ようこそ、非日常へ
初心者の拙作ですが、ほんの少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
――――あぁ、どうしよう。
寝転んだ姿勢のまま俺は微動だに出来なくなって、全身から冷たい汗が滲み出すのを感じていた。
年代を窺わせる青味の失われた畳の上。細く白い脚がひたりひたりと歩み寄って来る。脹脛の辺りで軽やかに揺れるスカートが視界の端に映り、女の接近を知らせた。だけど俺の本能はその存在を全力で拒む。
「・・・ぁ゛、あ゛ァ・・・ァ・・・」
掠れに掠れた、女とは到底思えない低い声が鼓膜を刺す。瞬きすら忘れた自分の目が見つめるのは彼女の爪先。所々泥がこびりついて乾き、幾つもの擦り傷が血を滲ませ、元は美しかったのだろう爪は無残にひび割れている。
「・・・・・・ッ」
どうにか視線を外して逃げなければ。女の脚は畳に横たわる俺の眼前に迫っていた。なのに身体は一向に動いてくれない。これが金縛りというものなのだろうか。焦燥で荒くなっていく呼吸の合間、汗が顔を撫でて不快感を残した。
「ね?だから見ない方が良いって言ったのに」
場違いにも聞こえる、淡々とした青年の声。体温を失って冷えた指先で畳を掻きながら、視線だけ動かす。感情の読み取れない琥珀色の瞳と目が合った。
「・・・お、ま・・・え・・・」
喉に張りついた声を切れ切れに絞り出す。見覚えがあり過ぎる筈だった青年の顔は、今やまるで知らない別人のもののように思えた。
「忠告はしたでしょう。ねぇ?」
琥珀の双眸がゆったり瞬く。耳元で女の脚が畳を擦る音が聞こえる。青年の唇が普段と同じトーンで俺を呼ぶ。
「先輩」
「なぁ。何で事件ってスーパーでは起きないの?」
新鮮な野菜や果物の箱が山と積まれた薄ら寒い一室。どこにでもある街中のスーパーマーケットの奥、二重扉で閉ざされた冷蔵室で俺は書類片手に呟いた。
「・・・・・・頭どうしました、マネージャー。あ、レタス一箱多いですね」
「うっそ!もう、今週は葉物の発注控え目でって言ったのに!」
返事だけは気前よく返すものの、割と指示を無視するパートのおばちゃん達を思い浮かべながら俺は肩を落とす。が、ちょっと待て。今サラッと失礼な事言わなかったか?ご心配頂かなくても頭は正常だ、コノヤロウ。
「毎日毎日こうして真面目に働いてるとさ、たまには刺激っつーの?変化が欲しくなるじゃん」
可もなく不可もない容姿で平均的な学生時代を送り、それなりに友人も出来て、中堅の大学を普通に卒業。地元の中小企業に就職、二十代も後半の現在スーパーマーケットの食品部門マネージャーに収まっている。可愛い恋人とは来年辺りに入籍予定。・・・だった。一昨日『他に好きな人が出来たの。あなたより収入がいいのよ。あと顔もね』って振られたけど。どうせこちとら安月給ですよ!イケメン商社マンには及びませんよ!けどな、地域の皆様の生活を支えるスーパー舐めんな!
ってな訳で傷心真っ盛りな俺としては、こう、気分転換になるような刺激が欲しかった。仕事に打ち込めって?悲しい事言うなよ。
「ミステリーとかさ、好奇心擽られる不思議な事件みたいなヤツ?ああいうの起きないかなぁ。大概喫茶店とか古本屋とか如何にも雰囲気ある場所でしか発生しないの不公平だと思うんだ。一回くらい平凡なスーパーで起きろ」
在庫の数量確認を進め、書類に黙々とチェックマークを書き込む傍らで果物の状態を確かめている後輩を見やった。俺の二つ年下で、アシスタントマネージャーを務めている桜木 時嗣。表情に乏しいせいで取っつきにくい印象が強いが、頼れるメガネ男子だ。
段ボールの中に詰められているカットフルーツ用のメロンに傷を見つけて、廃棄するか思案していたらしい顔が俺に向けられ、一つ瞬きをする。
「小説の読み過ぎです。マネージャーは殺人事件でもご所望で?」
手に持った傷ありメロンを俺に押しつけた時嗣は、最後に冷蔵室の室温チェックに向かった。実に淡白なリアクションだ。
「待て待て待て。物騒だな。もっと小さい出来事でいいんだよ。例えばさ、いつもの道を通ってたら見覚えのない古めかしい店が突然現れたりとか、路地の奥がこの世ならざる町に続いてたりとか、何なら神隠しとか幽霊とか。あぁ、非日常を味わいたい・・・!」
「・・・それ、殺人事件よりよっぽど遭遇率低いでしょ」
室内温度の操作パネルを見ていた時嗣が振り返る。完全に呆れた目をしていた。あの、心抉れるんで止めてもらってもいいですか。
「ささやかな事件でいいなら今日も起きてますよ。青果部の発注ミスが一件、精肉部の納品ミスが一件、明日からの広告掲載品の表記ミスが二箇所ってところですかね。見事スーパー内での出来事です。おめでとうございます」
「めでたくねぇわ!しかも思いっ切り業務上のトラブルじゃん!俺のとこまで報告来てないけど!?」
「ドンマイです」
頭痛を起こしそうになりながら処理の手順を脳内で組み立てる俺に、時嗣が親指を立てる。コイツ他人事だと思ってんな?お前俺のアシスタントだろうが。
その時ドアの向こうから軽快な足音と俺を呼ぶ声が聞こえた。
「あー!都賀ちゃんってばこんなトコにいた!ミーティングするから早く来てって葭川さん怒ってたよ?」
「作草部さん、『ちゃん』じゃなくて『マネージャー』ね!?こんなんでも俺一応フロア責任者だからね!?」
ドアからひょっこり顔を覗かせたのはチェッカーアルバイトの作草部 芽依さんだ。高校生らしく快活でくるくる変わる表情が愛らしい、皆の妹的存在と言っていいだろう。難点を挙げるとすれば・・・
「ごめん、ごめーん!じゃ、都賀 篤文マネージャー、会議室までお願いしマース!」
俺をまっっったく上司として扱わない事だろうか。性格は明るくていい子なんだけどなぁ・・・。
何故か冷蔵室の中を不審げな目で見回してから、来た道を戻って行く彼女の足音が遠ざかる。今までサボっていたとでも思われたのだろうか。心外だ。
溜息を吐き、視線を時嗣へ戻した。俺と同じように作草部さんを見送っていた時嗣の目線もこちらを向いて一瞬視線が交わる。しかし彼はするりと目を逸らした。右手の中指でズレてもいない眼鏡の位置を直す。
「確か彼女の家は神社でしたよね。マネージャーの欲しがってる非日常的な話題を持ってるかも知れませんよ?」
確かに。若干ギャルっぽい雰囲気で丈の短いスカートを着こなし、茶髪を低めの位置でサイドテールにした容姿からは想像し難いが、彼女は歴とした神社の娘だ。しかし。
「残念だけどさ、これがなーんにもないんだわ。ちょっと前に訊いてみたら『ウチみたいな小っちゃい神社で事件なんか起きないよ~』って笑い飛ばされた」
「何という完全なる詰み」
諦めたらいいじゃないですか、と時嗣は続けたが俺は大きく鼻を鳴らして反抗する。
「やだね。この歳まで平々凡々で穏やかな人生送って来たんだ。残り少ない二十代、多少の冒険心を持ったっていいだろ」
「身を固める話も白紙になりましたしね」
「言葉の棘ぇ!」
べそべそと泣き真似をする俺を容赦なくドアへと追いやって時嗣が軽く息を吐いた。手に持っていた書類と廃棄メロンを奪われる。
「残りのチェックは俺がしておきます。マネージャーは早くミーティングに行って下さい」
不敬極まりなくシッシッと手で追い払う動作をした後、彼は眼鏡の奥で双眸を細めた。
「平穏な人生を嘆くなんて贅沢だと思いますけど、まぁ、普通はそんなものなんでしょう。・・・マネージャーの決意が固いのなら一度うちへご招待しましょうか」
ん?うち?うちって・・・時嗣の家か?
「何でお前の家?」
「出るからですよ、これが」
首を傾げる俺に、相変わらず乏しい表情のままで時嗣は空いている右手を胸の前へと持ち上げて見せる。手首から下をだらりと垂らし、いわゆる幽霊のポーズを取った。脇に書類を挟み、左手にメロンを持ったままなので中々にシュールである。
「本当はあまりお勧めしたくないんですが。一度怖い思いをすれば気も済むかな、って」
どうしてコイツが諦めさせようとしてくるのか今一つ理解出来なかったけれど、俺は心底面白そうな話に脊髄反射の如く飛びついた。
「行く!行きたい!いつなら都合いい?」
「今日でも構いませんよ。早番だから十七時には退社ですよね。家まで歩いて十五分くらいですから」
「よっしゃ!サンキュー!」
思いがけず転がり込んだ好機に俺はガッツポーズをする。何だよ、水くさいな。早く言ってくれれば良かったのに。あ、でも自分の家に幽霊出ますなんて簡単に言える内容じゃないか。世の中でも事故物件とか心理的瑕疵物件とか言われて眉を顰められる対象だもんな。
ともあれようやくありつけた刺激的な出来事に俺の心は浮足立っていた。冷蔵室を出てウキウキと会議室を目指す。ドアを開けるや否や葭川さんに盛大な説教を食らう羽目になるとは知りもせずに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
はぁぁ・・・疲れた。パートの中でも社歴が長い葭川さんの小言、もとい貴重なご意見を聞いた後で広告の表記ミスをお詫びするPOPを手配し、発注や納品のミスもフルスピードで処理した。目指せ定時退社。俺はやり切ったぞ。
ロッカールームで作業用の上着を脱ぎ、ハンガーへかける。簡単に私物をまとめバッグへ押し込んだら目指すは従業員通用口だ。出入り口で欠伸を噛み殺している警備員にバッグの中を形式的に確認してもらい、退社の許可を取る。足取りも軽く会社の敷地を飛び出せば、もう俺は自由の身だ!
「お疲れ様です、マネージャー」
社員用の駐車場の端、フェンスに寄りかかるようにして時嗣が俺を待っていた。手にしていたスマホをバッグのポケットに仕舞いこちらへ歩いて来る。よく定時退社出来ましたね、と顔に書いてあったのでドヤ顔を返しておいた。ふふん、俺はやれば出来る男なのだよ。
「お疲れ~。急で悪いけど、今日はよろしくな」
楽しみな気分を上手く隠して若干申し訳なさそうな声で告げると、時嗣は「いいえ、平気ですから」とほんの少しだけ笑った。
歩き出す自分の足元に夕暮れ時の太陽が長い影を落とす。夏の匂いがし始めた街並みはまだ十分に明るいのに、人の気配が薄くて静かだ。通常、夕方とはもっと主婦などの買い物客で賑わうのではないか。静寂のせいで落ち着かずに隣の後輩を横目で見れば、陽の光に透ける栗毛が風に揺れていた。少しばかり癖のある毛先は風に吹かれる度にあらぬ方へ着地してボサボサになっている。
「疑問なんですけど」
「ん?」
乱れた髪を雑な手櫛で整えながら時嗣が切り出す。
「都賀先輩ってオカルト好きでしたっけ?」
職場から離れて気が緩んだのか、役職呼びから先輩呼びに変わっていた。
「どうかなぁ、元々あんまり気にしない質だったし。人生で一回くらい幽霊見てみたいって思ってるのは本当だけど」
「・・・今後は止めておいた方がいいと思います。怖いもの見たさ、って気持ちは分かりますが、映画とか動画で楽しんで下さい」
「心配し過ぎだろー。心霊スポット巡りなんてやってる奴らもいるんだぞ?俺は霊感もないし平気だって」
折角お前の家に行っても何も見えなかったらヘコむわー、と軽口を叩いて笑う俺を時嗣が渋い表情で眺める。冷めた性格に見えて案外心配性なんだな、なんて考えているうちに大通りを過ぎて住宅街へ入り込んだ。奥へ行くに従い古い家々が姿を現す。夕闇が広がり始めた中で年季の入った家屋達が得も言われぬ重圧を放っていた。
やがて一軒の平屋の前で時嗣は足を止める。錆びた鉄の門扉の向こう、飛び石が玄関まで続くどこか懐かしい佇まいの家だ。
「着きました。・・・確認しますけど、引き返す気はありませんか?」
門扉に手を掛けながら時嗣は俺に意思確認をしてくる。大分薄暗くなった道の端で、明滅を繰り返す街灯が不安定に彼の横顔を照らしていた。俺がここで怖気づき、やっぱり帰ると言い出すのを期待しているらしかった。
「冗談!ここまで来たからには未知との遭遇しないとな!」
俺に引き返す意思がないと見るや、時嗣は小さな溜息を吐く。諦念の面持ちで門を押し開き「どうぞ」と俺を敷地内へ招いた。踏み出す靴底から言い知れぬ冷気が這い上がって来たが多分気のせいだろう。
「先輩、見ないで済むものは見ないに越した事はないんですよ」
振り向きもせずに言いながらドアへ鍵を差し込む後輩を、斜め後ろから見守る。うーん、分からない。一体何故に彼はこうまで難色を示すのか。時嗣の家に出る幽霊って、もしや相当ヤバイ奴なのか?でもうちに来ないかって声を掛けてきたのはコイツだし、普通に暮らせてるみたいだから命に係わるようなモンじゃないよな、きっと・・・。
開かれたドアを潜り、時嗣が玄関口の電気を点ける。よく磨かれた飴色の木の廊下が明かりの下に浮かび上がった。外観通り使い込まれた年月を感じさせる、人の暮らしに馴染んだ家だった。
「お邪魔します」
靴を脱いで揃え、先を行く家主に続く。廊下の至る場所が軋んで驚いたが、俺にはちょっと新鮮で楽しかった。しかし古い木造の平屋は温かみのある雰囲気なのに、漂う空気が重く冷たい。不自然な息苦しさを感じるくらいだ。幽霊が出ると思っているから脳が錯覚しているのかも知れないが。
「飲み物を取って来ますね。先輩はこの部屋で休んでて下さい」
「あ、お構いなく」
台所へと向かう背中に声を掛けつつ、俺は示された部屋へ入った。八畳の和室だ。部屋の中央に立派な座卓が置かれ、座布団が四人分ある。掃き出し窓のカーテンを捲ってみれば外に縁側も確認出来た。純和風の家屋。さて、どんな幽霊が住み着いているんだろう。
「お待たせしました」
暫くして冷たいお茶の入ったグラスをお盆に乗せた時嗣が現れる。俺は幽霊の姿を想像する作業を中断して席に着いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結局晩飯までご馳走になり、現在俺は丁寧に掃除された畳の上で横になっている。ちょっと待ってほしい、これは決して俺がぐうたらしている訳ではない。誤解しないでくれ頼むから。
食後俺の身体は変調を来した。ずっと感じていた息苦しさが強まり、悪寒と倦怠感に襲われた俺を心配した時嗣が横になっていろと言い置いて薬を探しに行ったのだ。・・・風邪、というには急激すぎる体調の悪化に困惑しかない。
座布団を枕代わりにしてじっとしていると、廊下から微かな物音が聞こえた。薬が見つかり戻って来たのだろう。時嗣には迷惑を掛けて本当に申し訳ないと思う。今度美味い飯か酒でも奢って恩返しせねば。そんな風に考えるのと襖が静かに開いたのは同時だった。
「・・・・・・ぇ?」
喉から勝手に音が漏れる。声というよりは空気が漏れていく音、としか言いようがなかった。人間呆気に取られると身体機能が停止するものらしい。見事に俺の声帯は職務放棄した。
横たわる視界に飛び込んできたのは、白くて細い脚。パステルカラーの軽やかなスカートから伸びる、女の脚だった。
時嗣のご家族かな、なんて俺が思わなかったのは、先程済ませた夕飯時の会話で彼が一人暮らしと分かっていたから。そして、視野に入った脚が、脚だけだったから。太腿の辺りで急速に透けてしまい、上半身など影も形もない。
「ッ!」
身体を起こそうとして動けない事に気づいた。おいおい、マジか。金縛り初体験だぞおめでとう俺。遠退きそうな意識の片隅でふざけた考えが脳裏を過る。
「・・・ぁ゛、あ゛ァ・・・ァ・・・」
掠れ切った、女とは到底思えない低い呻き。泥が入り込んだ割れた爪に生々しい擦り傷。こびりついたまま乾いた泥と血を纏う青白い肌やボロボロのスカートの状態からして、見えはしないがきっと上半身も凄惨な姿なのだろうと思った。それ程までに彼女の両脚は惨たらしい有様で・・・って何かあの脚、こっちに近寄って来てますけど!?
ゆっくりとにじり寄る爪先に戦慄が走る。逸らしたくても逸らせない視線に、ならばと瞼を閉じようとして失敗した。自分の瞼すら制御出来ない現実にじっとりと汗が染み出す。
――――あぁ、どうしよう。こんな時どうするのが最善なんだ。ちょっと彼らの姿が見えるくらい問題ないだろうなんて、正直あちら側の住人を舐めていた。
「・・・・・・ッ」
どうにかして現状を打破しなくては、と藻掻いてみても金縛りが解ける気配はなかった。焦りに比例して鼓動は早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。滲み出る冷汗が玉を結び、顔を撫でて伝い落ちるのを拭う事も出来ない。傷だらけの爪先はもう目の前だ。
「ね?だから見ない方が良いって言ったのに」
場違いにも聞こえる、淡々とした声に意識が引っ張られた。時嗣だ。けれど不思議な事に、馴染みのある声を聞いても俺の心は安堵に程遠いまま、目の回りそうな緊張感の中に置かれていた。
体調不良と極度の精神的負担ですっかり冷えた指先が畳を掻く。まだ思うように身体は動かなかった。何とか自由になる視線だけ動かすと、感情の読み取れない琥珀色の瞳と目が合う。
「・・・お、ま・・・え・・・」
呼び掛けたいのに声が喉に張りついてまともな言葉にならない。もどかしく思いながらも彼の顔を見やる。それなりに長い時間を共にしてきた筈の後輩の顔は、どこが変わった訳でもないのに、まるで知らない別人のもののように感じた。汗に濡れた背筋が冷える。
「忠告はしたでしょう。ねぇ?」
琥珀の双眸がゆったり瞬きをして俺を見下ろした。耳のすぐ傍で女の脚が畳を擦る音が聞こえる。心臓が爆ぜそうに限界まで脈動している。
もう駄目だ、俺はここまでだと諦めた。首を絞められるのか呪い殺されるのか、それとも正気を奪われるのか。いずれにしてもまともに死ねないのは明白である。興味本位で刺激なんて求めた数時間前の己を力一杯殴りつけたい気分だった。
「先輩」
時嗣の小さ目な唇が普段と同じトーンで俺を呼ぶ。何だ、と目線を向けると座卓の上に市販薬の箱を置いている。
「取りあえず風邪薬しかなかったので、これ飲んで下さい。水も置いておきますね」
――――は?おま、・・・この状況で何言い出した?混乱を極める俺の顔面を、直後に衝撃が襲った。時嗣に気を取られているところを、踏まれた。勿論、傷だらけの女の脚に。
「・・・ぁ゛、あ゛、ァァ・・・ぁ゛」
呻き声と一緒に女の気配が遠ざかる。待て、いや待たなくていいが何で俺の顔踏んだ?呆然と見送る先で、女は掃き出し窓を擦り抜け外へと消えて行く。途端に金縛りが解けた俺は勢いよく起き上がった。女の消えた窓と後輩の落ち着き払った顔を何度も交互に確認する。叫び出したい気持ちは残念ながら上手く言葉にならず、両手をわちゃわちゃ蠢かせるに留まった。
「あ、泥ついてますよ、頬に。ほら、踏まれたところですって」
時嗣が自分の左頬を指し示した。つられて反射的に顔の左側へ触れた指先が、ザリザリとした砂混じりの泥の感触を拾う。女に踏まれた時の感覚が蘇り肌が粟立った。体重を感じさせないのに、確実に皮膚を撫でていく冷やりとした肉の感触は当分忘れられそうにない。
「え・・・・・・何コレ・・・?」
一切の理解が追いつかずに只々幽霊屋敷の主を見つめた。当の本人は首を傾げて俺を見つめ返す。
「何って。先輩が欲しがってた刺激ってやつでしょう?」
そうでした。俺が刺激が欲しい、日常に変化が欲しいって言ったんでした。でもさ、いきなりハードモード過ぎない?お前、毎日こんな環境で生きてんの?嘘でしょ・・・。
極限の緊張から漸く解放されてどっと疲れが押し寄せてくる。俺はなりふり構わず畳の上に大の字で寝転んだ。いつの間にか息苦しさも悪寒も消え失せている。倦怠感だけは、まぁ、疲労として全身に残っているが些細なものだ。
「・・・死ぬかと思った・・・」
深い溜息とともに一言吐き出す。ぐったりと四肢を投げ出す俺の耳が、再び廊下の物音を拾った。びくりと肩が揺れたけれど何せ今し方の出来事の後だ。仕方ないだろう。
恐々と視線を開けっ放しの襖へ向ける。見たくはないのだが音の正体を確認しないのも不安で嫌なのだ。人間の心理とは全くもって厄介である。
カツカツカツ、と軽快に刻まれるリズムは小さな音で、どうやら動物の足音のようだ。多分、犬かな。幾らか安心した俺は天井を向いて目を閉じた。あれ、でも時嗣って犬飼ってたっけ?
「わんわんわん!」
元気いっぱいに部屋へ響いた声に俺は思わず目を開く。
「あれ、人前に出て来るなんて珍しいね」
滅多に聞いた事がない後輩の柔らかい声音で今度は畳から跳ね起きた。勢いに任せて周囲を見渡すと丁度廊下から室内へ一歩入った場所に犬がいた。柴犬が。
「わんわん、ばう!」
ぱかっと口を開き、尻尾をブンブン振り回す姿はどこからどう見ても普通の柴犬である。けど、何でだ。犬の身体が微妙に透けて見える。俺は夢でも見ているのだろうか。まさか全部夢オチだったなんて事は・・・
「先輩は正常ですし夢オチでもありません」
蒼褪める俺の様子を見透かして時嗣からフォローが入る。じゃあ何?この子も幽霊?もう頭が処理出来る情報の許容量を超えてしまいそうだが、珍しく薄く微笑む後輩を前に、大人しく話を聴く態勢を取った。
「この家は『霊道』なんですよ。聞いた事ありませんか?幽霊の通り道です。ちなみにこちらの柴犬も普通の犬ではありませんので」
でしょうねぇ!えぇ、えぇ、理解しておりますとも。普通の犬は透き通らな・・・
「一言で言ってしまえば『神様』ですかね」
・・・はい?カミサマ?俺の脳内は完全に嵐に襲われた。もう時嗣が発する言葉が一つも分からない。
どう見ても柴犬、しかもちょっと短めな脚のもふもふ柴な神様とやらは相も変わらず尻尾を振り回している。紛う事なき犬だろ、完全に。
「霊道で生活するには色々不具合がありまして。『憑神』というのですが、普段は神通力で霊道を曲げてもらっています。今日は先輩が幽霊を見たいとの事でしたから、神通力を解いて元に戻したんですよ」
「ツキ、ガミ?ジンツウ・・・リキ?ごめ、ちょっと、理解が・・・」
「あ。理解しなくて大丈夫です。不思議体験が出来てスッキリしたでしょう?」
いやいや、スッキリどころか混乱の極みだわ。「もう霊道曲げていいよ」とか柴犬の頭を撫でながら語り掛ける時嗣が凄まじく遠い人に思えた。というか、神様の頭撫でて怒られないの?半透明でも触れるの?
放心状態で和やかなやり取りを眺める俺に、時嗣は振り向いて目を細めた。唇がゆったりと弧を描く。耳に心地好い声で彼は静かに、けれどはっきり囁いた。
「・・・ようこそ、非日常へ」