ベンチで。中編
「何やってんだ、俺は……」
机上に開かれたノートを見て、俺は頭を抱えた。
そのノートには元々書かれてあった一文の下に、新たな一文が書き加えられている。
『貴方は誰ですか?』
ほんの出来心で書いた一文。
別に真に受けた訳ではない。
ただ、捨てるのには些か抵抗があった。
いざ捨てようにも人の物であって、自分がイタズラでやっているように感じた事であっても、もしかしたら書いた本人には大事な代物かもしれない。
だったら、捨てるのは止めるべきでは……。
「もしこれで、返事が来たらそのまま置いておこう。返事が来なかったら捨ててしまえばいい」
そうだ、俺は至って真面目な判断をしたのであって、決して下らない事に現を抜かした訳ではない。
そう心の中で自分を正当化しながら、ノートをあそこのベンチに置いてきた。
会社へ出勤する道のりで公園に寄ったのだ。
何はともあれ、これであのノートのことは一段落つける。
ノート一冊ごときで何をこんなに葛藤していたのだ。
仕事をせねば。
俺はデスクにある書類を片端から片付けていった。
「宮園さん、今日は何だか何時にも増して気合い入ってますね」
「良いことでもあったんですかね?」
「いやぁ、逆かもしれんぞ」
黙々と仕事を進める俺を見て、皆ヒソヒソと話をしていた。
そんなに今の俺はおかしいのだろうか。
そんなこんなで今日の仕事は手早く済んでしまった。
「宮園、今日はもう帰っていいぞ」
上司にそう言われ、昨日よりも早く帰宅することになった。
「お前どうかしたのか?今日はやけに早いな」
「別にどうもしないさ」
隣の五月蝿い同僚が、珍しく小さな声で話し掛ける。
「ま、まさか……やっぱりこれか?」
小指を立てて驚きと卑猥の表情が混じった顔で言う。
そこはいつもの同僚だった。
「…俺がそんな風に見えるのか?」
相変わらずアホ臭いことを抜かす同僚に、俺は冷たい視線を向ける。
「……見え、ないな…」
悪かったってと謝る同僚に「またな」と言って、会社を去った。
帰りがけに公園に寄ろうか迷った。
今朝置いていったあのノートが未だベンチにあるのか、それとも持ち主が持って行ったか気になるところだった。
有れば捨てなければならないし、無ければ自分が書いた一文を読まれるわけだし……どちらにしても気がかりだ。
そうこうしているうちに公園に着いてしまった。
「見るだけ見るだけ……」
呪文でも唱えるように言いながら、例のベンチに向かう。
「……ある…」
ベンチの上に白いノートが置いてあった。
ごみ行きかと思ったらそうではなかった。
何となくノートを開いてみる。
最後のページを見た時、俺は目を疑った。
返事が帰ってきたからだ。
『貴方は誰ですか?』
の下に、やはり女性の字でこう書かれていた。
『本名は秘密にしましょう。偽名としてリリーとでも名乗っておきます。返すようですが、貴方は誰ですか?私と交換ノート、してくれますか?』
「うわぁ、マジかよ…」
残念な事にこれはイタズラでも冗談でもなく、ガチなやつらしい。
そんなする気なんて更々無かったのに……。
どうするよ、俺。
これは見なかったことにしてスルーするか、いや丁寧に「ごめんなさい、出来ません」と返すだけでもしておくべきか……。
でも、交換ノートくらい別に対して自分に支障は無いし、名前を出さないくらいだからもし誰かに見られても、プライベートな事を書かない限り誰が書いたものかわからない。
ならば、別にいいのではないか?
ここでスッパリ断るのも期待させていたら相手に悪いと思い、俺はそれから名前の知らない相手と交換ノートをし始めた。