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04

 カラスがいた。白い桜の木の中に埋もれるように、黒い一羽のカラスがいた。

 私は木の枝に張り付いて、下からそのカラスを見上げている。

 見つからないように息をひそめて、じっと動かずにいる。

 カラスがどこかへ飛んで行ってくれることを、心の奥底で強く祈りながら。

 もう少し。あともう少しで、あの鋭いまなざしから逃れることができるのに。あともう少しなのに。

 あいつが見ている。あいつがじっとこっちを見ている。

 吸い込まれそうなほど深く暗い、黒の瞳がじっとこちらを見ていた。

 あのカラスの瞳と、同じ色の瞳を知っている。黒髪黒目の、ともすればカラスのように陰気な空気をまとわせる少女を。その姿かたちが重なっていく。


(ちがう! そうじゃない!)

 ――ヒナタ


 否定する声は、私の名前を呼ぶ声に飲み込まれていく。

 名前を呼ばれるたびに、由良の口がゆっくりと開く。ゆっくりと動く口の中にもまた、底の見えない暗闇が広がっている。

 まるでカラスのくちばしのように、真っ黒で、真っ暗だった。

 近づいてきた暗闇に、その黒がカラスのものであるのか、由良のものであるのか、わからなくなる。

 黒い影を否定すればカラスへと姿を変え、でも、と、不安を浮かべた瞬間に、由良の姿が浮かび上がるのだ。黒い影はどちらでもいいように、気まぐれに姿を変える。まるで都合よく、どちらかに闇を擦り付けるように。


 カァ――


 カラスの鳴き声が耳に届いた。

 その瞬間、鋭い爪をもった脚が首筋に乗せられる。抉るような爪が、少しずつ柔らかな肌に食い込んでいく。ぷちりぷちりと音がする。まるで、何かが首の中に入り込んでいるかのように。


 ああ、そうだ。この感触だ。私はこの感触を知っている。人の肌に、鈍く、重たく、刃物を突き立てる時のあの感触を。


 カラスが毛虫をついばむように、その毛で覆われた衣をはぎ取って、むしりとって、身を引き裂いて。

 あれは何だった?

 あれは毛虫のような、何かだった。毛虫のように蠢いていた。地面を這いずり回っていた。毛虫のようにのたうち回る人間が、地面に転がっていた。

 そうだ、あれは人間だった。私は人間を見下ろしていた。

 ああ、そうか。怖いなら、ああすればいいんだ――。



 視界の端で、白いカーテンが揺れていた。窓は開いていて、少し肌寒い。冬に置き去られた冷たい風を招き入れているようだった。

 白いカーテンに、身体の上にかけられた白いシーツ。辺りをぐるりと見渡しながら、順に視線を留めていって、その先にいたのは寮監の山崎さんだった。ベッド脇のパイプ椅子に腰かけているところだった。


「ああ、目ー覚めた?」

 顔を上げた山崎さんが気が付いたように言った。

 私はベッドからゆっくりと上体を起こしながら、状況を確認する。

「ここは……?」

「茜寮のケアルーム。まあ、学校でいうところの保健室みたいなもんだよ」

「ケア……?」

「怪我したり、風邪ひいたり、体調の悪い生徒が来る部屋」

 私の額に手をあてながら、山崎さんは言う。

「桜居、倒れたんだよ。覚えてる?」

 その言葉に、私は記憶を掘り起こしてうなづいた。

 確か、写真撮影を終えた瞬間に、ほっとしたように身体から力が抜けていったのだ。


「具合は?」

「らいじょーぶです」

 寝起きのせいか、うまく口を動かすことができなかった。

 山崎さんが訝しむような顔を浮かべる。整った顔立ちをしているからこそ、その顔が少し怖い。

「家出てくるときから、体調悪かった? 親御さんに連絡したほうがいい?」

 矢継ぎ早に飛んでくるそのどちらの質問にも、私は首を横に振っていた。

 それでは、今日一人でここに来た意味も、寮生活を始める意味もなくなってしまう。

 それに、どこかぐったりとはしていたが、風邪を引いた時とは何かが違っていた。喉が痛いわけでもなく、鼻水が出ているわけでもなく、関節痛もない。頭は少し痛みを訴えているが、熱を出した時とは違う痛みだ。何か後頭部をひどく圧迫されているような感じがする。枕が固かったのかもしれない、なんて思ってしまえる程度の痛みだった。


「今、一年生の歓迎会やってる最中だけど、途中からでも参加する? それとも部屋に戻りたい?」

 耳をすませば、開け放った窓の向こうから、楽しげな笑い声が聞こえてくる。

 そうだ。そういえば、くるみ先輩が歓迎会ではゲームをやると言っていた。ゲームの賞品はビックリするようなもので、お楽しみだと言っていた。出たい。けれど、――そこに行けば由良がいる。

 ふいに、いつの間にか自分が、カラスと由良を混同して考え始めていることに気付く。

 あんな変な夢を見たせいだ。そう思うのに、なぜだか、嫌な関連付けばかりをしてしまう。カラスがいた時には、いつも由良が近くにいた。初めて出会った時から、ずっと。


「あの、ここにいるって、できませんか?」

 私はとっさに、そう口にしていた。

 一瞬、ぴくりと眉根を寄せた山崎さんは、一瞬の沈黙を置いて言う。

「いいけど、体力あるうちに部屋に戻った方がいいと思うよ? 戻って着替えたりした方がいいだろう? じゃないと、明日の入学式までに、制服がしわくちゃになっちゃうぞ」

 とんと指先で肩を突かれて、自分が制服のまま横になっていたことに気付く。「せめて、上着だけでも脱いだら?」という山崎さんの言葉に素直に従うことにした。

「それで、ここにいたい理由でもあるの?」

 私が脱いだ上着を、壁際のハンガーラックにつるしながら、山崎さんはそう尋ねた。

 理由を聞かれても、私は何を話したらいいのかわからなくなっていた。

「話したくなったら話してくれるんでも良いんだけど。これでも一応、寮監だからね。何かあれば力になるよ。何かをしてほしいでも、大げさにしないでただ愚痴をこぼしたいとかでもかまわない」

「そうじゃ……ないんです……」

 どう、説明をすればいいというのだろうか。この不可思議な現象を。


 カァ――


「――っ!」

 近くで聞こえたその鳴き声に、私は反射的にシーツを手繰り寄せていた。口元が隠れるくらいまでシーツを引っ張り上げて、恐る恐る鳴き声の方――窓際へと視線を走らせる。

 揺れる白いカーテンの向こう。窓枠に留まったカラスがいた。あのカラスだった。一回り小さい、巣から落ちてしまったカラスの雛。それが、もう、立派に飛び回っていた。まるで、あの時、巣から落っこちてきてしまったこと自体が、嘘だったみたいに。


「なんだ、あれ、桜居の?」

 山崎さんが声をあげる。その言葉は冗談のつもりなのだろうか。まるで、私が飼っているペットみたいな口調で言った。そんなこと、あるはずがないのに。

「ち、ちがいます! あのカラスに、ずっと付きまとわれてて……」

「あー……なるほど、それで、怖がってるのか」

 うん、わかった、と山崎さんは何度か頷いて「良いよ、追い払ってきてあげる」と、席を立った。

 勘のいいカラスは何かを察したのか、山崎さんが立ち上がった瞬間に窓枠から飛び立っていく。ずるがしこいカラスだ。大人相手には、早々に逃げ出すのだから。

 窓辺に歩み寄った山崎さんの手で、ガラガラと窓が閉められる。ついでに、カラスが見えないようにとカーテンも閉めてくれた。

「これで、少しは落ち着いた?」

「ありがとう、ございます」

 私はぎこちなく言う。

 山崎さんは何でもないような笑みを浮かべながら、ベッド脇に置かれたパイプ椅子に座りなおす。

「しかし、なるほどねえ。カラスに付きまとわれている、か」

 何か含んだところがあるような言葉だった。

 山崎さんは、うーんと鼻を鳴らすような声をあげて、視線をさまよわせる。何か言いたいことでもあるのだろうか。


「それはいつから? 最初から、全部話してもらえる?」

 柔らかな口調で問いかけられて、私はぽつりぽつりと記憶を掘り起こしながら答えた。

 今朝のこと。茜寮から少し離れた場所にある桜並木を歩いていた時のこと。カラスの雛が巣から落ちるのを目撃したこと。そこで由良に出会ったこと。それから、寮の敷地内にカラスが現れたこと。

 山崎さんはそれらを飲み込むように、ふむとうなづいた。

「桜居は、そのカラスが怖いものだと考えているんだね――東条のことも」

 事実だけをかいつまんで説明したつもりが、私がそれをどう思っているのかも見抜かれているようだった。山崎さんの言葉を否定できずに、おずおずと首を縦に振る。それを見て、山崎さんは「そうか」とうなづいた。

「そうだなあ。こう考えてみるのはどうだろう? 全部一度切り離して、整理して考えてみるんだ」

「切り離す?」

「怖いと感じている考えと、実際に起きたことを切り離して、整理して考えてみてごらん。話を聞いていると、今日一日でいろんなことがあって、少しごちゃごちゃになってしまっているように感じるよ。聞けば、カラスや東条が何かをしてきたことはないんだろう? なら、その怖いと感じる、もっとほかの原因があるはずだ」

「ほかの……?」

「四月って言うのは、特別な月だからね。いや、特別じゃない月なんてないんだが……。四月は特に新しいことが始まる月だろう? 新しいことに踏み出して、新しい人と出会う。気持ちが高揚するその裏では、臆病の虫が顔を出していたりするもんなんだ。まあ、言うほど、悪いもんでもないんだけど……」

 山崎さんは言いかけて、「話がそれたね」と言って笑った。

「とにかく、過度に怖がり過ぎる必要なんてどこにもないよ。一度、その怖がりを切り離してみてごらん。まずはそこからだ。その先、何を受け入れて、何を選択して、どういう道へ進むのか。それは、桜居しだいだよ。ほかのだれも選べない。桜居がどうするかは、桜居が決めるしかないんだ」

 その言葉に私はなんだか、突き放されたような思いを感じていた。自分で決めるしかないなんて、そんなの決まっているのに。怖いものが全部いなくなればいいのに。

 あのカラスに直接何かをされたわけではなかった。けれど、あのしつこさは異常だ。これから先、襲われないという確かな保証はどこにも無いのに。いいや、予感があるから怖いのだ。周りに誰もいなくなった瞬間に、ちょっとでも気を抜いた瞬間に、あのカラスが飛びかかってくるに違いない。そうしたら、私はどうなるのだろう。背中を押さえつけられて、皮膚をむしられて、食べられてしまうかもしれない。

 あのカラスは普通じゃないのだ。一人の人間にくっついて、学校まで追いかけてくるなんて、誰かがけしかけているとしか思えない。桜並木の下。茜寮。そのどちらにもいたのは由良しかいない。由良しかいなかったのだ。


 ベッドの上で、膝を抱えてうずくまる私を見て、山崎さんはため息をこぼしたようだった。

「あまり、それに浸らないほうがいい」

 その言葉に、さらなる追い打ちをかけられたような気がして、私は抱えた膝に目元を押し付けて閉じこもった。この不安な気持ちを誰にもわかってもらえない。そんな気がしていた。



 それから、少ししてからのことだった。

「じゃじゃーん! 遊びに来たよー」

 室内を包んでいた重たい静寂を打ち砕くような声が、入口から飛び込んできた。

 驚いて顔を上げると、ドアの隙間からするりとくるみ先輩が入り込んでいた。かと思った次の瞬間には、くるんと回ってベッドの上に横向きに座るように飛び乗る。くりくりとした大きな瞳が、膝を抱えた私の顔を覗き込んでいた。

「ヒナちゃん、だいじょーぶー? 倒れたって聞いたよー」

「あ、の、だい、じょうぶです」

 驚きと戸惑いで、ぎこちなく答える。

 そんな私を見て、「うんうん、そっかそっか」とうなづいたくるみ先輩は、「じゃあ、その言葉を信じよーかなー」と言って、にへらと笑った。

「立花、おまえノックくらいしたらどうだ? あと、ここは遊びに来る場所じゃない」

 突然の訪問者に、ベッド脇にいた山崎さんがあきれた視線を投げかける。

 くるみ先輩は誤魔化す時の笑顔を浮かべて、山崎さんを振り返る。

「いやん、ヤマちゃん、かたいこと言わないでー。歓迎会終わったよーって言いに来たのにー」

「おまえがそれを伝えに来てどうする? あっちはいいのか?」

「後片付けまでばーっちり!」

 私が呆然としている間に、目の前ではしばらくそんな会話が繰り広げられていた。何の話をしているのか、話の内容は半分もわからなかったが、歓迎会はすでに終わってしまったらしい。ほかの一年生たちは部屋に戻ったり、団らんしたりしているとのことだった。


「それでねー、ヒナちゃんにお土産があるんだよー」

 くるみ先輩は、くるりと私に向き直りながらそういった。脇に隠していた小包を「じゃーん」と取り出す。プレゼント用にラッピングされた、両手で抱えるほどの袋だった。

「なんとっ、ビンゴ大会三等賞、お菓子の詰め合わせセットを当ててきてしまったのです!」

「おい、立花。ビンゴ大会は確か、一年生のみの参加じゃなかったか?」

「なのでー、ヒナちゃんの代役を見事に果たしてビンゴ達成ー! いえーい!」

「おまえな……勝手に……」

「嫌だなー、ヤマちゃん。勝手じゃないですよー。主催者がオッケー出したら、オッケー的なあれですよー?」

 にこにこと笑うくるみ先輩を前にして、山崎さんは呆れかえった様子で「もういい」とこぼしていた。

「というわけで、はい、ヒナちゃん。あーげるっ!」

 ずいっと差し出されたそのプレゼントと、くるみ先輩の顔を交互に見ながら、思わず戸惑ってしまう。

「い、いいんですか? 私、何もしてないのに……」

「良いんだよー。あたしはヒナちゃんに配られるはずだったビンゴカードで、ヒナちゃんの代わりにビンゴー! って叫んできただけだもん。それにねー、出られなかったのは仕方がないことでしょー? むしろ、楽しいゲームに参加できなかったんだから、これくらいは、もらっておいても、罰は当たらないんじゃないかなー?」

「ありがとう、ございます」

「うんうん。次はねー、スポーツレクに、五月には寮の子たちで遠足に行ったりするから、楽しみにしててねー」

 なんていう、くるみ先輩の言葉に、私は少なからず励まされていた。

 わけのわからないことばかりでふさぎ込んでいたのが、まるで嘘のように、気持ちをぐっと引っ張りあげられているような気分だった。気にかけてもらっていることが申し訳ないと思う反面、向けられる笑顔になんだかほっとしてしまう。私はくるみ先輩の笑顔につられるように、ふっと笑っていた。


 その時だった。

 ケアルームの扉がこんこんとノックされる。「失礼します」と聞こえてきた落ち着いた声。開いた扉の向こうに黒い髪が見えて、私はさあっと表情を変えていた。由良がそこにいた。

「今度は、東条か。どうした?」

 山崎さんが入り口に声を飛ばす。私が山崎さんに話したことを、由良に伝える気はないようで、いたって普通の様子で話しかけていた。

かかりのことで、少し山崎さんにお話が……」

 係? 何の話だろう。

 疑問を浮かべる私に由良がちらりと視線を向けたような気がした。

 たったそれだけのことで、なぜだか身構えてしまう。さっきまで、普通にしていられたはずだったのに。


「ヒナタ……?」

 じりっとベッドの上で後退していく私を見て、由良は顔をしかめる。

 部屋に一歩足を踏み入れる由良を見て、私はまたベッドの上でじりじりと後退していく。本人を前にしたことで、夢に見ていた時よりも、はっきりとそれを自覚するようになっていた。由良が怖い。由良に視線を向けられることが。何を考えているのかわからない、その顔を向けられることが。不安以上の恐怖がそこにあった。

 横にいたくるみ先輩が、私と由良を交互に見て首をかしげる。

「ヒナちゃんどーかしたー?」

 聞かないでほしい。何を聞かれても、何かを答えられる自信がなかった。

 部屋の中の視線が集まる。視線を集めるようなことをしている自覚がありながら、その状況に恐怖していた。向けられる瞳の黒い色がとてつもなく怖いものに見えていた。

「立て込んでいるようですので、出直します」

 ぽつりと由良が言った。

 山崎さんが、入り口を覗き込むようにして振り返る。

「ん、良いのか?」

「ええ、先に、やるべきことができたので」

「そうか。わかった」

 そんな短いやり取りで何がわかったというのだろうか。

 山崎さんは神妙な面持ちでうなづいていた。

 由良は引き返すようにくるりと背を向けて、静かに部屋を後にしていった。

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