仮想少女のお願い→MRMMORPGの概要
「これっぽい、か?」
【A.L.I.C.E.】
Artificial Linguistic Internet Computer Entity――A.L.I.C.E.は、自然言語処理を行うおしゃべりbotの1つである。
ヒューリスティック的なパターンマッチングを適用しつつ人間と対話を行う。
ジョセフ・ワイゼンバウムのELIZAプログラムに触発されて開発され、2000年、2001年、2004年とローブナー賞を3回受賞している。
しかし、チューリングテストに合格するには至っておらず、何の事前知識も持たないユーザーでも僅かに対話しただけで機械的な雰囲気を感じ取ることが多い。
腹が減っては戦ができぬ、とやらの諺に則って、いや、母さんを誤魔化す為に、俺は突如として目の前に出現した少女をその場に放置(という名の現実逃避)すると、脱ひきこもり時から鍛えられている屈強な精神力で、平静を装って一家団欒をやり遂げ、そそくさと部屋に戻っていた。
扉を開けると、少女は両足の膝を合わせた姿勢でベッドに恭しく座って待っていた。
自分でも驚くほど平常心を保てているのは、たぶん、この少女から些かの敵意も感じられないことにも一理あるのだろう。
会話を試みると、彼女は自身を「アリス」と名乗った――A.L.I.C.Eで、アリス、と。
それで、半信半疑、クロスフォン(元から持っている)でA.L.I.C.Eと検索してみたところ、数十件目のヒットでそれらしきものを見つけたわけだ。
「おまえ、botなの?」
『A.L.I.C.Eはbotじゃないです。A.L.I.C.Eはアリスです』
受け答えは非常に滑らかだ。声質も人間と違いなく聞こえる。衣服の質感や、表情の細微な変化も自然だし、触れようと思えば触れられそうな、あまりにもリアルな姿形だ。
そして、なにより問題視すべきは、この少女が――肉眼で確認できてること、だよな。
「……CGとか?」
『シー、ジー? コンピューターグラフィックスのことですか?』
「それな」
『アリスは、MRAI(Mixed Reality Artificial Intelligence)――複合現実型人工知能体、計画第七福音とも呼ばれていました』
「……なんか色々繋がるな」
MRMMORPGを謳うアクエリアスとか、ハイパーボッ氏が話していた世界終末の音の別称とか。
「アクエリアスと関係あるのか?」
『はい。起動しますか?』
「え、なにを?」
『アクエリアスです。口頭で説明するより体感して頂いた方が、迅速に理解できると思います』
「いや……えっと、質問ありすぎるから、とりあえずさ、その……アリスは、俺にだけ視えてるのか? それとも、誰にでも視える?」
『端末を介さずアリスを視認するには、同期が必要となります』
「つまり?」
『然るべき過程を踏まえて同期を完了させれば、誰でも視認可能となります』
然るべき過程って、A.L.I.C.Eのアイコンに触れた直後に起きた音による頭痛と、眼球を這う光のことだろうか。あんなの、もう二度とごめんだけど。
「俺の体、大丈夫かね」
『現時点で、不具合は検出されておりません』
独り言のつもりだったが、律儀に答えてくれるアリス。
「まぁ、あんまりネガってても仕方ないか。今後の方針を決めないと……アリスには、なにか目的とかあるわけ?」
一応、選択肢を幾つか考えてはいた。
送り主である兄さんに返すとか、両親に相談して病院に連れて行ってもらうとか、黙って削除するってのも浮かんだけど、これはさすがに夢見が悪くなりそうだったので除外。
『アリスは明さんにお願いがあります』
「お願い?」
『はい、世界終末の音 (アポカリプティック・サウンド)を止めてください』
「はっ?」
数時間前までは意味どころか単語名すら知らなかった「世界終末の音」が、突拍子もなくアリスの口から飛び出した。
「なんで……俺?」
「勇さんが、明さんを頼れと」
これには、さっきよりも増して衝撃を受けた。
情報が繁雑を極めていて後回しになっていたが、俺とアリスを対面させた背景に兄さんが絡んでいるのかどうかってのも確かめなきゃいけない部分だったからだ。
「兄さんが?」
『はい。漆木勇さんは、アリスのお友達でした』
誰かが兄さんの名を騙って、俺に厄介事を押しつけてきたってのが、さっきまでの我が最有力説だったわけだが、アリスの言動は、俺の推測を真っ向から否定するように兄である漆木勇と面識がある体を成していた。しかし、なんで過去形?
『世界終末の音を止めるには、アクエリアスが必要不可欠です。明さん、アリスと一緒に頑張りましょう』
「あのさ、イーグル社とアセンション社の実験とかなのか? 俺にモニターをやれって? 悪いけど……もうゲームはやりたくないんだ」
あーあ、意固地になってるなぁ。と、心の片隅で自己嫌悪してても、吐き出された感情は止まらない。
「宿題やらなきゃいけないし、今日はもう一人になりたいんだけど、どうすればアリスはきえ……眠れるんだ?」
彼女に対して、消えろ、ではなく眠れ、と言えたのは、せめてもの抵抗だ。
『常駐しているA.L.I.C.Eシステムを終了して頂ければ、明さんからアリスの姿は見えなくなります』
「そうか、なら終了してくれ。俺の操作が必要か?」
『いえ、わかりました……』
アリスは水晶のように透き通った瞳を微かに潤ませた。
「そ、そんな泣きそうな表情しないでよ」
『あの、明さん』
ベッドから立ち上がったアリスが、伏し目がちに俺の名を呼ぶ。
「ん?」
『おやすみなさい』
言ってやんわりと微笑むアリス。バツが悪くなり、彼女から目を背けながら言葉を返した。
「あぁ、おやすみ」
視界の隅に映る少女の輪郭線が淡く霞み始める。
純白のタイツに包まれた足元が、ゆっくりと背景を透過していく。
消えかけの刹那、名状しがたい衝動に突き動かされて、俺はもう一度だけ、アリスを真っ直ぐ見つめた。
こちらの視線に気付いた彼女は無言のまま僅かに首を傾げ、微笑んだまま俺の前から消えていった。
いつもの、静謐な空間が戻ってくる。
「なんで俺なんだよ……兄さんは、俺なんか頼らなくても、なんでもできただろ……」
独りになって最初に口をついた言葉は……やっぱり、ずっと遠くの兄へ対するものだった。
俺の通っている高校は、お世辞にも偏差値が高いとは言えない、端的に説明するなら、金さえ払えば入学を認めて貰える私立だった。
言い換えるなら、中学時代に一年以上も不登校を続けてきた俺が、唯一通えた高校だ。
欠席は当たり前、校則で禁じられてないから、髪染め、ピアス、なんでもござれ。
同級生も協調性とは無縁な連中が多く、男子に限って言えば、ざっくりと二種類に分けれる。
いわゆるDQNと、俺達オタクだ。さすがに、自分をあっち側に区別する度胸というか、主観性は持ち合わせていない。
昼休みになると、前以って早弁で時間を稼いでいた俺は数分も経たずに自分の席を立った。そして、窓際の席の同級生、黒水瑞樹を見据える。
ただでさえ小柄な肩を丸め、ぎこちない箸捌きで、ちまちまとアスパラやらウインナーやらを口元へ運んでいる。
瑞樹の前の席の奴は食堂組だ。彼が戻るよりも先に話をつけようと、俺は瑞樹の元へ急ぎ、対面する形で座った。
「……明君? どうしたの?」
と、彼は猫っぽい目をぱちぱちと瞬かせた。
「アクエリアスについて聞きたいんだけど」
用件は口早に伝える。
「わぁ、もしかして明君、やっとアクエリアスを……」
「やりません」
「えー」
瑞樹とは高校からの付き合いだ……現実では。
お互いの意外な接点に気付けたのは、入学から二週間ぐらい経ってからだった。
当時はボイチャもしてたから、なんとなく誰かの声に似てるなーって印象は受けてたが、まさか昔のネトゲ仲間が同じクラスに居るとは思いも寄らなかったわけだ。
俺が中学の頃に廃人侍こと【アキラ】として名を馳せていた頃のギルドメンバーの一人【トビウオ】の中の人が瑞樹だったというオチ。
話してみると、瑞樹も当時のネットゲームは俺とほぼ同時期に引退してたらしい。が、あっちは懲りずに今度はアクエリアスにどっぷりと時間を貢いでいた。
以来、これって、運命だよね。と同性に言われてもまったく嬉しくない一言に続けて、瑞樹はしつこく俺をアクエリアスに誘ってくる。
「いいけど、ご飯食べてからでいい?」
「食べながら話そう、そうしよう」
「行儀悪いよぉ」
吹き出もの一つなく、女性ホルモン過剰分泌だろ、と煽りたくなるような小奇麗で中性的な顔立ち。
しかし、内気な性格と、片頬をぴくつかせる卑屈そうな笑い方のせいで、女子から騒がれることは少ない。とはいえ、少ないだけで、俺よりはずっとずっと異性受けはいい。廊下ですれ違った時に、瑞樹だけ名前呼びで挨拶されることもあって、こっちのメンタルトレーニングにも一役買ってくれている。ほんとにね、涙拭けよ、俺。
「それじゃあ、大前提として、まず職の話からする?」
「そうだなー、そこは一応聞いておく」
「夏に実装予定の新職を除けば、全十一職でね、近接職は、火力要因の斬刀士、長槍士、盾要因の斧闘士、拳闘士、器用貧乏の双剣士、後衛職は、火力特化の魔術師に、回復特化の癒術師、あとは補助特化の付術師、呪術師、奏術師。それと、スキルルートによって立ち位置が大きく変わる隠密士。あとは、夏の大規模アップデートで実装予定の鎌舞士……魔法も扱えて広範囲に刃が届く殲滅特化職、らしいよ。明君だとやっぱり斬刀士がオススメかなぁ、或いは双剣士?」
「だから、やらんて」
「むぅ……えっと、サーバーは日本で二つ、世界で八つだったかな。でも、アセンションの本社が日本にあって、元型も日本語だから、日本サーバーを選ぶ海外ユーザーも多いみたい。だからね、海外を探索してても、現地のプレイヤーと会えることも珍しくないよ」
「二つで保つのか」
「みたいだねー。次は戦闘でいい?」
「あーいや、戦闘はパス。アクエリアス独自の仕様……ストリート・ビューとかの部分を詳しく聞きたいかな」
「RPGで言う所のフィールドマップに該当するのがストリートビューモードだよ。これは、アバターがユーザーの現在位置から離れた場所を捜索できるんだけど、コミュニケート・リング・システムってのがあって、決められた範囲を超過すると、それ以降、離れた距離に応じて、ステータスにマイナス補正がかかるんだ。例えば、僕らは仙台にいるけど、アバターをロンドンまで飛ばすと、実質、ほとんどレベル1のような状態にされる、かな。もちろん、この補正を緩和、或いは無効化するアイテムもあるけど、これは無課金勢だと滅多に手に入らないよ」
「つまり、課金しろと」
「うん、ここ辺りはやっぱり商売だよね」
世界を旅するとか何とかアピールしてるわりに小狡いな、でも、ゲーム会社の人達だってボランティアで運営してるわけじゃないから、世知辛い背景が覗けてしまうのは致し方ないのかも。
瑞樹は冷凍食品っぽいポテトを咀嚼してから、再び口を開いた。
「で、ダンジョンに近い役割を持ってるのが、マッピングモード。これは、ストリート・ビューと連動させた状態でクロスフォンのカメラ越しに現在地を探索するもので、このマッピングの貢献度に応じて、報酬が貰えたりするんだ」
「ってことは、アクエリアスのユーザーがマッピングした場所は、そのままイーグル・ストリートビューの方にも反映されるってことか」
「だね、あとは運営が実装するイベントスペースかな。これは魔物の数が異常に多かったり、闘技場のような役割をもってたりと、現実風景では中々実現し辛い部分を補う形で世界に点在してる。イベントスペースは、コミュニケート・リングのデメリットも免除されるし、ほとんどの場合、ワープでひとっ飛びできるようにもなってる」
ようやく昼食を食べ終えた瑞樹は、弁当箱を丁寧に片付けながら、先を続けていく。
「他にアクエリアス独自って言えば、タグを付随できるAR(Augmented Reality)システムかな。実在するオブジェクトなんかに情報……メッセージやイラストを貼り付けるの。貼り付けてしまえば、他の人のカメラにも表示されるから、これを利用してユーザー同士で宝探しやったり、あとは、日本だと陣取りゲームが白熱してるね。疑似サバゲーって言えばいいのかなぁ」
「魔法ありのサバゲーって、もうそれサバゲーって呼べないよね」
「でもギルド同士でやってみると、すごく面白いよ」
「なるほどなぁ、つまり、タグでダミー貼ったリ、チャフ撒いたりも出来るわけだ?」
「さすが、のみこみ早いね」
「よいしょしたってやらないからな」
「そんなつもりじゃないのにー」
と、一通り聞き終えたと思えるタイミングで、背後から威圧的な声が降り掛かった。
「おいっ、そこ、俺の席なんだけど、どいてくんね?」
「あー、ごめんごめん」
俺が尻を預けていた椅子の本来の主が戻ってきた所で、瑞樹との会話は打ち切りとなった。
昼休み後の授業は、どうしてこう……悪魔めいた眠気に襲われるのだろうか。食事後の満腹感が原因だとするなら、早弁した俺にまで眠気がやってくるのは理不尽だ。数学担当教師が覇気の欠片もない声で呪文めいた数式を唱えているのが、なお理不尽だ。実際、周りの席を見渡してみると、机に突っ伏してる奴が半数近い、なんかもう、とにかく理不尽だ。理不尽って言いたいだけだ。
アリスはどうしてるかな。ふと、昨夜の少女の寂しげな表情を思い出してしまい、机脇の鞄から例のクロスフォンを引っ張り出してみた。
机の下に潜ませて、軽い気持ちで電源を入れてみる。
『明さん。ここが学校なんですね! すごいです! みんな寝てますよ!』
「ぶっ!!」
俺は全身のバネをしなやかに弾ませて、その場で大きく飛び跳ねた。