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深窓の辺境伯令嬢が、実は辛辣でお転婆だった件について

作者: 瞑志

素直になり切れない二人を書きました。

 夏の終わりには、長い国境線を抱えるアイオライト辺境で肌を震わせる風が流れる。シラリュウ岳の凍える息吹だ。

「本当の目的は?」

 アマリア・アイオライトは、家名の示す菫色の瞳を何度か瞬かせた。初めて会った男からの第一声を理解するのに、刹那、時が止まった。肌を刺した冷気は、目の前に座る男から発せられたのだろうか? それとも辺境の風だろうか?

「婚約者がいれば、王都にも気軽に赴ける。分かり易い狙いだよ。辺境の地から出ないアイオライト辺境伯御令嬢も、自由に動ける。確かに深窓の令嬢の名前の通りに淑やかで、奥ゆかしい様子だ。黄金の髪も美しい」

 殊更に口角を上げて、アマリアは笑みを作った。一時でも、王都の騎士を見たいと思った自分を呪った。

「婚約について、前向きに検討できるとアイオライト辺境伯家が判断したからこそ、顔合わせに進んだと理解しています」

 言外に、アマリアの意志はないと告げる。

 アマリアの返答に、男はゆったりとした動きで足を組んだ。

 顔合わせを、自らも受け入れた事実が恨めしい。失敗した。今は、此処から逃げ出したい。

 ジェレミア・スピネルは十歳年上の二十八で、いけ好かなくて嫌味を発する危険な王都の男だ。口角を上げた笑みにも、全て意味があるように感じる。

 緑の瞳も、前髪を後ろに撫で付けた漆黒の髪も、違わずに磨き出されたかのような美麗な顔の造形も、全てが酷薄に見える。

「申し訳ない。率直な発言になっているね。近衛騎士団副団長である私の職務には、王族にたかる様々な思惑を排除し、王族を守ることも含まれるんだよ」

 謝る気のない謝罪ほど、不愉快なものはない。ジェレミアは、アマリアを計算高く、企みを持った女だと判断している。打算的で富と利益の多い王族を狙う辺境の女。アマリアは、死肉に漁るハイエナのように見えるらしい。

 アイオライト辺境伯家を意のままに操りたいのは王族だろうと、言葉を投げつけたかった。

 そもそも今は、婚約を前にした初めての顔合わせのためにアマリアを訪ねて来たはずだ。アマリアにも底知れぬ裏があると決めつけたジェレミアに、アマリアは、嫣然と拒絶の笑みを返す。

「目的を、問い糺す必要もありませんわ。副団長様から、婚約を断って下さって結構です。是非、一刻も早く、王都へお帰り下さい。醜女が気に入らなかったとでも、辺境の女は粗暴だったとでも、理由は幾らでもあります」

 ジェレミアが、撫で付ける必要もない漆黒の髪に手を当てた。緑の瞳が、アマリアを睥睨する。

「無理だ。ゼガッポ王国の王族と、アイオライト辺境伯家とは長い付き合いがある。私個人は騎士爵だが、好き嫌いだけで婚約は結べない。下知だからね」

 ジェレミアにとって、政略による望まない婚約だと分かった。当然に知っていたが、思いが一切ないと切って捨てられるのは、恋も知らない十八歳のアマリアには辛い。

 どうやら、アマリアから婚約を断る方向に持っていきたいのだろう。この婚約は罠だ。古い盟約を忠実になぞっている、まやかしだ。

 ユグトムン大陸で一番長い歴史を持つゼガッポ王国では、月の女神のイザーヌを祀る。太古の昔、ユグトムン大陸に多くの部族が乱立し、度重なる戦が続いていた時代があった。ユグトムン大陸で唯一、農耕の繁栄した土地が山の中にあった。そこは、シラリュウ岳に降り立った月の女神で、アイオライトの瞳のイザーヌを祀っていた。シラリュウ岳神殿を訪れた一人の青年が農耕の重要性を知り、イザーヌを旗印に立ち上がった。

 戦を支えたのは、シラリュウ岳神殿からの食糧の補給だった。

 後に青年が王都を拓き、ゼガッポ王国を建国した。イザーヌを祀ったシラリュウ岳神殿はアイオライトの瞳を持つ一族が守った。隣国と長い国境線を接するシラリュウ岳神殿を祀り、農耕地帯を守護する騎士団が出来た。

 やがてアイオライト辺境は、強大な軍事力を持つようになった。農耕と軍事の補強地として王族より徐爵された。アイオライト辺境伯家となり、王族への忠誠を誓った。王族の求めで辺境を守り、農産物を補給する。王族は、アイオライト辺境伯家を尊重する。互いに守るべき盟約が成立した。

 月の女神イザーヌの御名で、ゼガッポ王国全土に安定を齎している。アマリアは、アイオライト辺境伯家を誇りに思っていた。

 アイオライト辺境伯家と王族は、遠縁を含め綿々と婚姻を重ねて来た。長女のアマリアも、王族との婚姻は避けられないと思っていた。

 線が細く体力のない弟のルイを、できれば近くで支えたかった。辺境騎士団に理解があり、釣り合いの取れる伯爵家や侯爵家の三男あたりを婿に迎えたい。アマリアは、辺境の地で、ぼんやりと考えていた。辺境以外での生活を、望んでいなかった。

 適齢期となったアマリアに持ち込まれたのが、騎士爵の近衛騎士団副団長との婚約だった。辺境伯と釣り合いが取れる爵位とは言えない相手だ。年齢も、若干離れ過ぎている。

「風が冷たいな」

 土地が気に入らないも、婚約を断る理由となる。

「春の種蒔きは、シラリュウ岳にフェニックスが現れてから。今は、シラリュウ岳の裾が、細い雲を白く棚引かせています。王都の副団長様には、耐えられませんわね」

「ああ、知っている話だ。アイオライト辺境伯家が伝えているシラリュウ岳神殿の神話だったな」

 辛辣に言葉を重ねても、ジェレミアは必ず返事をする。近衛騎士として有能なのは事実だろう。抜け目のない男に探らせるほど、アイオライト辺境伯家の翻意を王族は常に疑っているようだ。

 ジェレミアの狙いは、アイオライト辺境伯家の力を削ぎ落し、王族に取り入るのを排除することだ。アマリアが、逃げ出すのを待っている。アマリアが断れば、婚約を勧めた王族への翻意の証となる。どちらが断るのか、根競べだ。負けられない。嫌われて、呆れられて、ジェレミアからの婚約破棄を捥ぎ取ってやる。

 アマリアは、腕を擦った。

「煌めく金髪に、菫の瞳は儚げな令嬢だと思ったが、見かけによらず気が強く、言葉も鋭いようだ。王都でも暮らしていけは、そのうち従順にもなるだろう。確かに、どんな婚姻にも目的がある。直ぐに暴かないのも、面白い」

 政略結婚は、互いの思惑が付き纏う。第三者が、企みを絡ませる。

 素っ気なく愛想がない女と思ってもらえば重畳だ。

「お引き取りくださいませ」

 アマリアは立ち上がった。開け放った扉から入り込む冷気を求めけて、足を動かす。

「おい、待てよ」

 流行のドレスを着飾る王都の令嬢に合わせて、アマリアはコルセットをきつく締めていた。慣れぬドレスでよろめいた。ジェレミアの手が、傾いだ身体に触れた。腰に手がまわる。避けられなかった。ぐっと羞恥を堪えた横で、ルカが開け放ってあった扉の前に見えた。

 姉より繊細で、病気がちで、乙女気質のルカが絶叫を上げた。

「違うのよ、ルカ」

 身体を支えられ、腕を掴まれたままのアマリアの声は小さく、ルカには届かない。

 ジェレミアが嬉し気に口角を上げていた。

「見られてしまったな。おい、顔が青いぞ。大丈夫か――」

 ルカの叫び声が小さくなっていく。暗転するアマリアの目の端で、ジェレミアの緑の瞳に焦りが滲んだように見えた。


―――☆彡☆彡☆彡―――


「嘘と言ってちょうだい。ハンナ。目が覚めたら馬車に乗っているって、状況が理解できないわ」

 ハンナはアマリア付きのメイドだ。アマリアより二歳上だ。

「ルカ様が深く嘆きました」

 端的な説明をするハンナの語らない内容こそが、重要だと分かる。信じ難い早さで、ジェレミアは話を進めた。

 アマリアを抱き寄せたジェレミアが、諸々の責任を取って婚約を結び、王都の邸にアマリアを連れて行くと決まった。気を失っている間に、退路は断たれていた。

「コルセットに慣れていない日頃のお振舞いを、即刻、お改め下さい」

 ハンナは正しい。

 窓に顔を向ける。辺境騎士団の一個隊が馬車の警護をしている。黒を基調とした辺境騎士団の隊服の中に、一人、濃紺の近衛の騎士服が混じっている。

 顔合わせ翌日の早朝に、意識も朦朧としたままのアマリアは馬車に乗って王都に連行されていた。

「見目麗しき騎士です」

「ハンナの言うことは、いつも正しいわ」

 悔しいほど麗しいジェレミアの姿を追いながら、アマリアは馬車に揺られた。

 三日の馬車の旅を終え、アマリアは王都に着いた。

 馬車の外に、豪奢な天幕が張られていた。ジェレミアの邸に続く森の中だ。天幕で湯を使い、アマリアは身支度を整えた。

「気遣いが微に入り細を穿って、恐ろしい程よ。ハンナ、少しだけコルセットの紐を緩めてちょうだい」

「お任せください」

 ハンナの手が、さらにきつく紐を締め上げた。

 ジェレミアは、王宮の近くの貴族の多く住む場所に邸を構えていた。スピネル家は、ジェレミアが創設した家だと聞いている。世襲できない騎士爵を持つだけのジェレミアにしては、広大な邸だった。

 近くには、今は亡き母のロクサーヌの実家のタンザナイト公爵家の王都の邸もある。王都にはほとんど来なかったアマリアが、僅かに分かる場所だったことに小さく安堵の息を吐いた。

 ジェレミアを帰りを喜び、婚約者に歓迎の挨拶をする家令のレスターに、アマリアは慇懃すぎる礼を返した。

「これは、儚げ淑やかな御令嬢です。悦ばしいご縁ですね、ジェレミア様」

 使用人には罪はない。嫌われるのは、ジェレミアだけにしておきたい。

「レスターは近衛騎士だったんだ。頼りになる」

 戦で足に怪我をしたレスターは、日常の動きには支障はない。だが、騎士として剣を振るうには十分ではなく退役したと、ジェレミアが言葉を重ねる。レスターは家令となってジェレミアに仕えている。同僚だった気軽さを含みながらも、レスターは主人に仕える姿を崩さないように見えた。

 レスターに寄せる思いが、言葉に滲む。騎士としてのジェレミアの姿が見えた。使用人も、ジェレミアに忠実のようだ。

「主人に忠実の使用人なら、私を追い出したいって考えているはずよね」

 使用人に我が儘を言うのは、本望ではない。ジェレミアに嫌われる作戦に、使用人を巻き込まないようにと考える。

「ぶつぶつ呟くのは、辺境の流儀かな?」

 ジェレミアの視線とぶつかって、気まずく下を向いた。少しでも早く、ジェレミアの邸から出たい。だが、アマリアから婚約を断るのは避けなければならない。

 アマリアを打算と欲に塗れた女だと判断しているジェレミアの思惑に、乗りたくない。何としても、ジェレミアから婚約を破棄させる。アイオライト辺境伯家の誇りのためにも、アマリアはジェレミアに嫌われると決意を固めた。

 邸を闊歩するジェレミアの後を、アマリアは小走りで着いて行った。

「まるで(いたち)か狸って走り方だな。もっと淑やかな令嬢だと思っていたんだが――」

 ジェレミアが扉を開いて、アマリアを誘った。

 目を瞠る。

「まあ、愛らしいお部屋です」

 ゆったりとしたカウチが窓際に備えてある。バルコニーに繋がる大きな窓からは邸の森が見えた。ライティングデスクと本棚が備えてある一角は、アマリアの好みのマホガニーの深い色だ。ソファに添えられたスカーレット色のクッションも、テーブルの木の手触りも、好ましい。続く扉をジェレミアが大きく開いた。

 覗くと、コーラルピンクの天蓋を備えたベットがあった。

 ジェレミアは寝室には入らずに、紳士な笑みを浮かべていた。

「副団長様のお邸が大きくて、驚きました」

「はしゃぎ過ぎる様子は、子供のようだ」

 礼を伝えるべきか悩む。望んできた王都ではないと反発する思いが拭えない。部屋の設えにはしゃいだのも、幼い振舞いで恥ずかしい。

 寝室に入ると、扉が二つあった。一つは浴室に続いているはずだ。もう一つは、衣裳部屋だろうか。衣裳部屋は、居間と寝室の間に合った。

「夫婦の寝室を使っても良いぞ」

 ジェレミアの言葉を咀嚼して、口を開けたまま、ぶんぶんと横に首を振るった。

 ここは、ジェレミアの私室に続く部屋だ。婚姻し、夫婦となった時に妻が使う場所だ。

「ああ、寝室に通じる扉の鍵は開いている。俺からは訊ねないけどね。アイオライト辺境伯家でも感じたが、アマリアは、普段から信頼されてないようだ。この前も――」

 言葉を被せて否定する。

「違います」

 淑女にあるまじき振舞いで、ハンナの口角が下がったのが見えた。

 扉近くで、レスターの肩が左右に微かに揺れた。

 楽しそうに、ジェレミアはアマリアの顎に手を添えた。

「慌てふためくのは、姉弟に通じるな」

 ルカの勘違いを、暗に揶揄しているのだろう。

「家族への侮蔑は、許しません。弟のルカは、深く傷ついたはずです」

 低い声が出た。冷気を孕んで、菫色の瞳でジェレミアを射抜く。顎から手を叩き落とした。

 辺境に生まれたルカは、騎士になる道が決まっている。だが、やや優しすぎる。身体も細くて、小さい。病気も多かった。虚弱な面があったからこそ、ルカは騎士に憧れてもいた。ジェレミアの逞しい体躯は、ルカの羨望となっただろう。

 息を飲んだジェレミアが、小さく頭を下げる。

「ふざけすぎた。この部屋を使って欲しい。必要な物は、レスターが揃える。慣れない王都で疲れるかもしれないが、俺が支える。共に王宮にも行く。それまで身体を休めてくれ」

 顔をじっと見つめてから、アマリアは背を向けた。

「王都には慣れませんでの、暫く、一人にしてください。副団長様は、お引き取り下さい」

 ジェレミアは、なかなか部屋から出ていかなかった。背を向けたアマリアが決して振り向かず、意志を変えないと悟った後、それでも逡巡して、ジェレミアは部屋から出て行った。

 廊下から、けたたましい物音がしたがアマリアは扉を開けなかった。


―――☆彡☆彡☆彡―――

 

 アイオライト辺境伯家から、アマリアの荷物が届いた。

「外堀が埋められていくようだわ。ねえ、ハンナ。ルカは元気かしら? お父様のお考えは、この荷物に反映されているのよね? ねえ、今朝の副団長様は顔が腫れていたし、レスターは口の辺りを切っていたわ、喧嘩でもしたのかしら?」

 見上げるほどの荷物が、届いていた。嫁入りの支度となる荷物だ。

「二人にだけ通じる、大人の事情があるようです。荷物は、立派なお仕度ですね」

 正しいハンナの言葉を、肯定したくない。

 不貞腐れて荷物を整理し、庭を散策し、アマリアは森の中に入った。

「近衛騎士が見えるわ、ハンナ、こっちよ」

「騎士が見たいなら、近くにいます」

「副団長様はいらないの。それに、この婚約を望んでいないのは、はっきりと分かるわ。婚約の本当の目的を問質す男なんて、最低よ。私は辺境に帰るの。でも、私からは婚約破棄はしないわ。副団長様に嫌われるようにするのよ」

 アイオライト辺境伯家の置かれた状況を、簡単にハンナに告げる。王族から翻意を疑われていると知り、ハンナは鼻息を荒く吐き出した。

「ならば、婚約破棄を仕向けるのですね? 具体的な方法は、決まっていますか?」

 ハンナが珍しく饒舌な様子で、アマリアは頼もしくなった。ハンナの手を取る。

「協力してね。副団長様の望む令嬢とは違う姿を見せるわ。何度も深窓の令嬢のようだとか、淑やかだとか、奥ゆかしいとか、私のことを言ってるでしょう?」

「確かに、容姿は透明感があって、儚げで、美しいです」

 容姿と強調するハンナは正しい。透通る肌とアイオライトの菫色の瞳に、黄金の波打つ髪は、よく他人から褒められる。

「幼くて、落ち着きのない小動物のように動くの」

 ジェレミアは大人しく、淑やかで、従順さを伴侶に望ん要るようだ。反対に動くのは、嫌われるには良い方法だとアマリアは気付いた。

「面倒くさくて、手のかかる女の子ですね」

「落ち着かないって、お転婆な姿で、使用人のように働くわ。生意気に口答えもする。従順にはならないって、振舞うのよ」

 ハンナが、アマリアの手を握り返した。

「アイオライト辺境で過ごした通りの姿になるわけですね。支度を整えます」

 ハンナは常に正しい。

 動き出したハンナの手を借りて、アマリアはシュミーズドレスを身に着けた。

「嫋やかで淑やかなのは、容姿だけです。お転婆で、落ち着きがなく、生意気に反駁もします。どんなに日を浴びても肌は白いまま。髪は艶やか。勿体ない容姿ですねえ、アマリア様。土が好きで、料理も得意です。動物を手懐けて、馬の世話もする。一番の特技は、庭仕事」

「もう十分よ。ちっとも褒めてない」

「嘆いています」

 正当な評価を下したハンナの手を借りて、アマリアは身支度を整えた。勢いよく庭に出る。庭師とは直ぐに意気投合し、共に土を耕し出した。

「王都は、まだ暑いのね。カレンデュラは強い花だから、まだまだ咲くわよ。オイルを取りたいわ」

「へ? この花に他の使い道があるとは、知らなかったわい」

 老いた庭師はウイルと名乗った。

「乾かして、ハーブティーにするのが一番簡単ね。フレッシュハーブでも美味しいお茶になる。濃く煮出すとうがい薬にもなるわ。ハンナ、お願いね。何処の花なら摘み取って良いかしら?」

 頭を下げて、ハンナが動き出した。

 ウイルが示した場所の黄色やオレンジの花を摘む。籠に広げて、カレンデュラの花を乾かす。残りの花を丹念に見て、小さな虫やごみを取り除く。

「へえ、手先が器用だ。大人しい令嬢だって聞いていたが、随分と実物は、その――」

 言い淀むウイルに満面の笑みを向け、期待する言葉を待った。

「働き者の手だ」

「お転婆で、落ち着きがないって、ハンナにいつも窘められるのよ。ねえ、このお邸には相応しくないでしょう? さあ、フレッシュハーブティーを入れるわ」

 ハンナを手伝って二人のメイドがお湯を持って来た。後ろにはレスターの姿も見える。

「まあ、思っていたのとは違う」

 口籠ったウイルは、僅かに目を細めていた。

 望まれない姿を見せるために、アマリアは元気に動き出した。ハンナやメイドを広げた敷物に座らせる。椅子を持って来たレスターには、有無を言わせずに椅子に座らせた。

「蒸らし過ぎると、苦みが強くなるの。五分ぐらいかしら。ねえ、レスターは時計を持っているでしょう? しっかり時間を測ってね」

 口を開けたままのレスターが、アマリアをじっと見つけてから慌てたように下を向いた。懐中時計を出して生真面目に時間を測り出した。

 使用人に分け隔てなく声を掛けるのも、アイオライト辺境伯家では当然だった。使用人と家族のように支え合っていた。アイオライト辺境伯家では、辺境騎士団も共に生活をしていた。

 アマリアは騎士や使用人と気安く接するのに、抵抗はない。

 レスターが時計をしまった。

「レスターが計ってくれた五分が過ぎた。さあ、皆で飲みましょう。座っていてね。給仕は得意なの。カレンデュラは疲れた目に効くわ。それに、風邪気味なら身体が温まる。そうそう肌にも良いのよ」

 恐る恐る匂いを嗅いでいた二人のメイドが、ハーブティーをグイッと飲み干した。

「他にも、効能はあるのか?」

 ジェレミアの声に、アマリアは持っていたポットを落としそうになった。小さく身体を竦めて、見上げると騎士服の姿で、ジェレミアが手を差し出した。

 アマリアは給仕に徹して、ジェレミアから慎重に距離を取った。

「火傷や切り傷にも、カレンデュラの効能を示します。アイオライト辺境騎士団では、簡易な治療の時に使用しています」

「薬とは言えない。良いのか? アイオライト辺境騎士団の秘薬を、簡単に話したようだな」

「美味しいお茶ではありません。副団長様のお口には、合わなかったのですね。でも、身体には効能があります。アイオライト辺境伯家では、騎士団と一緒に沢山のハーブを使っています。何も隠してはいません。聞く耳を持つ人には、お伝えするだけです」

「これは、いやはや」

 レスターが首を振って、目を押さえていた。

 ジェレミアには相応しくない烙印を得たようで、アマリアは満足げに小さく微笑んだ。

「不味くはない」

 飲み干したジェレミアは、来た時と同じように去って行った。

 アマリアは多くの時間を庭で過ごしていた。ウイルと土を耕し、新たな種を植えた。ハーブを摘んで、料理人と一緒に菓子も作った。庭を走り回って、大きな声で笑った。

 時折、ジェレミアが庭に来た。お茶を飲む時もあれば、ハーブを持って直ぐにいなくなる時もあった。

 夕方になり籠を持ちあげたアマリアの横に、長い影が差した。

「雑草だと思ったレモングラスの香りが、一番、気に入った」

 ジェレミアの言葉に、アマリアは頷く。

 騎士服のジェレミアは、二日前に邸を出たはずだった。いつ戻ったのか、アマリアは知らない。

「気持ちを落ち着ける効能があります。それに、乾かして長く香りが保ちますわ。香りは虫よけにもなるんです。近衛騎士の皆様はお忙しいから、レモングラスで癒されると良いですわね。この頃は、時々邸の料理にも使ってくださっています」

 副団長の立場は多忙で、邸に戻らない夜も多いと分かった。

 アマリアはほとんどの食事を一人で食べた。ジェレミアに嫌われる前に、接する時間もないと理解した。

 乾燥させたレモングラスを持ったジェレミアが、背を向けた。

「料理人とも話をするんだな」

「お転婆で、作法もなっていない田舎者です」

 ジェレミアは振り返らなかった。

「気に入らないって、はっきり言えばいいのに。早く婚約者の座から降ろしなさいよ」

 秋の風が冷気を含むようになった庭で、アマリアは拳を握り締めた。

 王都に来て三週間が過ぎ、アマリアは王宮に向かった。

 久しぶりのコルセットと正装のドレスに、アマリアの気持ちが沈み込む。謁見室ではなく、カッサンドラ王妃の庭の四阿に招かれた。

 初めての王宮で、アマリアは肩で何度も息をしていた。やっと繰り出したアマリアの礼に、鷹揚にカサンドラが笑んだ。

「慣れない王都で、庭ばかりにいるとジェレミアが案じています」

 邸の敷地からは出ていない。心配ならアマリアに直接聞けば済むはずだ。カサンドラにアマリアの様子を報告している事実に、目を瞠った。王族に対する忠誠と、アイオライト辺境伯家に対する疑義が突き付けられた思いがした。

 令嬢らしからぬ振舞いも、カサンドラは聞き及んでいるだろう。婚約を破棄する手立てを、カサンドラがジェレミアに示すかもしれない。

 ジェレミアからの婚約破棄を望んでいるが、庭での時間を取り上げられるようでアマリアの心に漣が立った。王族の意のままにアマリアの進む道が決まっていく。

「うかうかしていると、全てを奪われるわ」

 庭での邂逅が、楽しみになっていたとアマリアは気付いた。ジェレミアにとっては、王族に報告する事案に過ぎないとも理解した。漣が心を揺さぶる。アマリアはアイオライト辺境の風を思い浮かべた。シラリュウ岳の息吹で、心を漣を宥めて行く。

 ジェレミアは近衛騎士の装いで四阿の中で立っていた。

「お忙しい副団長様には、十二分に御配慮を頂いています。身に余ることばかりで、恐縮してます」

 親しく名前を呼ぶ間柄ではないが、ジェレミアの邸では居心地良く過ごしている。ジェレミアの体面を保った返事だ。

 見上げると、ジェレミアの眉が微かに顰められていた。

 カサンドラが楽し気に二人を交互に見て頷いた。

「急に結ばれた婚約で、戸惑いが大きいでしょう。ジェレミアの騎士姿が見える王宮に、アマリアも来ると良いわ。見目も良いジェレミアは、人気があるのよ」

 カサンドラの言葉に、僅かに動機が速くなった。人気があるなら、婚約を破棄しても直ぐに他の相手が、ジェレミアには現れる。ジェレミアとの結婚を望む令嬢は多いようだ。心の中で漣が荒れだした。両手で胸を押さえる。

「あらあ、如何したの? ジェレミアを誰かに取られるって焦ったのね? 可愛らしい婚約者だわ」

 焦りはないと思いっきり否定したいが、胸の漣の意味は測りかねた。何か、焦りを感じているのは確かだ。ならば気持ちを鎮めるためにも、一刻も早く、ジェレミアに嫌われる必要がある。だが、王宮でアイオライト辺境伯家の立場を悪くしたくない。慎重に、言葉を選んだ。

「副団長様は、任務に励んでいらっしゃいます。私が邪魔はできません。カサンドラ王妃陛下、本日のお茶会での御挨拶も恐悦至極に存じます。辺境で育ちましたゆえ、気後れいたします。失礼を重ねました。辞去をお許しください」

 素早く立ち上がって、慌てて礼をした。

「もう帰るの? また来て欲しいから、ねえ、アマリアは王妃付きの侍女になりなさい。明日から、務めるようにね。ジェレミアの心配もこれで解決よ」

 有無を言わせぬカサンドラの言葉に、是と応じられない。望んでいない役割を与えられた苛立ちに、ジェレミアを睨みつけた。

 息を飲んだ。表情のないジェレミアの瞳に、焦れても助けはないと悟った。王宮で、アマリアは一人だ。

 ジェレミアは王宮にいる。嫌われるには、王宮で過ごすのが近道だとアマリアは判断した。ジェレミアの好みの淑やかな令嬢とは違った、お転婆で、小動物のように動き、従順でない振舞いをする。

 淑やかで大人しい容姿を裏切るアマリアだ。

「誉れ高い侍女の役目を務めます。本日は、これで下がらせていただきます」

 後ろを振り向かず、馬車を目指す。アマリアは走り出していた。ジェレミアの手配した馬車が待っていた。言い知れぬ悔しさにアマリアは苛まれた。王族の前で助けないのなら、もっと突き放して欲しいと臍を噛んだ。

 アマリアの行動を、王族に報告するジェレミアはやはりアイオライト辺境伯家の翻意を探っている。ハーブを共に楽しんでも、言葉を交わしても、全てはアマリアを監視している。

「辺境に――。ダメだわ。此処で逃げたら、相手の思うと通りになる。負けないわ」

 馬車に揺られると戻ると、騎乗したジェレミアが同時に着いた。思いがけないほど早く帰って来たジェレミアの顔を見ずに、部屋に籠った。気遣うレスターもハンナも遠ざけて、アマリアは眠れない夜を過ごした。

 翌日の午前中に、アマリアは王妃の私室の扉の前に控えていた。

 数人の侍女に、舐めるように見分される。

「アイオライト辺境伯家のアマリア様。カサンドラ王妃陛下が、午前のお茶を待っています」

 促されて、サンルームに入った。さざめく笑い声がする。扉の近くに、二人の近衛騎士が控えていた。

 顔を真っ直ぐに向けて、近衛騎士の前を過ぎる。二人が目を瞠って、息を飲んでいる。ジェレミアほど、表情を押さえるの上手ではないようだ。辺境から来た田舎者だと侮っているのだろう。

 嘲りには負けない。口角を上げ、衣擦れを引いて歩いた。

「待っていたわ。まあ、侍女らしい落ち着いた装いね」

 レースやリボン、フリルのないシンプルなシトリン色のドレスは、首元から手首まで全てを覆っている。飾りはないが、細かい刺繍が施されている。採掘したばかりのシトリンをかたどった刺繍は、鋭角な線が複雑に絡み合っている。アイオライト辺境伯家に伝わる意匠の一つだ。髪はきつく編み込み、ブロンドの艶を出さないように香油もつけていない。目立たないように、化粧も押さえた。

 カサンドラが手招く。音を立てないようにゆっくりと近づき、手の届かない所で止まった。共にお茶をする気はない。あくまでも仕える侍女の立ち位置を取った。

 三人が座っていた。

「これが、ジェレミアの婚約者なの? へえ、面白い」

 アマリアは、王族についての知識を思い出す。該当する人物の見当をつけた。横柄で物怖じしない話し方は、第三王女のパトリシアだろう。亡くなった側妃の娘だ。リボンとフリルを身体じゅうにつけ、愛らしい姿で鼻を鳴らしている。ストロベリーブロンドの髪がふらりと揺れた。

 何も問われていないため、言葉で応じない。アマリアは深く礼をした。

「初めまして、アマリア。王宮に来てくれて嬉しいよ。妹の暴言は許してやって。知っている思うけど、王太子のフリードリヒだ。私は、ジェレミアとは共に学んだ仲なんだ。楽にして欲しい、顔を上げてくれ」

 親し気に声を掛けたフリードリヒは、上から下まで視線を這わせた。目は笑っていない。近衛騎士団副団長のジェレミアと同い年で、アマリアへの対応を共有しているはずだ。王族への翻意を、小さな仕草から見つけているように、視線がアマリアを舐めて行く。近衛騎士の二人に目を投げてから、フリードリヒが深く頷いた。

「ジェレミアの心配も分かるよ。王宮に留めておきたくないはずだ。昨日は、近衛騎士団で荒れたんだ。母上が暴走したからね」

 フリードリヒの言葉を咀嚼する。見っともない婚約者を隠しておきたいのなら、そもそも庭にいると漏らさなければいいはずだ。ジェレミアは、アマリアの失態を望んでいる。フリードリヒも関わって、王宮で陥れる計画のようだ。おまけに、常に近衛騎士の監視が付く。王宮での仕打ちに堪えかねて、根を上げて、婚約破棄を言い出すまでアマリアを苛むのだろう。

 負けられない。アマリアはどんなに傷つけられても構わない。アイオライト辺境伯家の矜持を守れれば、本望だ。

 立ったまま、お茶を続ける王族の周りで控える。求められるまで話す必要はない。

「気が利かないわね。座って、愛想の一つも言ったらどうなのよ。アイオライト辺境伯家の娘では、王宮の侍女も務められそうにないわ。ジェレミアが可哀想ね。でも心配ないわよ。私が慰めるし、励ますわ。聞いているの?」

「慈悲深いパトリシア王女殿下に、感謝申し上げます。副団長様も、御心が安らぐことでしょう」

 カサンドラが眉を顰めた。笑っていない。物問いたげに、アマリアを見詰めている。

 フリードリヒは何度も首を振って、呟いた。

「アイオライト辺境は難攻不落だ」

 はっと顔を上げた。辺境騎士団を認める発言だ。フリードリヒの言葉が嬉しくなって、自然に笑みを返した。

「――危険だ」

 掌で顔を覆ったフリードリヒが、そのままよろよろと立ち上がって出て行った。

 何度も振り返って、動きが大袈裟になった一人の近衛騎士が後に続いた。

 お茶会の後は、侍女の務めは終わった。アマリアはすることがなくなった。王宮の豪奢な一室に案内された。帰りの馬車は、王宮が手配してあるらしい。

「侍女って暇で、することがない。これなら、邸のほうがまだ楽しかった。庭でウイルと一緒に土を掘り起こしたい。ハンナを連れて王宮に来るわけにもいかない」

 メイドを連れた侍女はありえない。侍女の役割がないなら、早く帰りたい。出された紅茶に手もつけず、食事も喉を通らない。一人でする食事が多く、王都に来てめっきり食欲が落ちた。ハンナがドレスを直すほど、痩せたと嘆いていた。

 扉から訪う声する。部屋付きの王宮メイドが、来客を告げた。誰何(すいか)をする前に、開いた扉から声が飛んで来た。

「我が可愛い姪が、王宮で侍女になったと聞いた。アイオライトの瞳は変わらないが、美しくなったね。ロクサーヌ姉様を思い出す。黙っていれば、深窓の令嬢の噂は確かだね」

 アマリアは扉に向かって走り出し、声に向かって飛びついた。

 扉の外を守る近衛騎士がいた。アマリアを見て、耳を真っ赤に染めた。

「カーライル叔父様。ご無沙汰しております。ああ、此処ではタンザナイト公爵様とお呼びいたします。王宮は退屈です。もう、お茶を飲むだけなら、帰って庭に出たいです。近衛騎士の皆様は、顔が赤くて熱がある様子の人もいるわ、大丈夫かしら?」

 アマリアを抱き上げて、くるくると回ったカーライル・タンザナイトは母の弟だ。四十歳を過ぎたが、黄金の髪が柔らかく、引き締まった身体をしている。王都に来る時には、カーライルの邸に泊まることが多かった。カーライルは親しみやすく、アマリアを甘やかす。

「変わらずに叔父様って呼んでよ。婚約おめでとう。あれ、一挙に沈んだね。皆が羨むジェレミアも、攻めあぐねているとの噂は本当だったんだな」

 ジェレミアが関わっている戦があるようだが、アマリアは知らない。

「何か、戦いが王都であるのでしょうか? 副団長様はお忙しいのですね」

「難攻不落だ。副団長って呼んでいるとは、手堅い」

 近衛騎士が深く頷いた。繰り広げられている戦いは、厳しい戦況のようだ。

 フリードリヒと同じ言葉が飛び出して、アマリアは小首を傾げた。

「御多忙なら、婚約しなくていいのに。でも、パトリシア王女殿下が親しいと伺いました。慰めもあるようです。押し付けられた望まない婚約でも、副団長様は我慢できるようですわ」

「誰が何を、望まないんだい?」

 カーライルが大きく口を開いて、アマリアの前で動きを止めた。肩で息をしている。

「アイオライト辺境伯家は、常に、試されているようです」

 アマリアの婚約の真相に、驚いているのだろうか? 何度か首を振るってから、アマリアの肩に手を置いた。

「暇だろう。王宮を案内するよ。何処に行きたい? 近衛騎士団の鍛錬は見応えがある。王宮図書館に行こうか?」

 言い聞かせるように、顔を覗き込んでくる。

「嬉しいです。私の好みを知り尽くしていらっしゃいますね」

 アマリアは、エスコートの手を取って弾んだ様子で歩き出した。

「禁欲的で、実に相応しいドレスを選んだね。これは、ロクサーヌ姉様が初めて贈られたドレスと同じ意匠だよ。これを見て、辺境伯様の本気を知ったよ」

「父様と母様は、互いに思い合っていたんです」

 思惑が絡み、目的を探る婚約を結ばざるを得なかったアマリアは、胸が小さく軋んだ音が聞こえた。


―――☆彡☆彡☆彡―――


 近衛騎士の実務を取りまとめているジェレミアの元には、王宮での出来事が具に報告される。

 王宮にいるアマリアを探し始めた訳は、様々な報告が上がったからだ。己の行動の理由を明確にしなければ、ジェレミアは動けなくなっていた。衝動的に動いてしまう前に、律する努力をジェレミアはしていた。

「侍女を務めて三日なのに、報告が多過ぎる。見た目と裏切るお転婆だと、レスターも笑ってた。楽しそうに笑いやがって。カレンデュラの温湿布が気持ちいと抜かした。俺だって、寝る前に目に当てている」

 庭で過ごすアマリアは、ウイルと談笑しては庭仕事に勤しんでいた。令嬢とは思えない身のこなしで、くるくると働くと邸では使用人が感心していた。

 ハーブの知識が豊富で、王都では使っていないハーブを次々と教えてジェレミアの邸では料理が美味しくなり、心地よい香りが満ちた。

「気に入らねえ」

 独り占めできない苛立ちに、ジェレミアは緩む口元を懸命に引き締めた。

 アイオライト辺境伯家で倒れたアマリアを、強引に王都に連れて来た。逃したくなかった。誰にも、取られたくなかった。

 サンルームに付けていて近衛騎士の頬は、上気していた。フリードリヒはアマリアを褒めて、楽しそうだった。王妃付きの侍女やメイドは、食事をしなかったと心配して慌てたように報告した。誰もがアマリアを知ったふうに話す様子が、ジェレミアは面白くなかった。

「婚約者の前より、楽しそうにしている。何故に、俺に刃向かうんだよ」

 忌々しく言葉を吐き出した。

 王宮図書館の裏庭に、アマリアがいた。二人の近衛騎士が茂みからアマリアを窺っている。ジェレミアが付けた監視だ。アマリアに不埒な輩が接触をしないように、見張っている。

 足音高くアマリアの前に進み出た。

 笑みを崩さずに、アマリアが目を瞬く。黄金の髪が煌めく愛らしい様子に、後ろに控える近衛騎士が気になった。見せたくない。

「もう騎士団の鍛錬場を訪れるな。反論は許さない。侍女なら、侍女らしく王宮で振舞う必要があるだろう。フリードリヒ王太子殿下とは話すな。厄介だ。パトリシア王女殿下なら、関わってもいい。見習って令嬢らしく振舞え」

 ジェレミアは、多岐に渡る要求を一気にまくし立てた。

 アマリアが小首を傾げた。アイオライトの瞳がジェレミアを見ていた。

 同じようにジェレミアの首も動く。

「パトリシア王女殿下がお慰めするのは、副団長様だと伺いました。関わるのは、私ではありません。淑やかさも従順さも、私には足りないようです」

 傾げた首を真っ直ぐに据えて、苛ついたジェレミアは腕を組んだ。まるでパトリシアとジェレミアの間に、何らかの関係があるような発言だ。

「呼び方を改めろ。二人の時は、副団長の仕事を引き摺りたくない。タンザナイト公爵と接触したと報告がある。何が目的だ? 抱き合ったとも――」

 憤懣やるかたないように、ますます横暴な言い方になっていく。

 アマリアが、両手で胸を押さえた。

「叔父様と会うのにも、許可が必要ですか? 承知しました。対応は徹底いたします。副団――スピネル様は、私には関わらずにいてください」

「違う。家名で呼ぶな。アマリア。そうじゃない。もっと、危機感を持ってくれ。狙われてしまう」

 狙い。目的。伝えたいのはジェレミアが感じる危機感だが、アマリアだけを責め苛む言葉が重なる。アマリアを見初める男が、出てくる危険は高い。婚約者同士で語らうには、物騒が過ぎる内容だ。

「御指摘を踏まえて、明日からはさらに気を引き締めて王宮に参ります」

「危険だ。辛いなら、頼ってくれ」

 アマリアが口を開けた。辺境伯の邸でも、同じ姿でジェレミアを見ていた。

「誰にですか? ああ、邸ではレスターが気遣ってくれています。メイドも優しいです。御安心ください、ウイルもいます。お忙しいとパトリシア王女殿下から聞いています。お気遣いは無用です」

 アマリアが話は終わったとばかりに下を向いた。本を紐解く。使用人より当てにされていない発言に、ジェレミアの苛つきが増していく。

「何を読んでいる?」

 言葉が尖ったのは、王宮図書館ではカーライルと親し気だったと聞いたのを思い出したからだ。

「読書にも、許可がいるのでしょうか? 企みはありません」

 アマリアの冷静な受け答えに、唇を噛み締める。もう少し歩み寄って、慣れない王宮で過ごすアマリアを労わる言葉を考えていたはずだった。

「違う。王都では見慣れない表記の本だから、驚いたんだ。文字は知っている。アイオライト辺境の、シラリュウ岳神殿で学んだ」

 言い訳が飛び出た。

「辺境に伝わる、古い本です。王宮の図書館にあった懐かしかったので、借りて来ました。この本を読んでいると、心が落ち着きます」

 微かに、緩んだ笑みを湛えてアマリアが本を撫でている。

「どんな話か、教えてくれ」

「副団長様の興味を惹ける話ではないと思います。此処から、企みを見つけるのは愚の骨頂とも言えます」

「ジェレミアだ。名前で呼べ。アマリア、本の内容を聞かせろ」

「シラリュウ岳神殿に伝わる、イレーヌ様の瞳のお話です」

「聞いた覚えはない。古い話を、今更掘り返しても詮無いぞ」

 アイオライトの瞳を見ると、心がざわめく。抑えきれない思いを捻じ込めると、言葉は荒くなり、口調は厳しくなる。アマリアを労わる心算が、責め続ける。不甲斐なさにジェレミアは唇を噛んだ。

「でも、私は伝えたいのです。シラリュウ岳神殿に伝わる文字を解読できるの人が、少なくなってしまいました」

 話を続けるアマリアの表情に惹きつけられる。

「暗号に使える」

 だが応じた言葉は、アマリアの気持ちを引き裂くものだった。素直にアマリアに応じる態度を取れないのは、王宮だからだ。近衛騎士として、ジェレミアは目の前のアマリアを最優先にできない。邸なら、もっとアマリアと自由に話せる。大切にできる。卑屈になったジェレミアを、アイオライトの瞳が射抜いた。

「そういう邪な思惑を退けるためにも、シラリュウ岳神殿の神話を伝えていきたいのです。今は、古めかしく文字だけの本が、誰にも読まれることなく王宮図書館で眠っています」

 アイオライト辺境の話になると、アマリアの姿は更に気高くなる。触れて穢してはならないと憧れにも似た思いが、ジェレミアの中でせり上がって来る。アマリアの瞳に、引き込まれていく。

「手はあるのか? 例えば、アマリアならどうやったら、神話を伝えられると考えているんだ」

「言葉は、王都で使われているゼガッポ王国の言語に訳します。でも、分かり難いし、書き方に工夫をするのはどうかしら?」

 アマリアが両手を頬に当てて考え込んだ。

「文字を、並列に表記して見ても面白いぞ」

 頷くアマリアが、柔らかく笑んで顔を上げた。

「そうですね。言葉も伝えられます。文字ばかりでは楽しくないので、絵を添えても良いと思います」

 アイオライトの瞳が、煌めいて真っ直ぐにジェレミアに向いた。

「美しい絵なら、魅力も増す」

「はい、童話にして、絵もつけて、文字は列記で表記して、相互の理解を促すのです。本の形態にしない場合もあっていいと思います。一枚の紙に、絵を大きく書いてお話をするんです。子供達に、読み聞かせてみたいです」

 心が跳ね上がった。俺たちの子供だろうか。ごくりと唾を呑み込んで、何とか気を鎮めた。

「長い時間が掛かる取り組みだ」

「何もしないより、ましです。思惑を探られ、望まぬ婚姻を王族から押し付けられる人を、救いたいと思っています」

「本当に、アマリアは俺と――。何でもない。どんな話があるのか、教えろ」

 婚姻を望んでいないのかと、質せなかった。答えを聞くのが、ジェレミアは怖かった。今は、二人で話を続けたい。

「アイオライトの瞳の話が、私は一番好きです。菫色は喜びを表します。冬の厳しい寒さが、シラリュウの息吹となって大地を凍らせます」

「全てを凍結させる。いっそ、冬は要らないと思うが――」

「冬の寒さが、種の発芽を促すのです。寒さに晒されることで、深く寝ていた種が目を覚ます。段々と日差しが温かくなるころに、ゆっくりと発芽をする」

「イレーヌ様との関連がないぞ」

「月の女神は、夜気に潜む獰猛なシラリュウを宥めて、凍える息吹を口付で押さえるのです。アイオライトの瞳に捉えられて、シラリュウは動けず息吹を――」

 ジェレミアは、動けなかった。上気した頬にアイオライト瞳が丹念に本をなぞっている。あの瞳を、自分に向けて欲しいと切に願った。

 願った時には、身体が勝手に動いていた。

 アマリアの頬に指を添えた。

 驚いたアマリアの瞳が、ジェレミアを捉えた。アイオライトの輝きの中で、騎士が焦がれていた。

「俺がいる」

「え?」

 そのまま、アマリアに口付た。

 本が落ちた音に、身を翻してアマリアが走り去った。


―――☆彡☆彡☆彡―――


 王宮に通うようになって、十日が過ぎた。ジェレミアと王宮図書館の裏庭であった翌日から、アマリアはパトリシアからの呼び出しを受けていた。

 アマリアは、スカートをたくし上げて冷たい盥の水に足をつけた。足踏みを始める。王宮の下女たちと共に、大量の洗濯物と格闘をしている。

「あの、その、ドレスが汚れます」

「今日は、汚れてもいい簡単なドレスです。ダンスが出来ないから、相応しい行いをしなさいって、パトリシア王女殿下から命令されました。洗濯も五日目になると、進みますわね」

 優雅にダンスを踊り出したジェレミアとパトリシアの姿を見て、走り出さないだけの矜持をアマリアは持っていた。

 ジェレミアは、微笑みを浮かべてパトリシアの手を取っていた。

「軽薄です。軽い。そう、汚れは酷くないわ」

 ジェレミアが、何故キスをしたのか聞き質したくなった。一方で、王宮で過ごす時間で、ジェレミアが女性に人気があると再認識した。ダンスをする二人を、うっとりと眺めている侍女やメイドが多かった。

「ああ? 慣れているんですね。その、洗濯が上手です」

「アイオライト辺境伯家は、辺境騎士団と共に支え合っています。メイドだけでは手が回らない時には、父様も、私も、弟のルイも掃除だって洗濯だってします。お元気だったころは母様も、厨房に立っていました。懐かしいですわ。母様から沢山のことを学びました」

「恐れ多いですが、一緒に話していると今日の洗濯は楽しい。近衛騎士副団長様も、喜んでいるでしょうね」

 ジェレミアの話に、心が漣を起こした。盥の中の水を跳ね上げて心を鎮めたいが、上手くいかない。焦りをごまかすように、アマリアは問い掛けた。

「副団長様は、きっと充実した楽しい時間を過ごしているわ。下女の皆さんから見たら、どんな副団長様はどんな評判ですか?」

「皆さんって呼ばれるほど、私らは上品じゃないよ。教えろって、命令したって良いんだよ。副団長様だって、遠くから見掛けるぐらいで声を聞いて、畏れ多いですって頭を下げるだけさ。でも、副団長様にはいつも御令嬢が群がってる」

 アマリアよりだいぶ年嵩の下女は、肩を竦めた。

「パトリシア王女殿下が離さないで、お相手させるって――」

 若い下女が上目遣いにアマリアを見ていた。

「ちょっと、黙んなよ。婚約なさっているんだろう?」

「王宮では、私は侍女です。パトリシア王女殿下の御心のままです」

 下女たちと洗濯物を干していると、近衛騎士が行き交っていた。

「此処は、近衛騎士の通り道ですか?」

「こんな、王宮の裏側に近衛騎士が来るのは、珍しいねえ。今日は早く洗濯が済んだ。灰のあく抜きが良かったねえ。これは、アイオライト辺境伯家のやり方だろう?」

「はい、綺麗に洗い上げます」

 激しい息遣いで、カーライルが走り寄って来た。

「アマリア、一体何をしているんだい? まさか、下女の中で一緒に洗濯って? 信じられない」

 向かってくるカーライルの剣幕に、下女が這い蹲った。

「叔父様。皆様が、恐れをなしています。洗濯は、アイオライト辺境伯家でも私の仕事の一つでしたわ。ほら、辺境は人手が足りません、辺境騎士団に手を割かれて、アイオライト辺境伯家は常に家族が自立してます。ダンスをするより、気が晴れます」

 下女に向かう小言を遠さけるために、アマリアは濡れた手をカーライルに押し付けた。

「ダンスってことは、命じたのはパトリシア王女殿下だな。ジェレミアは何を考えているんだ。アイオライト辺境伯家から、自分で望んで連れて来たのだろう?」

「まあ、叔父様ったら不敬ですわ。アイオライト辺境伯家に連なる一族は、王宮で肩身が狭いですね。副団長様だって不本意です。望んでいないはずです」

 カーライルが首を振るって、アマリアの濡れた手をハンカチで包んだ。

「アマリアは、ジェレミアのことは何も知らないようだな」

 アマリアを連れ出して、カーライルが歩き出した。恐縮している下女達に軽く手を振って、アマリアも立ち去る。今は、カーライルの思いに合わせた方が無難だと感じた。王宮での諍いは、起こさない。

「近衛騎士団の副団長様で、十歳年上で、女性に人気がある。騎士服が良くお似合い」

「最後の所だけ、声が弾んでいる」

 カーライルの苦笑に、少しだけ気持ちが軽くなった。

「他に知っていることは、パトリシア王女殿下が慰めていて、共にダンスを踊っています。それに騎士爵にしては、邸が大きいです」

「今度の婚約にも関わる話だ。その、ジェレミアから話してあるものだと思っていた。婚約者に言わない道理がない」

 カーライルが、気遣わし気な瞳をアマリアに向けた。

 真摯に受け止めるべき内容だと判断し、アマリアは足を止めてカーライルと向き合った。

 柱の陰で、二人は顔を寄せた。

 カーライルが声を潜める。

「ジェレミアは、ロドリゲス前国王陛下の息子だ。ロドリゲス前国王陛下が亡くなった後に生まれたんだ。母親は平民だった。王族は扱いに苦慮した。ジェレミアは密かにタンザナイト公爵家の保護下に置かれた」

「王弟殿下?」

 事実ならジェレミアは現王の弟で、フリードリヒの叔父になる。

「名乗れないだろう。王族だと確証を得られない。周囲の状況証拠だけだ。ロドリゲス前国王陛下は、はっきり書き残した。まあ、難しいよ」

 ジェレミアには継承する爵位もなかった。受け継いだのは、王都の離宮だった邸だけだとカーライルは続けた。

「ならば、母様とも御一緒した時があるのでしょうか? 私は何も聞いていません」

 カーライルが慎重に頷いた。

「ロクサーヌ姉様は優しい。子供は誰でも可愛がったよ。でも、ジェレミアは王族なんだ」

「話していただけなかったのは、この婚約は、その程度の関係なんです。私の目的を探っていらっしゃいましたが、理由がはっきりと分かりました」

 ジェレミアにとって、アマリアは排除すべき存在だ。アイオライト辺境伯家の力を削ぐために、手酷く扱い、逃げ出すように仕向けている。いわくつきのジェレミアが王族のためにアマリアを監視し、貶めて行く。

 風を孕んでジェレミアが駆け寄って来た。睥睨するように顎を反らして、柄に手を掛けた。

「何をしている」

 近衛騎士の姿で、声を荒げたジェレミアを迫って来た。

「姪が、王宮で不当に下女扱いをされていたから救い出してきたんだ。まさか、洗濯をしているとは思わなかったよ」

「え? 下女と洗濯とは? パトリシア王女殿下からは聞いていない。ダンスのレッスンだと思っていた」

 ジェレミアがアマリアの肩を掴んで、覗き込んだ。

「見た姿より、聞いた話を信じるんですね。信頼は王族に向かっていて、素晴らしい近衛騎士の姿です」

 辛辣な言葉を投げつけた。

「踊り浮かれていたのは、近衛騎士なら誰でも知っている二人だろうよ。アマリアが扱いを嘆くはずもない。存外に、頼り甲斐がない副団長だ」

 ジェレミアの腕を、カーライルが叩き落とした。

「叔父上との逢瀬にしては、親しみが過ぎるようですね」

 唇を噛んだジェレミアに向かって、カーライルが冷めた目を向けた。

「叔父様、副団長様は職務に励んでいるのです。私たち二人の間で、話すべきことは何もありません」

「おい、待て。話すべきとは――」

「騎士爵にしては、大きな邸を賜った意味をアマリアに伝えていなかったとは、驚いたよ」

 アマリアはカーライルに手を引かれて、昼の王宮を歩き出した。

 動きを止めたジェレミアが、アマリアの目の端を掠めた。

 カーライルは、アマリアの世話を焼き続けた。食べる気がしなかった昼食を終え、アマリアは一人で王宮図書館に向かった。

「ゆっくり考えるには、本に埋もれるのが一番ね。カーライル叔父様からも離れていたい」

 手はかさつき、足は冷たかった。王宮での侍女をいつまで続けるのか、カサンドラからの沙汰はない。

「洗濯が辛くなって、婚約を放り出すと思われていたら業腹です。自分でやらずに、他から手を廻すってやり方が、本当に(つたな)い。でも、まだまだ手緩いわ。アイオライト辺境伯家の根性を、見下してもらっては困ります」

 明るい声を出しても、心に漣が立ち続けた。ジェレミアが話してくれない事実がある。アマリアは抑えきれない思いを引き摺って、王宮図書館に入った。

 日差しが入り込まないように造られた王宮図書館は、微かな湿り気を含んだ匂いがする。

「シラリュウ岳の息吹に、似ています。この程度でめげません。私が逃げ出すのは、アイオライト辺境伯家の利益にならない」

 図書館の中は賑やかだった。

「私は、考えましたの。王女として何ができるのか」

 パトリシアの声が響いていた。ジェレミアが横で立っている。

 アマリアは静かに並びいる人の最後尾に立った。

「シラリュウ岳神殿に伝わる神話を、王都で広める必要があります。あら、丁度アイオライト辺境伯家のアマリア様がいらっしゃった。私の考えを聞いて欲しいの」

 黙っていられない言葉を、パトリシアが鏤めている。問い掛けるのは不敬だと分かったが、黙っていられなかった。

「どのような、話でしょうか?」

 嫌な音がして、胸が軋んだ。心の漣がうねり出す。

「アイオライトの色を持った瞳の話よ。菫色は、確か喜びを表すって教えてもらったの。勿論、私は本も熟読しました。冬の厳しい寒さが、シラリュウの息吹となって大地を凍らせるのよ。アマリア様なら、ご存じよね。これに、素晴らしい絵を付けるの」

 ジェレミアに話した内容だった。

 表情をなくしたジェレミアの瞳が、僅かにアマリアを見た。

「王宮には、多くの絵師は仕えている。そうね、お気に入りの絵師を選んで、そして、文字は王都で、このゼガッポ王国のものにするの。発言を許しましょう」

「パトリシア王女殿下が、お一人でお考えになったのでしょうか?」

 声の震えを、抑えられなかった。今、パトリシアが語ったのは、アマリアとジェレミアと心を通わせて思いを繋げた一時の、象徴ともいえる物語だった。

 ジェレミアが、アマリアに助言をくれた。言葉を重ねて、一つの事柄を一緒に考えた。かけがえのない時間だった。

 二人で一緒に紡ぎあげたと信じていた。

「ふふっ、察してよ。恥ずかしいわ。簡単に言えば、相談に乗ってもらったの。夜も更けると話が弾むから、楽しかったわ」

 動きを止めたまま、ジェレミアは前を見据えた視線を崩さなかった。

 縋るように見上げたアマリアを、一顧だにしなかった。

「侍女として、仕えているはずよね。私の近衛騎士をじろじろ見ないでよ。不敬だわ」

「明日、また図書館に参ります」

「待ってるわ」

 真っ直ぐ歩く。アマリアは顔を上げて、歩き続けた。王宮図書館を出たところで、後ろから肩を掴まれた。

「アマリア、帰ってはならない。侍女の職務を全うしろ。不敬になる。謝罪だって必要となる事態に繋がる」

 静かなジェレミアの声がした。冷ややかにな目にぶち当たり、アマリアは顎を引いた。

 謝るべき事態にはなっていない。理不尽に蔑ろにされて、アマリアの心も疲弊していた。労いさえしないジェレミアは、立派な近衛騎士だ。

「邸で、お話を伺いたいです。パトリシア王女殿下に一体、何をお伝えしたのか? 副団長様には、説明する必要があるはずです」

「いつになったら、正しい呼び名で俺を呼ぶんだ。職務については王宮で聞く。職務を邸に持ち込みたくない」

 アマリアの手を引いて、ジェレミアは王宮図書館の裏庭に行った。二人で話した場所だ。

 アマリアは、毅然と顔を上げた。

「王女は私の話を奪った。アイオライト辺境伯家を、辺境を見捨てるのですか?」

「どうしてそうなる? 辺境の話が広がるなら、万事につき、損はない。アマリアの望みだろう。辺境の力を牽制する必要は常にある。お前は辺境のことだけを考えすぎる。ゼガッポ王国の全体を見ろ」

「ジェレミアは何もわかっていない」

 昂る感情に任せて、アマリアはジェレミアの名を呼んだ。

「分かっている。俺は、伝えられない話も多い。だが、王宮図書館での――」

「理解していないわ。カサンドラ王妃陛下の侍女になれとの圧力。パトリシア王女殿下の嫌がらせ。近衛騎士は監視だらけ。ダンスも、洗濯も、辺境の物語も」

 アマリアの声が、小さく掠れて行く。

 口付した理由も聞きたかった。何で胸が軋むのか、知りたかった。どんなに厳しい話でも、ジェレミアの言葉は心に響いていた。芽生えた気持ちを、育てたかった。素敵な部屋も、美味しいお菓子も、レスターの気遣いも。全てが、ジェレミアの配慮だと分かっていた。伝えないのではなく、伝えられない。共に思いを寄せ合う関係を育めなかった。

「聞いてくれ。俺は大切に――」

「私の意志の確認もせず王都に連れてきて、逃げ出すのを待っているわ。卑怯よ!」

 アマリアは、初めて荒げた声を出した。

 王宮でのジェレミアは静かだ。感情を剥き出しただけ無様で、アマリアは惨めだった。アマリアにとって、本の話をした時間はかけがえのないものだった。あの時間をパトリシアに漏らしたのはジェレミアだ。ジェレミアにとっては、取るに足らない誰にでも話せる時間だったのだ。

 パトリシアとジェレミアが、アマリアを貶めて笑い立ったのだろう。古臭いシラリュウ岳神殿の文字を、卑下したのだろう。

「私が馬鹿だった」

 パトリシアが、ジェレミアを呼ぶ声がする。

 王都の貴族を信じた。婚約者だと気を許した。いつしかジェレミアに惹かれて、騎士の姿に焦がれていた。悔しい。アマリアは、弄ばれても、嫌いになれない事実に俯いた。

 背を向けて、互いに歩き始めたのが分かった。足音が離れていく。アマリアは、手配された馬車に乗った。

 邸に着くと、アマリアは何通も書いた手紙を出した。

 翌朝、ハンナに見送られてジェレミアの屋敷を出た。幾何学模様のドレスを身に纏い、アマリアは真っ直ぐに、王宮のサンルームに向かった。

 サンルームの前で、カーライルが出迎えた。

「手紙を読んだ。全ては、アマリア・アイオライトの意思を尊重する」

 難しい顔をしたカーライルが、守るようにエスコートしてサンルームに入室した。

「あら、随分と仰々しいのね。まあ、これならみられる装いね。ほら、ジェレミアだって困っているのよ。野暮ったい田舎から、婚約者面した女がやって来たんだもん。迷惑よね」

 ジェレミアは、真っ直ぐに顔を上げていた。

「パトリシア。少し黙っていてくれ。最近、王宮が騒がしすぎる。アマリアに対する所業は、王族も――」

 カーライルが、パトリシアとフリードリヒの前に立ちはだかった。

「発言の許可を取りたい。タンザナイト公爵家からの申し出を、よもや蔑ろにはしないだろうね。ああ、当然だがカサンドラ王妃陛下にも臨席を賜っている。逃げることは許されない。国王陛下を煩わせるわけにはいかないからね」

 フリードリヒの拳が強く握られた。

「私の愚行が招いた事態だ。パトリシアは、発言を控えよ。タンザナイト公爵、善きに計らうように。頼んだ」

 近衛騎士団の先導により、謁見室へと歩き出した。

 謁見室にはカサンドラが待っていた。

 押し黙った王族の前に、アマリアが進み出る。カーライルの首肯を認めて、アマリアは話し出した。

「昨日、パトリシア王女殿下がシラリュウ岳神殿の神話を熟知し、王都の言葉に訳し、絵を付けて広めるとお話なさっていました。パトリシア王女殿下とジェレミア・スピネル近衛騎士団副団長様と互いに話し合った方法を、お伝えいただいたとの理解で良いでしょうか?」

「そうよ。ジェレミアは私に優しいの。私が癒してあげているのよ。アイオライト辺境にあるシラリュウ岳神殿の話だって、私は熟知しているわ」

 フリードリヒが頭を抱えて、肩が震えていた。

「では、読んでください」

 アマリアは本を差し出した。ジェレミアと共に読んだ本だ。潤んだ瞳が揺れる。

 ぱらりとページを繰ったパトリシアが、本を広げた。

 カサンドラが息を飲んだ。

 顔を上げたフリードリヒがパトリシアに近づく。

「正直に話すんだ。アイオライト辺境伯家は、誠実に対応する盟約を守り続けている。この本は、その盟約を受け継いでいる。パトリシアは、本当に本が読めるんだね」

「読めるわ。でも、田舎の言葉を読むのは恥ずかしいから、アマリアが読みなさいよ」

 アマリアは、パトリシアの持つ本に手を伸ばした。

「パトリシア王女殿下は、本が読めません。文字の形も、本の開き方も知らない。今持っている様子は、本の上下が反対で、左右が異なっています。何も知らないのです」

「え?」

 フリードリヒが唇を噛み締めている。

「ちょっと間違ったのよ。田舎の文字って、分かり難い。紙も悪い。アマリアはわざとやったのね。間違った向きで本を渡して、王族に恥をかかせた。不敬だわ」

 パトリシアの言分は正しい。確かに、パトリシアを陥れるために本を渡した。間違いに気付かないパトリシアを焙り出すために、事実を突きつけた。

 アイオライト辺境伯家とシラリュウ山岳神殿の矜持を守るために、アマリアは決して引かないと、腹を括っていた。

「アイオライト辺境の本は、ゼガッポ王国で最高品質です。文字を知り、本を学んでいたら十分に知っているはずです。アイオライトの瞳の話を、何方から聞いたんですか? 教えてください、本を読めないパトリシア王女殿下は、誰から話を聞いたのでしょうか?」

 唇を噛み締めたパトリシアが、睨んでいる。

「ジェレミアは、私と一緒に居れば良いのよ」

 フリードリヒが頭を下げた。

「アイオライト辺境伯家の本は、ユグトムン大陸で随一の紙と言われている。パトリシアはジェレミアと話はしていないだろう。近衛騎士は王族と話さない。私とジェレミアは近衛騎士団として話していただけだ。すまない。私が、迂闊だった。からかったんだ」

「ジェレミアは、私には色々と教えてくれた。本当よ。話さなくたって、顔を見れば分かる。ジェレミアは私の願いを何でも叶えてくれるの。田舎の女に、私のジェレミアを取られたくない。ジェレミアを王族に戻す。私ならできるわ。ねえ、ジェレミアだって望んでいるでしょう?」

 アマリアはパトリシアの言葉に、ハッと顔を上げた。ジェレミアの不遇を知って、王族の地位を確立するにはパトリシアの言分は正しい。

 アマリアは、ジェレミアから答えを聞きたかった。

 パトリシアが投げつけた本を拾って、高く掲げた。

 カサンドラが項垂れた。その姿を見てから、ゆっくりとアマリアは話し出した。いにしえから続く盟約を、正しく理解している王族の存在に、アマリアは笑みを返した。

「盟約を発動します。アイオライト辺境伯家はシラリュウ岳神殿を守り、王族と永きに渡って縁を結んできました。一冊の本は、王族への信頼を示します。アイオライト辺境伯家の望みは、必ず叶えるべき。王族の前で、近衛騎士が真実を発言をしなさい」

 パトリシアの前にいた近衛騎士が、顔を歪めた。騎士の礼を取り、はっきりとした声を出す。

「我儘なパトリシア王女殿下とダンスをするジェレミア副団長が、憐れでした。若い俺から見ても、近衛騎士は絶対に服従だから、文句も言えません。これが出過ぎた発言とは、俺は考えていません」

「本当だぜ。フリードリヒ王太子殿下の執務室に強引に入り込んだパトリシア王女殿下を、押さえきれなかったんだ。どんどんドレスを脱いだら、手は出せない。最後は下着姿だったんだ。怖ろしい。全て近衛騎士の失体にされるんだぞ。副団長だって、いつでも堪えている」

 ジェレミアが乾いた声を出す。

「俺は、アマリアにすまないと思っている。申し訳ない。俺はアマリアを王宮では守れないんだ」

 フリードリヒが吐き捨てた。

「パトリシアが、俺の部屋を漁ったんだろう。王太子への翻意とみるぞ。パトリシア第三王女。近衛、ひっ捕らえよ」

 近衛騎士が、パトリシアを押さえた。

「王族なら、アイオライト辺境に伝わる文字を学ぶはずだ。ジェレミアだって、パトリシア王女殿下の所業を分かっていただろう。婚約者の振舞いとは思えない。残念だよ。フリードリヒ王太子殿下も大概に、脇が甘い」

 カーライルが首を振るった。

 沈黙を破って、カサンドラが立ち上がった。

「パトリシアは離宮へ蟄居し、謹慎しなさい。フリードリヒは、アイオライト辺境伯家に盟約発動について、謝罪に出向くのです。反駁は許されません。王族の危機と心得なさい。盟約を課されているのは、王族なのです」

 カサンドラがアマリアの手を取った。

「ジェレミアは近衛騎士の前に、一人の男としてとアマリアと話をしなさい。アマリアも、話を聞いてやって欲しい、これは、王妃からの願いです」

 言葉を交わすことなく、アマリアはジェレミアと共に王宮図書館の裏庭まで来た。ジェレミアに向き合って、話し出した。

「副団長様に伝えることがございます」

「邸で聞く。名前で呼べ。何度言ったら応じるんだ」

「副団長様の邸には、帰りません。王宮に関わることは、近衛騎士としての話です。此処でしか話せません」

「何を――」

 捲し立てるように、アマリアは言葉を続ける。

「王都では、これからタンザナイト公爵家に居ります。支度が整いましたら、アイオライト辺境迫家に帰ります。近衛騎士の監視に、私は耐えられません。翻意があると考えられようと、企みを勘ぐられようと、もう沢山です。裏切りをする男は、伴侶にしたくない」

「裏切ってはいない。俺は、フリードリヒに話してしまったんだ。気安い騎士の話だったんだ。惚気てしまった。アマリアの話をする奴が多くて、情けなくて、我慢できなかった」

 アマリアは、何度も瞬いてジェレミアの顔を見た。

「何が、情けなかったんでしょうか?」

 アマリアの声に真っ赤に顔を染めたジェレミアが、顔を手で覆った。


―――☆彡☆彡☆彡―――


「王宮では、近衛騎士の行動は制限が多い。王族を最優先にする。それなのに、アマリアの話が沢山報告される。王宮図書館での話もあった。下女も侍女も、アマリアを褒める。その姿を、俺だけが知らないんだ。情けない」

 覚悟を決めたジェレミアは、アマリアの顔を見れない。だが、言葉だけは途切れさせないと懸命に話す。

「えっと、王宮は近衛騎士にとって職務の場所です。当然ですよ」

 アマリアの手を取って、陽だまりの中に座った。ジェレミアは手を握り締めた。

「アマリアだって、俺に助けを求めてくれただろ。パトリシア王女殿下の横暴は、目に余った。でも、俺は助けられない。タンザナイト公爵様にだって嫉妬していた」

「叔父様は、ただ甘やかしてただけです」

「俺だって、庭でもっと一緒に居たい。レスターだけが毎日お茶を飲んで、ずるいよ。レスターは足の痛みもなくなったって喜んでる。俺より、レスターの方が親しい」

 戸惑うアマリアが頬が栗鼠のように膨らんだ。

「邸の皆様は、お優しいからです」

「ウイルだって、アマリアを褒める。俺が知らない話を知っている」

「隠し事が多いのは、お互い様です」

 横を向いたアマリアを覗き込む。

「俺が、王弟殿下って呼ばれていたかもしれないって話は、できなかった。タンザナイト公爵様から、聞いたんだろう? アマリアの母様のロクサーヌ様とは、俺が八歳になるまで一緒に過ごしたんだ。ロクサーヌ様は、アイオライト辺境伯家に嫁ぎ、俺は騎士学校に行った」

「私より長いです」

 ロクサーヌは、ルカを生んで直ぐに亡くなったと聞いていた。アマリアは六歳だったはずだ。

「だから、伝えられなかった。他人の俺の方が、ロクサーヌ様と一緒に過ごしたって知ったら、悲しむだろうと思っていた」

 ふんわりと結い上げた黄金の髪が、秋の日を纏って煌めいた。

「母様の話ができる人が要るなら、嬉しいです。ルカも喜びます。私は、信頼されていないと思っていました。王弟と露見すると、私が婚約を破棄を渋って画策する。嫌味で打算的な女だと思われてましたから、言いたくなかったと思っていました」

 打算があるなら、もっと慎重に動くだろう。画策するには、アマリアは正直すぎる。感情が手に取るように表に現れる。

「思っていないよ。お転婆な小動物だ」

「パトリシア王女殿下には、閨で話をするのだと思っていました」

「近衛騎士が守っている扉を、誰も突破はしない。危険な閨に引き込まれないように、近衛騎士が守っているんだ」

 アマリアが口を尖らせた。初めて見る顔だった。

「アイオライトの瞳の話を、計算も計略もなく一緒にできたのが本当に楽しかったんです。二人だけの時間だと思ったのは、私だけだったんですね」

「見栄を張ったんだ。フリードリヒ王太子殿下に、アマリアを取られそうで、可愛いって褒めるから、俺の方が話をしているって、ひけらかしたんだよ」

「え?」

「フリードリヒ王太子殿下がその場で、素晴らしい考えだって紙に書き留めて、それを、パトリシア王女殿下が盗んだんだ」

 ジェレミアは、アマリアの手を握り締めた。

「近衛騎士は激務です。御苦労がしのばれます」

 アマリアの笑みが困ったように歪んだ。

「俺に、嫌われたかったんだろう? アマリアは、色々と頑張っていた。努力は認めるけど、俺は絶対にアマリアを嫌いにならない。だから、この婚約は俺から破棄をする。それが、アマリアの望みだろう?」

 アイオライトの瞳に、情けない騎士が映り込んでいた。


―――☆彡☆彡☆彡―――


「満願成就。シラリュウ岳神殿にお礼に伺うわ。楽しみね、ハンナ」

 正しいハンナが、アマリアにシュミーズドレスを着せて行く。

「どんな場合でも、婚約破棄は喜ばしい話ではないと知りました。これでアイオライト辺境伯家を戻って、心残りはないのですね」

「既に十日も、うだうだとタンザナイト公爵家にお世話になっちゃった。雪が降り始めるわ。さあ、今日こそ帰りましょう」

 外には、アイオライト辺境伯家からの迎えの馬車が見えるが、馬が繋がれていない。カーライルは邸の奥から出てくる様子もない。

 アマリアは暇乞いの挨拶のために、カーライルの元に向かった。

 大きく開いた扉の中に、カーライルの姿があった、何もない部屋だった。窓から吹き込む風に身体が冷えて行く。

「叔父様、随分と寂しい部屋ですね。此処には初めて入ります」

「今は使っていないからね。アマリアは、出発してしまうのかい? この部屋と同じで、寂しくなるよ。此処には、窓際にカウチがあった。ライティングデスクと本棚は、深いマホガニーの色だ。ソファはスカーレット色のクッション。天蓋は淡いコーラルピンクだよ」

 よく知っている家具と似ている。その先を聞きたくて、アマリアはカーライルを見詰めた。

「婚約が決まった時に、ジェレミアは真っ先に頼みに来たんだよ。ロクサーヌ姉様の部屋の家具を、譲って欲しい。アマリアに使わせたいってね」

 何故に、突然の婚約にもかかわらず十分な設えがあったのかがやっと分かった。アマリアは、ロクサーヌに包まれて、ジェレミアの邸にいたのだ。

 ジェレミアは、万端に備えてアマリアを迎え入れてくれた。ジェレミアの思いが分かって、アマリアは胸を押さえた。荒れ始める気持ちを鎮めるために、窓から吹き込む冷たい風を何度も吸い込んだ。

「懐かしい部屋だ。ロクサーヌ様と一緒に此処で遊んだよ」

 心の漣が跳ね上がった。振り返らなくとも、声の主は分かる。

 カーライルがアマリアの背を叩いてから、部屋を出て行った。

 王都を離れる前に、ジェレミアに逢いたかったのかどうかアマリアには分からなかった。心には漣が立ったままだ。

「王族に押し付けられた婚約が、やっと破棄が出来た。カサンドラ王妃陛下が、今朝になって認めてくださったんだ。アマリアは自由だよ。俺も一緒だ」

 晴れやかなジェレミアの顔が、アマリアには切なかった。嫌いにならないと言ってくれたが、好きだとは言われていない。

「ジェレミアは、直ぐに結婚が決まるわ。だって、押しかける令嬢が多いから、選びたい放題よ」

「確かにな、既に選んだ」

 アマリアは毅然と顔を上げた。

「御婚約おめでとうございます」

「祝うには、まだ早いよ。返事をもらっていない」

 ジェレミアが口を歪めている。なかなか手強い令嬢を、ジェレミアは伴侶に望んでいるようだ。

「御健闘を祈ります」

 一時は縁を持ったジェレミアの幸せ願い、アマリアは懸命に笑顔を作った。心に湧き立つ漣が痛い。

「スピネル家の邸に用意して頂いた家具は、母様の物だったとカーライル叔父様が教えていただきました」

 他の令嬢が使うのは、辛い。

「家具を譲ってください。思い出に、アイオライト辺境伯家で使いたいのです」

「無理だよ。あれは、大切な物でスピネル家の邸からは動かさない」

 厳然としたジェレミアの発言に、アマリアは肩を落とした。ジェレミアは、ロクサーヌを慕って、伴侶となる令嬢にあの部屋を与えると決めた。アマリアにできる事はない。

「アマリアも直ぐに結婚するだろう? 邸が困ったことになっている」

 気分を変えたくて、まだ邂逅を手放せなくて、アマリアは問い掛けた。

「はあ? 婚約を破棄したばかりで、直ぐに結婚したら節操がないです。まだまだ婚約も結婚もしたくありません。それで、邸では何があったんですか?」

 ジェレミアが首を振るっている。

「アマリアがいなくて、ウイルが庭に出なくなった。職場放棄だ」

 信じられない話だった。庭の手入れをしないウイルの姿は見た覚えもない。

「メイドの肌は荒れて不機嫌だ。レスターは足を引き摺って、陰気になった」

 沢山の顔が思い浮かぶ。

「大変だわ。戻る前に、ジェレミアの邸に寄るわ。皆に逢ってから――」

「アマリアが必要なんだ」

「へ? ああ、邸の皆様には挨拶します」

 宥めるように告げると、ジェレミアが一歩、近づいた。

「アマリアのハーブが届かないから、近衛騎士団は士気が下がった。王宮は葬儀のように暗いぞ。王宮は暫く、放って置く。フリードリヒ王太子殿下にも反省してもらう」

 ジェレミアの言分は正しい。

「私も当分の間、王族を避けます」

「当然だな。婚約破棄で一番参っているのは、俺だよ。でも、王族から押し付けられた婚約はアマリアは望んでいない」

 確かめるように覗き込まれた。

 アマリアは深く首肯する。王族から一方的に押し付けられた婚約だったから、互いに邪な目的を勘ぐってしまった。

「婚約破棄には痛みがあると分かりました」

 胸を押さえた。ジェレミアの新たな婚約を、喜びきれない思いを持て余す。

「自由になって、結婚を決めた。邸も近衛騎士団も王宮も、どうでもいい」

 ジェレミアが片膝を突いて、アマリアの手を請うた。

 翠の瞳の中に、不安そうに揺れる黄金の髪が見えた。覗き込んで、動けなくなった。動きなくなかった。

「誰よりも俺が、アマリアと一緒に居たい。結婚してくれ。手を取って欲しい」

 心が凪いでいる。誰にも強制されることもない。

「実は、ジェレミアが望む深窓の令嬢ではありません。淑やかでもないし、従順でもないです」

「知ってる。シュミーズドレスで庭に出て、元気に笑っているだろう」

 アマリアは、自分で手を伸ばした。

 手が触れたと思った時には、アマリアは広い胸の中に抱き込まれていた。濃紺の騎士服が寄れて、汚れていると気付いた。

「遅くなって、申し訳ない。アイオライト辺境伯家を往復したんだ。辺境騎士団に認められるのに、二日がかかった」

 辺境騎士団の猛者が思い浮かぶ。

「まあ、最短ですわ。辺境騎士団に入るには、一週間の見極めが要ります」

「頑張ったんだ。アマリア、邸に帰ろう」

 返事をする前に、アマリアの唇は塞がれていた。

 シラリュウ岳から運ばれた秋の冷風が、二人を包み込んだ。

                                   【了】



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