秘境温泉宿
今日の業務が終了して照明の半分消えた廊下を足早に進む。 所員専用の更衣室のドアを開け個人管理のロッカーからダウンジャケットと支給品の高級長靴を取り出し着替えた。 通用口手前で退所用端末に首にかけたIDカードを読み込ませると背中に声をかけられた。
「ムリョー、時間外しないで帰んのか? 一緒に小遣い稼ぎしようよ」
喫煙所から帰ってきたらしい同期の串田が肩に乗った雪を払いながら近寄ってくる。
「バカ言うな! 先々月議会で課長が突っつかれたばかりだろ? それでなくても地方公務員の年収はこの辺の連中の3倍だぞ、気軽に時間外なんか申請出来っかよ。 税金泥棒呼ばわりされたかねえよ」
「いつも言われてる陰口だけど、今日はほら、初雪で大雪、想定外な事態だから手伝っていけよ」
「何が想定外だよ。 爆弾低気圧で大雪警報今朝からテレビで騒いでんだ、それに対応してなかったらそれこそ税金泥棒だろ。 日中俺が建設業者宛に幹線道路の除雪依頼書ファックス流しておいたし今の町長の血縁会社だ、苦情よこすのはいつもの連中だけさ」
居残りしても苦情の電話対応が数件あるだけで、他には女性所員が居なくなった喫煙所でセクハラトークに花を咲かせるくらいだ。 家の除雪もあるしネットで海外ドラマの続きも見たいのだ。 金曜の時間外なんか小遣い欲しくても付き合ってられない。
軽く手を振って健闘を祈る言葉を残し通用口から町役場を退所した。
裏手に所員の駐車場があり長靴半分は埋まるほど降り積もった雪を暗い照明の中かき分け進む。 ヘッドライトと窓の雪を取り除き乗り込むと暖かい車内が迎えてくれた。 リモコンエンジンスターターで暖機していたのでフロントガラスの雪もほぼ溶けていてワイパー一発で発進準備が完了した。
一つ前の型になる国産高級SUV。 役所勤めで町民からの視線を考慮し現行新車での購入は諦めたが販売店に頼み込み新古車を探してディラーオプションモリモリ、快適性は抜群で滑りやすい積もったばかりの雪でも安心してアクセルを踏み込める。 町役場から自宅までは15分程、田舎道だから渋滞にも遭わず自宅までたどり着き車庫にバックで入れた。
「兄貴! 後ろ開けて!」
助手席側の窓を叩いて叫ぶ妹の姿があった。
「何してんの? バックハッチ開けろってか?」
言われるまま電動バックハッチ開閉ボタンを押すと、大きな荷物をカーゴルームに積み込む妹。
「出発進行!」
助手席に乗り込んできた妹の絵里恵が右腕を前方に突き出した。
「何してんのエリ? バカなの? 俺今帰ってきたっばっかでしょ」
「いいの、急用なんだから兄貴の都合なんかどうでもいいの! さあ、出して出して!」
「どこ行くのさ?」
「白湯に決まってるでしょ! メール送っといたでしょ? もしかしてまだ見てないの? シンジらんない、モテない男はこれだからダメなのよね」
「うっせぇわ!」
ジャケットの胸ポケットから携帯電話を取り出し確認したら、メールと着信履歴に通知アイコンが付いていた。 勤務中は個人携帯使用禁止なのでいつも携帯はジャケットと一緒にロッカーの中なのだ。 出がけに確認しなかった俺のせいなのか? 軽いため息を一つついてからエリの言葉に従い車を発進させる。 いきなり俺に身を寄せてインパネを覗き込んだエリは
「ガソリンは大丈夫、荷物も良し。 あ、飲み物忘れたからそこの自販機で一回止まって!」
言われるままに停車すると牡丹雪がゆっくり落ちてくる中自販機に走って行き、白い息を纏いながら買い物を終えて戻ってきた。 俺にホットのブラックコーヒーを渡すと自分はミルクティーのペットボトルを飲み始めた。
「俺が帰るのずっと家の前で待ってたのかエリ?」
車を走らせ一口コーヒーを口にしてに聞いた。
「帰ってくるの携帯アプリで見てたから、あれって便利だわ」
「あ、登録者の居場所分かるやつか。 って、お前に登録許可したっけか?」
「したでしょ! 夏によっ子達と海水浴場に乗せてってもらった時に」
「その後、俺の事キモいとか言い出して拒否したんじゃなかったっけ?」
「そんな昔の事、忘れたわ。 そんな事より安全運転で急いでね、兄貴」
「なんじゃそりゃ・・・。 それにしても何でこれから白湯何だ?」
「母さんから昼過ぎ連絡あったのよ」
「母さん? 母さんになんかあったのか?」
「母さんはいつも通り元気よ。 奉納舞が急遽必要になって頼まれただけ」
ムリョウこと武藤亮介と長女絵里恵は二人兄妹で母親である美沙が温泉宿の女将代行をしている。 父親は居ない。 俺が小学校の時に親が離婚して二人は母親が引き取った。 理由は分からないが地元を離れ母親は旅館の住み込みで働く事になったのが今から17年前。 親子3人10年近くその旅館に世話になり、山を降りて町にアパートを借りたのは俺が高校に通うのが決まった時だった。
当初ただの中居だった母は5年前に女将代行になったが間も無く旅館としての業務は休業している。 秘境温泉ブームで賑やかだったのが嘘のように急激に減り出した客足に合わせて、ウィルス性の風が蔓延し連日メディアが騒いだせいで物好きな温泉ファンが時折姿を見せる寂れた場所になってしまった。
絵里恵は地元の公立高校の3年生で来年卒業だが大学へは進学せず町にある唯一の精密機械組み立て工場に就職が決まっている。 昔から温泉近くの湖湖畔にある神社の巫女をアルバイトでしていて催事には奉納舞を舞っていた。
「なしてまた奉納舞? 神社の大祭でもないのに?」
「今回は神社は関係ないの。 ってか、本番!」
「神社関係なくて急に決まった本番の奉納舞? 何じゃそりゃ?」
「兄貴は・・・、何も気にしなくったっていいの。 どうせアパートに居たってネットやって呑んで寝るだけでしょ? 久々に白山温泉入るのもいいでしょ? 多分食いもんもあるでしょうから晩ご飯も食べてけば儲かるでしょ」
風呂道具は常に車に積んである。 土地柄で近くに銭湯温泉がいろいろあって仕事帰りとか休みの日のドライブ途中立ち寄ることが多い。 お気に入りは今向かっている白山温泉で白濁硫黄泉。 長年住んでいたのもあるが骨の芯まであったまって寝るまでホッカホカで湯冷めしないのが気に入っている。
「まあ予定もなかったし久しぶりに大婆女将の顔でも見てみるか」
「シングル男子は寂しいもんね!」
「うっせぇわ!」
俺の高級SUVは除雪もされていない湖畔の脇を通る道から離れ温泉へ続く私道へ曲がって渓流沿いの細い道を登った。
雪で轍がある急な坂を慎重に登りきるとマイクロバス回転場と一般の大駐車場がヘッドライトに照らされた。
「すっごいクルマの数!」
「そうだな、今日って何の集まりなんだ?」
エリの言葉通り駐車場はほぼ満車に見えるほど埋まっている。 ほとんどのルーフが雪に覆われているので降り始めた昼前から駐車されているのだろう。
「兄貴とりあえず後ろの荷物下ろすからこのまま玄関までお願い」
「だな、まだガンガン降ってるから先にお前だけ降ろすか」
「傘は?」
「ある」
大駐車場の横をゆっくり進んで行くとエリが窓を開けて小さく手を振っていた。
「知り合いでも居た?」
「違うけど・・・、運転手さんが待機してた・・・」
「運転手?」
俺も体を少し前にしてエリの横から駐車場を覗き込む。 笠に雪を積もらせ蓑姿の男衆が長椅子に腰掛けキセルを手にして談笑している。 数名が手を振っているのでエリに返しているのだろう。
「八人掛けね。 偉い人かな?」
「って、お前何普通に手振ってんの? 八人掛けとかあれ籠じゃないか?」
男衆の後ろには御神輿を反対にした物体が置かれている。 お洒落に言えばピアノブラックだが仏壇の漆黒に各所の留め金は金細工で扉らしき中央に大きな家紋が見えた。 そして、改めて駐車場を見渡すと一般に自動車と呼べる物以外が置かれているのに気づく。 キャンピングカーに見えていたのは2個の巨大な車輪がついた牛車。 パレードに使われそうな2頭掛けの馬車。 Bのエンブレムがグリルに付いたクラシックカー。 見慣れた軽トラもあれば国内屈指の高級車まで統一性のないクルマ達。
「ここで映画かドラマか撮影予定なのかな? 何かの小道具? いや大道具だなありゃ」
「普通にお客さんなんじゃない、それよりちゃんと前見て運転して」
言われてハンドルを握り直し橋の欄干に擦りそうになった進路を中央に戻す。 そして目に飛び込んできたのは辺りを照らす数えきれない白い提灯だった。
「何なんだ? こりゃすごいな。 今までこんなの見たことねえや・・・」
「ほんと。 きれい」
渓流に掛かる小さな橋から旅館の入り口まで100m位。 間隔を開けず両脇に吊るされた提灯。 庭木や建物にまで取り付けられたそれらが敷地全体を闇から切り取り空へ浮かべているようだ。
「何かのお祭り、それも盛大なやつ・・・。 それかやっぱり何かの撮影か? 母さんもイベントやってるなら教えてくれりゃいいのに」
「そうよね、兄貴はあれだからゆっくりお風呂入ってご飯でも食べて帰ってね」
「あれって何だよ、あれって」
「にぶちんのシングル男子」
「うっせぇわ! それよっかお前帰りは乗せて行かなくていいのか?」
「今日からしばらく母さんと一緒にここいるから心配しないで」
「そう、わかった」
屋根のついた車寄せまでゆっくり進んで車を停めた。 バックハッチを開けてやると助手席から降りたエリは荷物を降ろすと「送ってくれてありがと」と短く手を振り旅館の中へ消えていった。 車寄せ駐車禁止のマナーを守って直ぐに車を移動させ大駐車場へ向かった。 最も入り口から遠い従業員用の駐車区画へ車を停めて、お風呂セットと傘を取り出し宿へ向かった。
いつもなら紅葉が終わって落ち葉に覆われる山間のここ一帯。 爆弾低気圧の影響で一足早い降雪と積雪にこの寒さ。 ダウンジャケットのファスナーを首元まで引き上げ、備え付けのビニール傘を広げた。 ポケットからタバコを取り出し咥えて火をつける。 自分の車は禁煙にはしていないがエリはタバコの臭いで車酔いするので一緒の時は吸わないようにしている。 転ばないように気を使いながら雪を踏みしめ珍しいクルマが並ぶ駐車場を横目に進むとエリが手を振った豪華な籠の前へ差し掛かる。 椅子に座り談笑していた男衆の姿はなくなっていた。 見た事もない乗り物が置かれた駐車場をゆっくり歩き回りたかったが、冷気に悴んできた手が温泉を渇望したので好奇心を吸いかけのタバコと一緒に橋の上から渓流に捨て小走りで建物へ向かった。
「こんばんわぁ、お風呂借りにきましたぁ」
ここで俺がただで温泉浸かる呪文を口にすると聞き覚えのある中居さんの声が迎えてくれた。
「亮ちゃんいらっしゃい、この雪の中仕事終わって直ぐに絵里恵ちゃん乗せてきてくれたんだって? エライね」
「いきなりだったからビックリしたけど、それよりあの車の数に入り口の提灯。 今日なんかあるの?」
「ああぁ、うん。 亮ちゃんはあれだから気にしないで。 下の神社の集まりだから」
「俺がアレ? さっきエリにもそんな事言われたよ、野口さっんなんか知ってるの?」
俺らがここに住んでる頃から母さんと一緒に働いている中居の野口さんが口の前で手をひらひらさせ何でもないアピールをする。
「今日は下の神社の氏子さん達が全国から集まるのよ。 亮ちゃんは氏子さんじゃないからじゃない?」
その通り。 俺、いや武藤家は白乃竜湖神社の氏子ではないし母親の実家は葬式仏教徒で先祖の墓もお寺にある。 時々参拝に行ってお賽銭は置いてくる程度で関係者ではない。 エリはここに住んでいる時に器用だからと大婆女将に無理やり誘われ巫女と奉納舞をさせられただけだ。
「さっさ、体も冷えてるでしょうからお風呂入ってきなさい。 他の人が居てもみんな古くからの氏子さん達ばかりだから気兼ねなくね」
館内用のスリッパに足を通すと野口さんは直ぐに大浴場への廊下へ俺の背中を押してきた。
「ご飯は用意しとくから、それと泊まってくならお酒も出すわよ、お母さんの部屋にお布団あるし亮ちゃん結構飲めるんでしょ?」
「う〜ぅん、母さんと話してから決める」
「そう、わかった。 ゆっくりあったまってきてね」
「ありがと野口さん」
歩くたびに軋む音を響かせる磨き上げられた杉板の廊下、露天風呂を目指し進む俺は駐車場で感じた違和感はすっかり忘れ去っていた。
次は、露天風呂と宴会1




