4.届かなかった想い
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「エリザ・ディオノレはここか」
乱入した声に、和やかだった空気が一変し、静寂と冷寒が室内を覆った。
―――トーヴィル侯爵当主。
彼はエリザを目にするやいなや、冷たい双眸を隠すことなくエリザに向ける。
エリザの表情が瞬時に強張ったのを見、ランディが眉間に皺を寄せた。しかし、まずは正式に挨拶をとエリザの手を離し、侯爵に向かって頭を下げる。
「初めまして、トーヴィル侯爵様。私はディオノ…」
「挨拶は結構だ。ディオノレ家嫡男ランディ。名は知っている」
興味がないと言わんばかりの素っ気なさ。その態度に綽々(ひょうひょう)たる態度を取っていたフェリウスも、不信を示す表情に変わった。
「お前はこの度、ライジンク国ロングラム伯爵家当主の元に嫁ぐ契約を結ぶことになった」
「…え?」
「それはっ」
「そんなっ」
驚きの声を上げたのはエリザだけではなくフェリウスとマリオンも同様であった。
フェリウスに至っては、ソファを倒さんばかりの勢いで立ち上がっていた。
「な、にを驚いているんだ、フェリウス?」
侯爵の発言に驚いてはいたが、声には出さなかったランディ。しかし、エリザ付きのマリオンはともかく、なぜフェリウスもまた驚いているのかが分からず、その意味を本人に尋ねる。
フェリウスは逡巡したのち、苦い顔をして口を動かした。
「ロングラム現伯爵は、才がありライジンク王の補佐をされています。ですが、夫人を何年か前に亡くしていて、エリザ様よりも二回り以上は歳上の方なのです」
優しいとの評判ではありますが、と付け加えてみても、エリザが後妻という立場になることと二人の年齢が二回り以上異なる、という条件は変わらない。
ロングラム伯爵という名も結婚の話もエリザにとって初耳のことだ。トーヴィル侯爵家がエリザの婚姻の契約を取り付けるという話も、ディオノレ男爵家からは一切聞いていなかった。
「侯爵様、私は…」
「エリザ、黙れ。ディオノレ家が何を言おうと、これは決定事項だ。まして忌み子のお前が口出しする権利はない」
異議を唱えようにも無下に返される。
それでも、エリザは胸に抱いている思いを告げずにはいられない。
物心ついてからずっと決めてきたことだ。これだけは譲れない。
「恐れながら侯爵様、申し上げます。私は己の忌み子としての事実は受け止めております。しかし、婚姻に関しましては、私は育ててくださったディオノレ男爵家に御恩をお返ししたく…」
「お前になぞ何の権利もないと言っているっ!」
憤怒で顔を赤くしての侯爵の罵声に、エリザは思わず身を引いて縮こまった。
「お前がアルベットを不幸に落とし、揚句に殺したのだぞ! お前なんかが幸せになる権利などあるはずがない! お前の顔など見たくもないが、アンジェリカの役に立つくらいのことはするべきだろう!?」
眦を吊り上げ、苦々しく吐き捨てられる。
「アルベットではなく、お前が死ねば良かったのに!」
侯爵様は忌み子として私を嫌っているだけではなく、憎んでおられた。
態度が冷たいとは思っていた。エリザを快く思っていないと感じていた。蔑まれ嫌悪を抱いているとわかってはいた。
しかし、ここまでの憎悪とは。心の奥底から憎まれていたとは。
剥き出しの憎悪を真っ向から叩きつけられ、目を見開いたまま青ざめて立ち竦んでしまう。
そのエリザを背に庇い、ランディが侯爵と対峙した。
「姉に権利はない、と申しましたね? 侯爵様。では、姉はディオノレ家に帰していただきます」
「なんだと?」
「父からの伝言です。姉が不当な扱いを受けていた場合に備えてのものでしたが、一言一句間違いなく伝えさせていただきます」
「成り上がり者が…っ」
「侯爵がエリザに愛情を持って接していない場合は、息子ランディに娘エリザを連れて帰るように言ってあります。双子の下児が忌み子というベリアーノ国ですが、当領地においてはライジンク国に近いこともあって、双子という存在は特別視されることはありません。夫人が亡くなった経緯につきましても『エリザ』のせいではなく、『二人の赤子』が夫人の体に負担をかけていたことであるとの認識をしております。故にエリザは我々にとって大事な娘。侯爵及び財務官という立場は私よりも上であることは事実ですが、エリザに関しては王からの公文を頂いております。今後エリザに関し、口出し無用でお願いします」
ランディは言い終えると胸元から一通の書簡を取り出し、相手を見据えたままそれを差し出す。
侯爵は数秒を置いた後渋々受け取り、それに目を通すと表情を硬くし顔色を変えた。
「エリザに関する権利は全てディオノレ家に? なぜ男爵ごときが王の正印で…」
「それだけの功績を父が上げているということです。王命により国のためライジンク国との外交とベリアーノ国の騎士育成を図っております。父がその仕事をいま放棄したら、王子とティアーネ様との婚約に影差すくらいの影響はあるのですよ。知りませんでしたか」
ランディは刺すような眼差しを侯爵から逸らすことなく続ける。
「これは母から聞いた話です。奥様はご懐妊の後、二つの心音を確認されても怖がる様子は全くなかったそうです。不思議に思い、母は奥様に『凶の印』となる存在が生まれるのに怖くはないのかと尋ねました」
侯爵の体がピクリと震えた。
「奥様は『旦那様は私と同じように私の子、二人を公平に愛し、大事に育ててくださります。それが分かっているのに怖がる必要はどこにもないでしょう』と笑顔で答えたそうです。そんな奥様の思い大事にしたいと母は姉を引き取りました。奥様の思いをあなたはご存知でしたか。奥様を不幸にしたのは姉ではなく、あなたではないのですか」
ランディはそこでようやく視線を侯爵から離し、エリザへと向けた。そこには先ほどまであった冷たさは微塵もない。
「姉様、すぐにこちらを出ましょう。行先は準備してあります」
「マリオン。必要な物だけでいいから纏めろ。服も靴も全て新しいのを準備してやるから」
マリオンは、兄の言葉にエリザに伺いを立てる。
「こちらの屋敷を思い出すものは全て置いていきますね」
よろしいですかとマリオンに言われ、エリザはぼんやりとしたまま頷いた。マリオンは
「では」
と小さく腰を曲げてからエリザの部屋に向かっていった。
続けて侯爵も表情を強張らせたまま応接室を足音を立てて出て行く。その姿もぼんやりと見ながらエリザはソファに力なく座りこんだ。
ランディが何かを話しているが、耳に入っていても理解ができずにいる。それを悟ったのか、ランディはエリザに話しかけるのをやめてただ冷えきった手を握るにとどめた。
エリザ自身が持参した装飾品は少なく、大事な衣装もさほどない。
故に、荷造りは短時間で済んだ。マリオンからその旨の伝言をフェリウスが伝えた。
「姉上、行きましょう」
ランディに手を取られ、目は虚ろで足取りはふらついた状態でエリザはエントランスホールに向かって歩き出す。
フェリウスが手配した馬車にエリザの荷物は積まれていた。
最後の荷物を載せている最中、アンジェリカが館に戻ってきた。傍らにヨルクを伴って。
その光景を見てエリザはやはりと思った。
私の役目は終わったのだと。
「どうしましたの?外の馬車は一体…」
「エリザ様はこちらを出ていかれることになりました」
エントランスでアンジェリカに声を掛けられ手を止めたマリオンは、アンジェリカにそれだけ言うと作業にすぐ戻った。一秒でも惜しい、というその姿勢にアンジェリカもそれ以上質問することはできず二の足を踏む。
アンジェリカは出迎えに来ていたメイド長に声を掛け、彼女から侯爵とエリザたちの応接室でのやり取りを聞いていた。
エントランスホールに着き、ランディに馬車に乗るように促されたが、エリザは首を振った。
「ランディ、最後に侯爵様の所へ挨拶に行かせて」
「姉上っ」
ランディは信じられない、といった顔をした。
当然だろう。侯爵の言葉でエリザが傷ついたことは、ランディだけでなく初見のフェリウスでさえ気づいている。それなのに、なぜその侯爵に挨拶を、と。
「最後の挨拶だから」
ね、と微笑めば、ランディはいつも折れてくれるのをエリザは知っている。昔からそうだった。
今回も例外なく、ランディは深い溜め息と共に折れてくれた。
「でも、僕も一緒に行きますからね」
文句は言わせないと言わんばかりの鋭い眼差し。
エリザは小さく笑んで了承を示した。
姉思いの弟は私がこれ以上傷つかないようにしてくれている。
それは傷ついたエリザの心にどれだけの良薬となっていることか、言葉では表せないほどだ。
ランディがホールにいた執事に侯爵の居場所を聞いてくれ、二人でそこに向かう。侯爵は応接室での応対の後、書斎に籠ってしまったらしい。
書斎の扉の前に立ち、エリザは板の向こうにいるであろう人物に話しかける。
「侯爵様。知らぬとはいえ今まで私がいることでお心に害をなしておりましたこと、本当に申し訳なく思います。この先二度とお顔を合わすことはないと、お約束いたします。アンジェリカ様とともに幸多き道を歩まれますよう、心よりお祈り申し上げます。今までお世話になりました」
最後まで言い終えると一礼した。
「エリザ」
名が呼ばれる。
廊下の五メートルほど先に、ヨルクが立っていた。彼は端正な顔立ちに、苦渋を滲ませている。
「エリザ。ここを出るというのは本当か? 学院も…」
「ここにいると、姉上は冷酷な仕打ちしか受けませんので。学院も、この国の通例なんて姉上には必要ありません。失礼します」
ランディが乱暴に返事する。申し訳ないと思うけれど、今のエリザにヨルクへ上手く話すことはできそうにない。
侯爵への別れの言葉を何とするか考え、言うだけで精一杯だったのだ。
ただ。
密かに慕っていたこの方に、この先会うことはない
そう思うと胸が少しだけみしりと痛んだ。
「ごきげんよう」
会釈し、エリザは彼の横をすり抜けた。
「エリザ!」
彼の呼び声にも振り向かず、まっすぐ前を見据え、足を動かす。
一度でも視線を曲げたら、足を止めたら、何とか保っている感情を抑えることができない。
エントランスホールではアンジェリカやメイド長、メイドたち、執事がざわめいていた。が、同じように一切を見ずにランディに導かれるままマリオンが立って待っている馬車へと進み、乗り込んだ。
マリオンもそのあとに続く。
こうしてエリザは二度と足を踏み入れることもない館、トーヴィル侯爵家を後にした。
今のエリザにとって馬車の中、4人の前でだけは心穏やかでいられる。
それが救いであった。
お読みいただき、ありがとうございました。