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雪の如く露の如く  作者: 千藤時子
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電(いなづま)の章

亀童丸(きどうまる)がその娘に出逢ったのは偶然の出来事だった。

当時の彼は六歳。

守役の目を盗んで暗い夜の庭に身を隠していた。

その頃の彼は無性に苛々していた。


父は、武芸に励め、領内のあらゆる事に精通せよ。

母は、学問を修めよ、都の公達に見劣りしない振る舞いを身につけよ。


西国きっての守護大名である大内家の、正妻腹の嫡男としては仕方ないこととはいえ、二人は幼い彼が身動き出来なくなるほど高い要求をした。

そして出来の良い庶出の兄と比較をした。

年の近い二人を競わせることで兄弟が高め合うことを父は期待したのだろうが、亀童丸の心に生まれたのは親の理不尽さや兄への憎しみだけだった。

その夜は、都から来た高名な猿楽師が舞いを披露しているというのに、ひとこと挨拶をした後すぐに勉学の師たちに引き渡された。


遠くで(がく)()や楽しそうなざわめきがしていた。

何もかも放り出したい。

六歳にして疲れはて、巨樹の幹に寄りかかって嘆息した彼の目の前に、そのとき天女(てんにょ)が舞い降りた。


闇の中に白い花が舞う。

地上で生きるものが持つ重さをまったく感じさせない美しい少女が、くるくると旋回していた。

十歳(とう)は越えているだろう。

楽しげに笑みを浮かべた彼女をもっとよく見ようと、亀童丸は一歩踏み出そうとした。

しかし彼が行動を起こそうとした瞬間、その少女は舞いをやめ走り出していった。

遠くから自分を呼ぶ声に気づいたのか、あっという間のことだった。

一瞬で消えた天女に呆然と立ち尽くしていると、(あるじ)を探して駆けずり回っていた守役に見つかった。

「若様! ¢£%#&*@§!」

亀童丸は叱責を右から左に聞き流し、遠ざかっていく影を指した。

そして「あれは誰だ?」と問うた。

心ここにあらずといった様子のあるじに毒気を抜かれた守役は振り返り、目を凝らして答えた。

「ああ、あれは内藤殿とご息女でございますな」

「内藤?」

「はい。長門(ながと)の国の守護代をお父君から預かっておいでの方です」


やわらかな夜風が頬を撫でた。

天女が駆け去っていった後、いつの間にか亀童丸の鬱々とした思いは霧散していた。


あの娘の父は内藤弘矩(ないとうひろのり)というらしい。

内藤家は藤原道長公の子孫だが嫡流ではなく、鎌倉の頃に地頭として周防の国に下向してそこに住み着いた。

その地は自分たち多々良一族の古い聖地である下松鷲頭山妙見(くだまつわしずやまみょうけん)の周辺だったという。

最初は多々良一族のうちの鷲頭家(わしずけ)に、そののち大内家に従うようになり、ここ数代ほどは長門の国の守護代を任されたため住まいを山口に移している。


これまで苦行でしかなかった領地を学ぶということが、あの美しい少女を知った日から一変した。

領内の場所、その土地柄、家臣たちの名前、来歴、人となり。

無味乾燥だった欠片はどれもが意味を持つものになった。

みやびを愛する一族なのだと聞き、書や作法も懸命に学んだ。

淡い憧れが少年を突き動かしてゆく。

突然奮起し始めた亀童丸に、父母は驚きながらも喜んだ。


内藤の姫にもう一度会いたい。

年の近い家臣の子女たちは次期当主に誼を通じるために大内の屋形に足を運ぶ者も多い。

男子は遊び相手から始まり近習の見習いとなり、亀童丸と共に育ち絆を強める。

女子は亀童丸の母のいる奥で作法を学び家を切り盛り采配出来る奥方になる準備をし相応しい縁談を用意される。

しかしそのような場に内藤の娘が現れることはなかった。


彼女の弟である内藤家の嫡男、弘和(ひろかず)に尋ねたところ、彼の姉はたいそう内気な性質(たち)で人前に出るのを好まないと述べた。

あのように繊細では、他家に嫁に出るどころか大内の屋形に行儀見習いであがることも難しいだろう、それゆえ内藤の家中で父は婿を探している。

あっけらかんと話し、そして笑う弘和に小さな不快を覚えた。

小さな雷鳴が遠くで響いていた。


季節は巡る。

亀童丸の背は伸びた。

自身も名門の生まれである母は京の名家の娘を娶るようしつこく勧めて来た。

その勧めから逃げ回るうちに亀童丸は元服を迎え、その名を義興(よしおき)と変えた。

愚かだと思う。

たった一度会っただけの娘なのに。

言葉を交わしたこともない。

それなのに。


彼女が内藤家の若武者に嫁ぐと聞いて胸が微かに痛んだ。

内藤家の奥方が亡くなり、服喪と残された幼い妹のために婚姻の日取りが延びたと聞いて不謹慎ながら安堵した。


その頃には義興にも大人の事情というものが分かるようになっていた。

家臣の中の最上位にあるとはいえ内藤家の娘は西国の覇者、大内家の正妻とするには家格に不足がある。

しかし側室に落とすのも問題がある。

ましてや自分より六歳年上の娘を妻にしたいなど誰も賛成はすまい。

仕方がないのだと分かっていながら諦めきれない。

そんな八方塞がりのまま父、大内政弘が亡くなり、義興は十八で家督を継いだ。


父の亡きあと、覚悟はしていたとはいえ大内家の当主としての仕事に忙殺され義興の眠りは削られた。

その頃、あの男が舞い戻ってきた。


陶武護(すえたけもり)

大内と同じ多々良一族から別れた陶家の元当主。

数年前、義興の麾下として従軍中、突然出奔し出家した男である。

年下の義興から指図を受けることが嫌だったのか何なのか。

何にせよ陶家は多々良一族内での面目を失い、愚かな武護を廃し次弟の興明(おきあき)を当主とし義興に深く謝罪をした。

その騒動の原因となった男が、いま義興の前にいた。


上目遣いで媚びへつらう武護が滔々と何かを語っている。

義興は表情も変えずその話を聞きながら、そう言えば自分はこいつが嫌いだったのだとぼんやり思い出していた。

勝手に消えておいてよく戻って来られたものだ。


武護曰く。

自分は弟に不当に奪われた家督を取り戻したのです。

これからはこの自分が陶の当主として誠心誠意お仕え致します。

御安堵召されませ。

殿はこれまで、多々良一族でもない内藤弘矩めを重用しておいでですが、あやつは奸物にございます。

奴は殿の腹違いの兄、興隆寺(こうりゅうじ)におられる尊光(そんこう)殿を還俗させて大内家の当主を差し替えるつもりなのです。

我が不肖の弟、興明もこれに加担しておりましたので討ち取りました。


馬鹿な…と呟いた義興の言葉に被せるように武護は言い募った。


内藤には少々嫁き遅れですが美しい娘がおります。

どこからの縁談もすべて退けているのは尊光殿に嫁がせる為なのです。

あやつらは藤原の末裔ですからな。

娘の腹の力で天下を取りたいのでしょうよ。

ひゃはははは。

武護の下卑た笑いがはじけた。


(はらわた)が煮えくり返るとはこういう状況なのだろうか。

だがその一方で義興の頭は冷えて行く。


煮えくり返り混沌としていた腹が徐々に冷えて固まってきた。

ああ、そうか。

目の前にいるこの下衆も、庶兄(あに)も、内藤弘矩も殺してしまおう。

謀反が事実であるかどうかなどどうでもいい。

これまで何故我慢していたのだろう。

大嫌いな武護を、常に比較され続けた兄を、たった一人心ひかれた娘さえ手に入れられない己の現実を。

すべて打ち砕いて終わらせる。

やめろと叫ぶ自分を、それ以外にもう方法がないのだともう一人の自分がねじ伏せる。


激しい(いなづま)が冬の曇天を割いた。

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