3章 プロローグ
古くなった木張りの床に、薄っぺらいタオルのような絨毯。
座れば軋むベッドはもう何年取り換えられていないかも分からない。
唯一の小窓がある壁際の机には、この品祖な部屋と似つかわしくない高級品である本が山積みにされていた……
小さな僕はその部屋に入ればいつも、背伸びをしてドアノブを掴み、この空間から幸せなものが何も逃げてしまわないように、そっと扉を閉じる。
少しだけ埃っぽいインクの匂いが漂う部屋、鍵が外側にしか付いていない小屋。
僕その部屋の歪さを何も疑問に思う事もなく、その部屋をこの世の幸せだけを詰め込んだ、宝箱のように思っていた。
木漏れ日が差し込む温かい部屋。
その部屋の中心には装飾が何も施されていない安物の簡素なティーテーブルが置かれている。僕がプレゼントした高価な花瓶には野花が生けられて、安ものだらけの部屋の中で僕の差し上げたものだけが浮いて見えた。
そんな中に僕の宝物はいる。彼女は部屋にやってきた僕を見てにっこりと笑うと、手招きして迎えてくれた。
あの人が笑う――
いつもの優しい表情で目の周りにシワを寄せて。
薄く引いた薄紅色の唇が弧を描いてゆっくりと動く。
心がじわりと温かくなって、僕は求められるままに駆け寄った。
僕は背伸びをしてあの人に縋り付くと、いつものように「あなたの世界の話をして」とせがむ。
うねる美しい銀色の髪が揺れて、温かい手が僕の頭をぽんぽんと撫でると、あの人はいつものように話してくれる。
薄紅色が引かれた唇が動く。
僕は大好きな彼女の世界の話を聞くのが大好きだった。
今日は何の話? 宇宙の話? 歴史の話? それともすーぱーまんの話?
僕はぴょんぴょんと跳ね、彼女の楽しい話を待った。
薄紅色が引かれた唇が動く。ぱくぱくと酸素を求める魚のように動く。
通常ならその薄紅色の口からは世界で一番優しい声が聞こえるはずだ……
けれど、美しい唇から優しい音が流れることはもうない。
どうしてかはわかっている。だって――
"俺"はもう聖女様の声を思い出せない。
次は明日の朝。




