01 聖女の願い
「レオナルドはまた、役立たずの聖女のところか!!」
父の怒号を扉越しに聞きつつ、僕は自分が朝食に残したオレンジを隠すように布に包み、離れにある小屋に小走りで向かう。
屋敷から隠れるようにして出ると、父が居た部屋を地面から見上げ「べー」と舌だして嘲たあと、急いで聖女に会いに行く。
役立たずの聖女――
それが僕の家族の、敷地内に住まう聖女への呼び名だった。
そこに尊敬の念は微塵もない。ただ邪魔者として扱い辛いがために、目の届かないところに放りやった彼女に対しての言葉だった。
この国、スズノキ王国では初代勇者が亡くなって以来、ずっと勇者や聖女が召喚されてきている。
異世界から召喚された勇者や聖女は特別な力を持つらしい。
けれど彼女はそうではなかった。
そして国に尽力できないだけならまだしも、当時の王と揉めた結果、召喚した家であるモリス家――つまり我が家の敷地内にいるらしい。
召喚を代々担ってきたという理由で押し付けられたらしいと、父は愚痴っぽく言っていたが、僕は彼女がこの家にずっと居てくれることが嬉しかった。
薄い木製の扉をノックすれば、中から優しいげな声色で僕に答えた。鍵すらない木の扉のドアノブを背伸びして開ければ、ベッドに横たわる彼女が居る。
……最近元気がないのだ。
窓際の机に積まれている本にすら、少しずつ埃がたまっている。彼女の仕事として与えられたもので、埃の様子からしばらく起き上がることも出来なかったのだろうなと思うと、ぎゅっと胸が苦しくなった。
「聖女様、聖女様、食べたいとおっしゃっていたオレンジを持ってきました」
「ありがとう。けれど無理に持ってこなくてもいいのよ、あなたが来てくれるだけで嬉しいのだから」
ゆっくりと体を起こして微笑む彼女が、無理をしているということは、子供の僕にでも分かっていた。
僕はティーテーブルの横に置かれている椅子に座り、持ってきたオレンジを食べやすいように剥いてゆく。
テーブルの上には食べかけの米粥がある。あまり食欲もないようで、不安を助長させた。その不安を払拭するように、僕は努めて明るい声を出した。
「ぼく剣術を先生に褒められたんですよ! 才能あるって」
「それはすごいじゃない。将来は騎士さまかしら?」
「うん! ドラゴンと戦いたいから剣術怖いけど頑張ってるよ」
「レオは頑張り屋さんね」
微笑を向けてくる彼女を見ると、僕の心の中に暖炉が出来たみたいにポカポカとする。
”レオ”という彼女しか呼ばない愛称すら大好きだった。彼女が口に出す全てが価値のあることのように思えた。
二人きりの部屋の中、少しすっぱいオレンジを食べながら僕らだけの時間が過ぎてゆく。このゆるやかで優しくて暖かい時間がたまらなく好きだった。
けれど、彼女が時折見せる少しだけ影を含んだような表情が、僕を不安にさせる。
「これから言う話を良く聞いてね」
あまり見たくない彼女の暗い表情に、なんとなくだが覚悟を決め僕は静かに聞き入った。
「もうじき私は死んでしまうでしょう。
私が死んでしまったあとのことを、あなたに頼みたいの」
「そんなっ…弱気にならないでください聖女様! きっと元気になります」
きっと病によって心が弱ってしまっているのだろう。勇気付けるために彼女の細く弱弱しい手を取れば、まるで金属か何かのようだった。以前の温もりが消え去ってしまっていることに、絶句してしまった。
なんとか彼女を勇気付ける言葉をかけようと思うのに、何も浮かばず「ちがう」と何度も繰り返した。
「そんなわけない、聖女様が死ぬなんてちがう、そんな……」
「いいえ自分のことですもの良く分かるの。
だから私のお願いを聞いて」
「なんですか、ぼくなんでも、ききますっ……聖女様が、げんきに、なってくれるなら、なんでも……」
彼女の冷たい指先が僕の頬を撫で、水滴を掬ってゆく。僕を元気づけるためか、微笑む彼女からは死への恐怖なんてものは、感じられなかった。
「もう……私たちのような人間を、この世界に喚ばないで」
彼女の瞳から、ぽろりと美しい真珠のような水滴が零れ落ちる。雫はころころと転がってゆくこともしないで、彼女の膝へ掛けられた布団へと吸い込まれシミを作ってゆく。
初めて見る聖女の涙に、僕は泣きながら首を縦にふることしかできなかった。
頬を撫でる弱弱しく小枝のような指。その手の甲には僕の目からポタポタと涙の粒が落ちてゆき、彼女の手の甲に深く刻まれた、年齢を思わせるシワに川を作っていった。
***
聖女様は僕が泣き止むまで頭を撫でて慰めてくれた。
「レオ、ちいさいあなたに頼むには少し難しいお願いだったかもしれないわね……」
「いいえ、聖女様のお願いに小さいも大きいもありません、僕は叶えたいです。聖女様のお願いならなんでも」
「なんでもはいけないわね、私が悪い人だったら酷いことお願いしちゃうかも」
「いいですよ。でも聖女様は悪い人じゃないから」
目をこすりながら、まっすぐに聖女様のガラス玉のような瞳を見つめると、彼女は苦笑いを浮かべながら言った。
「それなら私の遺産を貰ってもらおうかな。持って帰るの大変よ?」
「遺産なんてそんな!」
また泣きそうになった僕の頭を、弱弱しい手でポンポンと聖女様は撫でると、かしこまるようにコホンと咳払いをした。
「レオナルド・モリス──貴方にこの世界を変えるために、最も強力な武器を捧げましょう
このトランクを開いてみなさい。あなたへの私からの贈り物が入っています」
天使のような微笑みをふわりと聖女様は僕に向けた。
聖女様は指をくるくると上に向けて回し、何かを唱えたかと思えば、ベッドの下からは魔法特有の青白いぼわんとした光がうっすらと漏れだす。
ベッドの下から青白く光りを放つトランクが、まるで川から流れてくる果物のように、僕の前にたどり着くと、光を失いドシンと鈍く重そうな音を立てて、僕の前に置かれた。
無骨な木のトランク、留め金がなければただの木の箱に見えていたことだろう。
「開けてみて?」
「はい」
言われるままに留め金を外して、茶色い木の蓋をゆっくりと開けば、そこにぎっしりと詰め込まれていたものに、僕は感嘆の声を上げた。
「わぁ! 本だ!!」
この国では紙と言うものが貴重だ。動物の皮から作らなくてはいけないそうだし、本一冊購入しようと思えば銀貨が数枚飛んでゆく。家庭教師が僕に使う本だって、代々家で使われているもので、兄や姉を介して僕の手元に来たものだ、最初から僕のための本というものは今までは存在しなかった。
「ここにはね、沢山のことを書いておいたの。きっとあなたの役に立つはずよ」
「いいんですか? お高かったんじゃないんですか?」
「いいえ、これは私が仕事の合間に書き留めた役に立ちそうな本達よ。遺産なんて大層なものじゃないけれど、受け取ってちょうだい」
「ありがとうございます」
「これはこの世界でのコロンブスの卵、どうしてもあなたに渡したかったの」
コロンブスの卵――聖女様は時々新しいことを教えてくださる時にそんなことを言う。意味はまだよくわからないけど、たしか卵を最初に立てた人の偉い人の話だ。
そんな偉い人になぞらえて、どうしても渡したかった、なんて事を言われては受け取らないわけには行かない。僕は聖女様を元気づけるような笑顔を作ってゆっくりと頷いた。
彼女は泣きそうな顔でほほ笑んでいた。
本ばかりが詰まったトランクはずっしりと重たく、子供の僕の力ではびくともしないので、何人か使用人を呼び僕の部屋まで運ばせた。
別れ際、彼女が心底ほっとしたような表情で僕を送り出した。
何故だかそんな気がした。
***
小さな背中を見送りながら、ベッドにたたずむ老女はいつまでも手を振り続けた。小さい身体が振り返ったとしても最後は自分が元気な振りを見せれるように。
使用人により扉が閉められた部屋は、いつもの閉塞感が充満する。
晴れた日の空のような瞳に、ふわふわの髪をした、お日様の匂いをさせた子供は居なくなり。いつもの紙とインクの匂いだけが部屋を占めた、寂しい独房に戻ってしまう。
「思い残すことは、もうなにも――」
レオナルドが居なくなった寂しくて埃っぽい小さな部屋の中、この国の聖女という肩書を持った老年の女性は呟いた。
美しいと言われた髪は、今はもう真っ白になっていた。顔はこれまで彼女が歩んできた時間を現すように、いくつものシワが刻まれている。もうこの国に呼び出された当初の、美しく誰もが目を引かれた女性の面影は、どこにもなくなってしまっていた。
聖女は自分の心臓の上を押さえる。
弱弱しい鼓動がとくんとくんと聞こえるが、これは全て魔力で無理やり動かしているに過ぎない。限界を超えてまでも、引き伸ばし続けた命のともし火が、もう尽きてしまうことを彼女は知っていた。
本来ならば命を引き延ばすなんてことは出来る筈がない。今まで歴代の勇者や聖女たちであっても、それは同じことであった。身体の中の臓器を無理やりに動かして、通常の死後も行き続けることは出来る筈がないのだ。
彼女以外は。
役立たずの聖女――
それが彼女のこの国の、王族や貴族たちからの呼び名であった。
不名誉なこの呼び名を彼女が甘んじて受け入れたのは、彼女がそう、仕向けたからだ。
まだ誰も知らない。
役立たずと蔑まれた彼女が、まるで罪人のような扱いを受けた彼女が。
稀代の魔力と才能を持っていたことを。
そしてその全てをレオナルドに受け継がせようとしたことを――