旅の同行者
ぼんやりと透き通るような白い朝の光が、黒く光る毛皮の先に丸く光る朝露を照らした。くすぐったそうにぴくぴくと耳を動かして、榛はうっすらと目を開けた。
「おはよう黒猫くん」
少し離れたところで六花が髪を梳かしている。
「早起きなんだね」
榛はいつも通り身体を伸ばそうとして、手を見て自分が人間の姿であることに気づき、軽く声を立てた。
「どうしたの、昨日自分で人間に戻ったんじゃん」
「いやぁ」榛は恥ずかしそうに尻尾を引っ張りながら笑う。「こんな妙な格好でずっと生きてる訳にはいかないからさ、大抵は猫の姿だよ。寝るときなんか特にずっと黒猫だから」
あっけらかんと笑う榛に、六花は呆れたように眉を上げてみせる。
「これからも疑われそうな時は私のペットのふりしてもらわないと困るかもね」
「ん?どういうこと?これからは、って」
榛は目を丸くしながら耳に付いた露を払う。六花は鞄の中に櫛を戻して悪戯っぽく笑った。
「榛くんには、わたしの行商に同行してもらうことにした。昨日あんな風に人のこと襲っといて今更嫌とか言わせるつもりもないけど、いいね?」
榛はさらに目を丸くする。それはそうだ、昨日会ったばかりの人間に急に自分について来いと言われても、困るどころの騒ぎではない。どこのナンパ野郎かと見紛うお話である。
だけど…
「いいよもちろん、連れて行かれなくても付いてこうかと思ってたもん。こんなしがない野良猫だけどさ」
こんな野良猫だけど。
何年ぶりに、まともに話をしてくれる相手が現れただろうか。
何年ぶりに、人間の姿のままで眠れただろうか。
そんな相手を、たとえ完璧に信頼しているわけじゃなくたって、
「逃すわけにもいかないんだよね、わたしもさ、狙った獲物は」
榛の、獣のような薄い金色の瞳が、少しだけ柔らかい光に輝く。
六花は満足そうに笑って、そっと手を差し出した。榛もその手を握り返して、にっと笑った。
…この瞬間に、この少女たちとこの国の運命が鈍い音を立てて動き出したことを、未だ誰一人として知る由もない。
「んでもって、あなたがやってるのって、どういうことなの、結局」
榛の歩き方は、六花のそれと比べるとちょこまかと忙しない。六花の前へ後ろへと動き回っては、鞄の中を覗き込んだり道端の植物を嗅いでみたりする。六花はいつも通り落ち着いた足取りで、檜皮色のマントを風になびかせながら歩く。
「私の仕事のこと?」
「そ。行商についてきてほしいって言ってたじゃん。なんか商売やってんでしょ。どういう商売なの?」
「薬師って知らない?」
六花は背負った荷物の中から、古びた本を一冊取り出した。榛はくんくん、と鼻を近づけてその本を嗅ぐ。
「なにそれ。くすし、って。聞いたことないや。この本すごく不思議な匂いがする」
「代々伝わってきた薬の匂いが染み付いてるからね」
六花は本をめくってみせる。所狭しと書き綴られた細かい文字、見たこともないような植物の絵柄に、榛の目が好奇心に輝いた。
「すごいね!なにこれ!六花って思ったより頭いいんだねえ」
六花は少し眉をひそめて榛の頭をはたく。
「思ったより、ってなんだよ…薬師になるためには、小さい頃からものすごく勉強しなくちゃいけないの。」
小さい頃から、物覚えのいい聡明な子供だけを集めて、薬草や病気の勉強をさせる。この国を9つに分かつ郡に、それぞれ一つずつしかない小さな学校で学び続けても、それでも全員が国に認められた薬師になれるわけではない。
「国が課した試験にほぼ満点で合格して初めて、薬師になれるんだ」
「ふうん…」榛の眼差しに少し尊敬が込もった。「で、なにを売ってるわけ?」
「これだよ」
六花は鞄から小さな箱を取り出して見せた。中には何か小さな塊が入っているらしく、からころと澄んだ音を立てている。
「私たちはこの国の生けとし生けるものすべてが患う不調の原因と、それを正すために使うことのできる薬草やその他の薬の知識を持っているただ一つの集団なんだ。私はその中でも色々珍しい薬草を国中周って仕入れてるから、それを色々な村で売ってるんだ」
「へえ」榛は楽しそうに尻尾を振った。「面白そうな仕事してるんだね」
「そう、面白いけど大事な仕事だ。だから…」榛の全身を見やって目をすがめる。「その格好でついてきてもらっちゃあんまり有難くないなぁ」
くしゃりと後ろでひとつに束ねてある髪の毛の隙間から、黒い猫の耳がぴんと突き出ている様子は確かにあまり病気を治せそうには見えない。榛の身につけているものと言えば、短い何かの毛皮でできた擦り切れた半ズボンと、古くてよれた白いシャツだけだ。シャツの端が長かったのか、片側を木の蔓で結んであるが、それが一層体のラインを際立たせている。
「な…なにか問題でも?」
六花が榛の大きく開いた胸元を睨んでいるのに気づいて、榛は軽くシャツの後ろ側を引っ張りながら頬を膨らます。
「まあその格好、男は釣れそうだけどね…とりあえず次の街であんたをマトモな格好に仕立て上げるとするか」六花はにやりと笑った。
「せいぜいお里が知れないように澄ましておいてくれよ」
「なんだよ、その言い方…」
榛の尻尾が、不機嫌そうにぶんぶんと左右に動く。対する六花の服装が、旅のものとは思えないくらい整っているのが更にカンに障るのだ。黒っぽい7部丈のパンツは、綺麗に布地に折り目が付いている。衿つきシャツも真っ白だし、檜皮色のマントの胸のところを留めてある大きいブローチも綺麗に磨き上げられている。榛は不機嫌そうに自分の尻尾を引っ張り、道端の小石を蹴った。
「次の街は清鍾峡、…鐘の街カンパラってとこなんだ。お洒落な、いい街だよ」六花はそんな榛に構わず歩みを速めた。
「ち、ちょっと、置いて行かないでよ」
榛が少しつんのめりながら、六花の後を追う。
森の中の道にも、少しずつ轍や人の足跡が目立つようになってきた。次の街が近づいてきている。