樹海の村1
狭い室内の壁に白く輝く石が一つだけ置かれた棚がある。
明り取りの窓は有るが厚い枝葉に陽の光は遮られ辺りは薄暗い。呼ばれるままに後をついて来たが細くて大きく揺れる吊り橋を上に下にと幾つも渡り、必死に後を追いかけ辿り着いたこの小屋。
遠目には大木の太い枝の上に、幹にへばりつく里でよく作られる小鳥小屋。ここ一帯はそれらが吊橋で鈴生りに繋がる空中集落であった。
獣の毛皮なのか手触りの良いふかふかの敷物の上を勧められた。その上に腰を下ろすと木の器を2つ手にした老婆が向かいに座る。一つの器を俺の方へと差し出すので片手で受け取り、膝の前で両手で包む。中身を覗くと透明な液体が注がれていた。老婆は手にしたもう片方の器を口元に運び、一口飲んだ後ゆっくりと言葉を発する。
「変なものは入れておらんので、飲んだ方がええよ」
「・・・。」
「では、いただきます」
口元に運ぶと甘さと柑橘系の酸っぱさの混じった匂いが湯気と一緒に鼻腔をくすぐる。含んで嚥下してみると美味しかった。ホットレモネードってこんな感じの味だった気がする。
「とても美味しいです。体が暖まります」
「そうじゃろうて、一晩中星見の台にいたのじゃからな。体もさぞかし冷たくなとろうて」
二口三口と飲むうちに本当に体の中心から温かみが生まれ、全身に行き渡っていく。深いため息とともに体の緊張も解けていく様だ。
「さて」
取り出した短い杖を床に優しく突き立て
「お主は、何者じゃ?」
「えっ?・・・・・・・ナーム?」
厳しい顔でいきなり問われて口から出たが
「偽りを続けるのであれば、ナームの身体であっても消し炭みにせねばなるまいのじゃが? もう一度だけ問うぞ!何者じゃ!」
手にした杖の先端が赤く光り始め強さを増す。何らかの攻撃なのは明らかだ。
「あのぉー、貴方様は神様か仏様だとは思うんですが・・・、私には今のこの状況が皆目分からない次第でして・・・」
余りにも唐突な敵意を向けられて、口から出るのはどうやって窮地を逃れるかだけ。
「問うておるのはわしじゃ!偽り無き己を語れ!」
最後の語気は強められ有無を言わせぬ決意に漲っていた。
返答を間違えば消える! それは俺の魂なのか? このナームとか言う少女の身体なのか? 両者の事なのかは分からないが。
今の自分が分かる範囲での真実を話して終了になるのであれば、嘘を連ねるよりは後味が悪くは無いだろう。
どうにでもなれ!
投げやりな感じはしたが、野営地で倒れてからの記憶を正直に話す事にした・・・・
「まず、ここはお主が思うとるあの世でも、魂が見る夢の世界でも無い!」
俺の話を聞き終えた老婆は、光の消えた杖を傍らに寝かせ、器から一口冷めたであろうホットレモネードを口にして語った。
「まず、わしはドキアの森の 長老 オンア と呼ばれておる者じゃ。 長い長い間ここに居を構えておる。 お主の身体じゃが、ナームもまた長い間ここに居り祈り捧げる者じゃ」
明晰夢の可能性と死後の世界を初手から否定され頭の中が真っ白になる。
この老婆の言が真実で、ここが何処か別世界の現実世界ならば、夢だと思っていた俺の死が真実で、その後に生まれ変わったって事か?
この少女の身体に乗り移る様な感じで?
「ちょっと待ってくれ婆さん!」
いきなり膝小僧に激痛が走る。いつの間にか老婆の手に握られた杖の先が、両腕で囲まれた膝小僧の上に降りていた。それも太い方で。
「いてぇーよ! 婆さん! 何すんだよ!」
また杖を振り下ろされた。が最初よりは優しかった。
「わしの名は伝えたはずじゃが? 婆さんでは無いぞ! オンアと呼ばれておる」
ちょっと涙目になった目尻を片手で拭い、その手で痛みの残る膝小僧を杖を払いのけ優しく摩る。
「分かったから叩くのやめてくれよ、オンアさんでいいんだよな!」
むくれ気味で言ってやる。本当に痛かったのだ。夢では痛みは感じ無いはずなのに・・・。
「オンアだけで構わんよ。ナームはいつもそう呼んでおったからな・・・」
「ではオンアと呼ばせて貰うよ。 正直俺はまだここがあんたの言う現実世界だとは思えないんだ。俺は元々男だし目が覚めたらいきなりこんな体で、周りは見た事無い世界で・・・、夢じゃなきゃおかしいだろ? 現実でこんな事あり得ない!」
「さぁーて、わしもお主みたいな話は見聞きした覚えは無いでな。が、ナームの身体をして中身は別人で有るものがわしの目の前におる」
普段の夢ならストーリーも時系列もバラバラで、何の脈絡も感じない映像と感情の不確かな記憶。でも今は現実感の在る会話が成立していると五感が自分に告げて来る。明晰夢にも五感があるとして現実との差異は何なのか?
「・・・ここは夢の世界だ! 目が覚めたら元に戻れる筈だ!」
思考がぐちゃぐちゃで全く纏まらない。
苛立ちさだけがこみ上げて来る。
「お主がここを夢の世界と思うのなら、そうなのだろうよ・・・。 ワシにとっては遥か昔からの現実に、お主が目の前に現れたのが事実。それは変わらん。」
「この夢は・・・、覚めるのかな・・・・」
自問自答し両手で自分を強く抱きしめる。
沈黙の後オンアは幼子を見つめる様な優しい顔で
「お主の困惑は察するが、すぐに答えは出せまい。気持ちが落ち着くまで暫くゆっくりと考えるとええじゃろ・・・。 わしもナームの身体を消し炭にしたくないでな。」
立ち上がりここにいろと言い残し、外へ出て行った。
一人残された部屋で小さく蹲り心を落ち着かせる為、深い深呼吸を何度も繰り返した。
薄暗いままの部屋で自分の体を弄り、床を撫で回し、頬を強くつねって、鼻から深く臭気を吸い込み、ため息が出た。
視覚は鮮明、触覚は敏感、痛覚も有る、濃厚な深緑の匂いも、何もかも昨日までのあの頃と全く変わらない。いや、今まで以上に細かく敏感に感じられる。
明晰夢ってこんな感じなのだろうか?
死後の世界ってどんな感じなのだろうか?
そもそも現実って何なんだ?
何一つ分からない。
知っていたはずの今までの現実すら不確かなものに思える。
今の自分にできることは何だ?
焦りと苛立ちがまたこみ上げて来る。気持ちが悪い。 胃液が逆流し嘔吐しそうになった苦しみで、なぜか砂浜の景色が脳裏を過ぎる。
思慮深さ・・・・(知識・観察・予想)
足りないものが沢山あった。いや全て足りない。考える前の素材が手元に何もも無い。悩む以前の問題だ。考えても、考えても、いくら考えても材料不足では碌な結果にはなって来なかったのが今までの人生じゃ無いか。
知らなかった。
教えてくれなかった。
感じられなかった。
それが失敗だと断じた、前の人生。
今はナームと呼ばれている体を自由に出来るのは俺の意思で魂だ。
ここがあの世でも夢の中であったとしても、どう行動するか決めるのは今の俺自身らしい。冷えたホットレモネードを喉に通し、込み上げていた嗚咽感と一緒に焦りも苛立ちも飲み込む。結構冷めても美味しかった。そして、心も次第いに落ち着いた。
どのくらい時間が経っていたのか分からないが、暫くは無心で木枠だけの窓の外で、風に揺れる枝葉と木漏れ日を眺めていた。
次は、樹海の村2