星の章4
蓮月尼は大海原の上にただひとりで浮かんでいた。
見渡す限り何もない。
大きくうねる水面が足の下にあった。
あねうえ…
海鳴りに紛れて微かに女の声が聞こえる。
まぼろしのような幽かな声。
この声が誰のものか蓮月尼は知っていた。
わたくしはあの娘が嫌いだった。
鷲頭から弟のもとに嫁いで来た娘。
涙で人を操る女。
どう考えても勝ち目のない戦に新屋河内を巻き込み、おびただしい血を流させた。
しかしあの夜、あの娘は涙を見せなかったという。
「この子を義姉上のもとに」とだけ告げて、自ら死を選んだと聞いた。
盛清が止める間もないほど決然とした最期だったそうだ。
悔やんでも悔やみきれない。
わたくしはあの娘の何を見ていたのだろう。
何故もっと腹を割って話さなかったのだろう。
業火の中に飛び込む勇気があるのなら、その勇気で生きて欲しかった。
生きるためにあがいて欲しかった。
伝えられなかったあの言葉この言葉が嗚咽に換わって溢れ出る。
頬を伝った雫が水面に触れた。
その瞬間、海全体がまばゆい光を放った。
波頭それぞれに人の営みが映し出されている。
駆けてゆく多くの人馬、踏み潰される作物、身ぐるみ剥がされたかつて人だったモノ、押し倒され殴られる老婆、既に息絶えた赤子に子守唄を歌う母、燃える寺院。
ありとあらゆる理不尽に苦しむ人々を容赦なく押し流す洪水。
泥に浸かった農地を嘆く民、腹が膨れ上がった飢えた子供、真っ赤に爛れた疫病の死骸。
余りにむごいこの世の真実を、蓮月尼は目をそらさず見続ける。
やがて、うつむき泣いていた男が立ち上がり、ゆっくりと舞い始めた。
タンッ、と足を踏み鳴らすと、泥に埋もれた大地に金色の稲穂が揺れる。
扇を一閃すると、紅葉がはらはらと舞った。
袖を翻すと空から白い雪が降ってきた。
海に降る雪が呆気なく消えてゆく。
なんて儚いのだろう。
一瞬で消えるもろく弱い存在。
泡のように生まれては弾け飛ぶ。
それでも懸命に生きている。
なんていとおしく悲しく愚かしくも尊い須臾の命なのだろう。
これが御仏の視点なのか。
そう思い至った蓮月尼は、無意識のうちに両の手を合わせる。
祈りの言葉が我知らずついて出た。
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
声明の声はさざ波のように広がり共鳴し、光の海が蓮月尼を飲み込んだ。




