01
桜の木の下には死体が埋まっているという。
なんて、その部分だけが切り取られて、独り歩きしているくらい有名な話である。その話を知っている人は、人生で一度は口走るか、あるいは声に出さずとも、頭の片隅に思い浮かべたことくらいはあるだろう。
一体どこからそんな話が出てきたのか。その発祥もとを私は知らない。小説か何かが元であると聞いた覚えもあるが、本を読むのは苦手なので、作家とタイトルを聞いたとしても「へえ」と満足げにうなづいて、また記憶の片隅に埋もれていくのだろう。
そんな物騒な話を思い浮かべてしまうのは、ここが連続婦女暴行事件の現場となった場所だからなのかもしれない。数日前までテレビカメラが押し寄せていたこの場所も、犯人の逮捕に興味を失ったのか静かなものだった。事件の現場となった場所ということもあってか、平日の朝だというのに、人通りはほとんどなかった。
事件の起こる場所というのは、繰り返し事件が起こる。まるで場所が事件を呼び寄せているかのように。それを考えたら、桜の木の下には死体が眠っているという話も、あり得ないとは言い切れない。もちろん、そんなオカルトめいた話を信じているわけではないが。
ただ、道の両脇にずらりと並んだ桜並木を見上げて、ぽつりと立っていると、そんな非日常も起こりうるのかもしれない、なんて思ってしまう。
幻想的な淡い桜色のトンネル。視界いっぱいに広がる日差しと花びらのシャワー。その光景に、私はありきたりな感想を思い浮かべていた。きれいだと。
その心が躍るような光景を、余すところなく目に焼き付けるために、くるくると回りながら通り抜けたくなる。そんな浮かれた気持ちにさせてくれるほど、きれいだった。
現実にそんなことをできるはずもないので、ぼんやりと桜の木を見上げながら歩く。
すると、春の強い風が通りの向こうから吹き抜けた。砂を巻き上げていく強烈な風に、思わず右腕で顔をかばいながらやり過ごす。
ふと後頭部に何かがぶつかった気がした。おそらく風に巻き上げられたゴミか何かだろう。飛んでいきやすいものは、外に置かないでほしいものだ。ちらりと周囲を確認してみたが、そのゴミはまたどこかへ飛ばされていってしまったらしい。あたりには何も落ちていなかった。
今日でいったい何度目かわからない強風の襲撃に、脳裏をよぎったのは花が散ってしまうということで。風が落ち着いて、自分の身体を見下ろすと、桜の花びらまみれだった。
桜の木を見上げれば、白い花びらの隙間から見える緑の葉。そろそろ満開のシーズンは終わりを迎えて、葉桜のシーズンへと移っていくのだろう。
そんな葉桜の隙間に、何かがいるような気がした。そういう予感が先にあった。
目を凝らしていると、やはりそこに何かが見えた。鳥の巣だった。その中で、黒い翼がちらりほらりと見え隠れしている。
思わず歩み寄って、下から木を覗き込もうとしたその時。
小さな黒い塊がぼとりと落ちてきた。特徴的な黒いくちばし、黒い羽毛に覆われたそれはカラスだった。木の根のくぼみにはまって、羽をばたつかせながらアァアァ鳴いている。一回りほど小さなそのカラスは、雛のようだった。どうやら巣から落ちてしまったらしい。
まさか、私のせいだろうか?
なんて考えが一瞬脳裏をよぎったが、地面を歩いていただけの私が、木上の巣に影響を及ぼせるはずもない。原因があるとするならば、連日連夜、乱暴なまでに吹き付けている強風のせいだろう。風で巣が傾いて、雛が落ちてきてしまったとしか考えられなかった。が、雛の落下を目撃してしまったという、何だか後ろめたい思いが、私の足をその場にとどめていた。
頭上の巣を見上げるが、親ガラスの姿は見当たらない。ここで親ガラスの姿を認めたならば、私は逃げるようにその場を立ち去っていただろう。
雛はさておき、大人のカラスとは怖い生き物だ。街中のギャングのようなカラスたちが、その鋭いくちばしでごみをあさっている姿を何度も目撃している。カラスという生き物は、乱暴で凶悪で、そのくせ頭が回る。人間にとって厄介な存在だった。下手にかかわろうものなら、その鋭いくちばしでこちらが攻撃されかねない。それを知っているからこそ、あまり関わりたくはなかったのだが……。
街のふてぶてしいカラスよりも、巣から落ちてしまった雛はずいぶん弱弱しく見えた。親を求めるようにアァアァと鳴いている姿は、同情を誘う。
「巣に戻してあげた方が、いいんだよね?」
自問自答の独り言を投げかけて、その場にしゃがみ込む。
決意を固めて、カラスの雛に腕をのばしかけたその時、それを止める声があった。
「やめておいた方が、いいと思うのだけれど?」
「え?」
後ろを振り返ると、一人の女の子が立っていた。
その姿を視界に収めようとするのと同時に、また突風が吹き抜けていく。力任せの乱暴な春風が、髪をかき乱して視界を邪魔する。慌てて髪を押さえつけると、女の子も同じように長い黒髪を右手で押さえつけていた。
不思議な雰囲気を持つ女の子だった。よく言えば落ち着いている。悪く言えば翳りのある、少し陰気な感じがする。内気だったり、野暮ったいというのとは違う奇妙な暗さだった。暗闇を思わせるような彼女の真っ黒な髪と、瞳のせいなのかもしれない。その黒は差し込む日差しの中で艶やかに輝いてはいても、どこか光を飲み込んでいるように見えた。
私がぼんやり見つめていると、女の子はややあってから、木の根元を覗き込んだ。
「それが、見えたのね」
同情的な声だった。『それ』とは、落ちてしまったカラスの雛のことなのだろう。それをくみ取って、私は「あ、うん」と言葉少なにうなづく。
「その雛は巣立ちの雛」
女の子はゆっくりと目を合わせるように、私を見ながら言った。
「巣立ち?」
「よくあることよ」
そう言った黒髪の女の子が、くすりと笑ったように見えた。
「手を貸せば、半端なものになってしまう。見守るのも優しさよ」
「そう、なのかな?」
私は戸惑いがちに首をかしげる。
女の子は「ええ、そうよ」と緩やかな声音で肯定した。何かに裏付けされた自信が見えるようだった。きっと、彼女の方がこういうことに詳しいのだろう。なんて、私は面倒事にかかわらないための言い訳を自分自身に言い聞かせる。
手をひっこめて立ち上がる私に、女の子はついでのように言った。
「その木の下、あまり長居しないことをお勧めするわ」
「え?」
「エサが多いから、巣があるの」
「エサ?」
問い返す私に、女の子はすっと視線をやや右下に逸らす。
「肩、ついてるわよ?」
「肩?」
視線と言葉に誘導された先、肩を這う虫がいた。とげとげした毛をもつ毛虫だった。
「うわあ!」
慌てて払いのけると、ぽーんとカラスの雛のもとに飛んでいく。
その軌道を眺めて、しまったと思ったのもつかの間。
カラスの雛はよたよたと足で毛虫を踏みつけると、くちばしでつつき始めた。どうやら食べる気でいるらしい。たくましい雛だ。同情を誘うような姿は見る影もない。毛虫の毛を引きちぎりながら食べているのだから頭もまわる。もしや、先ほどのいじらしい姿は演技だったのか? と、問いかけたくなるくらい、野性味にあふれていた。
隣にいた女の子から、ため息が聞こえてくる。
「餌付けもほどほどに」
「え、餌付け?」
そんなつもりはなかったのに。
弁解の余地もないまま、歩き出す黒髪の女の子。その背中を呆然と見送りかけて、はっとする。
「あの!」
呼び止めると、女の子は横顔を見せるように振り向いた。
「ありがとう、教えてくれて」
お礼を言うのを忘れていた。そう思って声をかけると、「どういたしまして」と女の子が笑ったように見えた。