03
「それにしてもびっくりしたー」
くるみ先輩を見送って、一息つくように私はそうつぶやいていた。
それはこちらの台詞よ、と言いたげに黒髪の女の子はふっと笑った。
「あなたも、この学園の生徒だったのね」
「中学からの入学なんだ。だから、外進生」
「そう。私は内進なの」
「だと思った」
なんとなく、そんな気はしていた。
寮に慣れきった様子に、くるみ先輩とも顔見知りの様子だった。何よりも落ち着きすぎているその物腰が、内進生であることを物語っていた。
「ところで、……桜居さん」
「ヒナタでいいよ」
一瞬、呼び名に迷った様子の彼女に告げると、「じゃあ、私も」という言葉が返ってきた。他人行儀な呼び方はしなくていい、という意味なのだろう。
「それで、ヒナタ、右と左、どちらのスペースがいいかしら? 何か希望はある?」
由良(と呼ぶことにしようと思う)の言葉に、私は改めて室内を見渡す。
ワンルームの室内は、左右対称になるように家具が並べられていた。
入り口側から、靴箱、ベッド、クローゼットに学習机。それらが壁際に並び、真ん中は通路のように空いている。
たったそれだけのことを決めるためだけに待っていてくれたようで、由良の荷物は窓際に置かれたままだった。そんな律儀な一面に、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。先に来たのは由良の方なのだから、選んでいてくれてもよかったくらいだ。
「私は特にどっちがいいっていうのはないんだけど、由良は?」
「そうね。左のスペースを使わせてもらおうかしら」
「じゃあ、私は右ね」
うなづいて、荷解きにかかる。
午後からは入寮式だ。それまでに、やってしまわなければならないことが目白押しなのである。
ふと、段ボールの上に乗せられた小包に目がとまった。
「あ、そうだ。寮監の山崎さんが荷物紛れてたって……」
言いながら、小包を手にとろうとした瞬間。
ぞわりとした何かが右腕を駆け抜けていく。触れた指先が、突き指をしたみたいに硬直していた。勢い余ってぶつけてしまったのだろうか。だが何かが違う。痛みではない、わけのわからない感覚に「つ……」と短い悲鳴が漏れる。
「どうかしたの?」
由良が気づかわしげに、こちらを振り返っていた。
私は「なんでもない」と苦笑を浮かべて、それらしい理由を思い浮かべる。
「なんか、静電気?」
「静電気?」
冬は過ぎたのにと、由良は首をかしげていた。
それから、段ボールの上の小包を見つけた様子で、「あら、これ」と由良が言う。
「ああ、そうそう。由良の荷物が紛れてたから渡しておいてくれって、寮監さんからお願いされたの」
「どうりでないと思ったら、手違いだったのね。ありがとう」
ふっと笑って、段ボールの上から小包を受け取っていく由良を見て、「あ、静電気……」と言いかけたが、何も起こらなかった。どうやら静電気をため込んでいたのは私だけだったようだ。「どういたしまして」と、受け答えながら、私の視線は由良の指先に留まっていた。
小包を受け取った由良の指先には、絆創膏が巻かれていた。その絆創膏には赤黒い血がにじんでいる。右手の人差し指だけじゃない。ほかの指にも、ちらりほらりと巻かれた絆創膏が見えた。
「由良、その指どうしたの?」
由良はちらりと指に巻かれた絆創膏に視線を落とす。あまり突っ込まれたくない話であるのか、指先を見下ろす由良の顔からは表情が消えていた。どこか作ったような笑みを浮かべて、由良は言う。
「何でもないのよ」
それは、やんわりとした拒絶の言葉のように聞こえた。
誰にだって、話すまでもないことや、聞かれたくないことの一つや二つはあるのだろう。なんだか無性に気になり始めていたのだが、好奇心だけで探りを入れるのはやめておくことにした。
*
クローゼットをあけると、扉には姿見がついていた。
ふんわりとノリのきいたブラウスに袖を通して、濃い灰色のブレザーを羽織る。膝上で揺れるチェックのプリーツスカート。箱から取り出したばかりの制服からは、新品特有のいいにおいがした。
赤いリボンをつけるのに苦戦していると、見かねた様子で由良が言う。
「手伝いましょうか?」
「あ、ありがとう! なんか首が回らなくて」
緊張しすぎているのだろうか。何だか首が回らない上に、肩も力んでいる気がする。先ほどから首の後ろのあたりが鈍い痛みを訴えていた。こんなに緊張しいじゃなかったはずなのに。見えないプレッシャーにのしかかられているような気分だった。
「まさかリボン一つにこんなに苦戦するなんて……」
「家から着てくればよかったのに」
由良はどこか仕方のない子供を相手にするように、笑いながら言った。手のかかるルームメイトだと思われているに違いない。
「だって、荷物の出し入れしている間に、しわになっちゃいそうじゃない?」
「もっともな意見だけれど、殊勝な心掛けとは言えないわね」
ぱちんとリボンの留め具の音がした。
「できたわ」
そう言って、由良が赤いリボンの端を引っ張って形を整えてくれる。
どう? と、姿見越しに自分の姿を見せられて、恥ずかしいような気がしながらも感謝する。
「ありがとう、由良」
「どういたしまして」
その言葉を聞くのは今日で二度目だ。
「私、由良にお世話になってばっかりかも」
そういうと、由良は口元に手をよせて、ふふっと楽しそうに笑った。
「別にこれくらいのこと、気にしてないわ。それより、糸くずが……」
「え、どこ?」
開けたばかりの制服だというのに、もうほつれている糸があるらしい。
由良が肩口に手をのばす。何かを引っ張ったのか、首の後ろの方でぷつんという感触がしたような気がした。
「ほら」
由良がさし出したのは、銀糸のようにきらめく繊維のような細い糸だった。
髪の毛でもなければ縫い糸でもない。何の糸だか見当もつかない材質に、きっと制服の生地から浮き出てしまったのだろうと思う。
またもや由良に助けてもらっていることに気付いて、おずおずとお礼の言葉を口にする。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
今日、三度目の台詞だった。
由良はつまんだ糸を眺めながら、ぽつりと言う。
「ねえ、ヒナタ。一つ確認しておきたかったのだけれど……」
「ん、なに?」
「あなた、その、虫は好き?」
「え?」
なんで、そんなことを聞かれるのだろう。
由良の遠慮がちに聞いてくる様子を眺めながら、その質問の意図を考える。もしかして、この部屋で虫を飼いたいということなのだろうか。まさか、由良みたいな女の子がそんなことを言い出すとは思えない。けれども、あり得ないとは言い切れない。残念なことに私は虫が得意な方ではない。苦手とまでは言わないが、積極的に触りたいとは思えない。
「うーん……特に好きってわけでもないかな?」
当たり障りのない答えを返すと、由良は「そう、そうよね」とうなづいて、手にしていた糸くずをゴミ箱に捨てていた。
今の質問にはどういう意味があったのだろうか。続く会話を待って由良を眺めていたのだけれども、彼女は「何でもないのよ」と、またあの作り物めいた笑みを浮かべるだけだった。
*
入寮式が行われたのは、レストランのように広い食堂だった。
縦に並べられたテーブルには向かい合うように、同じ制服を着た寮生たちが座っている。
向こう側の空いた席には、普段は上級生たちが座るのだろう。二列ほど空いていて、ちらりほらりと寮生の父母らしき人たちの姿が見えた。
食堂の前方にある、一段高くなった壇上には寮の職員が立っている。入寮式の司会進行を務めているのが、先ほど顔をあわせた山崎さんであるということはわかった。けれど、テーブルの真ん中あたりに座っていたおかげで、視界はほかの寮生の頭に埋もれてしまい、それ以外はほとんど見えなかった。
カァ――
ふいに、外からカラスの鳴き声が聞こえてきたような気がして、後ろを振り返る。全面ガラス張りになっている窓の向こうには、中庭に埋められた桜の木が見えた。
白い綿毛をふんだんにまとったような桜の木の中に、浮かび上がる黒い点。それがカラスだと気付くのに、あまり時間はかからなかった。
窓から距離があるはずなのに、何故だか視線を感じる。そのカラスがじっとこちらを見ているような気がしたのだ。
今日はカラスに縁のある日だ。あまりいいことではない気がする。《運》などというものを信じているわけではないが、真っ黒なその姿は不吉なものを連想させる。
黒い点のようなカラスを見ていると、言い知れない不安のようなものがふつふつと湧き起こってくるのだ。身体が緊張したようにこわばって、あのカラスの見えないところに、そそくさと逃げてしまいたくなる。そわそわとして落ち着かないのに、身体は石にでもなってしまったかのように、じっと動かなくなっていた。
「ヒナタ、大丈夫?」
肩をポンと叩かれて、緊張の糸がぷつりと切れたような気がした。
こわばっていた身体はいつの間にか、すっかり元通りになっていて、声のした方を振り返る。
隣に座っていた由良が、覗き込むように首をかしげる。はらりと肩から滑り落ちる黒い髪。カラスの羽の色に似た、吸い込まれそうなほど黒い瞳がじっと私を見ていた。
「あ、カラスが……」
そう言いかけて、壇上から聞こえてくるマイクの音に、まだ入寮式の最中であったことを思い出す。
「ううん、何でもない。大丈夫」
「そう?」
本当に何でもないのだと苦笑を浮かべると、由良は釈然としない表情を浮かべながらも、私の肩からするりと手を放した。
そうして、前へと視線を戻す由良の横顔を、私はそっと盗み見る。
そういえば、今朝、カラスの雛を見つけた場所にいたのも由良だった。
彼女の黒い髪に黒い瞳はカラスを連想させる。カラスから逃れたいと思った時と同じ不安が、またふつふつと胸の内にわき始めていた。
由良はいい子だ。カラスなんかじゃない。そのはずなのに、由良に不吉な何かを感じ始めていた。
そんな考えを振り払おうと、壇上を仰ぎ見る。
ちょうど入寮式の終わりを告げられたところだった。
壇上に立つ人が入れ代わり立ち代わり替わって、ちらりと見えたのは、白い割烹着姿の恰幅のいいおばさんだった。マイクを使わない気持ちのいい大声が、食堂内に響き渡る。
「えーと、食堂のおばちゃんからのお話は、寮監長さんより短くさせてもらうよ」
話の長かったらしい寮監長をいじる言葉に、ささやかな笑いが起き、和やかな空気が食堂内を包んでいく。
私はひそかに、くるみ先輩の話を思い出していた。『食堂のおばちゃんが作るごはんはおいしいから、食べなきゃ損だよー!』と、そう言っていた。
テーブルの上には、いつの間にか配膳されたご飯が並んでいる。
気のいい食堂のおばちゃんの話は宣言通りにすぐに終わって、寮生たちの『いただきます』という声が、轟々と押し寄せてきた。
そうして、楽しげな話し声と、食器のこすれるにぎやかな音が広がっていく。
その空気に突き動かされるように、周囲に倣って箸を手にとる。食べないといけないと思うのに、食べたいと思えなかった。好き嫌いはなかったはずだ。けれども、緊張と不安で胸がいっぱいで、喉が詰まっていた。
「ヒナタ?」
隣の席に座っていた由良が、心配そうな声で名前を呼ぶ。
そんな由良を振り返って、私は条件反射のように微笑んでいた。
「ううん、何でもない」
「そう。なら、良いのだけれど……」
歯切れの悪い言葉を浮かべる由良に、場を和ませるように「お腹すいちゃった」と口にする。けれど、箸はほとんどと言っていいほど進まなかった。
*
食休みもかねて、昼食後には寮の中庭で集合写真の撮影が行われた。
茜寮に入寮した一年生は三十人と少し。寮の職員たちと一緒に、ひな壇に並んで撮影する光景は、小学校の時に毎年撮っていたクラスの集合写真と大して変わらなかった。
名前順に並ばされたおかげで、真ん中の列のさらに真ん中に立たされている。
正面にはカメラマン。その向こう側で燦々と輝く太陽が、憎たらしいほどまぶしかった。思わず目がくらみそうになる。そんな時。
カァカァ――
まただ。また、あのカラスの鳴き声が聞こえてきた。
一度気になり始めると、その声ばかりが耳に飛びこんでくる。まるで耳もとで鳴かれているみたいだった。こんなにしつこく鳴いているのに、みんなは気にならないのだろうか。
不思議に思って周りを見渡してみる。けれども、みんなカメラに笑顔を向けていた。その空気の違いに、妙な違和感を感じていた。まるで自分だけ、別の世界に溶け込んでいるような――
「はーい、あともうちょっと写真撮らせてねー、真ん中の子、こっち向いてー!」
カメラマンが必死に手を振る。指摘されているのは、おそらく私なのだろう。そのことには気づいていた。気づいていても、注意を散漫にさせるほど、しつこく響き渡っているのだ。カラスの鳴き声が耳にこびりついて離れなくなりそうだった。誰か、あのカラスを黙らせて、追い払ってくれたらいいのに。胸の内に、苛立ちに似た焦燥が浮かんでいた。
カメラマンがカメラから目を離したすきに、中庭の端に植えられた木々を振り返る。
満開の花を咲かせている桜の木。その白い花の中に埋もれる黒い影。まるで点のように。まるで穴のように。そこだけが、黒く異質な空気を放っている。カァカァと、今もうるさく鳴き続けているカラスがあの桜の木に留まっている。
目が合ったような気がした。点にしか見えないカラスの目と、目が。
背筋に冷たいものが通り抜けた気がして、身震いしていた。カラスはカラスでしかない。今まで、街中を飛ぶカラスの見分けがついたことなど、一度もなかった。けれど、その時だけは、わかってしまったような気がしたのだ。
飛べずに巣から落ちてしまった巣立ちの雛が、そこにいるような気がした。
飛べなかったはずなのに、餌をねだってついてきてしまったみたいだった。毛虫をつついていた雛の姿が脳裏をよぎる。鋭い爪をもった足で押さえつけて、くちばしで端をつまんで引きちぎるみたいに、身を引き裂くことを楽しんでいるような様子だった。あれが自分に向けられたら、どうなるのだろう。そのうち、自分が襲われ始めるのではないかとなんて考え始めたら、なんだか嫌な汗をかいていた。背筋に痛みが走る。
嫌な妄想を浮かべていた。鋭いくちばしで、背中をつつかれ、そのまま骨の髄まで引きちぎられて、食い散らかされるような。――そんなこと、あるはずがないのに。
「はーい、オッケーでーす」
カメラマンの声が上がる。ぷつりと緊張の糸が切れたようだった。
その声を合図に、がくっと膝から力が抜けていく。思わずその場でしゃがみこんでいた。
周囲の生徒たちがどよめきだす。隣に立っていた女子生徒が、「あの大丈夫ですか?」と問いかける。けれど、答えられなかった。答える余裕もなかった。
額に浮かぶ汗が、つうっと輪郭をなぞる。急激に体の温度が下がっていくような、そんな肌寒い感覚に襲われていた。今まで、貧血になったこともなかったのに。
「おい、そこの、大丈夫か?」
大人の声が飛んできた矢先。
ぷつりと糸が切れたかのように、身体が宙を舞ったような気がした。