土蔵釦の憂鬱①
土蔵釦の憂鬱。
イーグル社に勤める一人の女性のお話。
高度一○六メートルの喫煙室から望む日の光は、私には些か眩しかった。
目を眇めつつ、咥えていた煙草を口元から離すと、代わりに息と混ざり合った紫煙が眼前で揺蕩う。
もうすぐ日が沈み、程好い疲労感を伴って一日の終わりを迎えるのだろう。
定時退社を生甲斐とする私にとって夕日は心地が良い。反対に朝日は苦手だった。文字が同じというだけで嫌でも思い出してしまう……友人だった岬朝日の事を。
岬朝日も漆木勇もかつては笑顔で酒を酌み交わす仲であった。でも、それも過去の話だ。二度と私達が他愛のない達成や愚痴を肴にして飲み明かす日など訪れないのだろう。
私は、私達のような一般人に……個人にできることなんて限りなく少ないことを弁えている。ちっぽけな正義感なんてものは、平和に生きていく上で邪魔にしかならないのだと。
しかし、あの二人は違った。少なくとも漆木勇は身の丈に余る正義感を抱いて、その結果、会社から姿を消してしまったのだ。
「釦……僕は君の本当の職務を知っている。だから話してくれないか?」
漆木勇の懇願には「私を巻き込まないでくれ」と答え、その腕を振り払った。
「ねぇ、釦。貴女……勇の行方を知らない?」
岬朝日の質問には「私には関係ない」と声を張り上げ、通話を断ち切った。
今でも考えてしまう時がある。彼等は何が不満だったのだろうか?
理想の職場ランキングみたいな類の企画では、必ずと言っていいほど紹介される大手企業であり、入社したての新人でも、それなりの散財が許される程度に収入も恵まれている……これ以上何を望むというのか? どうしたって理解はできなかった。
窓の外を見下ろすと、大きな十字交差点を行き交う人の群れは黒い粒にしか見えず、それが蟻の様にも見えてしまう。
炎天下の中、汗だくになって歩き回る必要もない……冷房の効いた室内で淡々とやるべきことをこなして、そして、多少の事に目を瞑れば何不自由ない日々が約束されているのに。
「私にはわからねーや」
ほとんど無意識に口から飛び出す独り言。
いつの間にか灰だらけになって、今にも先端が零れてしまいそうな危うい均衡を保っている煙草を灰皿へ突っ込んで揉み消すと、間を空けず二本目を咥えてライターを手に取った。
そして、着火しようと口元へ近付ける。その時、ほぼ同時に胸ポケットのクロスフォンが唸る様に震え始めた。
「手短にどーぞ」
『ほ、報告します』
こちらの機嫌が悪いと感じたのか、通話先の相手は僅かに声をどもらせた。一度、小さく咳払いを挟んで
『対象の車を発見しました。現在は停まった状態で――』と続けるが
「あーちょっと待ってね、デスクに戻るから」
部下の報告を遮ると、間一髪無駄にせず済んだ煙草を戻して、そそくさと喫煙室を離れる。
この階で勤務している奴らは全員――同類だから、律儀に人目を避ける理由もないのだが……とはいえ案件が案件だ。うっかりミスなんて言い訳は通用しないだろう。
「お待たせ、続けて?」
よっこらせ、と呟いてしまう自分に対して「ババアかよ」と苦笑しつつキーボードに触れて、報告に備える。
傍らに放置されていたスムージーを軽く口に含むと、今度は「女子かよ」と脳内の私がかすれた笑いを上げていた。
『車内は無人と推測されます、車種はフィアット、カラーは黒、ナンバープレートは――』
番号を聞き取り、速やかに身元特定へ勤しむ。そして、それは難なく完遂できた。
絵本零36歳、妻は絵本絵里、双子の子息がいて、それぞれ名は紡希と愛。
職種は……自営業? ふむ、本籍は東京、ね。
『やはり誰も居ません。鍵が掛かっていますがいかがなさいますか?』
「壊しても構わないわ。調査への人員は最低限に留めて、残りは天使ランドの包囲を進めて……状況は随時報告すること、それと対象を発見しても、まだ手は出さないで」
『了解しました』
溜息混じりに通話を切る。あー嫌だ嫌だ、残業確定だな、と嘆きつつ絵本零の住んでいるマンションの調査をまとめていると、まるで見計らったかの……着信の相手を見て、見計らったタイミングなんだと確信して、今度は意図的に不機嫌さを露わにして通話に応じる。
「お疲れ様です……なんですか?」
『β版に接触できたようだな? 優先すべきことを確かめておきたくてね』
通話の相手――篠原陶大の声はぼそぼそとしていて、いつも聞き取りにくい。
「あーはいはい、わかってますって……漆木勇が持ち去ったクロスフォンはすぐそちらへ譲渡します。うちらは処分専門なんで、安心してくださいよ」
『東京の君がそうだと理解しているだけではな』
「部下達も重々承知してますから……そもそも仮にうちの部署から漏洩したとして、篠原さんぐらいになれば揉み消すなんて造作もないことでしょうに」
『実動隊に不備はないだろうな?』
こちらの皮肉には反応せず、淡々と伝えるべき事を伝える上司。
たまにはイーグル社の理念に沿って明るい職場作りに貢献してくれてもいいのではないか? などと吐き捨てたくなるが、それこそ時間の無駄だと思い直す。
「文書には目を通してますよ。実動隊には遮断装備をさせてますから、あっちの世界に引き摺りこまれる心配なんて要りません。速やかに侵入者達の身柄を拘束して撤収するよう命じます……そろそろ切り上げて退社に備えたいんですけど、まだ何かあります?」
『屈日の娘は丁重に扱ってほしい』
「屈日? あぁ、篠原さんのね、了解です。そのお嬢さんには手荒な真似をしないよう伝えておきます。もうなにもないですね? 切りますよ……あ、忘れてました。霜月のお嬢さんはいいんですか?」
お嬢さん繋がりで、漆木勇と同様に会社から姿を消した霜月清十郎の娘がとあるプロジェクトの被験体になっている事を咄嗟に思い出してしまう。
『構わない……というより構えないのだ、君達ではな』
「ふーん、そうですか、いや、もういいです、それ以上聞きたくないんで切りますね。はい、お疲れさまでした」
癪に障る物言いを受けて、通話はこれでお終い……と向こうの反応を待たずクロスフォンを閉じてやった。
再びスムージーを口へ運ぶと、かき乱れた私の思考をなぞるような、幾つもの野菜とフルーツによって複雑化した甘酸っぱさが舌を襲う。
――イーグル社に仇為すなんて、本当に馬鹿みたい。
「……」
絵本一家の顛末を想像してみても、これといって心が沈むだとか、息が苦しくなるだとか、そういう変化は感じられない。
「誰もがアイヒマンになる可能性がある。僕達は巨大な組織の中では、本来、自分が望まない行為へ手を染めてしまうんだ」
漆木勇は危惧していた。ミルグラム実験を知らない訳ではない。
迷うことはない、君は続けるべきだ。きっと篠原陶大は抑揚のない声でそう告げるだろう。
「平和は退屈の裏返しよ……或いは停滞とも言えるわ。集団のそれは均衡を保っているように見えて、踏み出して輪を乱す奴が出てくるのは必然なの。退屈は不安へ繋がり疑問になる。自分達は本当にこれでいいのか? ってね」
岬朝日は予見していた。いずれ誰かが……漆木勇が組織に反抗する事を。
悩むことはない。君は続けるべきだ。やはり篠原陶大は無感情に告げるだろう。
やがて日は沈む。クロスフォンが状況の変化を報せる震動を始めても、暫らく手に取る気にはなれなかった。




