出会う
体中を、固い木の葉がかする。木立の中にところどころ交じっている低木の茂みは、この世を追われたモノがひっそりと隠れるには持ってこいだ。夜のしじまを超えて遠くの音、匂い、全てが感覚を強く刺激する。毛の先が木肌に擦れ合うのを感じながら身体を丸めて、足音に耳を澄ます。ゆっくり、しっかりとした足取りが響いてくる。狙いやすそうな獲物という感じではないが、頑強なヤツでもないだろう。足音は軽いし、踏みつける小枝の折れる音も小さい。
呼吸を整えて、身構えた。森の中は暗く、月も雲に隠れて周りを照らすものは何もない。いつもに増して好都合だ。今宵ここは、私の縄張りだ。見えない足音の主に向かって睨みを効かせる。逃がしはしない。
そうとも知らずに近づいてくる足音の方へと、爪を出しながら身構えた。身体中の筋肉に緊張が走る。いつもこの瞬間に満たされる闘争本能と、生き物としてのスリルを求める本能が疼く。…気持ちがいいのだ。自分はこんな生き物で、それを憂えてもいないし哀しんでもいない。ぴりぴりと体腔の底を走る微かな痺れを感じながら、力を込め、一瞬のためらいも無しに茂みを飛び出した。
狙いは、その鞄だ。匂いからすると…
瞬時に檜皮色のマントは飛び退いた。フードが取れて、幽かに揺れる月明かりの元、切り揃えられた黒髪が揺れた。一言も発さないまま、鋭い視線だけが射抜いてくる。爪を出したまま、身体中の毛を逆立ててマントの人影に向けて飛び掛かった。爪はマントの端を引き裂いたが、身を翻した人影は傷一つ受けずに身構えた。
ー外した…ー
不意打ちでの一撃目を外すなんて久し振りだ。これはもしかして、骨がある相手かもしれない。そのまま一息もつかず、地面に片足を着いて弾みをつけ、太い木の幹に飛び移った。流れるような動きで身を翻し、もう一度相手に爪を立てる。今度は、マントの下にある身体に確かに爪が触れた。しかし、そのまま爪を食い込ませることはできなかった。次の瞬間、何か鋭い刃物のようなもので切りつけられる感覚を腹部に感じて、転がりながら遠く飛び退いた。
恐怖に、尻尾の毛が激しく逆立つ。
マントの下に触れた身体も、切りつけられた腹部も、凍るように冷たかったのだ。
人間の発することのできる冷気ではない。ぞくり、と身体中が引き攣った。しかし、ここで後ろに引くことは既に不可能だった。痛みも麻痺するほどの冷たさに耐えながら、大きく地面を蹴って真上の枝に飛びつき、そのまま間髪入れずに人影の目の前に飛び降りた。目にも留まらぬ素早さで繰り出される攻撃をすんでのところで避けて、モーションもつけずに人影の上を飛び越えた。顔のすれすれを、相手の武器が通り抜ける。また恐ろしいほどの冷気を感じた。しかし、高さではこちらの勝ちだった。相手の背負う鞄を思い切り咥え、力任せに引きずり倒した。一瞬の隙を突き、肩から鞄の紐を引き剥がす。耳の先に、また恐ろしい程の冷気を感じた。しかし、あとは逃げ切るだけだ。ふらつく身体を立て直し、鞄を咥えたまま強く地面を蹴って立ち上がった。走って逃げよう。どんなに強い敵でも、逃げ切ればこちらの勝ちだ。久々に恐怖に震えながら、脚に思い切り力を入れて駆け出した。
…一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。
脚が動かない。身体が動かない。四肢が全て冷たくて、感覚も力も入らない。無我夢中で自分の前脚に目をやると、うっすらと白い月明りに紛れて、黒く光る毛皮に厚く纏わりつく真っ白な冷たいものが見えた。動くはずのないものなのに、命でも持つかのようにじわりじわりと少しずつ身体中に広がってゆく。それに従って、針でも刺していくような冷たい痛みが白い物体に侵された場所を苛む。
動けない。動きたい。逃げたい、逃げられない…
まだ死ねない!
その時、暗闇の向こうからマントの人影がすっと現れた。鬱蒼と茂る木々の枝の隙間を通って射す一条の月明りが、その黒髪と冷たく切れ長な眼を照らした。
「…それを返せ」
すっと指差した先は、口に咥えた鞄だった。
「大事な商売道具だ」
…思わず鞄を取り落としていた。
「殺さない…のか」
言葉を発した黒猫に、マントの人影は薄っすらと笑った。
「異形が異形を殺してどうする?」
黒猫は黙り込んだ。異形、という言葉は初めて聞いた。その躊躇いの隙に、少女はすっと屈みこんで黒猫が落とした鞄を拾い上げた。
「あんた、何も知らないのかな。匂いでわかんない?あんたと私が同じタイプの生き物だってこと」
白い分厚い霜に半ば覆われた毛皮は、闇のような、でも少しだけ焦げたような黒だ。真っ直ぐ立った大きな耳は、片方が裂けかけているが思慮深そうに動いている。そしてその目。明るい茶色の…確かに、ただの猫のものとは少しだけ違った。
「匂い?わかんないな、私は見たまんまの獣だよ」
黒猫は掠れた声でそう呟いた。
「只の獣がそんなふうに話すもんか、馬鹿馬鹿しい」
切り揃えられた黒髪の少女は屈みこんで、黒猫の大きな眼を覗き込んだ。黒猫は全身に緊張を走らせながら俯いた。そして、大きく息を吸った。
それと同時に、黒猫に変化が起こり始めた。さざ波のように、身体中の毛皮が引いていく。体躯が膨らみ、髪の毛も伸びた。鋭く尖っていた爪は丸くなり、眼だけがそのまま、そこにはいつの間にか一人の少女が座り込んでいた。辛うじて、人間の耳の代わりに残った猫の黒い耳だけが、獣の面影を残している。
「冷たいから、この白いの退かしてくれないかな」
黒猫…いや、少女は、不機嫌そうに自分の手足に張り付いた霜の塊を見遣った。
「襲ったことは悪かった。あんたの見る目には驚いたよ。私は黒猫…」両耳をぴくりと動かす。「人間の、初木榛だ。何故か分からないけど黒猫になった。」
「そうか」黒髪の少女はまた、涼しげに笑った。「わたしは空風六花、薬師だ。あんたと同じように、何故か『雪』になった」