霜月浪漫はアポカリプスを止めたい
「本当に……いいんだね?」
成人男性の一人暮らし部屋へ足を踏み入れたのは、十六年間の人生で初めての経験だった。パパが身近に居た頃は、絶対に出来なかったことだ。
怒られるのが恐いのではなく、悲しませるのが辛いから。
訪れた部屋には、仄かなバニラの芳香が漂っていた。
水周りは綺麗な状態が保たれているし、独り身にしては大きすぎる食器棚には、ぴかぴかに磨かれたグラスが整然と並んでおり、どこか蠱惑的な波長を発している。
作業机のすぐ傍らに置かれたラウンジテーブルの上には、飲みかけの酒瓶が鎮座している。ベッドと密接した壁面には、見るからに高級そうなスーツの上着が掛けられていて、窓枠の下に据えられた背の低い本棚にはハードカバーの背表紙ばかりが詰め込まれていた。
大人の魅力が随所に潜む、未知の世界へ片足を突っ込んでいる筈なのに、あたしの心は無感動で、鼓動が昂ぶる様子も一向にない。
部屋の主である青年は、作業机の近くで前屈みになって、ノートパソコンを立ち上げていた。
「それが、君の父親の望むことではないのかもしれないよ?」
そんなの、あたしにだって分からない。もう分かる筈もないんだ。
だから、くよくよ悩む段階は終わりだって、そう決めていた。
「あんたもしつこいな、答えは変わらない……あたしは、パパの遺したもので世界終末の音を止めたいんだ」
「君の瞳にアクエリアスを拡張すれば、否応なしに世界は混じり合う。いいかい? なにが現実で、なにが幻なのか……惑わされることなく真実を見通さなければならない。悪夢スイッチは狡猾だから……福音が導く奇跡が……誰にでも等価値だとは言い切れないんだ」
「見ず知らずの大人の持論なんて聞きたくもない。いいからさっさと始めなよ……漆木勇」
「わかったよ。霜月浪漫君。僕達の瞳が世界を分かつ前に、清十郎さんの希望を君へ繋げよう」
「一々言い方がキザったらしい奴だな」
あたしの皮肉に乾いた笑い声だけを返して、彼は作業に集中していく。
黙々と準備を進めていく様を眺めながら、シャツのボタンを一つ外すと
「暑いかな?」
彼は横目に、こちらの挙動を窺ってきた。
「息苦しいだけ。お嬢様学校に通うのも楽じゃないんだ」
漆木勇は、パソコンの側面にUSBケーブルを差し込むと、続けて、ケーブルの先端のもう一方をクロスフォンへと接続させた。
「それが、コラボモデル?」
「悪夢スイッチだよ」
「夢を見る奴にとっては、だろ?」
「……」
束の間の静寂。
「それにしても……清十郎さんは随分と眩しい名前を君に授けたんだね」
「キラキラネームだってよく笑われる。ろまんちゃんだなんて、少女漫画のキラキラした瞳をしたやつの名前だろうに……あたしは肌も黒いし、目つきも可愛くない。で、性格がこれだからさ、親不幸ものだよ」
「そんなことはないさ、清十郎さんは君の事を深く愛していた」
「知ってる……気付くのは、ちょっと遅かったけど」
自分で言ってて胸が苦しくなる。悔しいんだ……じわじわと会社の隅へ追いやられ、あんたが悪者だ、となじることすらできず、靄めいた権力の悪意に蝕まれていったパパの気持ちも知らず、当たり前の日常が続くと決め付けて、親孝行を蔑ろにしてきたことが。
唯一の肉親の苦悩に気付けなかったことが。
「痛いの我慢するのは、得意?」
「注射は嫌い」
「んー、たぶん、アクエリアスとの同期は、君の想像以上の苦痛を伴うと思うけど、本当に……やるんだね?」
「……もう決めたから」
「わかったよ。こっちにきて」
漆木勇の傍に立って、彼が悪夢スイッチと呼んだクロスフォンを片手に握りしめる。
痛いのは怖い。でも、この痛みを超えた先に……あたしの望みがある。だから、乗り越えてみせる。
パパ、見てて。
あたしが……人類は掴んで回せるレバーなんかじゃないって、奴らに証明してみせるから。
「鎌舞士でいいね?」
「うん」
パパが命と引き換えにアセンション社から持ち去ったデータ……鎌舞士の力を借りて、あたしが必ず世界終末の音を止める。
「それじゃあ、始めるよ……アクエリアス同期開始……」
漆木勇の宣告に続いて、あたしの脳髄に何かが突き刺さる。
その痛みは、直前まで頭の中で微笑んでいた父の面影を瞬く間に奪い去っていった。