くなる。脳溢血で倒れて以来一度も酒を口にしていない。酒絶ちをしたわけではないが、どす黒い顔ではしのに嫌われると感じたのだ。
・・・自分はしのに選ばれたのだ・・・もともと女にもてる顔ではないと自嘲している。
どうして自分のような者を選んでくれたのかはわからない。1つはっきりしていることは、自分は短い期間だが、しのと夫婦生活を送り、子供まで作ったのだ。
妻と子供に会うために誰に遠慮がいるのか、野間の意思は日増しに強くなっていく。
平成8年1月中旬。
野間は石山部落に行く準備をする。出発を1月下旬に決める。その1週間前、電話が鳴る。
「野間さん?私、和枝です」
声の主は伯父の妻である。
「主人が危篤状態なんです。あなたに会いたがっています。こちらにきてくれませんか」
切羽詰まった声である。野間は緊張する。とるもとりあえず、お伺いすると答えて電話を切る。伺うと言っても東京である。
幸いな事に、石山部落行きの準備は済んでいる。東京に行ってその帰りに寄ればよいと考えた。その日の午後にも野間は出発する。愛車のディアマンテを駆って、東京まで直行する。
午後4時ごろ、丁度諏訪インター近くまで来た時、携帯電話が鳴る。伯父が亡くなったという知らせである。野間はそちらに着くのが夜8時から9時頃なると伝える。一抹の寂しさが漂う。厳粛な気持ちになる。
伯父の名前は野間籐二郎、野間初男の父より五つ年下である。最後に伯父に会ったのは父の三回忌の時だ。
野間の父が死んだのは、野間が35歳の時。その年の正月上旬に母が亡くなり、9月に父が不帰の人となる。
妻の三回忌が済んでほっとしたのも束の間、両親の相次ぐ死に見舞われたのである。
妻が亡くなった年から4年間、伯父は毎年弔問に訪れてくれた。父方の親戚は伯父のみ。母方は3人の親戚がいるが、代替わりしていて、野間の入院で見舞いに来たのは2人のみ。血の濃い親戚は伯父だけとなっていた。
伯父は東京の大学に入り、そのまま東京で就職する。世帯を持ったのが40歳。現在23歳と20歳の娘がいる。今年65歳。
住まいは東京都三鷹市井の頭、京王井の頭線の井の頭公園の近くである。
大学卒業と共に商事会社に就職、今年定年をむかえている。20年前に分譲マンションを購入。
野間が伯父の家に到着した頃、伯父の遺体は葬儀社の手で病院から葬儀場に移されていた。家では知り合いや近所の人たちが10名ほど詰めかけていた。葬儀の手伝いの打ち合わせの最中だった。
叔母と2人の娘は野間を見ると、奥の部屋に招き入れる。3人は沈痛な表情で野間に頭を下げる。野間も無言のまま頭を下げるしかなかった。口下手な彼はとっさに言葉が出なかった。
そこそこの挨拶が済むと、食事を摂る。葬儀の進行とはいうものの、すべては葬儀社任せである。本当なら伯父の遺体を自宅に運び入れるべきなのだが、マンションの中なので、それが叶わない。葬儀社が経営する葬儀場に安置することになったのだ。
明日、明後日のお通夜と告別式の準備が整った夜11時、野間たちは葬儀場に向かう。寺院のような2階建ての建物である。2階の和室に伯父の遺体がお棺に入っていた。花や線香がたむけられている。野間は伯父の顔を見て、両手を合わせて黙とうする。
伯父は常滑高校を卒業すると、東京の大学に入る。夏休みや冬休みの時は帰ってきたが、野間が生まれたころには、常滑を離れている。その為に伯父への印象は薄い。血縁の情も淡泊だった。
大人しくて影の薄い人という記憶しかない。叔母も茫洋として頼り気のない風貌をしている。
2人の娘たちは現在っ子らしく、ハキハキとしている。活気に溢れて、よく笑う。
その娘たちも、今は涙にくれている。弔問客のお悔やみの挨拶にも涙を隠そうとはしなかった。
仏様への焼香を済ませた後、一旦祖父の自宅に戻る。夜中の1時頃に床に就く。
翌朝8時に起床。8時半ごろに伯母の身内が北海道から駆け付けてきた。伯母は北海道の出で、東京の伯父と同じ職場で知り合って結婚している。
9時に、伯父の長女の婚約者が駆けつけてくる。伯父の自宅は弔問客や手伝いの人でごった返す。
出棺は10時である。市役所が手配した霊柩車を先頭にして火葬場に向かう。火葬が済み、葬儀場に到着したのが12時半。昼食後、夜6時のお通夜まで手が空く。
野間は葬儀場の食堂で、缶ビールを開けながら、伯父の長女から婚約者を紹介される。名前を香取光夫。面長の穏やかな表情をした好青年である。中肉中背で腰も低い。自動車のセールスをしているという。
「小父さん、車で来たんでしょう。初七日が終わったら、彼の実家まで送ってくれない?」
香取光夫の住まいは渋谷4丁目にある賃貸マンション。青山学院大学の近くである。
彼は自動車のセールスという仕事上、正月の3日間以外は休日を取っていないという。1月中旬に3日間の休日を取って故郷へ帰る予定を立てていた。伯父の葬式で予定変更になる。
初七日が終わった後、一旦故郷へ帰り、結婚の事を両親に報告したいという。本当は電車を乗り継いで帰るつもりあったが、野間が帰る途中で降ろしてもらえればありがたい。故郷は山梨県石和町、境川パーキングエリアで降ろしてほしい。そこから歩いていくというのだ。
野間は缶ビールを飲みながら了解する。彼は初七日が済んだら石山部落に直行する予定だ。しのと対面したい。子供の顔も見たい。
当日のお通夜、翌日の告別式も無事終了。初七日も終わると、野間は姪の弓子と香取光夫を乗せて一路山梨に向かう。
香取は境川のパーキングエリアで降ろしてくれればと言うが、弓子への立場上そうもいかない。
甲府南インターチェンジで降りて、石和町に向かうコースを取る。急ぐ旅ではないので、大月市の初狩パーキングエリアで休息をとる。
香取と弓子の2人のなれそめや出会いなどをききながらのドライブである。
おしゃべりの途絶えがちになる頃、「初男おじさん、もう結婚なさらないんですか」弓子が後部座席から声をかける。
野間は今年46歳である。まだ枯れる年齢ではない。
野間は2人のお喋りに心が浮いていた。今日中には石山部落に行けるという喜びもあった。気持ちも軽くなっていた。
「いやあ、実はねえ・・・」
野間は昨年和田村や石山部落に行ったこと、しのとの間に子供が出来たことを話す。
「うちのおばあちゃん、和田村の出ですよ」と香取が言う。そしてよかったら祖母に会ってくれまいか、和田村の話をすると喜ぶだろうし、もう95歳だから帰ることはかなわない、懐かしがると思う。
和田村と聞いて、野間はハッとする。昨年9月の時に和田健二に電話したことが鮮やかに蘇える。
――会いたい気持ちを持ち続けていると、その時期が自然と判る――
・・・もしや、これがこの時期ではないか・・・
野間は心が騒ぐが、努めて冷静な口調で了解する。
初七日が終わって、井之頭を出発したのが午後1時。甲府インターに到着したのが午後4時半。石和町の香取の家に突いたのは5時10分。
近くに武田神社があり、石和温泉がある。観光地というよりも、ひなびた古い屋敷跡の残る温泉街である。
香取の実家は石和町の町並みの外れにある。大きな門構えの家である。北に棚山や帯那山を背にしている。西側に石和町に隣接して甲府市街が広がっている。石和町は甲府市の郊外に位置している。
香取の実家から南に石和町や甲府市街が見下ろせる。石和と書いて“いさわ”と呼ぶ。
夕方5時を過ぎると、周囲はうす暗い。まして1月中旬、寒さも厳しい。足元から寒気が上ってくるようで、車を降りると身震いする。
香取家の広大な庭に車を駐車する。屋鋪は東西に長い。面中に玄関がある。見るからに古い建物だが、窓はサッシ窓に替えてある。庭先に庭石を配置してある。池もあり、庭の一部が花壇になっている。
香取光夫は一間幅の玄関の引き戸を開ける。重厚なアルミサッシの作りである。玄関先は畳3枚分の広さがある。東西に2間幅の廊下が走っている。玄関正面は応接室に改造してある。左手西は和室のようだ。応接室の東側に階段がある。その右手は台所間洋間となっている。
建物の外観は古いが、室内は改装されて新しい。
「ただいま」香取光夫が声をかけながら、一間幅の上がり框に足をかける。桧の一枚板である。
「さっ、上がって」弓子と野間初男に上がるように促す。
「光夫さん、早かったじゃない」応接室から駆けるようにして、香取の母親が飛び出してくる。和服姿で割烹着を着ている。丸顔で人の好さそうな表情をしている。
香取は母親に2人を紹介する。
「初男さん、今日はもう遅いから泊っていってください」香取の言葉に「おじさん、そうしたら」弓子が野間の背中を押すように言う。
香取家は長男夫婦と2人の子供、両親と祖母の7人暮らし、香取光男は次男。
今日は婚約者の野間弓子を両親に引き合わせて、正式に結婚の内諾を得るのが目的である。もっとも昨年の夏に、結婚を前提に付き合っていいる人がいると告げている。今日は結納の式や結婚式の日取りを調整するためもある。
野間初男の同行は番外である。香取と弓子を途中で降ろして石山部落まで直行する予定だった。香取の祖母が和田村の出である事、将来の2人の為に、数少ない身内の一人として、香取家の人々に顔を会すのも良いではないかという計らいもある。
本来なら、香取光夫が野間弓子の父に挨拶すべきなのだが、突然の死で、まずは香取の両親に弓子を引き合わせることになった。
香取光夫と弓子は香取家の先祖の霊に報告する。
2人は仏壇に両手を合わせて黙祷する。それから香取光夫の両親に弓子を紹介する。その間野間初男は座敷の隅で漫然と控えているのみ。その間30分もかからない。
野間は金箔に輝く仏壇に見とれたり、欄間の見事な彫を見とれたりする。一間幅の床の間がある。一輪挿しが可憐な趣を添えている。書院つくりの凝った作りである。
昔に建てられた家は夏向きである。冬は寒い。ましてや竿ぶち天井が高い。
香取の父は紋付袴姿、母は地味な紺色の和服、弓子はブラウンのジャケット、香取光夫はベージュのラムコート、若い2人は形式にとらわれない。
ご先祖様への報告と両親への挨拶が終わると、香取光夫は弓子と野間初男を連れて2階に上がる。
2階の一室に香取家の祖母がベッドに臥している。スイッチ1つで上半身が背もたれのように持ち上がる。部屋の中には仮設のトイレもあれば、寝たきり老人用の簡易式の風呂もある。
「おばあちゃん、元気?帰って来たよ」香取はベッドの横に腰を降ろす。
「おお、光夫か?」老婆はしっかりとした口調で言う。白髪のやせ細った体を持ち上げるようにして、孫の光夫の方に体を寄せる。骨ばった手で光夫の手を握る。
「紹介するよ、僕のお嫁さんになる人」
香取光夫は弓子を自分の傍に座らせる。
「野間弓子といいます。よろしく」弓子はおばあちゃんの手を取ると、軽く頭を下げる。彼女の白い顔が上気している。面長の顔は父似である。眉が長く愛嬌のある顔立ちである。
「光夫をよろしゅう頼むぞな」香取の祖母は弓子の手を握りしめると軽く頭を下げる。
「こちら、そのおじさん」
香取光夫は野間初男を紹介すると、和田村の事、石山部落の事を手短に話す。
「あんた、和田村の事、知っとるんかい」
おばあちゃんの眼が大きくなる。野間は昨年春に和田村に行ったことを話す。首に着けたペンダント外しておばあちゃんに見せる。
老婆は光夫の手を借りて上半身を上げる。恭しくペンダントの水晶を両手でおしいただだく。
「この水晶を拝めて、こんな有難いことはない。長生きしてよかった」
老婆の口から感嘆の声が漏れる。
野間にペンダントを返すと、
「しの様はお変わりないかな?」懐かしそうに尋ねる。
「しのさんをしっているんですか」野間はびっくりして聞く。
香取光夫の話によると、祖母は和田村で生まれ育ったが,15歳の時に集団就職で甲府市に住み込みとして働いている。大正6年の事である。
当時水晶の研磨技術がヨーロッパから持ち込まれる。モーターによる加工技術が取り入れられる。甲府市内は、水晶の加工工場が軒を連ねていた。尋常小学校を出た子供たちが集められた。
香取の祖母は尋常小学校を出てもすぐには働きに出なかった。家は貧しかったが、3年たってから集団就職に加わった。
・・・大正時代にしのが生きていた筈がない・・・野間が驚くのは無理もない。
だが、「ああ、会ったよ。しの様は今も昔も変わらん」
老婆の声は昔を懐かしむ響きがある。
「光夫、そこの引き出しから、赤い手箱を出してくれや」
香取光夫は部屋の隅の引き出しから10センチ四方の赤い手箱を持ってくる。老婆はそれを手にすると、蓋を開ける。その中には直径5センチ水晶が入っている。
「これはなあ、しの様から頂いた、わしのお宝だわ」
老婆は水晶に頬ずりする。その顔には喜色の色がある。子供に還った様な無垢な表情で、老婆は以下のように話始める。
明治、大正時代、和田村は大変貧しくて、女、子供も出稼ぎしなければ食っていけなかった。
“野麦峠”の小説にもあるように、当時、子女の出稼ぎは主に紡績工場だった。和田村は昔から黒曜石、水晶の産地として知られていた。そういった縁もあり、甲府市内には昔から水晶の加工や精錬が盛んにおこなわれていた。水晶の加工工場に出稼ぎする子女が多かった。
香取家の祖母も尋常小学校を出ると、すぐにも出稼ぎに出る筈であった。ところが彼女の父は彼女の幼いころになくなっており、母親の手1つで育てられた。
その母も生来の病弱で、母一人を置いていける状態ではなかった。
和田村の子供たちは物心つく頃からの山を駆けずり回って水晶を捜し求める。甲府市内からやってくる行商人が買ってくれる。生活の足しになる。
その他椎茸や蕨など山菜を採ってきて、食料の足しにする。
香取の祖母も物心着くころから、そのような生活を強いられている。それでも母一人子一人の生活では、食うに精いっぱいであった。
昔からの言い伝えで、石山部落には、水晶が石ころのように道端にごろごろしている。しかし聖なる場所なので入る事は出来ないとされていた。
無理して入ると祟りが下ると言われていた。誰もが怖がって入ろうとはしなかった。
彼女は幼いなりにそのことは知っていたが、食うや食わずの生活の為に、背に腹は代えられない。病弱の母のためにも、何としても水晶が欲しい。
思いつめた挙句石山部落に入る。彼女がそこで見たものは、茅葺屋根の集落と満々と水をたたえた湖であった。
老婆は疲れの為に体を横にする。眼を瞑り回想に耽っている。
当時は野間が見たような近代的な家屋はない。古い時代から連綿と続く自給自足の部落であった。
この時、幼い彼女が知ったのは、石山部落の者が外に出ることがあっても、部落外の者が入ってくることは絶無に近かったという事だった。
部落の長、石神家が彼女を温かくもてなす。彼女の身の上もすでに知っているようだった。
しかし、彼女の期待に反して部落には水晶の欠片さえなかった。代わりに石神家は彼女に持ち切れぬほどの山菜を与えた。
石神家は彼女にここに来ることを許している。
その日から毎日のように石神部落に通う。和田村の者は彼女が石山部落に行くのを知っていた。知ってはいたが、誰一人として口を挟まなかった。
“彼女は入る事を許された者だから”
彼女が尋常小学校を卒業して、1年2年と過ぎる。3年目の事、石神家に妙齢の婦人がいるの見かける。赤い着物を着ている。射るような大きな眼が美しい。
「その方がしの様でした」
しのは、16歳になっていた彼女を連れて石神様の祠や湖の周囲を案内したりする。
「わしが集団就職する半年前の事でした」
老婆の顔がしっかりと野間に向けられる。
しのは彼女に1つの小さな水晶を手渡す。
「今日でお別れです。明日からここにきてはいけません」突然の決別宣言だった。
呆然とする彼女を見て、しのは石神様の祠の方へ消えていく。その別れ際、
「その水晶を大事に持っていてね、返す時がいつか来ます。その時までそれを私と思ってね」
しのは慈しむ表情で彼女を見る。
その日を最後にしのに会う事はなかった。翌日から付近の山に出かけて山菜を採る。不思議な事だが、母子2人が食べていけるだけの量が手に入る。村の者がそばをくれる。
これもしの様のお蔭と、石山部落の方に両手を合わせる。水晶を肌身離さず大切に持つ。
3ヵ月後母が死ぬ。それから2ヵ月後、彼女は集団就職で甲府に行く。
20歳になって、彼女は香取家の嫁に迎えられる。玉の輿である。その後彼女は何不自由なく過ごしてきている。
これもみな、しの様のお蔭と、日増しに感謝の念が増していく。
22歳の時に故郷の和田村に還る。しの様や石山部落の人達に会いたい。その思いに駆られて、彼女は石山部落の近くまで行く。
ところが、石山部落に近づくにつれて足が重くなっていく。足が石になったようで、一歩も前進出来なくなる。
突然、突風が吹き荒れる。彼女の行く手を遮る。
「来てはいけません」どこからともなく声がする。
「しの様!」恋焦がれるように叫ぶ。一目会いたい、彼女の思いは通じなかった。と思った時、懐に入れてあった水晶が熱くなる。手に取ってみると水晶は赤く輝いている。
「しの様」その場にうずくまる。涙にくれる。
「私はいつでもあなたと一緒にいるのよ」しのがそう言ってると感じる。
彼女は冷静さを取り戻す。石山部落の方に両手を合わせる。来た道を引き返す。
それから、2度と和田村に還る事はなかった。
ベッドに横たわる老婆の眼から滂沱の涙が流れる。
「この水晶をしの様に返して・・・」
老婆は野間初男の話を聞いた時、水晶を返す時期が来たと感じたのだ。
野間もまた石山部落に行く時期をはっきりと悟った。
野間は老婆の手を包み込むように握る。
「おばあちゃん、任せといて。必ず届けるから」
老婆から水晶を受け取ると、大切にポケットにしまい込む。老婆は安心したように眼を瞑る。
「おばあちゃん!」
香取光夫は祖母を揺り動かそうとする。
「もう寝かせてあげなさい」2階に上がってきた香取光夫の母が息子の手を制止する。野間は老婆に一礼して、静かにその場を去るのだった。
翌朝、野間初男は香取家の人々に見送られて出発する。
「おじさん、お父さんの四十九日、必ず来てね」弓子が声をかける。
「これ、途中で食べてくださいね」香取光夫の母が、おにぎりの包みを差し出す。野間は有難く頂戴する。
甲府南インターチェンジに入り、中央自動車道に車を乗り入れたのは朝の九時半。
諏訪インター前の中央道原パーキングエリアで休息をとる。車の中でおにぎりをほうばる。食堂でコーヒーを飲む。諏訪インターを降りたのが午前11時半。
諏訪大社下春宮に到着時、正午になる。ここに参拝した後、この近くにある亡き妻の実家に立ち寄る。妻の墓参りをすませて、和田ロッジへ直行する。
ヘアピンカーブを登りつめていくと、途中から雪が降りしきる。和田ロッジにつくころには、あたり一面雪景色となる。幸い道路には雪が積もっていない。
和田ロッジの駐車場に車を入れて2時間ばかり、主人や奥さんと久しぶりの対面に、話の花が咲く。
和田ロッジを出発して、和田村の和田健一氏宅に到着した時は4時頃となっていた。携帯電話で連絡済みだから、和田健一氏は自宅で待っていてくれた。
香取家の祖母の話をしてその生家跡を案内してもらう。和田神社の南に国道142号線に沿って和田川が流れている。川の南に和田城主大井信定父子の墓がある。その墓の裏手に草木の茂った空き地がある。そこが香取家の祖母の出生地という。
「80年位前の事ですが、よくわかりますね」
野間は不思議そうに和田健一氏を見る。和田氏はいかつい顔をしているが心根は大人しい。低い背を丸めて前かがみになる。
「そりゃ、あなた、この村で唯一“出世”をした人ですからね」朴訥とした声で言う。
村には碌な産業はない。若い者が村を出ていくのは、昔も今も変わらない。故郷に錦を飾って帰ってきたものは皆無なのだ。大金持ちになったとか、有名人になったとか、そんな風聞も聞こえてこない。唯一、香取の祖母が玉の輿に乗ったと、風の便りに聞こえるのみ。
50年たとうが、80年過ぎようが、この話は村の語り草として伝えられている。ましてや当の本人は健在だ。
和田氏がそこまで語った時、野間初男の携帯電話が鳴る。
「もしもし、おじさん?。私、弓子。香取のおばあちゃんが亡くなったの」
弓子の説明によると、今朝、野間が香取家を出発するときは、意識もしっかりしていた。それから1時間くらいして、眠たくなったと言って横になる。
昼食の時間になっても起きない。気持ちよさそうに鼾をかいている。無理に起こすこともないとそのままにしておいた。
4時半ごろ、香取の兄嫁がおむつを替えるために2階に上がる。眠っているとばかりに思っていた祖母はすでにこの世の人ではなかった。満ち足りた死顔であった。
野間は和田氏に香取の祖母が亡くなったと伝える。
和田氏は四角い顔を凍りつかせる。しばらくしてから「噂をすれば影・・・」ぼそりと呟く。香取家の祖母の出生地に両手を合わせる。野間も敬虔な気持ちで黙祷をささげる。
夕方5時、野間は和田氏宅で、昨年の春にこの村を出てから今日までの経緯を語る。香取の祖母から預かった小さな水晶の原石を見せる。今から石山部落まで行くと告げる。和田氏はいかつい顔で大きく頷く。
5時半、厳冬の季節、夕日はすでに沈んでいる。黄昏時と言いたいが、周囲はすでに薄暗くなっている。
和田氏に見送られながら、野間初男は懐中電灯の明かりを頼りに、物見石山の方角を目指して歩く。
夜の山道は怖いが、一刻も早くしのに会いたい。その一念が恐怖心を払拭していた。道は一本道だから迷うことはない。
野間はペンダントの水晶を握りしめる。厚手のフリーズジャケットを着こんでいる。スニーカーを履いての重装備である。
“しの”が守ってくれると信じて山道を歩いている。野々入川のせせらぎが姦しく響いている。昨年の春の昼に歩いた時とは音の響きが異なって聞こえてくる。
山々に棲む,樹や岩の精霊たちが喧騒の声を上げているように聞こえてくる。
足取りが軽い。光るものと言えば,天空の星々と前方を照らす懐中電灯の光の輪だけだ。光の輪が野間の行く手を先導しているように見える。その光に向かって野間は歩を確かめるように歩いていく。
登り坂に差し掛かる。川のせせらぎも小さくなる。台地に登ると,前方に吉松老人の家の明かりが見える。
――石山部落に着いたらまず吉松老人に会え――
和田健一氏の言葉通り、野間は一直線に吉松老人の家に向かう。
家と言うより小屋に等しい。窓が無いのに明かりが漏れるのは家の壁の隙間から裸電灯の光が射しこんでいるのである。
玄関に回る。建付けの悪い板のドアを開ける。
「こんばんわ」野間の大きな声。
「入りやな」家の奥から声がかかる。
吉松老人は家の奥の板の間のコタツに入っていた。
「こっちに来て」2分刈りの白髪の大きな頭が野間の方を向いている。
「吉松さん、久しぶりです」野間はペコリと頭を下げる。板の間に上がり、コタツの中に足を突っ込む。
吉松老人は細い目で野間を見ている。茫洋とした表情からは、彼が何を考えているかは予測できない。大きな体を丸め、カーキー色の作業服の上に紺のジャンパーを着ている。
老人はだんまりを決めこんだまま、野間を見詰めるのみ。野間は腕時計を見る。6時40分。歩きづめで体が火照っている。フリーズジャケットを脱ぐ。胸に付けたペンダントの水晶が露わになる。香取の祖母から預かった水晶をコタツの上に置く。
野間は和田氏に話したと同じく、今までの経緯を話す。それでも吉松老人は黙ったままだ。
「しのさんは、今どこに?」
野間は尋ねる。髪の毛の薄い頭から汗が噴き出す。石のように動かない吉松老人に、野間の薄い唇がゆがむ。薄い眉の下の大きな眼が、吉松老人を睨む。
・・・何か喋ってくれよ・・・野間は痺れを切らしているのだ。
「しのさんは・・・」
老人は野間に目を向けたまま、がっしりとした顎の口元が動く。しのさんは部落にはいないというのだ。
・・・そんな・・・野間は肩を落とす。急に気力が萎える。疲れがどっと出る。居ると信じていたからこそ夜道を歩いてきたのだ。
「それではどこに・・・」聞くだけ無駄かと思ったが、念のために聞いてみる。
「物見石山の、水晶宮・・・」
「水晶宮?」野間はオウム返しに聞く。
「和田さんから聞いているでしょうが」吉松老人は無表情のまま答える。野間は頷くものの、それは昔からの言い伝えとかで、確たる証拠がある話ではない。
「水晶宮は本当にあるんですか」
今度は吉松老人が頷く。ではその入り口はどこにと野間。
吉松老人は野間の質問に無表情に反応する。
“入り口”は湖の底だというのだ。物見石山の麓の石神様の祠の下の方に洞窟が2つある。1つ目の洞窟からは物見石山の中腹から流れ出す清水が湖へ排出している。
もう1つの方は野々入川の源流となって、湖の水を吸い込んでいる。
湖の前から湖に飛び込む。約10メートルほど潜ると、いやでも1つ目の洞窟に吸い込まれていく。流されるままに洞窟に入っていくと、洞窟は巨大な空洞になり、川のような流れになる。その空洞に這い上がる事が出来れば、その奥に水晶宮があると言われている。
野間は老人の話を聞いていて、心に引っかかるものがあった。
「這い上がれればというのは?」
「洞窟の中に吸い込む流れは速い。息が苦しくなって、這い上がる事は難しいと言われている」
「言われているというのは?」
「昔からそう言い伝えられている」
「昔からの言い伝えって、結局、水晶宮があるかどうか、判らないという事じゃないですか」
野間の語気が荒くなる。吉松老人の表情は変わらない。
「しのさんは水晶宮の主だ」
老人は以下のように言う。
しのさんは水晶の精だが、地上にに現れる時は人間の姿をとる。
“選ばれし者”の子供を宿した後、水晶宮に戻り子供を産む。しのさんが水晶宮を出たり入ったりするのは誰も知らない。我々が知っているのは、水晶宮への入り口は湖の中の洞窟しかないないという言い伝えのみだ。
野間は暗然として、吉松老人の説明に聞き入るのみ。水晶宮があるとしても“入口”はあるという言い伝えのみだ。ない可能性もある。
「しのさんはいずれここに姿を現すのではないのか」野間は石山部落で待つしかないと考える。
「現れるにしても、わしもあんたも生きてはいない」吉松老人の答えに野間は不思議そうな顔をする。
「しのさんがここに姿を泡わすのは40年後」
吉松老人は香取家の祖母の話をする。香取のおばあちゃんがしのさんに会うことが出来たのは、80年前の事である。しのさんが人間として姿を現す時期と重なっていたからである。
「しのさんに会いたければ、石神家に行き、会う準備をする事。会う気が無いなら、その2つの水晶をここに、置いて今すぐ帰る事」
吉松老人が無表情なのは性格もあろうが、野間初男に選択を迫るために厳しく当たるためだ。。
野間が逡巡していると、
「あんたは選ばれたんだ。選んだのはしのさんだ」
吉松老人は優しい声で言う。ここに来たのも、しのさんの導きがあったからだ。と付け加える。
そのうえで、水晶宮に行けば、永遠にしのさんと夫婦の契りを結ぶ。至福に満ちた世界に棲む。それが水晶宮の世界という。
吉松老人は諭すように話す。野間は行こうと決心する。しのに会いたい気持ちは今も変わらない。たとえ死んでも本望ではないか。
野間は大きく頷く。ぶすっとした吉松老人の顔色が柔和になる。
石神の家。
「よう、お戻り成されたなあ」当主の菊夫は蛭のような赤い唇を動かす。奥さんが後ろに控えている。
時間は7時半。野間は昼飯を摂ってから、まだ食べる物を口にしていない。吉松老人の家で蕎麦粥でもご馳走になれるかと期待していた。水一杯すら出ない。
野間がしのに会うのを決意すると、間髪を入れず、石神の家に引っ張られていた。ここで夜食にありつけるかと期待してきたが、お茶一杯さえ出てこない。
腹が減ったと無心する事は気が引ける。唾をのみ込んで我慢するしかない。
「しのさんにお会いなさるか」
吉松老人に決意したことを尋ねられる。野間は黙って頷くばかり。腹が減って気持ちが散漫になっている。あかあかと照らされた、和室の畳の目を数えるばかり。
「それではこれに着替えてくれますか」
石神家の主人は、しじら織の作務衣を取り出す。色は赤。野間は眼を見張る。いくら何でも赤とは・・・。
すでに用意していたのであろう。野間は逡巡する。
「さっ、野間さん、奥へ」石神の奥さんが白の割烹着のまま立ち上がる。やむなく野間は後に従う。
外の寒気と違って家の中は温かい。とはいっても冬である。長野県の真ん中あたりにある山の中。寒さは厳しい。
温かいフリーズジャケットをを脱がされる。下着も取られる。真裸となる。その上に真っ赤な作務衣を着せられる。体が震えるほど寒かったが、それも数分のみ。
着替えが終わって奥の部屋から出てくるころには、ホカホカと温かくなっている。
野間が座敷に戻ると、石神家の当主は真っ白な桑柚作務衣に着替えが終わている。吉松老人もカーキー色の作業服から白の作務衣姿に変わっている。石神の奥さんも割烹着を脱ぐと、2人と同じ衣装だった。
・・・これは・・・野間は心の中で驚きの声を上げる。
――これから、何が始まろうというのか――
野間は我を忘れて棒立ちになる。
「行くって,どこへ?」
石神菊夫は呆れたような顔で野間を見る。
「どこって、湖の、石神様の祠ですよ」
石神様にお参りした後、水晶宮に入るのだという。野間は大きく深呼吸をする。
外に出ると、物見石山の東の空に満月が登っている。
石山部落には人気がなかった。田舎は今でも日が暮れると家の中に籠ってしまう。野間は歩きながらそんなことを考えていた。
部落を出て、湖の辺りまで来た時、はるか前方、石神の祠の周辺が赤々としている。近づくにつれてそれは篝火だとわかる。白い影もちらほらとしている。
「誰かいるのか」
野間は一緒に歩いている石神菊夫に尋ねる。
「部落の者,総出です」
野間は驚く。随分と仰々しい。まるでお祭りではないか。自分一人の為に、こんなことをするなんて・・・。
石神は野間の心を見透かしたように言う。
「村あげてのお祭りです。何せ、しのさんが正式に結婚されるのですから」
正式という言葉を聞いて野間は苦笑する。確かにしのと野間初男はまだ夫婦ではない。
「しのさんは水晶の精であると共に、石山部落の守り神でもあるんです」
先頭を歩く吉松老人が付け足す。だから部落総出でお祝いをするのだという。
石神様の祠の前は広場になっている。白の作務衣を着た百人の老若男女が篝火の前に群がっている。
吉松老人や石神家の当主、野間初男の姿を見ると、一同恭しく頭を下げる。
吉松老人と石神菊夫が神殿の前にぬかずく。百名の村人もそれに続く。
野間は腰を落として、神殿の前で身をかがめる。後ろに吉松老人、石神夫妻、村人たちが控えている。その後ろの方に巨大な篝火が赤々と燃えている。
石神家の細君が神殿にお神酒を上げる。
「掛まくも畏き、伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓給ひし時に生き坐せる・・・」
吉松老人の朗々たる祝詞の声が響く。その後ろの村人達の一斉に和する声が闇の夜に吸い込まれていく。
祠の地下深くに眠る“しの”に届けとばかりに声を張り上げる。
祝詞が終わると全員起立。野間も後ろから促されて立ち上がる。柏手を打って,神事は終わる。その間30分くらい。
神殿からお神酒が下げられる。それは鶴口の土器である。土器の皿が全員に配られる。神殿に奉納された御神酒をまず野間と吉松老人、石神家の当主が飲み干す。
村人全員には祠の前に並べられた土瓶の酒が配られる。酒の色は血のように赤い。ワインのような感じだが芳醇なアルコールの臭いが鼻孔をくすぐる。
土器の皿は丼ほどの大きさがある。一口飲むと口の中が焼けるように熱い。ブランデーをストレートに飲んだ感じだ。
「一気に飲み干しなされ、水の中は冷たい。体の冷えを防いでくれる」吉松老人の言葉に、野間は思い切って一気に飲み干す。体中が熱くなってくる。意識が朦朧としてくる。
それでも石神菊夫に促されて、祠の前を通り抜けて鳥居を出る。村人達が道を開けて野間を見守る。篝火の横を抜けて、湖の前に出る。
野間は歩みを止めると、一旦後ろを振り返る。吉松老人も石神菊夫も、村人全員が正座して野間を見送っている。野間と目が合うと、全員が深々と頭を下げる。
酔った感覚でも、それは厳粛な儀式であることが判る。
・・・この私の為に・・・村人総出で祝ってくれるのか。野間は眼がしらが熱くなるのを感じる。
――絶対に死にはしない。しのと至福の生活に入れる――
野間の心にはしのとの楽しい生活の場面が支配している。彼はふらつく体を踏ん張る。仁王立ちになり湖面を見詰める。薄い眉の下の大きな眼がしっかりと見開いている。薄い唇を一文字に結ぶ。四角い顔が赤くなっている。禿げ上がった頭のてっぺんから、白い湯気が立ち上る。赤いしじら織の作務衣が篝火に照らされて、炎のように燃え上がっている。
「よし!」気合を入れると野間は湖水に飛び込んだ。
野間初男が暗い湖に消えた時、満月は物見石山のの山頂に登っていた。
「皆の衆、水晶宮の夜のはじまりじゃあ」
吉松老人は大柄の体を背伸びするように叫ぶ。
「おお!」百名の村人は鬨の声を上げる。
「さあ、飲め飲め」巨大な篝火を囲んで、飲めや歌えやの乱痴気騒ぎが始まる。
丁度同じころ、和田村の和田健一宅では、和田村の主だった者が集合していた。和田健二氏の顔も見える。
座敷で十数名の者が正座して見守る中、仏壇の横に鎮座する石神様の大社造りの扉が開かれる。
和田健一氏が祝詞を上げる。全員が柏手を打ち拝跪する。皆にお神酒が配られる。
「皆さん、水晶宮の夜が始まる頃ですわ。わしらもここで夜を明かしましょう」和田健一氏はいかつい顔をほころばせて一同を見回す。
野間は前につんのめるようにして、湖に飛び込む。酔いに任せて飛び込んでいる。意識が朦朧としている。冷たい水の中に入って、その冷たさに初めて我にかえる。
体が火照っていたから、飛び込んだ当初は、冷たいと感じただけだ。引っ張られっるようにして湖底に沈んでいく。
冷たい感覚がマヒしていく。冷たいを通り越して、全身が氷づけになった感覚だ。
やがて息のできない苦しさに襲われる。死への恐怖に見舞われる。本能的に浮かび上がろうと試みる。眼だけが張り裂けるように見開いている。暗闇で何も見えない。
目の前、4~5メートル先から水を噴き上げる力と吸い込む力が伝わってくる。噴き上げる力は野間の体を押し上げようとはせず、吸い込む力の方へ押し流そうとする。
飛び込んでどれだけの時間がたったのかはわからない。息のできない苦しさは限界に達している。麻痺した体から力が抜けていく。見開いた眼も力なく閉じる。
気が遠くなる。吸い込む力が渦となって、野間の体を押し込んでいく。
・・・吸い込まれる・・・消えていく意識の中で野間の感覚は、一瞬水の流れをとらえていた。それも束の間、野間の意識は途絶える。
野間は夢の中にいた。両親との楽しい日々。妻の時枝と知り合う。結婚、死別それらが克明に浮かび上がる。
場面が一変する。大小さまざまな水晶が野間にまとわりついている。まるで生きているように、野間にじゃれつく。
“水晶たち”は赤や白、紫、青、変化に富んだ色彩を放っている。万華鏡の世界のようだ。
“しの”の顔が浮かび上がる。同時に水晶たちがヒソヒソと囁きあっている。その声がだんだんと姦しくなっていく。
その音に促されるようにして、野間の意識が蘇生する。
顔を上げて周囲を見る。彼のすぐ後ろに川が流れている。姦しいと思ったのは流れの早い川のせせらぎだった。
暗闇の中にいる。手探りであたりを触ってみる。どうやら、岩のそれも大きな洞窟のようだ。
野間が覚えているのは、湖に飛び込んで湖底に吸い込まれるところまでだ。
吉松老人の言葉を思い出す。吸い込まれた水が湖底の洞窟を通って、野々入川の源流となっているのだ。自分は運よく“岸”に打ち上げられた。
ここに打ち上げられて、どれほど時間がたったのか判らない。来ている作務衣がが乾いている。寒くはない。手探りで前進するしかないと考える。
一歩一歩目に進む。洞窟が狭くなっているようだ。ついに這って進むほどになる。・・・このまま洞窟が無くなってしまうのでは・・・不安と恐怖が錯綜する。かといって引き返すことも出来ない。
登り道となる。ずり落ちないように必死になって這う。
突然、道は急勾配の坂道になる。野間の体は滑り台よろしく落下していく。狭い谷底のようだ。落ち着いた先が水の中だった。右も左も判然としない。
まるで盲目になったみたいで、水の中に浮いているが精いっぱいだ。
どっちへ行こうか、野間はあたりを見回す。と、はるか前方に淡い光が浮かんでいる。闇夜に光明とはこのことだ。野間は生き返った思いで光の方へ泳ぐ。
光は岩礁の少し上の方から漏れてくる。どうやらここは地底湖と推察した。岩肌の凹凸を利用して水から這い上がる。光は人一人がどうにか通れる洞窟の奥から漏れているようだ。
光の穴に手をかけて中を覗いた野間は「あっ」と声を上げる。穴の奥は巨大な洞窟だった。その中には大小様々な多くの水晶がタケノコのように岩に根を張って群生していたのだ。
無数の水晶が囁くように光を放つ様はこの世ならぬ幻想の美しさに満ちていた。
野間は穴から這い出て洞窟に入ると、しばらくはその美しさに見とれていた。
――これが水晶宮――しのの住む世界なのだ。
しのに会うために、自分はようやくここにたどり着いた。野間は慎重に洞窟の中に降りる。彼は裸足である。群生した水晶の中を歩くのだ。
次の瞬間、野間はわが目を疑う。足を踏み入れると“水晶達”が道を開けてくれるのだ。
――この水晶は生きているのか――一瞬戦慄が野間を襲う。
しかし、杞憂が彼の恐怖心を払拭する。水晶達の放つ光が優しく野間を包み込もうとする。その感触が伝わてくる。温かい思いが野間を包み込む。体力、気力が充実してくる。若返っていくような、生命力の躍動が全身に満ちてくる。
彼は歓喜の叫び声をあげる。それに呼応して、白色に輝いていた水晶の群れが、桃色の光に変わる。
野間は巨大な洞窟の奥へと歩き出す。洞窟のほぼ中央と思しき場所まで来た時、周囲の水晶群から抜き出た大きな水晶が赤い輝きを放っていた。
「しの!」
野間にはその水晶がしのの本当の姿であるのを直観していた。巨大な水晶は野間の声に応えて、血の滴る深紅の色に変化する。
と思う間もなく、水晶から強烈な光の矢が四方八方に飛び散っていく。火薬の爆発に似て、その光は野間の全身を包み込む。一瞬にして、野間はその場に崩れる。
野間の首に巻きついたペンダントの水晶と作務衣の内ポケットの中の水晶が野間の体から外れる。2つの水晶は生き物のように巨大な水晶の下に収まる。
・・・・・・・・・
「あなた、もう一杯いかが」しのの白い顔が微笑している。
「そうだな、もらおうか」野間の日焼けした顔に赤みがさしている。
ここは野間の自宅。西の窓から夕陽を眺めている。しののお腹がだんだんと大きくなってくる。そのお腹を野間は慈しむように見ている。彼はしのを傍に引き寄せて抱きしめる。この幸福がいつまでも続いてほしいと願っていた。
野間は立ちすくんでいた。見慣れない景色が広がっている。
深い山の中の丘の上のようだ。前方に川が流れている。日の光が反射して水面がキラキラ光っている。茅葺の屋根が見える。
・・・俺はここで何をしているのだろう・・・
野間の脳裏にあるのは常滑の、自宅の家から西日の沈む光景を眺めていたことだ。身重のしのと酒を酌み交わして、彼女を抱きしめていた。
それから…、記憶が途絶えてこうして立っている。
・・・夢を見ていたのか・・・
いや、今こうしている事が夢なのか、野間の頭の中はめまぐるしく動いていた。
「あなた、もうすぐお昼よ、帰りましょうか」
驚いて振り返る。子供の手を引いたしのの姿があった。もう一方の手には籠に盛った山菜を持っている。
「ほら、こんなにたくさん採れたの」しのの白い顔が輝いている。
野間は呆然としのを見ている。彼女の着ているものは“貫頭衣”、古代ではチハヤと呼ばれていた。麻布を2つ折りにて、その折り重ねた上部から首入れの穴を切り抜いた着物なのだ。子供も同じだ。慌てて自分の姿を見る。2人と同じ貫頭衣だ。色は焦茶色。
・・・この姿は・・・。野間は戸惑いの色を隠さない。
しげしげと2人の姿を見る。
「あなた、大丈夫?」しのの心配そうな顔。髪は肩まで垂らしている。子供は女の子、母似の射るような眼差しで父を見上げている。
「いや、すまない。ぼんやりしていたので」
野間は作り笑いをする。子供が野間の手を取る。母と父の間に挟まれて、女の子は嬉しそうに丘を下る。
この場所はどこなのか、時代も判らぬ。
ただ1つ判っていることは、毎日毎日が平穏に過ぎていくことだ。寒くなければ暑くもない。
生き抜くための競争もない。日1日と若くなっていくような感じだ。時間が止まているのか、女の子はいつまでも女の子だ。しのの美しさもいつまでも変わらない。
食べるためにあくせくすることもない。出世のために人を出し抜く事もない。
平穏な暮らしはいつしか飽きが来ると言うが、それは激しい生存競争の中で生きている人間のいう事だ。
お金もなければ煩わしい法律もない。人を騙すこともなければ憎しみ合う事もない。
永遠の至福の中に野間は浸っている。
いつしか野間の心の中からは、常滑にいた頃の記憶がかき消えていく。
幾星霜が過ぎていく。夏が終わり秋となる。冬が来て春が巡る。野間のいる世界がめまぐるしくうつり替わる。
だが――。現実の世界、水晶宮ではまだ数時間しか経過していない。水晶達の輝きは野間の魂を受け入れた歓喜でますます光輝く。
“しの”の巨大な赤い水晶は目もくらむばかりの輝きである。その下にペンダントから外れた薄赤色の小さな水晶が大地に根を張って光を放っている。
この水晶達の中で、野間の魂は至福の境地に浸っていた。
丑三つ時、地上の石神様の祠の前にて・・・。
飲めや歌えの宴を開いていた人々は、篝火を背にして祠の前に居並ぶ。
吉松老人と数人の若者が神殿の前に勢ぞろいする。柏手を打って合掌した後、神殿の裏手に回る。そこには一抱えもある岩が鎮座していた。数人の屈強なものだその岩をずらす。吉松老人が松明を持って岩を省いた跡を照らす。ぽっかりと黒い穴が口を開けている。
吉松老人を先頭に数人の村人が穴の中に入る。穴の入り口は人一人がどうにか入れる程の大きさだが、中は広々としていて,石段がついている。一歩一歩下るにしたがって生温かい風が吹き上げてくる。
数百段はあろうか、下りきると、百メートルほどの洞窟が続く。洞窟から出た吉松老人と村人は恭しく頭を下げる。そこは水晶宮の中だった。
燦然と輝く水晶宮の中から、吉松老人達は野間の遺体を抱き上げる。元来た洞窟に入り階段を登る。神殿の裏手に出ると、岩で穴をふさぐ。
野間の遺体が運びだされる間、祠の前で山のような薪が積み上げられる。野間の遺体が薪の中に安置される。篝火の火が薪に移される。薪は激しい音を立てて燃え盛る。
村人の手で篝火の火が、野間の遺体の火葬の薪の中に投げ込まれる。火は嫌が上にも燃え上る。
石山部落の冬の朝は、6時半ごろ白じらと明け染める。
火葬の火は完全に消えている。野間の体はこの世から完全に燃え尽きている。残った灰はかき集められて、後日、物見石山の山頂に散布される。
東の物見石山の山頂から朝の日が登り始める頃、水晶宮の世界は輝きを失う。
日中、燦燦と降り注ぐ日光が、物見石山に浸透する。太陽のエネルギーを浴びた水晶宮は地下深くで活動するマグマのエネルギーの供給も受けている。
2つの力によって水晶は、数万年の歳月をかけて成長していく。
しのという赤い水晶の精を中心として、昼間、無数の水晶の精が2つのエネルギーを吸収していく。
彼らは何千年という歳月をかけて集められた、地上の選ばれた者たちである。
彼らは“夜”目覚める。
地上での数時間を、彼らは1つの人生の一生として過ごす。彼らはその人生から何も学ばない。至福の人生を経験するのみ。
野間の火葬が終わった1日、石山部落は静寂のうちに過ごす。彼らは水晶宮を守る事で平安な日々を約束されるのだ。
石神家に子供が生まれたのはそれから間もなくのことである。石神菊夫はその子に初男と名付けた。
地上に夕闇が迫る頃、水晶宮ではまずしのの赤い水晶が光を放つ。
野間初男の水晶が輝いて目覚めるのは夕焼けの空から太陽が沈んだ時である。
側に子供が寝ている。しのはすでに朝の食事の支度に入っている。今日も又親子3人の水要らずの生活が始まる。
長い人生が終わる頃、忽然としのとの生活は消える。ある時唐突に目が覚める。
側にしのがいて子供がいる。これだけは変わらない。朝が過ぎて昼となる。夜に入って,床に就く。毎日毎日がこれの繰り返しである。
しのの赤い巨大な水晶が光を増すにつれて、水晶宮の無数の水晶達が光を放つ。1つ1つの水晶にはそれぞれの世界がある。野間の住むしのとの3人だけの世界もあれば無数の人間の住む世界に自分をを置く水晶の精もある。
水晶宮の夜が始まろうとしているのだった。
――完――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人団体組織とは一切関係りません。なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。