06
あの後のことは、あっという間過ぎて、あまり良く覚えていない。
私は情けないことに、由良にしがみついたままがたがたと震えていた。
山崎さんを先頭に、見知らぬ大人が三、四人部屋にやってきた。カラスについばまれている毛虫を見て、険しい顔を浮かべた大人たちは、私と由良を室内に退避させ、ベランダでこそこそと何かをやっていた。
山崎さんは、由良にしがみついて涙目を浮かべていた私を見て、「大丈夫か? 桜居」と笑いながら声をかけた。ちょっと面白がっていないか? この人。と疑いたくなるような笑みだった。
ふと、ベランダに視線を戻してみれば、いつの間にかあの毛虫は消えていて、カァと鳴き声を上げるカラスが、ベランダから飛び立っていくのが見えた。山崎さんいわく、「事件が事件化する前に終わってよかったよ」とのことだが、私にとってあれは、まぎれもなく大事件だった。
そうして、現在――。
「私、《憑き物係》なの」
ルームメイトである東条由良は、口元をほころばせたような笑みを浮かべてそういった。
オーケー。現実よ、戻ってこい! と念じてみたものの、夢から眼覚める気配はない。どうやら、これはれっきとした現実であるらしい。と、私は観念するように、食堂のおばちゃんに叫んだ。
「おばちゃん! ご飯お変わり!」
「あいよー」
ただいま、食堂にて夕飯を食べている最中である。
首の後ろのあたりに、まだうすら寒いような気配は残っているが、今は一時、それを忘れるように一心不乱にご飯を食べることにした。お昼ご飯もまともに食べていなかったので、とてもお腹が空いていたのである。
昼にはきれいな列をなしていた机も、レストラン時代の姿を取り戻すように、四角い四人掛けのテーブルが間隔をあけて並べられていた。
その向かいの席に座る由良は、苦笑を浮かべながら夕飯を食べている。
「ヒナタって、食べる方だったのね」
「食べなきゃやってられないんだって!」
不可解な現象に巻き込まれたばかりである。呆然とするよりも前に、日常を取り戻すことが今の私にとっては急務だった。
ようやっと自分の気持ちが落ち着いてきて、例の《憑き物》についてのことを尋ねてみる。
すると、何やら難しい説明が返ってきて、まったく理解していないことを察した様子の由良はため息をこぼした。
「――とにかく、そういう《憑き物》と呼ばれる存在がいるのよ。いつもはその辺りにいるだけなのだけれど、ちょっとした拍子に人や物に憑いたりするの。普通の人は見えないものとして振る舞っているだけで、どこにでもいるものなのよ。ただ、意識をむけなければ、見えないものになってしまうというだけで」
そんなお化けみたいなもの、いるわけがない。という言葉を思い浮かべて、私はそれをごくりと飲み込んだ。もはやそんな否定の言葉を述べる気にはならなかった。実際に、この目であれを見てしまってからは。
「知らない間に憑りつかれてしまう人も多いの。特にこの辺りは、そういう土地柄でもあるみたいで……そういうトラブルの対処にあたるのが……」
「憑き物係ってこと?」
「すべてを対処するわけではないの。共生共存は認められていて……だから、ヒナタの場合も、どちらか迷ってしまって……」
由良は、どこか申し訳なさそうに言った。
憑き物をすべて退治するわけではないのなら、迷ってしまっても仕方がなかったのかも知れない。何せ今日は入寮日だ。私のことだって、よく知らなかったはず。憑き物を剥がすか否か、判断する材料が少ない中で、必死に考えてくれたに違いない。
「《春の虫》が活発に動き出す時期だから、警戒はしていたのだけれど……」
「それって、悪いものなの?」
「いいえ。《春の虫》というのは、春に出てくる憑き物の虫の総称なの。だから、一概には言えないのだけれど……彼らはただ、そこにいるだけなのよ。普通の虫と同じように、春の木の下で、自然の流れの中で過ごす。数が多いから、人に憑きやすいだけなの。けれど、虫が厄介なのは、人の影響を受けやすく、また人に影響を与えやすいことにあるの。前に憑りついていた人の意識を媒介してしまったりすることもあるのよ。その上、幼虫のあいだは食欲が旺盛で……」
食欲旺盛。その言葉に、私は竜田揚げに伸ばしかけていた箸をピタリと止める。
「えと、その憑き物って何食べてるの……?」
「憑き物の形態にもよるのだけれど、基本的には《気》を取り込んでいるの。彼らは生き物ではない不安定な存在だから、《気》を取り込むことで、存在を維持しているの」
「《気》って、つまり、人間でいうと……?」
「人間でいうと……精気といったところかしら?」
ぞわりと、首筋に寒気が走る。ふいに、首の後ろのあたりが心もとなくなって、そっと手のひらをあてがってみる。
後頭部を圧迫していた存在は、ごっそり消えてなくなったが、代わりにそのあたりにあったはずのものが、ごっそり持っていかれてしまったような感覚だった。目に見える怪我や傷はない。けれども、確実にあの《虫》が存在するための、何かが食われている気がする。
「それって、私、食べられてた?」
「ええ、そういうことになるわね」
にこりとした笑みを浮かべて由良はうなづく。まるで、何でもないことのように。
由良は大丈夫なのだろうか。あの時、由良の指先から出ていた金魚。あれも憑き物なのではないだろうか。あんなものに憑かれていて、怖くはないのだろうか。
おずおずと、様子をうかがうような視線を向ける私を前にして、由良はふっと口元をほころばせる。
「そんなに怖いものでもないのよ。良好な関係を築いていける人は、そう多くはないのだけれど、付き合い方を間違えなければ一緒にいられるものなのよ」
「ふーん……」
私はちょっと納得がいかないながらも、うなづいておくことにした。あの人面毛虫に比べれば、確かに由良の金魚は悪いものに思えないくらい、優雅で綺麗だった。
「ヒナタに一つ聞いておかなければならないことがあるのだけれど……」
「ん? なに?」
「あのカラスをどうするかについて」
「どうするって?」
由良の言葉に私は首をかしげる。
どうするもこうするも、あのカラスは大人が来た時点で、逃げるように飛び去って行ったはずだ。それで終わりなのではないのだろうか。のんきにそんな考えを浮かべていた私に、由良は言う。
「あなた、あのカラスに憑かれてるわよ」
一瞬、聞き間違いではないかと、耳を疑う。
「え? なんで? カラス飛んでいったじゃん! あれでもうおしまいじゃないの?」
「巣に戻っただけだと思うわ。あなたのそばにいると、餌がもらえると勘違いしているようだから、たぶん、明日も来るのではないかしら。今朝、餌をあげたあの瞬間に、憑かれてしまったようなものだもの」
由良に言われて、今朝のことを思い返す。
あのカラスと接していたのは、時間にしてたった数分の出来事だ。弾き飛ばした毛虫が偶然、カラスのもとに転がってしまっただけ。たったあれっぽっちの出来事で、憑りつかれてしまったというのだろうか。んな、バカな。
「あ、あれっぽっちのことで、憑いてもいいよってことになるの?」
「憑き物に興味を持たれ始めたら、それはもう憑依関係の最初の一歩よ」
「それだったら、世の中の人みんな憑かれちゃうんじゃないの?」
「ええ。だから、よくあることなのよ」
いやいや、よくあったら困るよ!
にこりと笑う由良を前にしたら、もう何も言えなくなっていた。
「憑き物と良い関係を築いていくことは滅多にできることではないの。あのカラスと良い距離をおけているのなら、いっそのこと共生関係を築いてみたらどうかしら?」
「いやいや、さすがに、あんな気持ち悪い毛虫に憑りつかれていたあとで、はいそうですか、って言えないよ。いまだに、さっきまでのことは夢物語なんじゃないかなって思ってるくらいなんだから!」
「そう……そうよね……」
そういうと、由良の顔がほんのわずかに曇った。
それを見て、私は失言に気付く。毛虫に憑かれていたとはいえ、由良の前で思い切り、由良を怖がるような素振りを見せてしまっているのだ。あの時、由良は笑っていた。ぎこちない笑顔で。もしもあの時の笑みが、強がりなのだとしたら、私は助けてくれた由良を傷つけてしまったことになる。
「あのね、由良っ」
私は慌てて、由良を呼ぶ。
まとまらない考えで、まとまらない言葉のまま、何とかそれを伝えなければならないと思った。
「私、由良のことは、もう怖くないよ? 全然まったく! そりゃ、実際に見てなきゃ、由良の言ってること信じられなかったかもしれないけれど、もう見ちゃったわけだし。終わって、ひと段落して、おいしいご飯も食べれて、だからもう、そのことは大丈夫で……」
少し驚いた様子で目を瞠った由良は、またくしゃりとほほ笑む。ちょっとだけ弱ったような顔を浮かべて、「なら、よかった」と言いながら。
「それと、まだ、言ってなかった言葉があったと思って」
「なに?」
首をかしげる由良を前にして、わたしは少しだけ背筋を伸ばした。
何度言っても、足りない言葉を。精一杯の感謝の気持ちを込めて。
「助けてくれて、ありがとう」
由良は一瞬、虚を突かれたような顔を浮かべて、「どういたしまして」と、言った。
今日、四度目の台詞だった。
こうして、私は入学した神庭学園で初めての友達と出会った。
名前は東条由良。ちょっと不思議な、憑き物係の女の子だった。