吸血鬼に挑む男→A.L.I.C.E.システム起動
宮城県仙台市泉区、八乙女駅から仙台バイパス方面へ歩いていき、コンビニ「ファミリア」を横切った後、寂寥感漂う落ち葉だらけの公園と隣接した並木道を抜けていくと、我らが漆木一家、それに屈日一家が暮らしている九階建てマンション「アプリコット八乙女」が見えてくる。黒見影石の表札に刻まれたマンション名と花柄の模様とが、高級な印象をこれでもかと主張してくるマンションだ。
漆木一家と屈日一家は、いわゆるお隣さんという間柄で、親同士の付き合いが始まったのも、俺達が物心つくよりも先だったのだとか。それ故か、早苗さんの俺に対する信頼感は、合鍵を渡されるぐらいに強く、ちょっと不用心なんじゃないかなって、逆にこっちが心配しちゃうぐらいだった。
屈日家の呼び鈴を何度か鳴らしてみるが、一向に開く気配はしない。
早苗さんはまだ仕事か。みなみが出迎えてくれるとは思えないし、例の合鍵を引っ張り出して、屈日家の敷居を勝手に跨いでしまう。
皮靴が一つだけ玄関の隅に寄せられており、靴箱の上にはデジタルフォトフレームが飾られている。十数秒刻みで写真が変わるように設定してるらしく、今は偶然にも、俺とみなみ、それに勇兄さんとの三人で遊んでいた頃の写真が映し出されていた。
出迎えの声もなく、不気味に静まり返っている廊下。
みなみの部屋は玄関を上がってすぐ右側にある。扉の前に立つと、向こう側から微かにキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「みなみー。入るよ……って、相変わらずくそさみぃな」
地球温暖化なんて糞くらえと氷河期設定の冷房が幅を利かせた室内で、屈日みなみは焦げ茶色の毛布にくるまって、頭だけをすっぽりと出していた。うさぎを模した着ぐるみパジャマのフードを深々と被っており、その下から伸びる髪の毛は淡い金色に染まっている。脱色、染色を繰り返したのか、艶を失った毛先が、御主人様の意向に反して、くるくると好き勝手な方向にはねていた。
「あ、あき君、おっすおっす」
どぞ、と毛布の下からすっと白い手を伸ばして、自身の隣へ座るようにばんばんと床を叩くみなみ。
「はい、しとしとチョコね」
「さんくす」
室内をさらりと見渡せば、空のペットボトルや菓子袋が散乱していた。ときに「何をしても許されるのだ」と評される女子校生だが、みなみの場合は完全に死にスキルと化しているな。これはひどい。
「さ、寒いっす」
「毛布、入る?」
「余ってるのあったよね?」
「お、お母さんに、洗濯、されたから」
「じゃあ、我慢します」
「……あ、はい」
カーテンを閉め切ったまま照明もつけず、青白い光を睨んでいるみなみ。キーボードは毛布の中に隠しているのか、みなみは画面を見つめたまま、カタカタカタカタと凄まじい速度で画面越しの相手に何かを訴えかけていた。
HDMIケーブルでパソコンと繋がっているテレビ画面上では、皮肉じみた火山帯が広がっている。
「モンハン?」
「ち、ちがうよ。これ、CC」
「へー、そっちもやってるんだ?」
「最近、ハイパーボッ氏に、さ、誘われたの」
「そういえば、ボイチャはやめたの?」
「あき君が来た瞬間、マイク切ったみたい」
「え、なんで?」
あまりゲーム画面を眺めてたくはないんだけど、ついチャットを目で追いかけてしまう。
【ハイパーボッ】:リア充は爆発しろ
【サウス】:(´・ω・)そんなー
「……定番だなぁ」
「幼馴染だって、さっき、言ったのに」
「クラスの奴が言ってたけど、幼馴染もリア充要素らしいから」
「そ、そうなんだ」
妹持ちには、妹属性が理解できないとかそういう類の話だよな、たぶん。
ちなみに「サウス」はみなみのキャラの名前で、こいつは昔からこのネームを愛用している。
そんな俺達の会話も聞こえているらしく、ハイパーボッ氏は「ええのぉwww微笑ましいのぉwww」と意味不明なチャットを垂れ流していた。あーこれ、即視感。俺も一時期こんなだったなぁ。
【サウス】:ねぇ、さっきの続き
【ハイパーボッ】:うぃっす、世界終末の音ね
「なんでお前までチャット打つの?」
「しゃ、喋るより、疲れない」
「まぁいいけど」
【ハイパーボッ】:そっちのあき氏は知らん? 今さ、にぃちゃんねるの都市伝説スレとかですげー話題になってるんだけど、とりあえず、知らないなら動画貼るから、見てみ
そう言ってハイパーボッ氏が続け様に更新したチャット部分には、誰もが一度は利用した事があるだろう動画投稿サイトのURLが貼り付けてあった。
みなみがチャットログを保存して、そこからリンク先へ飛ぶ。
新しく開かれたブラウザ画面には「アポカリプティック・サウンド(世界終末の音)が世界各地で発生」と表示される。
自動で動画の読み込みが始まり、間もなくして、それは鳴り始めた。
「――っ!? なんだこれっ!!」
歯の根を強く噛んで、思わず顔を顰めてしまう。
鯨の鳴き声? いや、非常サイレンか? 或いは、錆びついた金属を擦り合わせたような……酷く耳触りで不快な音だ。聞いてると心が落ち着かなくなる。
「こ、こわっ」
呟いて、身震いするみなみ。身震いしたいのはこっちだよ、と目で訴えておく。
【ハイパーボッ】:海外だとスカイクエイクなんて呼ばれ方もしてるし、スレだと不協和音だからセブンスコード、なんて呼ぶ人もいるお
【サウス】:これが最近になって頻発してるの?
【ハイパーボッ】:そそ、今年に入ってから、聞いたって証言する人が爆増してるわけ
【ハイパーボッ】:ほんで、さっきの話の続きなんだけど、ツイッターあるでしょ?
【ハイパーボッ】:五月末だったから、二週間前ぐらいかな
【ハイパーボッ】:イギリスのロンドンから発したと思われる呟きで、世界終末の音が聞こえたってのがあったのさ
【ハイパーボッ】:もうアカとか削除されてて、普通に探しても見つからない訳なんだが
【ハイパーボッ】:消されたアカ主の最後の方の呟きが、すげー意味深? 不可解だったってんで、当時、たまたま一連の呟きを見てたやつが、うろ覚えなりにまとめてたんよ。
【ハイパーボッ】:テンプル騎士団、吸血鬼、ヨハネの黙示録、パラダイムシフト、ニューエイジャー、アクエリアス……とまぁ、色々な単語が出てくるんだが
【ハイパーボッ】:ほぼ同時期にニュースなってたから知ってるかもだけど、テンプル教会の大量血痕って知ってる?
「あき君知ってる?」
「ニュースで見たわけじゃないけど、クラスの誰かが話してた気がするな。えっと……教会敷地内で夥しい量の血が流されていたのに、死体はおろか負傷者一人発見できなかったってやつでしょ? 血痕は複数人のが入り混じってたとかで、身元特定が難航してるとかなんとか」
【ハイパーボッ】:概ねあってる
「クラスの誰かって、そ、それ、女の子?」
「そこ大事か?」
【ハイパーボッ】:鈍感野郎は死すべし
【サウス】:違うから!!
【ハイパーボッ】:かわええのぉwwwかわええのぉwww
【サウス】:続き
【ハイパーボッ】:どうも消されたアカの呟きがこの血痕事件と関係あるんじゃないかって噂になって、わざわざ別スレまで立つ勢い
【ハイパーボッ】:で、自分、手に入れました
「手に入れた?」
【ハイパーボッ】:当時の呟き
「おいおい……そんなことできるのか?」
削除されたものって、普通、もう二度と手に入らないものじゃないのか? うーん、わからん。
【ハイパーボッ】:ジェバンニが一晩でサルベージしてくれました
「誰だよ……」
【ハイパーボッ】:サークル仲間ですしおすし
【ハイパーボッ】:ここからはサウスちゃんとあき氏に判断委ねるけど、サルベージできた呟き見たい? たぶん、これ見ちゃうと、ただの暇潰しとしての都市伝説ネタから逸脱しちゃう訳だが
【ハイパーボッ】:ぶっちゃけ、おすすめはしない
「いや、ここまで聞かせておいて……お預けってのもなぁ」
「う、うん、あたし、見たい、かも。あき君、ど、どうしよう?」
しとしとチョコ――溶けかけた丸い物体――を頬張りながら、尋ねてくるみなみ。
「別に殺される訳じゃないだろ。俺達にも見せてよ」
【ハイパーボッ】:おk、ボイチャツールの方にテキストデータ送付するんで、おとしてちょ
【ハイパーボッ】:あ、送るのは翻訳ソフト挟んだやつな、原文は英語だし、たぶん、持ってない方がいいんで
【ハイパーボッ】:翻訳版も読んだらすぐ削除推奨
ハイパーボッ氏に言われたとおり、ボイチャツールのチャット画面にファイルデータが送付されていた。拡張子はtxtだから、たぶん、翻訳ソフトで日本語に変換したものをペーストしただけのデータっぽい。
文字だけとなると容量も軽く、通信は数秒で済んだ。
この間、俺達は無言だった。ボイチャが繋がったままで、ハイパーボッ氏という第三者が居る理由も大きいが、なにより得体の知れない緊張感が、俺の口を噤ませていた。
ファイル名は「吸血鬼に挑む男」だった。
みなみがソフト「メモ帳」で開くと、大きな画面に似合わない、飾り気のない文字が並んだ。
ヨハネの黙示録の七つのラッパは既に始まっている
これがパラダイムシフト? 違う、これは世界終末の音だ。
テンプル騎士団の末裔である僕には、義務がある。そう、これは義務なのだ。
ニューエイジャーの吸血鬼が、ここロンドンへやってきた。
銀の斧を持って、僕は教会で吸血鬼の首をおとす。だが、それもちっぽけな抵抗にすぎない。
偶然ということはない。アクエリアスもそうだ。
みなよ、疑うことを忘れることなかれ。既に攻撃は始まっている。
このままではそうとしらずに、静かなる戦争は終わってしまうだろう。
人類は機械であり掴んで回すことのできるレバーではないのだと、彼等には示さねばならない。
「なんていうか……」
翻訳ソフトが原因なのか元からなのか分からないが、文脈が支離滅裂で、感想に困るものだった。
【ハイパーボッ】:この呟きがソースになって、テンプル教会の血痕は吸血鬼と世界終末の音が関連してるのではないか? って説ができあがってるんよ
だが、ハイパーボッ氏の言葉通り、この発言主とテンプル教会の血痕騒動とに無関係とは思い難い共通点が見受けらるのも確かだ。
「テンプル騎士団って……なんぞ?」
みなみの質問。
【ハイパーボッ】:中世に実在してた修道会な。ちなみによく秘密結社関連で、騎士団の末裔ってネタが扱われたりする
【ハイパーボッ】:あと、騎士団最後の総長ジャック・ド・モレーが、海賊旗ジョリーロジャーの発端だって説もあって
【ハイパーボッ】:テンプル騎士団の歴代総長はみんな「ド」が名前について、スペルがdeなんで、某海賊漫画のDと結び付けて、考察する輩なんかもいるお
ハイパーボッ氏はそのまま某海賊漫画の都市伝説にスイッチが切り替わってしまい「吸血鬼に挑む男」や「世界終末の音」は話題から静かにフェードアウトしていった。
そろそろ退散時かなと腰を上げた途端、みなみが俺の足首を掴んで、上目遣いに「か、かえるの?」と尋ねてきた。
「うん、宿題もやんないと、だしな」
「あ、あき君……」
歯切れ悪く押し黙るみなみ。
「どした?」
「……な、なんでもなかった」
「みなみ、本当にどうした? 言いたいことあるなら言ってくれていいんだけど」
「……みなちゃん、ね?」
小さい頃、俺はみなみの事を「みなちゃん」と呼んでいた。けど、小さい頃の話だ。こちとら思春期真っ直中。いくら女子校生スキルが死んでるみなみ相手だろうと、気恥かしいものは気恥かしい。
しかし、当の本人は俺がみなみと呼ぶのが気に入らないらしく、事ある度に訂正を求めてくる。
「勘弁して下さいよ」
「……」
ぎゅうっと足首を掴んでいた指先の力がより強められる。無言の圧力ですね、わかります。
「はいはい、わかりました。またね、みなちゃん」
「ん、ばいばい」
都市伝説を熱く語っていたハイパーボッ氏が「かゆいのぉwwwかゆいのぉwww」と予想を裏切らない反応をしてくれていたので、一応、画面越しにさよならの挨拶を向けておいた。
「ただいまー」
帰宅するなり、廊下突き当たりのリビングから母の大声が響いてきた。
「あきー! 帰ったのー? お兄ちゃんからなんか届いてたわよー、部屋に置いといたからー」
「俺ー?」
「宛名があきだったものー。誕生日プレゼントかしらねー」
俺の誕生日は五月三十日、もう二週間も前だ。ん、二週間前って……ついさっきハイパーボッ氏が教えてくれた「吸血鬼に挑む男」と時期が重なってたのか……。だからなんだという話だけど。
「もうすぐご飯にするからねー」
「はいはーい」
マンションの構造上、間取りは隣人さんと変わらない。どの個室を子供部屋にするのかって段階でも、我が家と屈日家は結託していたらしく、俺の部屋も玄関からすぐ右手にある。
フローリング張りの室内中央には、寸法をろくすっぽ調べず買った楕円形のラグが敷かれていて、その真っ赤なラグの上に量販店で購入したやっすい丸テーブルを置いている。
テーブルの上に散らかっていた漫画本や教科書は、几帳面に角を合わせた状態でテーブルの隅に積み重ねてあり、代わりとして、小脇に抱えられそうな程の大きさの郵送物がテーブル真ん中に鎮座していた。
「連絡くらいくれればいいのに……」
兄さんと最後に連絡を取り合ったのはいつだったろうか?
高校生になってからも、何度か通話を掛けてみたり、メールを送ってみたりと、連絡を求めてるけど、今のところ……一度だって、その努力が実った試しはなかった。
めげずに、あとでメールを送ろうと文面を考えながら郵送物を開封していく。
中から出てきたのは、見憶えのある小さなプラスチックの箱だった。
「クロスフォン? でも、なんで?」
今使ってるクロスフォンを買った時と、箱の形状は一致している。
だからこそ、記憶と違う部分が嫌でも目についた。
十字架、ピラミッド、大きな目、天使、あとは……何かの記号か? 小箱の脇にいくつかの紋章が描かれていて、箱全体が淡い水色で塗装されている。
「あー、これ、もしかして、アクエリアスとのコラボモデルってやつか」
けど、誕生日プレゼント(と仮定して)がなんでクロスフォンのコラボモデル? もうクロスフォン持ってるし、噂のMRMMORPGことアクエリアスだって興味ないし、兄さんだって、俺がゲームやらなくなったの知ってる筈なんだけどなぁ。
上下にスライドする形で外箱を取り除くと、クロスフォンの本体が露わになった。本体の形に然程違いはない。ちょっとだけ液晶部分が大きくなっているが、これは俺のクロスフォンが二世代前の規格品である事が原因で、コラボモデル故の変更点ではないはずだ。
カラーリングはコラボモデルと銘打っているわりには、何の変哲もないブラックで、ぱっと見……裏面の端に刻まれたアセンション社のシンボルぐらいしか相違点は見当たらない。
「別に解説書とか読む必要はないよな」
液晶部に貼られたカバーを剥いで、試しに電源を入れてみると、クロスフォンの製作元であるイーグル社のシンボルが浮かび上がった。
「細かい設定は兄さんがやってくれたのかな?」
その画面をぼんやりと眺めたまま起動を待っていると、やがて画面上に
『登録者様の確認、及び声紋登録が必要となります。契約者様のお名前をフルネームで発声してください』との表示が出てきた。
前の契約時にはこんな仕様なかったけど、最新型だからか?
「……漆木明」
ぴこん、って擬音そのままの甲高い音が鳴ったかと思うと、すぐに画面が切り替わった。
『登録者様の確認、及び声紋登録が完了致しました。以後、当端末をご利用する際には声紋認証、もしくはパスワードが必要となりますのでご了承ください。登録情報の変更、質問、不具合報告などの場合、お手数ですが、ヘルプコールと発声して頂けるようお願い致します。自動的に当社の二十四時間対応番号へ発信されます。なお、通話料金は発生致しません』
その後も幾つかの注意事項が次々と表示され、その度に操作を強いられた。
「やっと、ホーム画面かよ……」
ホーム画面では、プリインストールされたアプリのアイコンが等間隔で配されていた。
開発元であるイーグル社の「ストリート・ビュー」は当然ながら、コラボモデルということもあって、噂の「アクエリアス」も導入されている。
その中で、ひときわ目を惹くアイコンがあった。
「アリス? ……で読みは合ってるよな。なんだろ、こんなアプリ聞いたこともないけど」
アイコン名は「A.L.I.C.E」で、真っ赤なアイコンデザインは十字架を模しているようにも見える。
小難しい事を考えるよりも早く、解説書で確かめるよりも早く……気付くと、俺はそのアイコンに触れていた。
――直後。
「いって……はっ!? ちょ、なにがおき、くっそ!! まじいてぇ!!」
突然、脳髄が鋭く尖ったなにかに何度も何度もつつかれているような激痛に襲われた。
声にならない獣じみた叫びをあげそうになる。いや、実際、押し殺せていたのかも定かではないくらいに、泡を吹く様な音が喉の奥から漏れていた。
両手両指の爪が頭皮を握り潰す勢いで圧をかけていく。
一秒が一分にも、下手すると一時間にも感じられた。
いっそ気絶してくれよ。そう願っても、俺の脳は聞き入れてはくれず、無慈悲にも痛覚を刺激し続けていく。
痛みの正体が……音、だと気付けたのは、嵐のような激痛が過ぎ去ってのち、いまだに痛覚の余韻が頭の中をじわじわと蝕む最中で、だった。
そして、今度は……視界に幾つもの小さな光がちらついた。眼球の毛細血管内をなにかが駆け巡ってるような感覚。
こっちは痛みを伴わない現象だったから、さっきよりかは幾らか冷静になれた。
これは「A.L.I.C.E」とやらを起動したから、なのか?
酷く気分が悪かった。
ついさっき、みなみの部屋で世界終末の音を聞いたことも関係あるのだろうか。
思考はぐちゃぐちゃとかき乱れ、喘ぐような呼吸も回復しない。
視界を蛍火のように奔る光。その軌跡が焼きついたままの瞳で、クロスフォンの画面を確かめようとしたとき、幼い女の子の淡々とした声が、どこからともなく聴こえてきた。
『ビジュアル・スノウ現象を確認、拒絶反応は軽微、No Goゲート、判断はGo。アクエリアスとの同期開始……10%……20%……RTT良好……40%到達、負荷状況を確認、想定範囲内……60%通過。ミオクロニー発作を確認、No Go ゲート……判断はGo……80%、コミュニケート・リング範囲最大へ到達、拒絶反応は軽微……最終No Goゲート……通過、100%。アクエリアス同期完了』
「なにが……おい、俺に何をしてるっ!?」
物凄い勢いで首をふりまわして、周囲に声の主を探した。けど、誰もいない。そうだよ、ここは俺の部屋なんだ。だったら、この声はどっから……
『イーグル・ストリートビュー同期完了、A.L.I.C.Eシステム同期完了。各データ出力、及び網膜調整を開始』
「止めろっ!!」
なにが起きているのか分からなかった。ただ……切迫した状況であることだけは疑いようもなくて、それなのに、俺には、正体不明の声に向かって、怒鳴ることしかできず
『網膜調整完了。続けてオフセット座標修正後、クロスフォンより脳波測定を開始致します。測定中はクロスフォンの電源を落とさないようにご注意ください。また測定可能距離は20メートルと推定。離れ過ぎにもご注意ください』
「だからっ、待てよっ!! 待ってくれって……っ」
電源を落とす勇気もなくて、
『脳波異常なし。各動作の正常を確認。現実を拡張致します』
現実を拡張致します。その言葉に続いた現象を受けて、俺は声を失う他なかった。
「はっ? え、どうやって?」
眼前に……さっきまで誰もいなかった筈の部屋の中に……女の子が立っていた……。
廊下から母さんの呼ぶ声が聞こえてくるのに、口元はぽかんと空いたまま硬直してしまい、何も答えられない。
桜の花弁によく似た淡い色彩を放つ長髪をしていた。空気より軽い物質で構成されているのか、風のない室内でも毛先がふわふわと揺れていた。
透き通った赤水晶の瞳は純真無垢を主張するように大きく、眼尻にかけて垂れたまつ毛が妙に愛らしく見える。
微かに血色を通す頬はなんとも柔らかそうで、ちょっとだけ指でつんつんしたい衝動に駆られ……
「ちょっと、あきー? なんかすごい声あげてたけど、どうしたー? 勇のプレゼントー?」
母さんが扉を叩く音で正気に戻った俺は慌てて言葉を繕った。
「あぁ、うん、クロスフォンだったんだよ。叫んだのはテーブルの足に指ぶつけただけだから」
「ふーん、ごはん、できるからー早く部屋から出てきなよー」
「あーいまいくー」
女の子は、ほわーとした表情で俺の室内をきょろきょろと見渡していた。
全体の色合いは赤系統だけど、アリスだと言われれば、それらしくも見えるふりっふりのドレス姿だ。胸元には大きなリボンがくっついていて、その下から覗く編み込みは腹部まで続いている。腕、腰の辺りに縫われた幾重もの純白ラッフルレースが、全体のシルエットに膨らみを与えていた。
身長は頭一つ分くらい俺より小さく、容姿から判断するに年齢も幾つか下だろう。
「なにが起きてんだよ……」
ぽつりと、俺の口から零れた疑問を受けて、少女は待ってましたと言わんばかりに声を弾ませた。
『ようこそ、アクエリアスの世界へ――明さん。やっと会えましたね』
そう告げて、彼女はにっこりと、可憐な笑みを咲かせた。