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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

みつあみ

作者: 倉坂直紀

 冬の朝は静かで冷たい。

 滅多に雪の降らないこの地域でも、十二月にもなれば寒さも厳しくなってくる。白い息を吐きながらドアをスライドさせると、しんと静まり返った教室に私の足音だけが響いた。

 自分の席で椅子を引いて、やっと私は手袋を外す。椅子の背の金属部分も、氷みたいに冷えきっているからだ。解いたマフラーを膝掛けの代わりに腿の上に置いて、私はいつものように教科書とルーズリーフを取り出した。

 時計が指している時間は七時。学校の鍵は空いているものの、この時間にまだ生徒の姿は無い。もう少しすれば朝練の人達が校庭にやってきて、少しだけ窓の外は賑やかになるけれど。

 私は早朝の学校の、この静かさが好きだった。下の兄弟姉妹が多い我が家では朝は戦争のように騒がしく、放課後の図書室はお喋りに夢中な生徒達の声が少し耳障りだ。

 ページをめくる音と、シャープペンシルを走らせる音。それだけがこの空間に存在する『音』だった。

 ふと窓の外を見遣ると、制服の上からコートを着込んだ生徒達の姿が見え始めた。この公立高校の部活動の成績は、よくて県大会のベスト4。可もなく不可もなく、と言ったところだろうか。私は運動が苦手だから、こんな時間から朝練に励む人達はよくやるなぁ、と思う。暑い季節や、こんな寒い季節は特に。

「うぅ〜寒い。寒い寒い」

 かすかに人の声が聞こえた。そして足音が近付いて来る。いつもは後一時間は開かないドアがガラガラと音を立てて開かれた。

「あっおはよ〜織原さん早いねぇ」

 掛けられた声に手を止めて振り返ると、紺色のダッフルコートにふわふわのピンクの耳当てをつけたままにこにこと笑うクラスメイトの姿があった。確か、ひなた――そう、日向桃香さん、だったはず。

「お、おはよう……」

 小さくそう返すと、やっぱりにこりと微笑んでくれた。日向さんは自分の席に着くと、鏡を取り出して何やら真剣な顔で覗き込んでいる。私のように、勉強をしにやってきた訳ではないらしい。

 彼女は、一言で言うなら『可愛い子』だ。勉強の出来は知らないけれど、いつもにこにこ笑っていて、誰とでも打ち解ける。私とは正反対のタイプの人だ。

 私を一言で現すならば、『地味な子』だろうか。ずっと伸ばしている髪はいつも三つ編みで、小学生の頃から眼鏡が欠かせない。いつも勉強ばかりしていて、あまり他の人とは話さない。

 こういう可愛い子とは、縁の無い人間なのだ。

「あー、だめだ上手く出来ない」

 私が再び問題に取りかかると、後ろから独り言が聞こえて私の手が止まる。もちろん、今ここにいるのは私と彼女しかいないわけで、私は独り言は言っていない。

 それは別に私に向けられたものでは無かったけど、何やら困っているようなので無視をするのも居心地が悪く、私はシャープペンシルを置いて振り返ってみた。私の斜め後ろの席で日向さんは自分の髪を手に取って悪戦苦闘しているようで、よく見るといびつな『三つ編みのようなもの』が一本、彼女の耳の下に垂れ下がっている。

 私の視線に気が付いた彼女は、困ったように少し笑った。

「三つ編み、やりたいんだけど上手く編めなくて」

 それから私の胸の辺りに視線を落とすと、ぱっと顔を輝かせて私の後ろの席に鏡を持って移動して来ると、可愛らしい花の飾りが付いたヘアゴムを差し出してこう切り出した。

「ね、織原さんいつも三つ編みだよね? やり方、教えてくれない?」

 突然の申し出に私がどう返答すべきか迷っていると、日向さんの顔が少しずつ曇り出す。ころころと表情を変える彼女のそれが、見ていて飽きないな、なんて私は考えていた。彼女の問いかけに答えることも忘れて。

「そっか、織原さん勉強中だもんね。ごめんね迷惑だよね」

「……いいよ」

 え? と日向さんは聞き返す。私の声は、どうも人のそれよりも小さいらしい。多分、普段あまり人と話さないからだろう。

「私でよければ」

「ほんとに!?」

 私が開きっぱなしの教科書を閉じると、彼女は自分で編んだ髪を解いて手櫛でその柔らかそうな髪を整えていた。私の真っ黒で硬い髪と違って、日向さんの髪は少しだけ茶色がかって細くて柔らかそうだった。

「ちょっと待ってて」

 日向さんは自分の席に戻ると、鞄から小さめのブラシを取り出して戻って来た。日向さんの手にあるそのブラシを何気なく見ていると、裏にキラキラした石がいくつか貼ってあってデコレーションが施されていることに気が付いた。よく、クラスの人達の携帯電話のカバーにもこんな石が沢山貼ってあるのを見たことがある。隙間無く敷き詰められたそれはギラギラしていてあんまり好きではなかったけれど、控えめなこの位の模様なら綺麗だと思えた。

「じゃ、お願いします」

 ブラシで髪をさっと整えると、日向さんは両手を膝に置いて半身をやや斜めにして待っていた。それが意味することがわからなくて私が戸惑っていると、はい、とブラシとヘアゴムを掌に置いて差し出される。

「え、あの、私がやるの?」

「やってくれるんでしょ?」

 私がそれらを受け取ると、彼女はまた両手を机の下に仕舞ってしまった。てっきり私は口頭で彼女に教えるものと思っていたが、彼女にとって『教わる』ということはそうではないらしい。

「えっと……じゃあ、失礼します」

 そのままではやり辛かったので一旦立ち上がって彼女の首の後ろに手を回して触れた瞬間、彼女はびくりとして首を竦めた。くすぐったがりなのだろうか。まあ、あまり、他人に触って欲しいところではないだろうけれど。

 少し落ち着かない様子の彼女を他所に髪を二つに分けて左右の肩から前に流し、頭の上から毛先までを丁寧にブラッシングする。時々引っかかる私の髪と違って、彼女のそれはするりと櫛目を通り抜けて行くのが少しだけ羨ましく思えた。左右に分けた髪をさらにそれぞれ均等に三つに分ける。後は根元から順番に編んでいくだけだ。そんなに難しい作業では無いはずだけど、自分の見え辛い場所でやるには不器用な人には難儀なのかもしれない。

 日向さんの髪は、見た目通り柔らかくて手触りのいい髪だった。これも『可愛い子』の条件の一つなのかもしれない。きっと手入れにも時間と手間をかけているのだろう。大体、髪を梳かすブラシは持ち歩くものだなんて、私は今さっき知ったのだ。私だって朝くらいは髪を梳かすけれど、一度括ってしまったら放課後までそのままだ。何かの拍子に解けてしまったら、手櫛で適当に編んでしまう。こういうところが、私のような人間と日向さんのような人間の違いなんだろうな、なんて考えながら手を進める。左右の束を編み終えてゴムで留めると、綺麗な三つ編みが出来上がった。

「……はい、出来た」

 そう言うと彼女は、ふぅ、と小さく息を吐いてやや上がっていた肩が下がる。緊張していたらしい。

「織原さん、手ぇ冷たいよ〜」

 言うが早いか、気が付いたら私の手は彼女の両手に包まれていた。日向さんの手は温かかったけど、私の手はどうやらそうではなかったらしい。

「ご、ごめん。冷たかった?」

 どうやら私の手が彼女の首元に触れる度に彼女が首を竦めるのは、冷たい手が触れていたかららしい。自分の手の温度なんて、気にしたこともなかったからなんだか少し申し訳ない気分になった。

「うん。冷たかった。織原さんって冷え性?」

 彼女の両手に包まれたままの私の手が、彼女の温度と馴染んでいく。なんだか気恥ずかしかったけど、意外としっかりと掴まれているものだから抜け出せそうもなかった。でも、彼女の温かさが私の手からだんだん流れ込んで来るようで、それは嫌な気分ではなかった。

「でもさ、手が冷たい人って優しい人だって言うじゃん。織原さんも勉強中断してあたしの髪編んでくれたから、良い人だよね」

 そう言うと彼女は私の手を放して、鏡を覗き込んで満足そうに笑った。優しい人と良い人が同じかどうかは置いておいて、私が彼女の髪を編んだことで彼女が喜んでくれるのなら、やってよかったな、と私は思った。

「ありがと、織原さん」

 そう言うと日向さんは立ち上がって、小さなバッグを掴むと教室を出てどこかへ行ってしまった。


 それからと言うもの、彼女は毎朝早くに登校するようになり、私は毎朝、彼女の髪を編むのが日課になっていた。

 友達でもない人同士で毎日人の髪を編む、編ませるのはお互い違和感もあって、私は彼女が自分で編めるように手解きをしてみたり、日向さんも何度も自分で挑戦してみたものの、どうやら彼女は致命的な『不器用』という人種だったらしい。次第に私は彼女が気の毒になって、彼女が今日もと申し出る前に後ろを向いて待っているようになっていた。

 お互いの他に誰もいない教室で「おはよう」を交わして、今日も寒いねだとか、雪降らないかなだとか、だいたいいつも彼女が私に話しかけてくれて、私はそれに応える形で会話をしながらほんの五分程勉強の手を止めて彼女の髪を編んでいた。お互い無言で髪を編み編まれていた最初の日に比べて、私達は随分言葉を交わすようになったと思う。もちろん、それはこの時間だけの話で、休み時間や放課後に『友達』がそうするように仲良くお喋りをするなんてことはなかったけれど。

「いつもありがとね。じゃ、あたし行くからまた後で」

 相変わらず、日向さんは髪を編み終えると小さなバッグを持ってどこかへ行く。どこに行くかは言わなかったし、なんとなく聞かない方がいいことのような気がして、私もあえて聞かないようにしていた。

 彼女が戻ってくるのは朝練組が着替えて教室に入って来る頃で、その頃には登校してくる人達で教室も賑やかになっていて、「後で」の言葉が果たされるのはいつも決まって翌日の朝になるのだった。

 日向さんの周りにはいつもたくさんの人がいて、私はクラスメイトとは必要最小限の会話しかしない。わかりやすいまでに正反対な私達が朝のあの時間以外に言葉を交わす機会なんて、無いに等しいのだ。それは別に避けられている訳ではなくて、時々日向さんは私に話しかけてくれるものの、私の方が戸惑ってしまうものだからどちらかと言うと私が避けてしまっているのかもしれない。

 朝の二人きりの時間だけが、お互い気兼ねなく話せる時間だった。


「ね、織原さんって勉強好きなの?」

 いつものように朝の教室で日向さんの髪を編んでいると、突然そう切り出された。

「別に……嫌いってことはないけど、この時間が一番静かで集中できるから」

「あ、もしかしてやっぱりこれ……迷惑?」

 彼女の髪を編むようになってから、気が付くと三週間も経っていた。寒さは一層と厳しくなって、空からは今にも雪が降り出しそうな気配がしてくる。もっとも、雪なんてたまに降っても積もることは年に片手で数える程しか無いこの辺りでは、降った所で何も影響なんて無かったけれど。それでも、いや、だからこそ、たまに振る雪は珍しさも相まってか人間のテンションを上げるものらしい。もうすぐ冬休みになるこの学校では、やれホワイトクリスマスがいいだの、彼氏と初詣に行きたいだのという会話がしょっちゅう聞こえてきていた。

「迷惑なら、とっくに断ってるよ」

「そっかぁ。よかった」

 彼女との会話も、随分続くようになったと思う。彼女の柔らかい髪に触れるのはもちろん嫌ではなかったし、むしろ私自身この時間を少なからず楽しみにしていた。

「はい、出来た」

「……ん」

 いつものように、日向さんは鏡を覗き込んで、満足そうに微笑む。でも今日は何故かその笑顔に少しの違和感を覚えた。その証拠に、いつもはありがとうと言ってすぐにどこかに行ってしまうのに、今日に限っては彼女はそこから動かないで座ったままでいた。

「……よいしょ」

 彼女は立ち上がったかと思うと、身を乗り出して私の教科書を手に取り、裏にある記名欄を見て私のフルネームを読み上げた。

「織原さん、下の名前桜子ちゃんって言うんだねぇ」

「あ……うん」

 家族以外に呼ぶことのないその名前を、彼女の口から聞いて私の心臓はびくりと跳ねた。

「えへへ。いつ言い出そうかなぁって思ってたんだけど、そろそろいいよね。桜子ちゃんって呼んでいい?」

「い、いい……けど」

 名前で呼び合うとか、そう言った普通の友達同士のやり取りのようなものもどうにも苦手で、でも日向さんだったらいいかな、なんて思ってしまうくらいには、私は彼女に心を開いていた。

「あたしのことも桃香って呼んでほしいなっ」

 そう彼女は笑顔で言ってくれるものの、慣れないものだから私は口ごもってしまう。

「も、桃香さん……」

「やだ。桃香でいいよ」

 私には「ちゃん」を付けるくせに、自分は呼び捨てにしてほしいなんて、なかなかハードルの高いことを要求された。何度目かのチャレンジで私が「……桃香」と呼ぶと、それでよし、と日向さん――桃香は満足そうに頷いて、いつもの時間になるとやはりいつも通りにどこかへ行ってしまった。

 ちゃん付けを通り越していきなり呼び捨てということになんだか落ち着かない気分で、それに何だか照れくさくて、その日は勉強が手に付かなかった。別に今更呼び方が変わったから桃香との距離感がどうこうというわけではなかったものの、そう言えば桃香はいつもどこに行っているのだろうか、なんて普段は気にしなかったことまで気になってしまう。

 とは言え、彼女を探しに歩くなんてことはしようと言う気にはなれなかったし、桃香の髪を編むようになってからずっと感じていた、『聞かない方がいいこと』のような気が、私を思い留まらせていた。それでも今日はもう勉強ができる気分じゃなくて、仕方無く私はお手洗いに立った。この教室からは渡り廊下を抜けないといけなかったが、冷たい風に当たればこの波打った気分も落ち着くかもしれない。

 渡り廊下からは、朝練に励む運動部の部員達の姿が見える。特にここからは、サッカーゴールがよく見えた。懸命にボールを追いかけている姿と、その端に知っているような人影を見つけて私の足は止まった。

 体操服姿の一人の男子部員に、制服姿の女子生徒が何か話しかけている。私の足は自然と渡り廊下を抜けて、より校庭に近い校舎の窓へと吸い寄せられていった。

 ここからなら、誰かぐらいは見えるかもしれない。校庭に面した校舎の窓を開けて先程見た人影を探すと、やはりそれは桃香だった。話している相手は、名前は知らないけれど多分隣のクラスの男子生徒だろうか。いつも持って教室を出て行く小さなバッグを彼に手渡して、遠目にも桃香が嬉しそうなのがわかる。桃香が振り返ると、私は咄嗟に窓の下に屈んで身を隠した。まさか見ていたのがばれた訳は無いだろうけれど、『見てしまった』ことに私の胸は締め付けられるように痛んだ。


 翌日、桃香は学校を休んだ。聞こえてきた『噂』によると、桃香は隣のクラスの男子生徒に告白をして、ふられたらしい。女の子というのはどうにも噂話が好きなようで、聞きたくなくても事の詳細が細やかに私の耳にまで入ってくる。

「毎日お弁当作って来るって、ちょっとやりすぎだよね」

「聞いた? 橘君が三つ編みの子が好きだからって、髪型変えたんだって」

「そう言えばちょっと前から毎日三つ編みだよね。なんかそういうのあざとくて引くかも」

 普段は彼女と仲良くしているように見えた人達まで、嬉々としてそんな話に混ざっている。私は苛々しながら、なるべく彼女の噂話を耳に入れないようにしてその日をやり過ごした。

 もちろん、私が毎日編んでいた彼女の三つ編みが、彼女の好きな人のためだったということは、私の心に少なからざるショックを与えていたけれど。

 私は桃香の家もメールアドレスすらも知らなくて、知っていたとしても連絡したりましてや家にまで行く勇気なんてあるわけがなかったけれど、学校まで休んだ桃香もきっととても傷ついているんだろうなということ位は人付き合いに疎い私でもわかる。きっと明日には学校に出て来るだろうけれど、もう私が彼女のために三つ編みをすることも無いのだろうということも。


 桃香と一緒に過ごす時間は朝のほんの限られた時間だけだったものの、それが無い一日というのはどうにも物足りなくて、なんだか寂しい気分になった。

 このもやもやした気持ちをなんと呼べばいいのかわからないまま家に帰ると、鏡に映った三つ編みが目に入り、私は自分の部屋に駆け上がった。

 毎朝桃香の髪に触れるのが楽しかった。時々私の冷たい手を握ってくれるのが嬉しかった。名前で呼んでくれたのも、名前で呼ばせてくれたのも、私にとって初めてのことで、桃香にならそうされても嫌ではなくて、桃香だけにそうしたいと私は思った。

 けれど桃香は違ったのだ。私が毎朝彼女の髪を編んでいたのは、彼女が好意を寄せていた相手の好きな髪型だったからで、私が髪を編み終えると、彼女はその男に毎日お弁当を手渡しに行っていた。

 朝の身支度をする時以外あまり見ることはない鏡を覗き込むと、いつもそこにある三つ編みがとても憎たらしく見えた。眼鏡を床に投げつけると、私は衝動的に鋏を掴んで、その忌々しいものを切り取った。

 床に落ちた三つ編みの残骸と、僅かな水の染みを見て、私は自分が泣いていることに気が付いた。

 制服の袖で涙を拭うと、自分で切った髪を集めてゴミ箱に収めて、財布を掴むとたまたま私に用事があったらしい母親がドアを開けて私の髪を見るなり「桜子あんたその髪どうしたの!」と叫んだ。私は母親を押しのけて、切ったから美容室行ってくる、とだけ言い捨てて脱いだばかりの靴を再び履いて、いつも行く美容室に向かった。

 いつも私の髪を切ってくれるおばさんは少しびっくりした顔をしたものの、失恋かな、なんて冗談混じりに言いながら私の髪を整えてくれた。ショートカットにするのは幼稚園の頃以来かもしれない。久しぶりすぎて、似合うのかどうかはよくわからない。胸下辺りまであったものが肩にぎりぎりかかるくらいになってしまって、首元がスースーする。冷たい風に今までより随分高い位置で髪が揺れるのを感じながら、切ってしまったことを少しだけ後悔し始めていた。

 どうやら買い物に行きたかったらしい母親は私の行動に心配したのか家で待っていて、そんな母親に伸ばすの飽きたから切っただけ、と言い訳をしたら「そう」と納得したのかしてないのかよくわからないような口ぶりで応えて、やや心配そうに私を見ながらも母親は買い物に出掛けてしまった。

「姉ちゃんどうしたのー?」

「三つ編みやめたの?」

 母がいなくなるととっくに幼稚園や小学校から帰って来ていた弟妹達が群がって来て、私の変貌ぶりにやたらと髪を触ってみたり、姉ちゃん違う人みたい、なんて言ってみたりして遊び始めた。

 その相手をしている間は気が紛れていたものの、夕飯を食べて妹達をお風呂に入れ終えて自室で一人になると、今まであった自分の一部を喪失したことを嫌でも自覚した。

 髪もすぐ乾くし、朝の支度も時間を短縮できる。そんなに悪いことばかりではないとは思うものの、喪失感の原因はそれだけではなかった。

 きっと桃香はもう朝早くに学校に来ることはないだろう。ふられてしまったのだから、もう三つ編みをする必要はない。それはつまり、私と桃香の関係の終わりも意味していた。

 せっかく名前で呼べるようになったのに、もう彼女の名前を呼ぶこともないのかもしれない。そう思うと、とっくに止まったはずの涙が再び溢れ出してきた。

 別に友達になって欲しかったわけじゃない。なんだか面倒で、あまり人と付き合うのも得意じゃなかったから今まで一人でいた。でも桃香と過ごす時間は、何故かとても楽しかった。桃香はこんな私とでも、楽しそうに話をしてくれた。

 誰かにこんな感情を抱くのは初めてで、それをなんと呼ぶのか私は知らなかったけれど、もう桃香と一緒にいられない、話すこともできないのは嫌だと強く思った。

 私はもう一度鏡を覗き込んだ。今までとは違う私がそこにいた。そうだ。髪を切る勇気はあったのだ。学校で、あの朝の時間以外に桃香に話しかけるくらいのことが、できないはずないじゃないか。

 私は決心して、電気を消してベッドに潜り込んだ。静かな部屋に、私の心臓の音がうるさいくらいに響いているように感じた。頭まで布団を被って、ぎゅっと目を瞑る。私は緊張していた。昨日、告白する前の桃香もこんな気持ちだったのだろうか。初めて経験する気持ちに戸惑いながらも、段々と私は眠りに落ちて行った。明日桃香に、何て言おうか、そんなことを考えながら。


 次の日、窓の外は一面白に染まっていた。一年ぶりに降った雪がうっすらと積もり、まだ降り続いている。

 今日は手袋もしていこう、そう思ってタンスを探ったものの、どこに仕舞ったのか思い出せない。仕方なく手が冷たいのを我慢して雪を踏みしめながら学校に向かう。いつもより一歩一歩を力強く踏み出さないと、薄く積もった雪の上は滑りやすい。今日は、私から桃香に話しかけるんだ。そんな小さな覚悟を胸に、私はいつも通りの時間に教室に辿り着いた。

 一昨日まで桃香は私の登校する十五分程後に来ていたから、私が桃香の三つ編みをし始めるより前に彼女が何時に登校していたのか私は知る由もない。いつ話しかけよう、どうやって、何を話せば。頭の中でぐるぐるとそんなことが回っていて、とりあえず机の上に出したものの教科書を開く気分にはなれない。

 だいたい私が些細な覚悟を決めたところで、彼女になんて近付けないのかもしれない。元々接点などなかったのだ。たまたま、彼女が私を利用してくれたから、少しお近づきになれただけ。そんな弱気な思考が浮かんできた頭の片隅に、ドアをスライドさせる音が聞こえたような気がした。

「うぅ〜寒い。寒い寒い」

 いつも聞いていた声が聞こえた気がして、思わず振り返る。紺色のダッフルコートに、ふわふわのピンク色の耳当て。目が合って、「おはよ」と微笑んだ彼女に、私は思わず駆け寄った。

「も、桃香……どうして」

「今日は一段と寒いねぇ〜。あ! 桜子ちゃんの手めちゃくちゃ冷たい」

 コートのポケットに入れていた手を出すと私の手を取って、じんわりと温かい彼女の体温が私の手を伝って流れ込んで来る。

 一昨日までと変わりなく、にこにこと笑う桃香だったけれど、目には泣き腫らした跡が残っている。きっと、昨晩も泣いていたのだろう。

「昨日、休んだから……心配したよ」

「ごめんごめん。もー大丈夫だから」

 桃香はぱっと私の手を放すと、自分の席に鞄を降ろしてコートを脱いだ。いつも机の横に掛ける小さなバッグは、無い。

 私が立ち尽くしていると、桃香は私の後ろの席——いつも彼女の髪を編んでいた席にどかりと座って、私を手招きする。

「今日はやってくれないの? というよりその髪! どうしちゃったの!?」

「え、あ、え?」

 彼女の行動が理解できなくて、私はおろおろしながらとりあえず自分の席に戻った。いつもの癖で彼女からヘアゴムとブラシを受け取って、彼女の髪を二つに分けて……我に返る。

「え、だって……ふられたって」

「……桜子ちゃんけっこう厳しいところ突いてくるよね〜。ちょっと、そこはそっとしといてよ。五分くらい」

 それより、と桃香は私の髪の毛先を触って弄ぶ。「もったいない」とか、「なんで?」とか、桃香の口からは私がばっさりと髪を切った理由を聞きたいと言う言葉が矢継ぎ早に出て来たものの、私はなんと答えたらいいのかわからなくて、「別に」とか「なんとなく」とか適当に返事を返して、後は黙々と彼女の髪を編んだ。

「……五分経ったから、話すね。あたし、ふられちゃった」

 丁度、二つ目の三つ編みをヘアゴムで留め終えた頃、桃香は口を開いた。

「隣のクラスのサッカー部の人。半年片思いしてたんだよ〜。それで、なんとか仲良くなって、朝練きついって言ってたから、応援しに行っていい? とか言っちゃったりして、この一ヶ月は毎日お弁当作って、彼が三つ編みの子がタイプって聞いたから、あたしも三つ編みにしよう! とか思い立ったりして」

 話しながら、彼女の目にはうっすら涙が浮かんでいた。時々、それを手で拭いながら、桃香はそれでも話し続けた。

「でもね、あたし不器用で」

「それは知ってる」

 私が即答すると、桃香はふふ、と笑って私が編んだ三つ編みを手に取って大事そうに両手で包んだ。

「桜子ちゃんがあたしの髪を編んでくれて、彼の好きな三つ編みの女の子になって、毎日彼に会ってたの。それでとうとう、一昨日の放課後告白して、ふられて、昨日は学校にも来られないくらいショックで、ずーっと泣いてた」

 きっと、彼女はそれが既に噂になって少なくともこのクラス中には流れていることも知っているのだろう。昨日彼女の噂話をしていた女の子達も、またきっと桃香と普通に話す仲に戻っている。そういうものなのだろうということは、人付き合いのほとんどない私でもわかる。みんなと仲良くするというのは、そう言ったことも受け入れて、きっと大変なことなのだ。それが悪いことだなんて私は思わない。『友達の輪』を乱さないように、その輪からはみ出さないように、彼女たちは努力している。私はそう言った努力を放棄して、彼女達から距離を置いていただけの話だ。

「でね、彼の言い分がひどいのよ。友達だと思ってた、だって! 信じられる? 普通友達に毎日お弁当持って行ったりする?」

 きっと、その彼も桃香が自分に好意を寄せていることくらいはわかっていたに違いない。毎日お弁当を持って行ったり、好みの髪型にしていくなんて、わかりやすいにも程がある。色恋沙汰に全く縁の無い私でも、それを聞いたらわかるくらいに。断るにも彼女を傷つけないためにと、彼も苦心した結果出て来た言葉なのだろう。そしてそれは、桃香自身も気が付いているように思えた。

「だからね、もういいの。しばらくは顔見るのも辛いと思うけど、多分そのうち忘れられる」

「……でも、どうして今日も?」

 泣いた跡はあったけれど、桃香は吹っ切れたように見えた。でも、今日も彼女はこの時間に教室にやって来て、今まで通り、私の手で三つ編みにした。

「それはもちろん――って、その前に! 桜子ちゃん何で髪切っちゃったのか、教えてよ」

「え、あ、いや、だからそれは……」

 それは? と桃香はじっと私の目を見つめてくる。困った。上手く言葉にできないけれど、原因は桃香なのだ。でもそんなことを正直に言って、嫌われたりしたらどうしよう。せっかくまた彼女がこうして私の手の届く場所に現れてくれたのに、彼女を遠ざけたくはない。

「ま、言いたくないならいいや。あたしも一瞬だけ考えたの。もうこんな髪切っちゃおうかって」

「……なんでやめたの」

 失恋で髪を切る。それは聞いたことがある。健気に恋をしていた桃香らしいとも思う。ある意味私もそうなのかもしれない。

「だって、切っちゃったらもう桜子ちゃんに三つ編みしてもらえないじゃない?」

 私は固まった。つまり桃香は、片思いの相手の為にしていた三つ編みをもうする必要がなくなって、それでも、私に髪を編んで欲しいと言うことなのだろうか。

「……ほんとはね、もう三つ編みなんて見たくもないって、ふられてすぐは思ってたの。で、一思いにやっちゃおうって鋏当てたりして。でもね、桜子ちゃんが編んでくれた三つ編みだから、切れなかった」

 ありありとその時の様子が目に浮かぶ。私が衝動的に髪を切った時と、同じ光景だ。

「切ったら……桜子ちゃんとの関係まで切っちゃうような気がして」

 私は、もう桃香との関係も切り捨ててしまおうとしていた。けれど彼女は、切らないでいてくれた。それが私には申し訳ないような気分で、でもとても嬉しくて、今なら一歩踏み出せそうな勇気を与えてくれた。

「あ、あの、私……」

「どうしたの?」

 こんなことを誰かに言うのは初めてで上手く言える自信もない。でも何か重大なことを言い出しそうな私の言葉を、桃香は待ってくれた。緊張で頭がおかしくなりそうなのをこらえて、私は言葉を絞り出す。

「わ、私と………………友達になって下さい!」

 言った瞬間、桃香はきょとんとして、何秒か後に盛大に笑い出した。私は訳がわからなくて、ただ顔が熱くなるのを感じていた。ひとしきり、涙が出るまで笑った桃香は、それをまた指で拭いながら笑いをこらえて応えてくれた。

「い、今更……もう、とっくになってるよ! ……でも、うん。なろ、友達」

 桃香が私の手をぎゅっと握ってくれた。温かくて柔らかい、桃香の手。それが触れると、私は嬉しいと思った。

 私が言いたかったことは、本当は違う言葉だったのかもしれない。でもそれは今の私にはまだわからないことで、でもきっと、私の髪がまた三つ編みを編めるようになる頃には、違う言葉を言えるような、そんな気がしていた。


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